第26話 触れるだけの熱


 1




『ガウ』



 不意に懐かしい声が耳に届いて、セシリアは目を開けた。体を起こし、前方へと視線を向ければ、ずっと探し続けていた白銀の毛がふわりと風に揺れていて。



「──アデル!!」



 兄弟のように育ってきた彼の名を呼び、セシリアはすぐさま駆け寄って手を伸ばす。しかしその姿は、彼女の手が触れる直前でフッと霧のように消えてしまった。



「……!」


『あーあ、消えちまったな、聖女様』



 またもや背後で響いた声。振り向けば、共に旅をする黒髪の青年がアメジストのような双眸を冷たく細めてこちらを見ている。



「……トキ、さん……」



 呼べば、彼はあざけるように笑った。そのままセシリアに近付き、棘のある声が彼女の鼓膜を揺らす。



『あの犬もうんざりしてたんじゃないか? もうアンタと一緒に居たくないんだろ』


「……え……」


『俺だってそうだ。弱いし、愚図で、足でまとい。いい加減アンタにはうんざりしてんだよ』



 冷たいトキの言葉に、胸の奥が鈍い痛みを放つ。セシリアは弱々しく首を振り、縋るように彼へと手を伸ばした。しかし、彼はその手を拒むかのごとく後退して避ける。



『おっと、その手で俺に触らないでくれないか』


「……っ、トキさん……!」


『悪いな、俺はアンタのを知っちまったんでね』


「……!」



 トキは冷淡に呟き、セシリアから一歩ずつ離れ始めた。震える彼女の腕を隠した長い手袋は、じりじりと燃え落ちるように消えて灰になっていく。



「……っ、嫌……!」



 セシリアは徐々に露わになる自らの腕を隠すように蹲った。やめて、見ないで。この忌々しい手を彼の前で晒さないで──そんな思いも虚しく、トキは蹲る彼女に冷酷な言葉を容赦無く投げる。



『そんな汚い手しといて、よくも今まで俺の隣を素知らぬ顔で歩けたもんだ。失望したよ』


「……っ」


『もう、アンタとは居れないな』



 セシリアは蹲ったまま、縋るようにトキを見上げた。しかし彼は地面に膝を付く彼女を嘲笑い、背を向けるとどこかに向かって歩いて行ってしまう。



「……嫌! 待って! お願いトキさん!」



 ──ひとりに、しないで……!


 どれだけ叫んでも、手を伸ばしても、トキはもう振り向かない。とうとう一度もこちらを見ること無く、最後に彼は言い放った。



『──疲れるんだよ、アンタといると』



 冷淡に突き放す一言が、無慈悲にセシリアの胸を貫いてえぐる。直後、トキの背中は闇に紛れるように溶け始め、やがてセシリアの目には映らなくなった。



「……っ、トキ、さん……、いや……置いていかないで……」



 目頭が熱くなって、群青の塊が垣根を超えて溢れ出す。ぼろぼろと溢れた涙は座り込む彼女の膝を濡らした。



「……うっ……ぁ……!」



 嗚咽がこぼれ、汚いと罵られ続けてきた自らの手で顔を覆う。「いかないで……ひとりにしないで……」そんな弱々しい声を紡ぐ彼女のそばに、再び誰かの気配を感じたのは丁度その時で。



『そんなの、無理に決まってるじゃない』


「……!」



 ──カシャン。ジャラララ。


 そんな鉄を引きずるような音と共に、酷く掠れた少女の声が耳に届いた。振り向けば少し離れた闇の中で、げっそりと痩せ細った何者かが立ち尽くしてこちらを見ている。しかし周りの闇が深すぎて、首から上がよく見えない。


 少女は手足を鎖で繋がれ、ジャラジャラとそれを引き摺りながら近寄る。そして掠れた声で言葉を続けた。



『だって、あなたはずっと一人。生まれた時から死ぬ時まで、ずーっと、ひとりぼっち』


「……え……」


『“セシリア”って、馬鹿なのね。知るのが怖いくせに、知りたがって』



 骸骨の標本でも見ているかのような、痩せ細った手足。ボロボロの衣服。掠れ声。少女はケラケラと笑って──やがてセシリアの背筋が凍り付いた。



『“私”のこと、知りたいんでしょ』



 やめて。



『“私”のこと、思い出したいんでしょ』



 だめ、来ないで。



『おいでよ“セシリア”。教えてあげるよ? だってあなたは──』



 嫌だ、だってあなたは──




「──“私”、でしょう?」




 痩せ細り、周囲の皮膚が陥没し、今にも飛び出してしまいそうなの目玉を、少女はぎょろりとセシリアへ向けた。自分と同じ金色の髪はほとんど抜け落ち、骨と皮だけの白い素肌に刻まれた、忌々しい首元のそれが彼女の視界に飛び込んで──


 ……嫌、嫌だ……っ!



