第18話 臆病者の心


 1




 アリアドニアに着いて二日目の朝は、久しぶりに悪い夢を見た。とてつもなく悪い寝覚めに起き抜け早々舌を打ち鳴らす。トキはガシガシと後頭部を乱暴に掻くと、寝汗で気持ちの悪い体を洗い流すべくシャワールームに向かった。

 時刻は午前八時。朝早く神に祈りを捧げる隣の部屋の聖女様はとっくに起きていることだろう。しかし昨夜の一件以来、彼女のことを考えると酷く胸の奥がざわついてしまい、今は顔を思い浮かべる気にもなれない。


 服を放り投げてシャワールームに入り、蛇口をひねればサッと冷たい水が飛び出してきた。暫く待っていると徐々に温度が上がって行き、丁度良さげな頃合で頭から被ってベタつく体を洗い流す。


 シャワーの湯を浴びながらふと、トキは目の前の鏡に視線を向けた。曇った鏡面に浮かぶ水滴を手で拭い取ると、目付きの悪い紫色の双眸と不機嫌そうな顔が映る。そしてやや下へと視線を移せば、首元に残った“呪い”の印が視界に飛び込んで来た。



「……」



 黒く描かれた蛇のような形のそれを指先でなぞる。こんな小さな印如きに自分の命を握られているのだと考えるとどうしようもなく滑稽に思えて、トキの口からは乾いた笑い声が漏れた。

 彼は呪印から徐ろに指を離し、真っ白な石鹸を掴み取ると適度に泡立てて全身を洗う。その後はさっさと湯を被り、泡を洗い落とすと彼はシャワーの蛇口を止めた。

 そしてそのまま、シャワールームの戸を開けて外へと出て行ってしまう。


 用意してあったタオルで適当に体を吹き、下半身だけ着替えを施して上半身は裸のまま簡素なベッドに腰掛けた。ギシリと鈍く軋んだ音を聞きながら、トキは額に手を当てる。思い出してしまったのは、やはり昨夜の出来事だった。



(……くそ)



 チッ、と響いたのは本日二度目の舌打ち。モヤモヤと曇り続ける胸中に苛立ちながら、昨晩のセシリアの表情を頭から消す。


 けれどどうしても、恐怖に慄いて拒絶の意を示す彼女の瞳が頭から離れなくて。



 ──ガンッ!



 とうとう耐えきれず、トキは真後ろの壁を拳で殴り付けた。その壁の奥には彼を悩ませている張本人が居るかもしれないというのに、そんなことすら考える余裕も無いぐらい本能的に動いていた。



 ──ああくそ、らしくない。



 心底そう思う。他人の挙動に悩まされるなど、これまでほとんど経験したことがない。どうしてしまったんだ、何がどうしてこんな訳の分からないイライラに悩まされなくちゃいけないんだ。

 そんな答えの出ない自問自答を繰り返していると、不意に部屋の扉がトントン、と控えめにノックされ、無意識に三度目の舌打ちが鳴る。



(……やっぱり部屋に居たか)



 おそらく殴った壁の音に反応して出てきたのだろう。数分前の軽率な行動をトキは今更悔やんだ。

 叩かれた扉の音に何の反応も返さずにいると、再び控えめなそれが鳴らされる。もう一度無視しようかとも考えたが、このまま無視を続けてもトキが出て来るまで部屋の外で粘り続ける可能性が浮上して彼は溜息混じりに重い腰を上げた。彼女ならやりかねない。そういう性格なのだと、短い付き合いながらトキはもううんざりするほどに理解していた。



 ──ガチャ、



 鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。すると彼の予想通り、セシリアはそこに立ち尽くしていた。

 彼女は上半身裸の状態で出てきたトキに一瞬目を丸め、慌てて視線を逸らして俯く。気まずそうなその様子に、トキは冷ややかな視線を向けるしかなかった。



「……お、おはようございます、トキさん」


「……何の用だ」



 セシリアがぎこちなく微笑めば、素っ気なく返される低い声。突き放すようなそれに彼女は少し怯えた表情を見せながらも、真っ直ぐとトキに視線を向けた。



「あの……朝食、まだでしょう? 良かったら、一緒にどうですか……?」


「結構だ、じゃあな」



 ばっさりと断り、扉を閉めようとドアノブを引く。しかし「ちょっと待ってください!」と彼女が手を割入れたことで、閉じそうだった扉をギリギリのところで止めた。間一髪、彼女の指を挟んでしまう直前で何とか持ち堪える。



