第24話 君への指輪


 1




 窓から差し込む明るい日差しに、ふと重たい瞼を持ち上げれば見慣れない天井が見えた。ここはどこだろう、とぼんやり考えるが思考がうまく働かない。それどころか身体が異常なほど怠く、柔らかいベッドの上に投げ出されている手足はぴくりとも動かなかった。



「……のど、かわい、た……」



 ぽつり。零れた声は自分でも聞いた事が無いほどに酷く掠れていて些か驚く。

 首だけを動かして周辺を見渡せば、どうやら誰かの部屋の中に寝かせられているのだろうという事は何となく察しがついた。そこでようやく、自分の身に何が起こったのかを彼女は思い出し始める。



(……そうだ、私、魔物に捕まって……トキさん達が、助けに来てくれた……)



 暗闇の中に沈みそうだった自分を大樹の中から引きずり出し、縋るように名前を呼んだ彼の声が記憶に蘇る。「私、あなたのことを信じてました」そう伝えたら酷く切なげに表情を歪められて、肩に添えられていた手に力が篭って、それから──どうなったんだっけ。


 不意に視線を持ち上げれば、ベッドの脇にある小さなテーブルの上に氷の入った水差しとコップが置かれいるのが視界に入った。おそらくセシリアが目を覚ました際に飲ませようと誰かが置いて行ったのだろう。



(……トキさんが置いて行ってくれたのかな? でもここ、宿の部屋とは少し違うみたいだけど……)



 いくつか疑問は浮かんだが、酷く喉が乾いていて深く考える気にもなれなかった。セシリアは怠くて動きたがらない身体に鞭を打ち、ゆっくりと手を伸ばす。──そしてその瞬間、彼女の背筋はゾッと凍り付いた。



「──ッ!」



 身体中に広がる怠さなど気にも留めず、彼女は即座に飛び起きる。白く伸びた素肌が視界に飛び込み、どうしてすぐ気が付かなかったのかとセシリアは体を震わせた。


 ──いつもの手袋が、ない。



(……な、何で……!?)



 カタカタと小さく震え、手袋の代わりに包帯で覆い隠された手首を押さえる。自分で巻いた覚えはない。おそらく誰かが此処を隠してくれたのだ。──つまり、誰かに見られたということになる。


 恐る恐る首元にも手を触れた。タートルネックの前は開かれ、やはりそこにも包帯が巻かれている。セシリアは顔を蒼白に染めて自身の両腕を抱き締めた。



(……そんな……どうしよう……一体誰が……!)



 唇を震わせ、視線を泳がせる彼女の脳裏に真っ先に浮かんだのは“彼”だった。まさか、トキさんに──そう考えた瞬間、ぞわりと冷たいものが背筋を駆け抜ける。



(……い、嫌……っ私……!)



 ──トキさんに、嫌われたくない……!


 セシリアはベッドの上で膝を抱え、恐怖に震える身体を落ち着かせようと縮こまる。すると不意に、コンコン、と部屋の扉がノックされた。



「……っ」



 セシリアは顔を上げ、身を強張らせる。脳裏に浮かんだのはトキの姿だったが、そこから入ってきた人物は彼では無かった。



「──セシリア! 良かった、目が覚めたんだ」


「……! シェリー、さん……」



 控えめに開いた扉の向こうから、安堵の表情を浮かべたシェリーが駆け寄って来る。彼女は「体調は大丈夫?」と問い掛けながら近くの椅子に腰掛けた。セシリアは戸惑いがちに視線を泳がせ、震える声を絞り出す。



「……は、はい……」


「喉乾いたでしょ、飲みなよ」


「ありがとう、ございます……」



 シェリーはてきぱきとコップに水を注ぎ、彼女に手渡した。セシリアはそれを受け取ろうと手を伸ばすが、ふと己の手が視界に入ってぞくりと恐怖が走ってしまう。



「……っ」



 思わずセシリアは伸ばした手を引っ込ませ、小さく震えるそれを隠すようにもう片方の手で強く握りしめた。そのまま俯いてしまった彼女に、少し間を開けてシェリーが口を開く。



「……大丈夫。セシリア、こっち向いて」


「……あ……」


「ごめんね、見ちゃったの」



 見ちゃったの──その言葉に黙ったまま顔を上げたセシリアは、翡翠の両目を見開いて彼女を見つめた。真っ直ぐとその目を見つめ返すシェリーの瞳に、過去に自分を突き放した友人たちの表情が蘇る。



「……ほら、とりあえず水飲んで。水分取らないと」


「……っ」



 震えるセシリアの手を取ろうと、不意にシェリーが腕を伸ばした。その瞬間、あの日向けられた言葉の棘がセシリアの脳裏をつんざくように響き渡って。


 ──触らないで!! 汚い!!