「──いやあああっ!!」




 2




 はっ、と意識が覚醒し、勢いよくセシリアは体を起こす。はあ、はあ、と呼吸を乱し、体を小刻みに震わせながら、早鐘を打つ胸を押さえ付けた。


 周囲はまだ暗く、空には星が浮かんでいる。パチパチと燃える焚き火の赤が視界に映って、彼女は小さく声を漏らした。



「……ゆ、め……」



 こぼれた声が随分と頼りなくて、彼女は俯く。──酷い夢を見た。昔、こっそり忍び込んだ書庫で怖い童話を読んだ後に見た夢なんかとは比べ物にならない程に恐ろしく感じた。

 思い出すとまた震えてしまいそうで、セシリアは俯いたまま吐息を震わせる。すると不意に、左手がグッと強く引かれた。



「……起きたのか」


「──!」



 ぱっ、と横に顔を向ける。すると不機嫌そうな表情のトキが眠たげな目を細め、セシリアの手を握ったまま体を起こしていた。



「……体調は?」



 トキは呆然と硬直しているセシリアの前髪を掻き分け、空いている左手をそっと額に添える。伝わってくる熱に「……まだ熱いな」と苦く表情を歪め、彼はセシリアの首元に手を触れて脈を測りながら更に問い掛けた。



「喉が痛むとか、体が怠いとか、何か異変はあるか?」


「……」


「……おい、何か答えろ」



 何も言わないセシリアに、元より不機嫌そうだったトキの表情が一層険しくなる。一方ぼんやりしたままのセシリアの頭には、先程見た夢の中の映像が浮かび上がっていた。



 ──疲れるんだよ、アンタといると。



 そう吐き捨てて離れて行く彼の背中。そのまま闇の中に溶けて行ったあの映像が脳裏にこびり付いて、セシリアの表情が無意識に歪んでしまう。

 そんな彼女の些細な変化を見逃さ無かったらしく、はあ、と嘆息したトキは再度口を開いた。



「……何だよ。言ってみろ、何かあるんだろ」


「……」


「……セシリア」



 ぽつり、言い聞かせるように名前を呼べば、俯いていた彼女の顔が持ち上がる。紫色の瞳と視線が交わって、セシリアの胸は締め付けられた。



「……ゆめ……」


「ん?」


「……怖い夢、見ました……」



 絞り出すように声を発すれば、トキは面食らったかのように声を詰まらせて目を丸める。

 そのまま暫く黙っていた彼だったが、ややあってストールを上に引き上げると口元を隠し、ふっ、とくぐもった笑い声をこぼした。



「……っふ……くくく……、何だそれ……」


「……トキさん……?」


「夢って……、ははっ、ガキかよ……っ」



 押し殺したような笑い声が耳に届く。セシリアは肩を震わせて笑う彼の顔をぽかんと見つめ、やがて不服げに唇を尖らせた。



「……わ、笑わないで下さいよ! ほ、本当に怖かったのに……っ」


「いや……だって体調はどうなのかって聞いてんのに、まさか怖い夢の話なんかされるとは思わねーだろ……っ、くくく……!」


「まだ笑ってる……」



 余程ツボに入ったのか、トキは未だに口元を押さえて笑いを噛み殺そうとしている。セシリアはその様子を不服げに見つめていたが、ふとトキの手が自分の手を握っている事に気が付き、彼女は瞳をしばたたいた。



「……トキさん、手……」


「あ?」


「……ずっと、握っていてくれたんですか?」



 翡翠の瞳に見つめられ、トキは今の今まで緩んでいた口元をぐっと閉じて押し黙った。

 直後、ばつが悪そうに逸らされた視線。彼は一瞬言葉を濁したが、すぐさま焦ったように早口で続ける。



「は、はあ? バカか、自惚れるなよ。別にアンタのために握ってやってたわけじゃない。アンタが握ったまま離さなかったんだ、おかげで飯も食いそびれた」


「えっ……ご飯、食べてないんですか?」


「……うるせーな、誰のせいだと思ってるんだよ」


「……」



 目は逸らされたまま、トキはぼそぼそと告げる。しかしその言葉が嘘である事に、疎いセシリアでもすぐに気が付いた。



(……私の手なんて、振り払おうと思えばすぐに振り払えるのに……)