「……っ、アンタな、いきなり腕を間に入れてくるな! 挟むところだったぞ!」


「ごめんなさいっ……! でも聞いて欲しいんです!」



 きゅっ、とドアノブを掴んでいた彼の手をセシリアの両手が包み込む。相変わらずそれは黒いレザーグローブに覆われているのに、握られた手の感触が酷く優しく感じて。



(……っくそ、またこの感覚だ)



 じりじりと焦げ付く、太陽の光のような熱。胸の奥に灯ったその光のせいで、彼女の華奢な腕を振り払うことすら出来ない。



「……俺は、アンタから聞く話なんてない」



 何とか声を絞り出し、顔を逸らしてトキは言い放つ。しかしやはり引かない彼女は、凛とした強い瞳をじっと彼に向けるばかり。そして、聞きたくもない言葉を紡ぎ始めた。



「……昨日、トキさんのこと突き飛ばしてしまって……本当にごめんなさい。でも、あなたのことが嫌だったわけでは無いんです。これは本当です」



 やめろよ、と声にならない声が頭の中に響いた。何でアンタが謝るんだ、襲いかかったのはこっちだろ。情をかけるような真似はやめてくれ。優しい嘘で、俺をこれ以上追い詰めないで欲しいと、トキの眉間が深い皺を刻む。



(嫌じゃなかったわけ、ないだろ……)



 間違い無く、あの時の拒絶の目は本物だった。本気で自分を拒んでいた。それだけは確信を持って言い切れる。──それを「嫌だったわけではない」だなんて、よく言う。


 トキは乾いた笑い声を漏らし、逸らしていた顔を彼女の方へ向けた。



「……嫌じゃなかっただって? それじゃあ同意だとでも言うのか? アレが」


「……っ、き、キスまでは、同意です」


「それ以降のことを聞いてんだよ。それが分からないほどお子様ではねーだろ?」



 なあ? と脅すように低い声を返せばセシリアの瞳が戸惑いがちに揺らいだ。よせばいいのに、一度口から出た刺々しい言の葉は止まることなく更に続いて。



「何が嫌だったわけじゃない、だ。そんな中途半端な言葉で情を掛けられるぐらいなら、いっそ罵られて突き放された方がマシだ」


「……違、……私は、本当に……」


「違わないだろ。じゃあアンタは俺に触れられて嬉しかったのか? あんな目で俺を拒んでおいて、嫌じゃなかったってまだ言えるのかよ」


「……っ、あの時私が拒んだのは、トキさんに触れられることではないんです!」



 縋り付くように彼女は握った手に力を込め、語気を強めて訴え掛ける。トキは暫く言葉を発する事は無かったが、やがて「……へえ、」と冷たく目を細めた。



「じゃあ、アンタは一体何を拒んだって言うんだ」


「……っ」



 びくりと、セシリアはあからさまに動揺する。凛と強い光を灯していた視線は逸らされ、その瞳が戸惑いの色に染められて。



「そ、れは……」


「……」


「…………言えない、です……」



 導き出された答えに、思わず嘲笑が零れた。──何だそれは。馬鹿にするのもいい加減にしろよ。



「……もういい、よく分かった」


「……え……」


「アンタが“セックスを拒まれて可哀想な俺”を慰めに来てくれたお優しい神官様だってことは、今後も深く心に刻んでおくさ」



 冷たい声で皮肉をこぼし、彼は握られている手を引っ込める。セシリアは表情を歪め、「待って!」と必死に食い下がった。しかし返ってきたのは、軽蔑したかのような冷ややかな視線で。



「言っただろ聖女様。昨日のは酒のせいで起きた“間違い”だ。頼むからもう忘れてくれないか?」


「……!」


「俺達は同じ目的を共有しているだけで、結局はただの他人だ。変な慰め合いも傷の舐め合いも必要ない」


「ち、違います! 私そんなつもりじゃ……」


「──もういいだろ」



 弁解しようと口火を切ったセシリアの言葉を遮って、トキはハッキリと言い放つ。



「酔って襲い掛かったのは、俺が悪かった。それでもう、終いにしてくれないか?」


「……っ」


「疲れるんだよ、アンタといると」



 握られた手をトキの手がゆっくりと引き剥がす。セシリアは俯き、黙って地面を見つめたまま、大人しく彼の手を解放した。



「……じゃ、そういうことで。今後は昨日言っていたスケジュールで動く。分かったら、さっさと俺の前から消えてくれ」


「……」



 返事も待たず、強引に肩を突き飛ばされてそのまま扉が閉まる。よろりとよろめいた彼女は背後の壁に背を付き、表情を歪ませて縋るように前を見た。しかし、既に扉は閉められた後で。



