第4章. 雨の街と二人の歌

第25話 依存の片鱗


 1




 ──小僧、目を覚ませ。


 冷たい声にふと目を開ける。ああ、この感覚は久しぶりだとトキは舌を打った。目を開けたところで目の前は真っ暗。分かっている、この感覚は。



「……何の用だ、ドグマ」



 のそりと上体を起こし、トキは不機嫌そうに吐きこぼした。すると彼女──三番目の魔女・ドグマが暗闇の中に姿を現す。とは言えその姿は人型を保っておらず、青い火の玉のような物体がふわりと空中に浮かんでいるだけなのだが。



「……相変わらず態度が大きいな小僧。口には気を付けた方がいいぞ? 何度も言っているが、ここは貴様の精神世界。軟弱な人間の体など、このような姿だとしても一瞬で消し炭に変えてやれるのだからな」



 青い火の玉はくくくと笑う。トキは面倒くさそうに眉間を寄せた。



「……申し訳ございません、ドグマ様。何の御用でしょうか」



 つらつらと感情の篭らない声色で謝罪を述べれば、「ほう、やれば出来るじゃないか。ドブネズミのくせに」と愉快そうな声が返ってくる。トキは不服げに顔を顰めたが、悪態をつきそうな口をぐっと閉じてなんとかやり過ごした。



「……アルラウネの件ですか?」



 代わりに問い掛ければ、ドグマはくくくと喉を鳴らす。



「半分正解。だが、半分は不正解だな」


「……半分?」


「我は十二番目トゥワルフ風情のアルラウネなどに興味はない。だが、奴の中に注ぎ込まれていた魔力には興味が出た」


「……どういうことでしょうか」



 意味がよく分からない。トキが訝しげに目を細めて再度問えば、ドグマはにやりと笑った……気がした。火の玉なので表情までは見えないがそんな気がする。



「分からないのか? 小僧。貴様が我を使ってまで助けようとした、あの小娘のことを言っておるのだ」


「──!」



 ぴくり、トキの肩が小さく反応する。アルラウネの中に注ぎ込まれた魔力──それがセシリアの魔力のことを示しているのだとようやく彼は理解した。



「……何か変わったことでも?」


「……ああ、そうだな。少し違和感があった」


「違和感?」



 眉を顰めるトキに、ドグマは続ける。



「その昔、魔女である我らは人間達に魔法の力を分け与えた。だがあの娘の魔力は異質だ。我らの与えた魔力であれば、人間同士が交配して行く過程で他の何らかの属性が多少混じるはず。しかし、あの娘の魔力からは他属性の魔力が一切感じられない」


「……」


「澄みすぎているのだ、魔力自体が。澄んだ魔力は力も強い。過剰に摂取した屍食鬼グールが壊れるのも当然だな」



 ドグマの言葉に、トキはストールを口元に引き寄せながら納得した。なるほど、あの時アルラウネから力を貰った屍食鬼グール魔力過多オーバーヒートで自滅したのはそういう事か。……しかし、魔力が“澄んでいる”とは、つまりどういう事だ? 魔女の分け与えた魔力ではない?


 深く考え込み、何も言わなくなった彼にドグマは喉を鳴らした。そして、囁くように耳打ちする。



「……言っておくが、貴様があの娘から魔力もそうだぞ?」


「……!」


「くくっ。今はどうにかなっているがな。だが、今後の用量は少し考えた方がいい」



 警告でもするかのように、ドグマの声がトキの鼓膜を震わせる。



「……澄みすぎた魔力は甘い蜜のようで、実は毒だ。過剰に摂取すれば麻薬のように依存し、甘美な魔力を限りなく欲して──最後にはあの娘を壊し、貴様も壊れる」


「……」


「くくく、我は警告したぞ。あとは貴様の要領次第だ」



 ドグマはトキから離れ、ふわりと暗闇に青い光が浮かぶ。そして彼女は「ああ、そうそう、」と再び口火を切って──



「──あの娘、貴様に何か隠している事があるぞ」



 それだけを言い残し、青い火はフッと消えた。直後、トキの意識も再び闇の中に沈んで行った──。




 2




「……う……」



 パチパチと、焚き火の弾ける音が耳に届く。木に凭れ掛かって眠っていたトキはゆっくりと目を開け、今しがた見た悪い夢に小さく舌を打った。──否、夢ではない。これは歴とした、魔女からの警告だ。