「──駄目!!」


「!」



 触れられそうだった手を身をよじることで阻み、セシリアはシェリーに背を向ける。振動によってコップに溜まっていた水が少しこぼれてかかったが、そんな事を気にしている余裕すらなかった。



「……だめ、です……この手に触ったら……!」



 どくどくと心臓は嫌な鼓動を刻み、声が勝手に震えてしまう。けれど彼女は必死に言葉を続けた。



「見たんでしょう? 私の手と首を……! 私の手は汚れているんです……! だから、触れたら、駄目……っ」



 体を震わせ、絞り出すように声を紡ぐ。ベッドの上で小さく体を丸めて震える彼女の姿に、シェリーは奥の歯を噛み締めた。──自分自身を抱きしめる白い指。どこからどう見たって、普通の女の子の手なのに。



「……セシリア」


「……」


「セシリア、こっち向いて。大丈夫だから」



 シェリーは縮こまる彼女の背に手を添え、優しく語りかけた。それでも頑なに顔を上げようとしないセシリアに小さく息を吐き、そっとその体を抱きしめる。セシリアはびくっと肩を震わせ、身を強張らせた。



「……っや、だめです!」


「聞いてセシリア、大丈夫だから。今まで辛かったのよね」


「……っ」


「あんたの手は汚くなんかない。ほら、あたしと同じ、普通の手でしょ?」



 シェリーは安心させるように微笑み、セシリアの手に自分の手のひらを合わせて見せた。涙の膜を張った翡翠の瞳が怖々と開かれ、ぱちりと目が合って。

 ね? と小首をかしげてシェリーが笑いかければ、彼女の瞳はふるりと揺らいだ。



「……勝手に見ちゃって、ごめんね。人に知られたくなんか、なかったよね……」



 シェリーは震える手のひらをぎゅっと握りしめ、更に言葉を続ける。セシリアの表情は歪み、瞳には大粒の涙がせり上がって来て。



「……大丈夫、あんたの手は綺麗よ。ただの、普通の女の子。怖がらないで」


「……っ」



 じわりと目頭が熱くなって、耐えきれず溢れた涙がセシリアの頬を滑り落ちて行く。握られた手から伝わる温もりが、長い間凍りついていた心の棘を優しく溶かして行くようで。セシリアは唇を噛み、小さく嗚咽をこぼしながらシェリーの肩口に顔を埋めた。



「大丈夫。大丈夫よセシリア」


「……う、っぅ……」


「泣かないで、大丈夫だから」



 ──普通の、女の子。


 その言葉で、セシリアの心は救われた気がした。

 なぜなら自分は“普通”ではない。失った記憶の中で生きていたであろう彼女は、きっと“普通”ではなかったのだ。そのである痕跡を見ても尚、自分を普通の女の子だと言ってくれたことが──セシリアにとってどれほどの救いだったか。



「……う、あ、ぁ……!」



 幼い子供のように泣いて震える彼女の背をぽんぽんと叩きながら、不意に、シェリーは微笑む。



「……ふふ。妹がいたらこんな感じなのかな」


「……っ、え……」


「あたし孤児だったからさ。妹とか弟とか、そういうのに憧れてて。なんか今叶った気分」



 体を離し、シェリーはセシリアの目尻に溜まった大粒の涙をごしごしと乱雑に拭う。「い、たたた!」とセシリアは顔を顰めたが、拭った当人はなんだか嬉しそうで。



「はい、涙拭いて。あたしが泣かしたってバレたら、あんたの彼氏に怒られちゃうじゃん」


「……っ、だ、だから、彼氏じゃありません……」


「あははっ」



 目尻と鼻を真っ赤に腫らしたセシリアが唇を尖らせると、シェリーはケラケラと笑った。その様子にセシリアもつられて微笑みを返す。

 少し明るさの戻った彼女の様子に、シェリーは安堵したように息を吐いた。



「……ふっ、やっぱ笑った方がいいよアンタは」


「……ふふ、……そう、ですね」


「うんうん。はい、水飲んで。水分補給は大事よ」


「……はい」



 彼女の手から水の入ったコップを受け取る。そのままコップに口を付け、冷たい水を一気に喉の奥へと流し込めば、カラカラに乾いていた喉がようやく潤いを取り戻した。


 シェリーはその様子をじっと見つめ、目尻を細める。



「……アイツ、セシリアのこと、ずっと心配してたよ」


「え……」



 ふと、シェリーの口が開いてセシリアは瞳を瞬かせた。アイツ、というのはおそらくトキのことだろう。シェリーは何かを思い出したのか呆れたように肩を竦め、更に言葉を続けた。