「……ちがう、の……」



 ぽつり、呟く。その場に残されたセシリアは唇を噛んで俯き、タートルネックの下に隠れた首元にそっと触れた。



「……ちがう……嫌だった、わけじゃ、ないの……」



 泣き出しそうな声が弱々しくこぼれる。けれど昨晩の“拒絶”の理由だけは、例えトキが相手であってもどうしても話すことは出来なかった。

 否、トキだからこそ、話したくないと──見られたくないと、思ってしまったのだ。


 セシリアは首元に添えた手のひらを握り締め、震えそうになる唇を噛んで嗚咽を飲み込む。そしてそのままふらふらと、彼女は自分の部屋へと戻って行った。




 2




 セシリアのことを突き放してから一時間近く経った頃、トキは警戒を強めつつ再び静かに部屋の扉を開けた。そろりと顔を出し、注意深く周囲を確認する。どうやら廊下に彼女の気配はないようで、小さく息を吐いて彼は部屋を出た。



(ようやく諦めたか)



 部屋の前にいつまでも居座られている可能性が少なからずあったため、とりあえず彼女の姿がないことにホッと安堵する。慎重に部屋の扉を閉め、足音一つ立てずに隣の部屋の前を通過してしまえば、後はこちらのものだ。

 トキはそのまま階段を降り、宿屋を出て大通りの方面へと歩き始めた。行き交う人の数は相変わらず多く、喧騒を好まないトキにとっては不快でしかない。



「どうだいお兄さん、朝食がてらうちでパンとコーヒーでも! 今ならクッキーも付いて三十テイル!」


「お! 兄ちゃんイケメンだねえ! うちの帽子が映えそうだ! 見て行っておくれよ!」


「……」



 うるさい、鬱陶しい。


 まだ午前中だというのに、アリアドニアの市場はさながら戦争のような喧しさだった。人の多さも勿論だが、とにかく店側からの客引きが多い。観光客相手の商売で利益を得ているようなものなのだろう、「お土産にどう?」「記念に買って行っておくれ」という台詞があちらこちらで飛び交っている。



(この道は面倒だな、逸れるか)



 早くもそう判断し、ふっと道を逸れて人気のない路地へとトキは踏み込んで行った。表通りとは対照的な薄暗い細道を抜け、突き当たりを曲がれば広い公園のような場所に出る。とは言え遊具のようなものは無く、木のベンチと花壇があるだけの簡素な公園だったが。



(……はあ。やっと静かな場所に出たな)



 トキは溜息を吐きこぼし、そっと周辺を見回す。公園内には人がまばらに散ってそれぞれ何かを話しているが、一見子どもや老人が多く有益な情報は得られそうにない。

 ここはハズレか、と舌打ちしたい気分になりながら身を翻す。するとその瞬間、視界に見慣れた金髪が飛び込んで来たことで彼は思わず足を止めた。



「……っ!」



 げっ、とあからさまに顔を顰め、トキは即座に近くの木の後ろに身を隠す。彼の進行方向に腰掛けていたのは、先ほど自分が冷たく突き放した聖女様で。

 彼女は木の下のベンチに腰掛け、頭を垂れて俯いている。うまく宿を抜け出して来たつもりだったが、迂闊だった。どうやら彼女も外に出ていたらしい。



(くっそ、最悪だ! 何してるんだアイツ……!)



 無意識に舌打ちが漏れそうになるが何とか耐える。幸い彼女は背中を向けており、トキの存在には気がついていないようだ。一人でぼんやりと俯き、寂しそうに背を丸めて座り込んでいるその後ろ姿にトキは眉間を寄せる。



(……あのバカ、女一人であんなとこに座ってあからさまに落ち込みやがって。変な男に目を付けられるとか考えないのか? 何で分からないんだ?)