(……くそ、久しぶりに出てきやがって……気分が悪い)



 じとりと右手中指の指輪を睨む。そこに眠る三番目の魔女・ドグマは、こうして時折彼の精神に入り込み、高圧的な態度で言いたいことを言うだけ言って消えてしまうのだ。


 ちらりと、焚き火の向かい側で眠るセシリアへと視線を向ける。彼女は自分に掛けていたはずの毛布から随分と離れた場所に転がり、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。



(……相変わらずの寝相の悪さだな……)



 やれやれと溜息をこぼし、トキは徐ろに重い腰を上げる。そのまま落っこちている毛布を拾い上げ、そっと彼女に近付くと丸くなって眠っているその体に毛布を落とした。


 ふと、眠る彼女の横顔に視線が移る。



「……」



 穏やかな寝息を立て、眠るあどけない表情。月明かりに照らされる白い肌。薄く開いた無防備な唇。


 何故だろうか。それら全てがあまりにも甘美なものに思えて、ふとトキは彼女の顔の横に片手を付いた。直後にもう片方の手で頬に触れると、閉じた瞼がぴくりと動く。



「……ん……」



 くすぐったいのか、不意にセシリアはくぐもった声を発して身じろいだ。そんな声ですらも甘い誘惑に思えて、トキの思考はどろどろと溶け始める。



「……」



 金の髪から香る石鹸の匂い。自分とは正反対の傷一つない素肌。気持ち良さそうに眠っている無防備な彼女に、もっと触れたくなってしまう。

 柔らかなその頬に滑らせていた指はやがて唇へと移り、薄いそれをゆっくりとなぞって──とうとう彼は吸い寄せられるように、小さく開いた彼女の唇に自身の顔を近付けた。


 ──しかしその瞬間、脳裏で先程のドグマの言葉が蘇る。



『澄みすぎた魔力は甘い蜜のようで、実は毒だ。過剰に摂取すれば麻薬のように依存し、甘美な魔力を限りなく欲して──最後にはあの娘を壊し、貴様も壊れる』


「!」



 はっ、とトキは我に返り、今にも触れそうだった唇を即座に離した。──依存──その言葉が脳裏に焦げ付いて、じわりと額に汗が浮かぶ。



(……今、俺は、何を……)



 片手で口元を覆い、トキはセシリアの元から退しりぞいた。彼女は相変わらず穏やかな表情で眠りこけているが、トキの胸中は穏やかではない。


 今、彼は完全に無意識だった。無意識に、彼女の唇を奪おうとしていた。ぞくりと背筋に嫌な悪寒が駆け抜ける。



(……まさか、これがドグマの言っていた、“毒”……?)



 ちらりと指輪を一瞥する。──確かに今思えば、ここ数日のトキは自分でも自覚出来る程度には無かった。


 アリアドニアで“クスリ”の摂取をしていた際も、何故かやたらと唇を離したく無くなったり、もっと彼女に触れようと求めたり。それら全て、彼女の“澄みすぎた”魔力を摂取しているが故の──依存症状だと言うのだろうか。



「……っ」



 そうだとしたらまずい。このまま何も考えずに“クスリ”を摂取し続ければ、そのうち彼女無しでは何も出来ない体になってしまうかもしれない。かと言って、断絶すれば呪いが進行して死んでしまう。



(……摂取量を抑える、しかないか……)