「……もう、ほんっとに大変だったんだから。捕まったセシリアを助けるためとは言え、アイツほんとに無茶な事ばっかりしてさ。やめとけって言っても言う事聞かないし。あんたよくあんなのと二人で旅してられるね」


「あ、あは……すみません……」



 愚痴を吐きこぼす彼女にセシリアは苦笑い。──しかし続いて放たれたシェリーの発言によって、ようやく緩み始めていたセシリアの表情は再び凍り付くことになった。



「ほんと、自分の身も考えて欲しいもんだわ。昨日の晩もここでアンタの手握ったまま寝てたのよ。自分もそこそこ酷い怪我してんのに、悪化したらどうするつもりなんだか──」


「……怪我!?」



 その一言にセシリアは目を見開いてシェリーに詰め寄った。唐突に声を上げた彼女にびくりと肩を震わせ、シェリーは頬を引きつらせる。



「怪我って、どの程度のものですか!? 大丈夫なんですか!?」


「あ、え、えーと……ちょっとだけ、その……骨が折れたり、とか?」


「骨折!? た、大変……!」



 セシリアは顔を青ざめ、即座にベッドから立ち上がった。「ちょ、ちょっと!」とシェリーが止めるが聞く耳を持たず、彼女は部屋を飛び出す。


 やがて深い溜息と共に、シェリーは頭を抱えた。



「……言う事聞かないのは、どっちも一緒ね」



 呆れ顔で呟き、彼女もまた、セシリアを追って部屋を出たのだった。




 2




 慌ただしく隣の部屋の扉を開け、中に駆け込む。点滴を打たれたまま眠っているトキの頭と左半身にはぐるぐると包帯が巻かれ、上半身の至る所に打撲痕や切り傷が確認出来た。セシリアは口元を覆い、悲しげに彼の顔を見つめる。



「……トキさん……っ」



 呟き、眠る彼の顔を覗き込んだ。痛々しく残る傷の状態から、随分と無茶をしたのだろうと言う事が分かる。セシリアは俯き、近くの椅子にそっと腰を下ろした。

 だらりとベッドに投げ出された、骨張った傷だらけの手のひら。それに自らの手を伸ばしかけて、やはり戸惑ってしまう。今の自分には手袋という境界がない。この手で、触れてもいいのだろうか。



「いいよ、セシリア」



 ふと、彼女の心の迷いに答えるように背後から肯定の言葉が返される。振り向けば、壁に凭れかかったままシェリーが声を続けた。



「そいつ、昨日あんたの手握って安心したような顔で寝てたのよ。だから大丈夫、握ってあげて」


「……でも……」


「大丈夫だって」



 にこ、とシェリーが笑う。セシリアはやはり迷ったように目線を泳がせていたが、やがて恐る恐るといった様子で彼の手に自らの手を伸ばした。


 ──ぎゅ。


 そっと、優しく、手を握る。初めて触れた彼の体温に、つい目尻が熱くなった。──ああこんなに、骨張った手をしていたんだ。ざらついた傷跡、ゴツゴツと固い皮膚。ずっと近くにいたのに、気が付かなかった彼の温度。



「……トキさん……ごめんなさい……」



 あの時、秘密を打ち明けられなくてごめんなさい。勝手に捕まって、足手まといになってごめんなさい。たくさん怪我させて、本当にごめんなさい。


 ──でも。



「助けに来てくれて、嬉しかった……」



 トキの右手を引き寄せ、そっと自分の額に当てがう。たくさんの傷跡が残っている暖かい手のひらに、セシリアの瞳から溢れた涙がじんわりと滲んで。



「──何、泣いてんだよ……」



 不意に動いた目の前の手が、目尻に浮かんだ涙の粒を掬い取った。



「……! トキさん!」



 セシリアはトキの手を握ったまま顔を上げる。急に大声を発した彼女にトキは心底不機嫌そうな表情を向け、小さく舌を打った。



「……うるさい。大声出すな、寝起きだぞ……」


「トキさん! 大丈夫ですか!? ごめんなさいこんな怪我……! 私のせいで……!」


「うるさいって言ってるだろ、話聞けよ」



 はあ、と不服げに眉根を寄せるトキにセシリアは涙をこらえながら「ごめんなさい……」と再度呟く。今にも雫がこぼれ落ちそうなその瞳からトキは居心地悪そうに視線を逸らし、溜息混じりに上体を起こした。