 誰の目から見てもはっきりと分かるほど悲壮感を滲ませた彼女の背中にトキは苛立ちを募らせる。あれでは声をかけてくれと言っているようなものだ。勿論、当の本人にそんなつもりは微塵もないのだろうが。


 ──無自覚なだけにタチが悪い。


 飛び出して一喝入れてやろうかと一瞬考えが過ぎったが、トキはすぐにその考えを打ち消した。何でわざわざ自分が他人のために声を荒げなくてはならないのか。むしろ一度痛い目に遭えばいいんだ、そうすれば少しは危機感を持って行動出来るだろう。


 そう考え至った彼だったが、見知らぬ男に捕まって泣き崩れる彼女の姿を想像すると途端にモヤモヤと胸の奥に嫌悪感が満ちて吐き気がした。だがそんな無意味な感情には気が付かないフリをする。



(……情なんて不要だろ。所詮、アイツは俺の呪いを食い止めるためだけの“道具”に過ぎない。俺の見ていないところで何かあったとしても……ただの他人だ。俺には関係ない)



 己に強く言い聞かせ、再度彼女の背中に視線を向けた。項垂れたその顔が上がることは暫くなさそうだ。


 本来ならばセシリアの目の前の通路を道なりに進む予定だったのだが、この状況ではそちらへ向かうことはできない。面倒だが来た道を戻って大回りするしかなさそうだ、とトキは不服げに顔を顰め、踵を返した。


 しかし、物事はそう上手く進まないようで。



「……あれ!? 怖い兄ちゃん! 何してんだこんなとこで!」


「──っ!!」



 どくり、心臓が跳ね上がる。


 何というタイミングの悪さなのだろうか。偶然通路から顔を出した少年──リモネの大声に、トキはギョッと肝を冷やした。

 すぐさま木陰から飛び出してその煩い口を手で塞ぐが、時既に遅し。



「……トキ、さん……?」



 狼狽うろたえたような声が背後から投げかけられる。じわりと手に汗を滲ませ、ゆっくりと振り向けば翡翠の瞳と視線が交わった。その目尻は赤く腫れ上がり、少し前まで泣いていたのだろうということが嫌でも分かってしまう。

 思わずトキは目を逸らし、口を塞がれてじたばたと暴れるリモネを睨んだ。──お前のせいだぞ、馬鹿。



「……」



 セシリアは何も言わず、悲しげに目を伏せる。そのまま徐ろに立ち上がった彼女は、にこりと微笑みを浮かべて口を開いた。



「……ごめんなさい、お邪魔してたみたいですね。私はもう行くので、ここ、通っていただいても大丈夫ですよ」


「……」


「リモネくんも、またね」



 赤く腫らした目尻を緩め、彼女は背を向けて歩いて行く。トキは何も言わず、黙って彼女から目を逸らすばかり。

 そこでようやく二人の空気感がおかしいことに気がついたのか、リモネは暴れていた手を止め、不思議そうにトキとセシリアの姿を交互に見つめた。



「……?」



 彼女の足音が遠ざかり、徐々に塞がれていた手の力が緩まって行く。リモネはそれを引き剥がし、トキに視線を向けた。



「……喧嘩したのか?」


「……別に」



 素っ気なく返し、トキはその場に立ち上がる。はぐらかそうとしていることは明白で、リモネは眉を顰めた。



「……セシリア姉ちゃん、目のとこ赤かったぞ。女を泣かすなんてサイテーだな!」


「……知らねーよ、アイツが勝手に泣いたんだろ。……それよりお前のせいでアイツに見つかったんだからな、ふざけんなクソガキ」


「いだだだだ!」



 トキは恨み言をこぼしながらギリギリとリモネの耳を引っ張る。痛い痛い! と悲鳴を上げるリモネの耳から手を離して舌を打ち、涙目で睨む彼に背を向けるとトキは歩き始めた。リモネもめげずにそれを追う。



「いってーじゃねーか! 女泣かせの最低野郎!」


「お前には関係ない」


「関係なくても、大事な恋人だろ! 泣かしてんじゃねーよ!」



 べえっと舌を出すリモネの言葉にトキは眉間を寄せた。「はあ?」と嫌悪感を露わに低い声を返せば、リモネはむすっと唇を尖らせる。



「何も間違ったことは言ってないだろ。恋人を泣かすなんて最悪だ、俺なら絶対しない」


「……バカも休み休み言え。大体アイツは恋人じゃない」


「……、え!? 違うの!?」



 驚愕に目を見開いたリモネに、トキの口からは大きな溜息がこぼれた。彼は信じられないというような表情でトキに詰め寄る。



「で、でも俺、シャンディから聞いたぞ!? 昨日酒場に迎えに来た恋人を抱き締めてイチャイチャしてたって……! それセシリア姉ちゃんのことだろ!?」



 とんでもない発言が彼の口から飛び出し、トキはあからさまに嫌そうな表情を向けた。誰だそんな馬鹿丸出しのデマを流してる奴は、と考えてすぐ、昨晩隣に居座っていた鬱陶しい女が発生源だと理解する。トキはがしがしと後頭部を掻き、溜息混じりに口を開いた。