 トキは眉根を寄せ、顔を顰める。無防備に眠っているセシリアの横顔を眺めているとまた無意識に口付けを求めてしまいそうで、彼はその顔を見ないように目を逸らした。


 どうにかしなければ。女神の涙を手に入れ、呪いを解くまでは、今後も彼女との関係を切ることは出来ない。


 ──いや、待て。



(……切れない、事も無いな)



 ふと、そんな考えに辿り着く。


 ドグマ曰く、『セシリアの魔力が異質』であり『澄みすぎている』のだ。つまり一般的な“光属性”の魔法の使い手には、おそらく依存性のようなものは無い。


 だとしたら、であれば──彼女のが務まるのではないか?



(……代わり、か)



 小さく息を吐き出し、視線を落とす。


 セシリアの代わりに自分に体液を提供しながら旅に同行し、尚且つ依存性を持たない光属性の女。そんな都合の良い奴いるのだろうか。



(……まず無理だな。そもそも“光属性”の魔法を使える人間の数自体が少ない。その上こんな得体の知れない賊と一緒に、危険な旅に同行しようなんて物好きな奴はそう居ないだろ)



 トキは近くの木に凭れ、星の散らばる空を仰いだ。──つまり、アンタは物好きなんだな。横で眠るセシリアを見ないようにしながら、彼は心の中だけでぽつりと呟く。



「……代わり……」



 再度浮かんだ言葉が口からこぼれ、トキは目を閉じた。隣に眠っているのが、もし他の誰かだとしたら。──考えてみたが、あまり想像がつかない。


 トキはゆっくりと息を吐き出して、再び眠る体勢に入る。もやつく胸中は晴れないまま、彼の意識はとぷりと暗闇の中に溶けた。




 3




「トキさん。朝ですよ」



 小鳥の囀りと共にそんな声が耳に届いて、トキは瞼を持ち上げた。「おはようございます、トキさん」と微笑む聖女様の背後から白い朝日が顔を出して、やけに彼女が眩しく見える。



「……ああ……」



 掠れ声を発しながら気怠げに上体を起こせば、目の前の翡翠の瞳が心配そうに揺れ動いた。



「……もしかして、あまりよく寝れませんでしたか? なんだか、疲れているように見えます……」


「……」



 普段こそ鈍い彼女だが、こういう時だけはやけに鋭い。心配そうに覗き込んで来るその顔を片手で制し、トキは重たい腰を上げた。



「……何でもない。放っておけ」


「……でも……」


「放っておけと言ってるだろ。嫌な夢を見ただけだ、アンタが気にする事じゃない」



 素っ気なくこぼし、トキは自分の荷物を乱暴にひったくるとさっさと歩き始めてしまう。セシリアは困ったように表情を曇らせたが、こうなっては何も答えてくれないだろうという事を察せる程度には旅慣れてきた。

 セシリアは仕方がないといった様子で立ち上がり、前を行く彼を追いかけて行く。


 二人は現在、未だに行方の知れないアデルを探しながら大陸の最北にある“カーネリアン”という大きな街を目指していた。そこへ行けば飛空艇に乗船して他の大陸へと移動出来るらしく、魔女の住む北の大陸まで一気に進むことが出来るらしい。


 しかし逆に考えれば、その街へと辿り着いてしまったらもうアデルを探すことも出来なくなるという事だ。つまりカーネリアンに辿り着くまでにアデルを見つけなければ、彼を置いて北の大地へと旅立つ事になってしまう。



(……アデル……きっと、無事よね……?)