「と、トキさん! 動いちゃだめです!」


「っ……、いいんだよ。そんなことより手、出せ」


「……え?」


「早くしろ」



 トキは痛みに表情を歪めながらセシリアの手を強引に掴んだ。疑問符を浮かべて瞳を瞬かせる彼女の手のひらをじっと見つめ、右手の薬指に自身の指先をそっと滑らせる。



「……この指が良さそうだな」



 ぼそりと呟かれた不可解な言葉に、セシリアは首を傾げた。すると彼は手を離し、ズボンのポケットに自身の手を突っ込んで何かを探し始める。



「……あ、あの……?」


「ああ、あった」


「へ? あの……」


「これ。アンタが持ってろ。俺にはサイズが合わない」



 言葉の意味を消化しきれないまま手渡されてしまったそれを、とりあえず反射的にセシリアは受け取っていた。手の中にころんと転がったそれは、銀色に輝く美しい指輪で。



「……指輪?」



 セシリアが呟いた瞬間、ガタガタンッ! と突如シェリーが体勢を崩して横に倒れかけた。なんとか足で踏ん張ったようだが、その目は動揺したように見開かれている。

 そんな彼女の奇行に、トキは呆れたような表情を向けた。



「……なんだアンタ、居たのか」


「……い、居たわ! そんなことよりアンタ! 今自分が何してるのか分かってんの!?」


「……? 何って……、コイツに〈魔女の遺品グラン・マグリア〉預けてるんだよ。俺の指にはどれも入らなかったからな」



 平然と答えるトキにシェリーはあんぐりと口を開けた。……違う! そうじゃない! と訴えかけようとした彼女だったが、トキは既にセシリアの指に指輪を通してしまっていて。



「えっ、ちょ……!」


「やっぱりサイズ的に丁度よさそうだな」


「ちょっと、あんた達……!」


「あ、あの、トキさん、これって何なんでしょうか……?」


「……ああ、そう言えばアンタには説明してなかったな。こいつは〈魔女の遺品グラン・マグリア〉っていう代物で──」



 シェリーの言葉も聞かず、トキはセシリアに〈魔女の遺品グラン・マグリア〉の説明を始めてしまった。シェリーはいよいよ頬を引きつらせる。



(やばい、アイツまじで忘れてる……。あの指輪は──)



 あの指輪は、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉である以前に──。



「──へえー。これがあの大樹を作っていた原因……〈魔女の遺品グラン・マグリア〉なんですね」


「ああ」


「なるほど……。分かりました、私が責任持って預かります」



 セシリアは微笑み、右手の薬指に嵌められた指輪をそっと撫でた。トキは小さく息を吐きながら頷いて、ちらりとシェリーに視線を向ける。



「……で、アンタはさっきから何そわそわしてんだ?」



 明らかに不自然なシェリーの様子に呆れがちにこぼせば、彼女は言いにくそうにもごもごと声を発した。



「……いや、何て言うか……もう渡しちゃった手前言いにくいんだけど……」


「は?」


「……あのさ……」



 シェリーは気まずそうに視線を泳がせ、やがて意を決したように彼を見た。トキは訝しげに眉間を寄せたまま、その続きを待っている。そして、遂に彼女は口を開いた。



「アンタそれ、“伝説の指輪”だってこと忘れてない?」


「…………」



 ──伝説の指輪。


 この街に来てから何度も耳にしたその名前に、トキの思考が一旦停止する。彼は動きの鈍った思考回路の線を何とか繋ぎ合わせ、先日酒場で出会った口喧しい女が語っていた“伝説の指輪”にまつわる逸話を思い出していた。



『──伝説の指輪はぁ、昔話に出てくる素敵な結婚指輪なの。絶対に叶わない恋をした王子様が、相手に渡すはずだった指輪をドニア山のどこかに埋めたって言い伝えがあるのよ。で、それを掘り起こして好きな人に渡すと──』