「……迎えに来た女ってのは確かにアイツの事だが、別に俺たちはそういう関係じゃない。ただの旅の連れ。それだけだ」


「は? じゃあ何で抱き締めたりするんだ?」


「……、」



 何で、と問われてトキは一瞬躊躇った。その答えはむしろこっちが聞きたい。なぜ、あの時自分は彼女の体を周りの視線から隠そうと、咄嗟に抱き込んでしまったのか。


 明確な答えは今も出ないままで。



「……大人になれば、別に好きじゃ無くてもそういうことが出来るんだよ」



 結局トキが捻り出したのはそんな曖昧な答えだった。しかしリモネは腑に落ちないようで、眉間には深いシワが刻まれっぱなしである。



「何だそれ。そんなのおかしいじゃん」


「お前はまだガキだから知らないだけだ。世の中の男女がみんな純粋な恋愛してると思ったら大間違いだぞ」


「じゃあ兄ちゃんは、純粋に誰かを好きになったことないのかよ」



 むっとしたままリモネが問いかける。するとトキは乾いた笑みを漏らし、冷ややかに言い放った。



「──あるわけないだろ。人を好きになって何になる? どうせいずれは感情が薄れて裏切られるんだ。恋だの愛だの、のめり込むだけ無駄なんだよ」


「……!!」



 吐き捨てられた言葉にリモネは目を見開く。暫し言葉が出ず、足を止めて彼は呆然とトキの背中を見つめた。


 ──いずれ裏切られる? のめり込むだけ無駄?



(……じゃあ、俺の恋は?)



 たった今放たれた言葉の棘が、リモネの心を締め付ける。彼は俯き、野花の咲き誇る地面をじっと見つめた。


 ──脳裏に浮かんだのは、あの日の彼女の笑顔。



(無駄、なのか……?)



 自分に問いかけるリモネの頭の中に、思いを寄せる彼女の気だるげな声が響く──。



『──おーいガキんちょ、なーに泣いてんの』



 酒場の裏で膝を抱えていたリモネの前に現れたそいつは、しゃくりあげるリモネの前にそっとしゃがみ込んだ。ぼろぼろとこぼれる涙のせいでぼやけた視界に、ぼんやりとその姿が映る。



『……だれ?』


『あたし? ここの酒場で働いてんの』


『……なに持ってんの? それ……』


『ん? メシ』



 焼きたてらしきパンを指でちぎり、もごもごと口に含んだまま彼女は答えた。下品なやつだな、と正直最初は思った。ようやくぼやけていた視界が晴れ、はっきりとその顔を見た時も、だるそうにパンを食べ進めるだけのその女に嫌悪感しか抱かなかった。



『あんたも食う? うまいよ、うちのパン』


『……いいよ、いらないよ』


『まあまあそう言うなって。怖ーいババアが愛情込めて焼いてくれたパンだからさ~』


『だからいらないって……!』



 断っても断っても、女はしつこくパンを勧めて来た。終いには無理矢理顔面に押し付けられる始末で、ようやく観念したリモネは渋々、まだホカホカと温かいそれを口に運んだのだ。


 舌の上に広がったのは、いたって普通のパンの味。


 良家で育ったリモネにとって、街の酒場で焼かれたパンの味など正直そこまで良いと思えるものでもない。何と答えるべきか迷いながら顔を上げ、女に視線を向ける。すると背後の西陽に照らされ、光をまとった彼女の姿が、やけに眩しく見えて。



『ね、うまいっしょ?』



 に、と微笑むその笑顔が、少年の胸を大きく高鳴らせた。



『…………、うん』


『お、案外素直な奴だな』



 無意識にこぼれたのは肯定の言葉で、くくく、と小さく彼女が笑う。なんだか妙に恥ずかしくなって、リモネはつい顔を逸らして下を向いた。しかしその瞬間、『シェリー!!』と怒号が鳴り響き、彼女はびくーっ! と震え上がる。



『げっ、やっば! 店長ババアにパン盗み食いしたのバレた!』


『……え? え?』


『じゃあねガキんちょ! あたし戻るわ!』



 慌ただしく立ち上がり、彼女は怒鳴り声の響く店内へと駆け込んで行った。ぽつんと取り残されたリモネの手には、先ほど彼女が渡してそのまま置いて行った食べかけのパン。



『……なんだよ、あいつ』



 ぽつり、リモネは呟く。変な女だった。変な女だったはずなのに、なぜだか胸の奥に太陽が落っこちてきたみたいな、じんわりと温かい光を感じて。


 きっとあの時、彼は彼女に──シェリーに、恋をしたのだ。


 そんな気持ちも、思い出も、全部無駄なものだって言うのだろうか?