 不安げに瞳を揺らしたセシリアだが、程なくして小さく首を振った。大丈夫、きっと無事。そう自分に言い聞かせ、山道を進んで行く。


 しかし結局その日も、アデルが見つかることは無かった。




 4




 パチパチ、と燃える焚き火の前に座り込み、じんわりと暖かい火に照らされながら薪をくべる。赤く燃える炎をぼんやりと眺め、セシリアは小さく身震いした。


 暗い山の中。トキは食料調達に行くと言って三十分ほど前にこの場所を離れて行ってしまった。セシリアにとってはもう何度目かの野宿になるわけだが、やはり一人になると怖いと感じてしまう。特に最近はアリアドニアの街で人との交流があり、ベッドのある部屋で毎晩寝れていただけに、自然の中の孤独がより一層恐ろしかった。


 それと、不安要素はもう一つ。



(……今日のトキさん、なんだかいつもより冷たい気がする……)



 はあ、と溜息が漏れた。

 そう、原因はよく分からないが、トキの態度がいつにも増して素っ気ない気がするのだ。


 普段から気さくに受け答えしてくれるタイプではないという事は分かっているつもりだが、今日の彼はと言うと目すら合わせようともしてくれない。話しかければ一応返事は返ってくるものの、それも一言二言、「ああ」とか「そうか」とかそう言った答えばかり。



(……私、やっぱりまた何か余計なことしちゃったのかも……。でもそんな心当たり、全然思い当たら無いんだけどなあ……)



 はあ、と再び深い溜息。すると不意に近くでバサバサッ! と鳥の飛び去る音が響き、セシリアは途端に震え上がった。

 涙目になりながら、早鐘を刻む胸を落ち着かせる。



(……うう……トキさん、早く帰ってこないかなあ……)



 ローブを強く握り締める。風の音と森のざわめきが余計に恐ろしく思えて、セシリアは更に身を縮こめた。──丁度そんなタイミングで、またもや背後の草むらがガサガサッと音を立てて揺れる。



「……!?」



 再びセシリアは体を震わせ、恐る恐ると背後を振り返った。耳を澄ますが、今度はどうやら鳥ではない。

 ざく、ざく、と草木を踏み締める足音が、微かに耳に届く。



(……や、やだ……何……?)



 ぞわぞわと全身に鳥肌が駆け抜ける。暗闇の中でうごめく、何か。足音が聞こえてくる辺り、陸地を歩いて移動しているらしいが、人なのか別の生き物なのか、その正体が判別出来ない。



「……トキ、さん……?」



 おずおずと、草むらに向かって呼び掛ける。すると不意に、草むらの中で蠢いた何者かの真っ赤な両目がギョロリと光った。



(──え……?)



 どくん、と心臓が跳ねる。セシリアは両目を見開き、その場に固まってしまった。


 ガサ、ガサ……。


 草むらの中からゆっくりと、でっぷりと太った大きなの足が現れる。のし、のし、と地面を重たげに踏み締め、そこから姿を見せたのは──いやらしく口元を緩めた、見た事も無い巨漢の大男で。



「──っ!」



 心臓が、一際大きく跳ね上がった。

 その瞬間、セシリアの脳裏に覚えのない記憶が津波のように流れ込んで来る。


 それはまるで、赤の他人の記憶が脳内に無理矢理注ぎ込まれているような未知の感覚で──ゾッ、とセシリアの心臓は凍り付いた。



「……っう、あッ……!?」



 知らない記憶が大量に頭に流れ込み、セシリアは地面に膝を付く。流れ込んで来たそれは鮮明な記憶の映像では無く、まるでワンシーン毎に一枚の場面を切り取って貼り付けられたかのような、断続的なもので。