 ──そうは、しないでいてくれたんですね。


 そう考えて、ふ、と無意識に頬が緩む。きっと、ずっと自分の意思で握っていてくれたのだろう。ご飯も食べていないということは、セシリアが意識を手放してからついさっきまでの、長い間。



(……ああ、やっぱり、トキさんって優しいな)



 改めてそう感じる。

 彼は計画的な演技やハッタリは得意だけれど、不意に図星を突かれた際の嘘はとても分かりやすい。一見ぶっきらぼうで冷たい人のように見えるが、根は割と素直な性格なのだ。


 そんな彼だから、きっと──自分の秘密を知ってしまえば、すぐに嫌気がさして離れて行ってしまう。夢の中で見た、彼ように。



「……」



 再び表情を曇らせた彼女に、そっとトキの手が伸びる。長い前髪を掻き分け、彼はセシリアの顔を覗き込んだ。



「アンタ、まだ体調悪いんだろ。寝てろ」


「……体調は、今はそんなに悪くないです」


「嘘つけ。覇気のない顔しやがって」



 トキは嘆息し、セシリアの肩を強く押す。強引に地面へと倒された彼女は小さく悲鳴を上げたが、彼は容赦なくその体を毛布の中に閉じ込めた。



「大人しく寝とけ。火の番はしといてやるから」


「……でも、トキさんあんまり寝てないんじゃ……。私、本当にもう大丈夫なので交代……」


「うるさい、いいから寝ろ。俺は一晩ぐらい寝なくても倒れたりしない、どっかの誰かさんと違ってな」



 皮肉をこぼし、トキは背後の木に寄りかかった。彼の右手は未だにセシリアの左手をやんわりと握ったままで、なんだか胸の奥まできゅうっと掴まれているようにすら思えてしまう。



「……トキさん」


「……何だよ」



 呼べば、不機嫌そうな声が返ってくる。怖いはずの不遜ふそんな態度ですら、何故だか不思議と安堵した。返事を返してくれる。手を握っていてくれる。それだけで心が落ち着くのは、何故なんだろう。



「……私、さっき、トキさんが居なくなっちゃう夢見たんです」



 か細い声で伝えれば、繋がっている彼の手がぴくりと動いた。トキは驚いたように目を見開き、セシリアへ顔を向ける。



「……暗いところに、私を一人残して置いて行って……すごく、怖かった……」


「……」


「……だから、さっき起きた時、あなたが隣に居てくれて……とても安心したんです」



 セシリアは繋がっているトキの手を強く握り締める。古傷の多い、骨張った手のひら。それと自分との間を隔てているレザーの手袋の存在が、酷くもどかしく感じた。

 近くにあるのに、触れる事を許されない彼の温度。でもその暖かさを先日知ってしまったから、ほんの少しだけ、欲張りになってしまったのかもしれない。



「……トキさん、私、」


「……」


「置いて行かれたく、ない……」



 ──だからだろうか。無意識にそんな言葉を口走ってしまい、セシリアはハッと我に返ると慌てて口を閉ざした。


 何を馬鹿な事を言っているの、と自分自身を咎める。こんな我儘、口に出したら彼を困らせるだけだというのに。



「……な、なんちゃって! 嘘です、気にしないで下さい。あはは」



 咄嗟に笑って誤魔化せば、彼の眉間には更に深く皺が刻まれてしまった。ああだめだ、誤魔化せない、と直感する。

 何で言ってしまったんだろう、と悔やんだところで、もはや後の祭り。嘘が下手なのはお互い様なのだから。



「……も、もう、寝ますね……」


「……」



 続く沈黙にいたたまれなくなり、セシリアは逃げるように笑って、おやすみなさい、と寝返りを打った。──しかしその瞬間、握られていた手が強く引かれ、背けようとした体は元の角度に引き戻されてしまう。



「っ……!? な、何を──」



 するんですか、と続くはずだった言葉すらも、口にさせては貰えなくて。


 声を発しようと開いた唇はすぐさまトキのそれに塞がれてしまい、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んでしまう。あまりに唐突な口付けに、セシリアは硬直してしまった。

 しかし口内に舌が侵入して来ると、ようやく彼女も戸惑いがちに舌を絡め、ぎこちない動きで彼の口付けに答え始める。



「……ん……」



 くぐもった声を発すれば、名残惜しげに繋がる銀の糸をぷつんと切ってトキの唇がそっと離された。普段よりも短い“クスリ”のやり取りに、セシリアは困惑した視線を投げ掛ける。