 ──待て。待て待て待て。


 ようやくトキは自分の冒した最大のミスに気が付いた。じわりと額に汗が滲み、きょとんと瞳を丸めるセシリアを見つめる。……ああ、まずい、そうだった。この指輪を渡してしまったら──



『必ずその人と、結婚することが出来るんですって』



「……っ!!」



 トキは片手でガバッと口元を覆い、勢いよく彼女から顔を逸らした。突然激しく動いた事で折れた骨が悲鳴を上げるが、そんな事もどうでもよく思えてしまう程に動揺して嫌な汗がだらだらと流れ落ちる。



「えっ!? ちょ、ちょっとトキさん!?」


「……っ」


「……あーあ」



 シェリーは肩を竦め、「あたし知ーらない」と責任を放棄して逃げるように部屋を出て行った。ばたん、と扉が閉まった後、痛みと混乱で蹲るトキの背を優しくさするセシリアが心配そうに彼の顔を覗き込む。



「大丈夫ですか? なんだか顔が赤くなって……」


「……ち、違うからな! 勘違いするな! そういう意味で渡したんじゃないぞ!」


「え!? あ、あの……そういう意味って一体どういう……」


「……っ、うるさい! ……くそっ……、見るな、馬鹿!」


「え、ええ……?」



 珍しく動揺している彼は顔を逸らし、子供のような悪態を吐いて赤い顔を隠すのが精一杯だった。



(……ああ、くそ、最悪だ……!)



 上がった熱が一向に引かない。ああくそ、こんな予定じゃなかったのに。


 その後もしつこくどういう意味かと問いただしてくるセシリアに、到底真実など伝えられるはずも無く。最終的には八つ当たりでもするかのように彼女の唇を塞ぎ、“クスリの摂取”という名目で口内を犯し尽くして強制的に黙らせる始末で。


 それでも尚、胸中は晴れないどころか急速に心拍数を上げたりするものだから、もう本当にどうしようも無くて、結局吐き捨てるように彼は舌打ちをこぼすばかりであった。




 3




 某日午前十時、天気は快晴。


 美しく風に揺れる野の花を視界に入れながら、セシリアはほんの少しだけ寂しそうに目を細めた。


 二人がアリアドニアの街に訪れ、トキが負傷してから約一週間。セシリアは三日程度で体力が回復したが、深手を負った彼はその間ずっとベッドの上に寝たきりの状態だった。

 全治三週間と宣告されていた彼だったが、魔力を取り戻したセシリアの治癒魔法によって回復速度は上がり、生活に支障なく動ける程度にまでは回復した──とは言え、完全に折れた骨が繋がったわけではない。しかし、彼はいつまでも同じ場所でじっとしていられる性分ではないわけで。



「トキさん、本当に大丈夫なんですか……?」



 野花から目を逸らし、心配そうにセシリアが尋ねる。


 まだ動かない方がいいと言う周囲の反対を押し切り、アリアドニアで過ごしてから九日目の今日、予定よりも早く二人はこの街を出ることにしたのだった。



「……ああ。問題ない」



 荷物をまとめ、トキはヒビの入っていた左肩を回しながら淡々と答える。肩は完治したようだが、肋骨と鎖骨は微妙なところだ。できるだけ動かさない方がいいだろう。


 心配そうに見つめるセシリアの視線に気がついたのか、トキは嘆息して「無茶はしない。それでいいだろ」と面倒そうに呟いた。一応こちらの気持ちを汲み取ろうとしてくれているらしく、僅かに窺えた素直さの片鱗にセシリアは頬を緩める。