 ブツッ、ブツッ、ブツッ──。


 断片的な静止画が、何枚も頭の中で切り替わって行く──そんな気味の悪い感覚だった。


 巨漢の男は目の前でにたにたと笑い、徐々にセシリアの元へと近付いてくる。それが誰なのか全く分からない。しかしその男の姿が、セシリアにとって何よりも恐ろしく感じて。



「い、いやっ……!! 来ないで!!」



 セシリアは立ち上がると瞳いっぱいに涙を溜めて後退し、大声で叫んだ。だが男はにたにたと笑ったまま、黙ってこちらに近付いてくるばかり。

 その間も雪崩なだれ込んで来る覚えのない記憶の破片は、割れるように痛む彼女の頭の中を占拠して、とうとうセシリアは頭を強く押さえて立ち止まった。



「……う、ぁ……っ」



 思い出すな、と自分自身が流れ込んで来る記憶を拒絶するのが分かる。ああこれは、きっと良いものではない。だってこんなに──こんなにも、恐ろしい。



「……っああ、あぁぁ……!」



 耐え切れず、セシリアは再び地面に膝を付いて倒れ込んだ。──怖い──それだけが今の感情の全てで。もう何も見たくなくて、セシリアはぎゅっと強く目を閉じる。


 そして、彼女は見てしまった。



「……あ……ぁ……」



 閉じたはずの瞼の裏に、真っ赤に染まった自身の両手が見える。げっそりとやせ細った、骨さながらの自分の手。土と血と、忌々しい“それ”が、瞳の中に映り込んで──



『…………ねえ、私、もう…………』



 ──ああ、私の声がする。




『…………死にたい、よ…………』




 ──バキィッ!!


 その時だった。

 不意に何かが殴り飛ばされるような鈍い音が響き渡って、セシリアはハッと目を見開く。直後に「ピギィ!」と動物のような甲高い悲鳴が耳に届き、かと思えば突然強い力で体を抱き起こされた。



「おい! 何してるんだ!」


「──!」



 涙でぼやけた視界の中に、焦ったようなトキの表情が映り込む。すると彼女の頭の中に流れ込んでいた記憶の断片は見えなくなり、薄紫色に色付いたその双眸と視線が交わった途端、酷く安堵してセシリアは彼の胸に縋り付いた。



「っ、は!? お、おい……!」


「……っあ、あの人、あの人がっ……!」



 セシリアはガタガタと震え、トキのケープを握り締めて男のいた方向を指差す。はあっ、はあっ、と息を荒らげ、ただならぬ様子で自分の胸に顔を埋めて来る彼女を暫し困惑した表情で見下ろしていたトキだったが、やがて彼は小さく息を吐き、震えるその背中をポンポンと軽く叩いた。



「……落ち着け。大丈夫だ、何も居ない」


「……っ、嫌……! だって、あの人がっ……!」


「人なんか最初から居ない。アンタが見たのはただのだ」


「……げん、かく……?」



 取り乱したセシリアは徐々に冷静さを取り戻し、恐る恐ると顔を上げる。呆れたように細められた薄紫色の瞳と一瞬目が合って、その後すぐにトキは彼女が指差していた方角へとその視線を移した。セシリアもまた、その視線を追うようにそちらに目を向ける。



「……あ、れ……?」



 そこに転がっていたのは、小型犬ほどの大きさののような生物だった。薄桃色の体に、背中には鳥を彷彿とさせる白い羽根が生えている。その生き物はトキに殴られて完全に伸びてしまったのか、地面に転がった体は微動だにしない。



「……え? ……こ、これは?」



 困惑したようにセシリアが問えば、トキは淡々と答えた。



「こいつは“ストラフティル”っていう魔物だ。別名“恐怖の化身”」


「……恐怖の、化身?」


「……まあ、大層な名前の割に戦闘力は低いし、普段は動きも鈍くて一見ただの雑魚だけどな。ただ、コイツらは外敵から身を守るために、“”の幻覚を見せる事が出来る。だから“恐怖の化身”なんて呼ばれてるんだ」


「……この世で、一番恐れている物……?」



 セシリアはぎゅっとトキのケープを強く握り締めた。未だに表情を強張らせている彼女の様子に、トキはやれやれと嘆息する。



「……多分、その辺りを歩いてたコイツと偶然目が合ったんだろ。コイツらは目を合わせるとビビって尻尾から幻覚作用のある成分を出すからな。……ま、つまりアンタが見たっていう“人”もただの幻覚だ。ここには何も居ない」