「……と、トキさ……」


「……馬鹿馬鹿しいこと考えてんじゃねーよ」



 溜息混じりに言葉が返ってきて、セシリアの瞳は不安げに揺れた。ああ、やっぱり迷惑だったのかな、と先程告げた言葉を後悔していると、再び唐突にトキの唇が重ねられる。



「……っ、」


「……いつもより熱いな、口ん中も」



 彼の指がそっと下唇をなぞり、掠れた声が耳に届いた。トキはいつもより控えめに彼女の唇を啄んで、やはりすぐにそれを離す。

 セシリアは潤んだ瞳で彼の双眸を見上げ、小さく口を開いた。



「……トキ、さん……?」


「……置いて行くわけないだろ」


「……え……」



 視線が交わったまま、きょとんとその目を丸めるセシリアなどお構い無しに、彼の言葉は鮮明に紡がれて行く。



「アンタが居なくなったら、俺は呪いで死ぬんだ。それなのに、置いて行けると思うのか?」


「……い、いえ……」


「そうだろ。馬鹿な事で思い悩んでんじゃねーよ」



 満天の星空をバックに、トキの瞳は呆れたように細められる。そのままもう一度、ゆっくりと彼の顔が近付いて来て──セシリアは強く目を閉じた。



「……っ」


「……」


「……、?」



 しかし、いつまで待っても、彼からの口付けは落とされない。ややあって恐る恐ると目を開ければ、鼻と鼻が触れ合ってしまいそうな距離にトキの顔はあった。


 その表情は、何故か酷く切なげに歪んでいて。



「……トキ、さ──」



 名前を呼びかけた瞬間、掠め取るように一瞬だけ、トキの唇が触れた。そのまま体が離され、ずっと繋がれていた手のひらまでも離れて行ってしまう。



「……もう寝ろ、朝になったら出発するぞ」


「……」



 彼は背を向け、セシリアから距離を取ると焚き火の前に腰を下ろした。彼女はその背中をじっと見つめ、今しがた触れられた唇にそっと指を滑らせる。


 切なげに眉間を寄せて、一瞬だけ押し当てられた唇。普段もっと深い口付けばかりしているのに、一瞬だけで離れてしまった“触れるだけ”のその感触が、なぜか頭から消えない。



(……なに、これ……熱い……)



 どく、どく、と鼓動が早鐘を打ち鳴らす。視線が泳ぎ、彼の事を思うたびに頬に熱が集中して、胸の奥を誰かに掴まれているみたいな、変な感覚。



(……ね、熱、上がっちゃったかな……)



 火照る頬を両手でそっと隠し、セシリアは強く目を閉じた。それでも激しく脈打つ鼓動は一向に治まらなくて。

 ああもう、やっぱり熱が上がっちゃったんだ、と落胆する彼女の脳裏にふと、置いていくわけないだろ、とこぼされた彼の掠れ声が蘇る。



 ──アンタが居なくなったら、俺は呪いで死ぬんだ。それなのに、置いて行けると思うのか?



「……」



 先程の言葉が脳内で再生されて、火照りきっていた体から徐々に熱が引いて行く。閉じていた目を薄く開き、焚き火の前に座り込むトキの背中を盗み見て、セシリアの視線はゆるゆると下がって行った。


 ──彼が自分を傍に置く理由はたった一つ。『魔女にかけられた死の呪いを緩和するために必要だから』。ただそれだけで、他には何の理由もないのだと、暗に宣告されているようで。


 分かっていたはずなのに、改めて実感すると──どうしようも無く切ない。



(……もし、私が居なくても呪いを解けるような、そんな方法が別にあるとしたら……)



 ──貴方は、すぐに私を置いて、どこかへ行ってしまうのかな……。


 そんな考えが脳裏を過ぎり、セシリアは再び目を閉じる。早鐘を刻んでいた鼓動は不思議と治まっていたが、なぜか今度は、酷く胸の奥が痛んでいた。



「……」



 ──ややあって、静寂に包まれていた空間には彼女の穏やかな寝息が流れ始める。パチパチと燃える火の赤を見つめたまま、トキは大きく息を吐き出して前髪をくしゃりと握り締めた。



「……あっぶね……」



 ぼそりと呟かれた掠れ声が、背後で眠る彼女の耳に届くことはなかった。




 .

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