「……はい。無茶したら怒りますからね」


「へえ、そりゃ怖い」



 飄々と軽口を叩く彼のいつもと変わらない様子に微笑み、セシリアは振り返った。そこに並ぶ面々に、彼女は深々と頭を下げる。



「長い間お世話になりました。皆さんには良くして頂いて、本当に感謝しています」


「いいのよ、こっちもたくさん迷惑かけちゃったし。気をつけてね、二人とも」



 シェリーは破顔し、隣に立っているロゼの背中をバシンッと叩いた。「あんたも何か一言言いなさいよ!」と怒鳴られ、ロゼはトキに向かって渋々と声を発する。



「……その……シェリーを助けてくれて、ありがとう……」


「……俺は別にそこの干物女を助けたつもりはないが?」


「コルァ! 誰が干物よ!」



 トキの揶揄にシェリーが憤慨し、ブン! と拳を振り下ろす。しかしトキは軽々とそれを避け、行き場を無くした拳は隣にいたロゼの鳩尾にクリーンヒットした。



「ぐっふッ!?」


「ああ!? ごめんロゼ!!」



 大慌てでシェリーは蹲ったロゼの背中をさする。あーあ、と悪びれもなく呟いて、トキは二人の様子を鼻で笑った。

 そんな彼らの背後で、少年は黙ったまま俯き、地面をじっと見つめている。



「……リモネくんも、色々ありがとう。元気でね」


「……」



 セシリアが微笑みかけるが、リモネは何も答えない。その様子にセシリアは苦笑して、トキは何も言わずに彼を見つめた。



「……こら、リモネ。お別れの挨拶ぐらいちゃんとしなよ」


「……」



 シェリーが叱責するがそれにも答えず、彼は黙って俯いたまま。ふう、と小さく息を吐いてシェリーは肩を竦める。だめだこりゃ、と言わんばかりに首を振った彼女に、セシリアはやはり苦笑い。



「……」



 何も反応しないリモネをじっと見下ろし、トキはふと身を翻した。そのまま、彼らに背を向けて歩き始める。



「……あ、トキさん……」


「行くぞ」



 淡々と歩いて行く彼にセシリアは戸惑いの色を浮かべつつ、三人にぺこりと頭を下げてトキの背中を追い掛けた。そんな二人にシェリーは大きく手を振る。



「じゃあねー! 二人ともー!」


「……」



 遠ざかって行く二人の姿。リモネは顔を上げ、唇を強く噛み締める。


 行き先も告げず、振り向きもせず。ただ黙って歩いて行くトキの背中に、リモネは表情を歪めた。

 ああ、本当に行ってしまう──そう考え至る前に、彼の足は無意識の内に地を蹴って走り出していて。



「……っ、兄ちゃん!!」



 大声で呼び止め、彼の元へ駆け寄る。トキは表情一つ変えることなく振り向き、眉間に深く皺を刻んで唇を噛み締めるリモネを見下ろした。



「……何だよ」


「……これっ……!」


「……」



 彼から手渡されたのは、色とりどりの花で編み込まれた不格好な花の指輪。トキは眉を顰め、それを受け取ると呆れがちに指先で転がした。



「……男から指輪貰ってもな。つーかお前まだあの女に指輪渡してないだろ、そっちに渡せよ」


「花言葉……」


「!」


「……俺……花言葉、一生懸命調べたんだ。それで、兄ちゃんにそれ、あげたくて……」


「……」



 ちらりと手の中の指輪を一瞥する。小さな花弁を広げるアズリ、プシュカが散らばる中で、一際大きく花弁を広げた薄紫色の花──



「……“信じる心トーキット”か」


「……」


「よりによって選びやがって、クソガキ」



 嘆息したトキに、「えっ!」と絶望の表情を浮かべた顔が持ち上がる。そんな彼の頭に突如トキの手が乱暴に落とされ、「うっ!」とリモネは表情を歪めた。



「俺もそれやる」


「……え……」



 素っ気なくこぼされた言葉。リモネがそっと頭の上に手を伸ばせば、黄色く色付いた花の冠が手元に収まった。しかも、その黄色い花には見覚えがあって──



「──って、これ悪い花言葉ばっかりのヤツじゃねーか!!」


「くくっ、お前にはそれがお似合いだ」


「んだとコラ!!」



 憤慨するリモネに小さく喉を鳴らし、トキは踵を返す。「じゃあな、ガキ」と手を振って、彼は再び歩き始めた。



「……っ、あ……」



 遠くなる背中。もう振り向かない彼の顔。

 ああほんとに、これでお別れなのだと察して──再び、リモネは俯いてしまった。



「……にい、ちゃん……」



 呟く声はもう届かない。もしかしたら、もう、会えないのかもしれない。

 彼は黄色い花の冠をぎゅっと握ったまま、静かに身を翻してシェリーとロゼの元へと戻って行く。二人は俯いたまま歩み寄るリモネの様子に小さく息を吐き、くすりと笑った。



「……なーに泣いてんの、ガキんちょ」



 シェリーのそんな言葉に顔を上げる。リモネの目尻からは大粒の涙が溢れ出し、幼子のようにぐずぐずと鼻を啜りあげていた。



「……う、うっ、うぐ……っ」


「馬鹿ねえ、寂しいなら寂しいって言ってやればよかったのに。さよならも言わないでお別れしちゃって」


「……だっでぇ……っ、ひっく、」



 リモネは涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪める。素直じゃない彼の子供らしい一面に、シェリーとロゼは顔を見合わせて穏やかに微笑んだ。