「……」



 セシリアはそれを聞いても尚、心の奥に染み込んだ恐怖が拭えなかった。未だにケープを掴んだままの彼女の手が小さく震える。


 一向にトキから離れようとしないセシリアの様子にとうとう彼は頭を抱えたのか、「……何だ、そんなに怖いものを見たのか?」と呆れがちに問い掛けた。しかしその問いに返ってきた彼女の答えは予想外のもので。



「……いえ……、わかりません……」


「……は?」



 震える声を返したセシリアにトキは眉を顰めた。しかしやはり彼女は「わからないんです……」と繰り返す。



「……幻覚……、私、知らない人が、見えたんです……」


「……!」


「……知らない、男の人……でも、私、すごく……怖くて……っ」



 ぐっとケープを強く握り、セシリアはトキの胸に力無く寄り掛かった。目を閉じると、知らないの声が何度も何度も頭の中を巡り、呪いのように同じ言葉を繰り返す。



『死にたい』

『死にたいよ』

『死にたい……』

『ねえ、』


『お願い、私を──』



「……、うぅ……」


「……!? おい!」



 がくりと力無く胸に凭れるセシリアの異変にようやく気が付き、トキは慌てて彼女の体を支えた。そのまま額に手を当てると、そこの温度は明らかに上がっていて。


 ──熱い。


 チッ、とトキは苦々しく舌を打つ。即座にその体を横抱きに抱え上げ、彼はぐったりと力の抜けた彼女に呼び掛けた。



「おい、しっかりしろ。ここには何も居ないんだ。何も考えなくていい。俺が見張っといてやるから、とにかくアンタは寝ろ」


「……は、……トキさん……」



 地面に降ろした彼女の潤んだ瞳がうっすらと持ち上がり、離れようとしたトキの手を掴む。

 赤く色付いた頬、上目遣いに見上げて来る翡翠の瞳、辛そうに繰り返す呼吸。トキは表情を歪め、熱を帯びる彼女の頬に手を伸ばしかけて──不意に、ドグマの忠告が脳裏を過ぎった。


 依存──浮かんだその言葉に、トキはハッと息を飲んで彼女から顔を逸らす。



「……寝ろ!」



 吐き捨てるようにそれだけ放って、彼はセシリアに掴まれている手を引き剥がそうとした。しかし、手袋に覆われた彼女の手は頑なにそれを離そうとしない。



「……っ、離せ、もういいだろ」


「……いや、です……」


「はあ!?」


「……嫌……、お願い……」



 掴む手に弱々しい力が籠る。セシリアは今にも泣き出しそうな顔で、縋るように彼を見つめた。


 ──ああ、やめろ。そんな目で見るなよ。



「……ひとりに、しないで……」



 ぽつり、こぼれ落ちた言葉。その一言を最後にセシリアの瞼は閉じられ、トキの手を掴んでいた手からはゆるゆると力が抜けて行った。


 そしてとうとう手が離れる──という寸前。

 力の抜けた彼女の手を、今度はトキが強く握って繋ぎ止める。



「……っ」



 何をしているんだ、ともう一人の自分がトキの行動を咎めた。

 この手を離さないと。分かっている。これはセシリアの魔力に対する一種の依存症状で、きっと彼女の身を心から案じているわけではない。なのに──。



 ──ひとりに、しないで。



 縋るように見つめる彼女の瞳が、胸の奥に影を落として、消えなくて。トキは苦く表情を歪めると舌打ちを放ち、ぐしゃりと乱雑に前髪を握り込んだ。



「……ふざけんなよ、人の気も知らねえくせに……」



 掠れた声が小さくこぼれ落ちる。

 くそっ、と吐き捨てて不機嫌そうに座り込んだ彼だったが、掴んだセシリアの手のひらだけは、やはりどうしても振り払うことが出来なかった。




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