「いつかまた会えるさ、きっと」


「……うん……」


「ほら、帰ってご飯にしよ。店長ババアが美味しいパン焼いてるよ、今頃」


「……うん……」



 優しく語り掛けてくる二人にリモネはこくこくと頷き、目尻に浮かぶ涙を手で拭った。


 ──きっと、自分は彼を兄のように慕っていたんだと思う。


 最初こそ怖い兄ちゃんだと思っていたけれど、時折見せる寂しそうな目とか、不器用な優しさとか、本当は臆病な心とか、何だかんだでいつも助けてくれるところとか。もし兄がいたらこんな感じなのかと、ずっと心のどこかで思っていた。


 リモネは嗚咽をこぼし、二人に付き添われながら街の中へと入って行く。すると不意に、「おっ!」という聞き慣れない声が三人に投げ掛けられた。



「何だ何だ、そこの泣いてる坊主。いいもん持ってるじゃねーの」


「……?」



 三人はふと足を止める。そこへ、今しがた声を掛けてきた長身の男が赤い目をにんまりと細め、蓄えた無精髭を指で弄りながら近付いてきた。

 彼の視線はリモネの持つ花の冠へと向けられている。



「この花の冠! よく出来てるなー。俺、花好きなんだよ」


「……おじさん、だれ?」


「んー? ただの通りすがりのオッサンさ。そんな事よりこれ、坊主が作ったのか?」


「……ううん、貰い物」



 男の言葉に素直に答え、赤くなった鼻をすんと啜りながら、彼は拗ねたように唇を尖らせた。



「……嫌な花言葉ばっかりらしいけど」



 そう付け加えられた一言に、男は瞳を瞬く。しかしややあって、「そんな事ないぞ」と目尻を緩めた。



「この花はリーズレットって言うんだが、確かに花言葉はあまり良いもんじゃない。でも、悪いもんばっかってわけでも無いんだぜ?」


「……え」


「リーズレットの花言葉は、『裏切り』『傲慢』『不幸』……それから、」



 男──アルマはふっと微笑み、赤く色付いた蛇のような目でリモネを見つめた。



「──『小さな勇気』、だ。頑張れよ少年」


「……!」



 アルマはリモネの頭に手を乗せ、くしゃりと乱雑に撫でると三人に背を向けた。そのまま街の門を潜って外へと出て行く彼の姿を見送って、リモネはふと、手元の黄色い花冠に視線を落とす。



 ──お前にはそれがお似合いだ。



 最後、優しく笑ったトキの言葉を思い返して、リモネはきゅっと唇を噛み締めた。


 ああそうか。

 彼が最後に自分にくれたのは。


 ──小さな、勇気。



「……なあ、シェリー」



 リモネは不意に彼女の名前を呼んだ。今朝、トキへの指輪を作った際にもう一つ作っておいた、本命のをポケットの中でやんわりと握り締める。



「あのさ、」



 随分と遠回りした。出来上がった指輪も結局不格好なままだ。……けれど今度こそ、この気持ちを、どうか受け取ってほしい。



「……俺、お前のことがずっと──」



 ──大好きだったんだ。


 真っ直ぐと彼女を見つめてそう伝えれば、横にいたロゼはギョッとしたように目を見開いていた。けれどシェリーは、一瞬驚いた表情を見せながらも、すぐに優しい微笑みを浮かべて。



「……へえ。なかなか見る目あるじゃん、ガキんちょの癖に」



 出会ったあの日と同じような、太陽のような眩しい光が胸の奥に落っこちて来た。ああやっぱり、俺はこの笑顔が大好きなんだな。そう改めて自覚して、リモネは小さく口元を緩ませる。


 ようやく伝えられた、この暖かい気持ち。

 自身の手の中に閉じ込めていた花の指輪に、それを全部詰め込んで。



「──そうだろ?」



 少年は泣き腫らして赤くなった目尻をやんわりと細め、ついに、彼女に手渡した。




 .


〈花の街と麗しの花嫁……完〉

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