 いや。




「──それは、違うだろ。兄ちゃん」



 はっきりと、リモネは前を歩く背中に言い放つ。するとトキは足を止め、訝しげに眉を顰めて振り返った。



「無駄じゃない。例え裏切られても」


「……は?」


「別に俺は、この気持ちが届かなくてもいいんだ。だから、いつか裏切られてもいい」


「……お前、何言ってるんだ? いくら恋い焦がれたところで、最後に自分のものにならないんだったら無駄だろ」


「違う、伝わればいいんだ。ずっと好きだったんだよって、相手の心に残ってくれれば俺はそれでいい。だってどうせ、もう叶わないんだし」



 リモネは切なげに目を細め、ポケットに手を突っ込む。そこから取り出したものを手のひらに乗せると、再び彼は言葉を続けた。



「伝説の指輪があれば、もしかしたら引き止められたかもしれない。でも、結局見つからなかった。だからきっと叶わない恋だけど……俺はこれでいいんだ」



 手のひらに乗せられた、不格好な花の指輪。時間が経って花もしおれかけたそれは、随分と拙い仕上がりだった。


 しかし彼の表情はどこかすっきりとしたような、十二歳という年齢に似つかわしくない、やけに大人びたそれで。トキは居心地悪そうに視線を逸らすと、再び前を向いて歩き始める。



「……へえ。ガキのくせに大層ご立派な考え方だな。負け戦にも物怖じしねえって? はっ、笑わせるな。まあ、せいぜい泣きべそ見られて恥かかねーように、今のうちから涙を止める練習でも──」


「──兄ちゃんは、」



 いつもの調子で揶揄をこぼそうとしたトキに、リモネは言葉を被せた。トキの足は再び止まり、振り向くことなく黙ってその続きを待つ。



「……兄ちゃんは、逃げてるだけじゃないのか?」



 そして放たれた言葉に、トキはぴくりと小さく反応した。



「人を好きになるだけ無駄だって、信じたって裏切られるって、自分に言い聞かせて……自分の気持ちに向き合ってないだけなんじゃないのか」



 ゆっくり、はっきりとリモネは言葉を紡いで行く。トキは黙って俯くばかりで、ストールに隠れたその表情を窺い知ることは出来ない。



「セシリア姉ちゃんが、言ってたんだ。兄ちゃんは本当は優しいって。嬉しそうに笑って言ってたんだ」


「……」


「姉ちゃんは、あんたを信用してる。信じようとしてる。でも兄ちゃんは、ずっと姉ちゃんの気持ちから逃げてばっかりだ」


「……」


「姉ちゃんきっと、兄ちゃんと仲直りしたいって思ってるよ」



 リモネはそっとトキに近付き、自分よりも大きなその背中を見上げる。──けれど何故だろうか。その大きな背中が、何かにずっと怯えているように見えてしまって。



「──兄ちゃんは、人に裏切られるのが、怖いのか?」



 ぽつり。静かに放たれたその問いに、トキは何も言わず即座に振り返った。そのままリモネに詰め寄り、その小さな両肩が彼の両手にガシッ! と掴まれる。



「……ッ!?」



 リモネは思わず目を見開いて後ずさった。殴られるのでは、と嫌な想像が脳裏を過ぎったその瞬間、ひたいに当てがわれたのは彼の左指で。暗い光を浮かべた紫色の両目と、一瞬視線が交わって。



(……えっ──)



 ──バチィン!!



「いってええ!!?」



 刹那、リモネの額を打ち抜いていたのは凄まじい勢いで放たれたデコピンだった。彼はすぐさま額を押さえ、その場にしゃがみ込む。



「なっ……にすんだお前ええ!!」


「ざまーみろ。生意気な口ばっか叩くからそうなる」



 飄々と吐き捨て、嘲笑をこぼしてトキは再び身を翻した。そのまま何事もなかったかのように歩き出したその背中を、リモネは恨めしそうに睨みつける。



(……くっそぉ……!)



 唇を噛み締め、彼は立ち上がってトキを追いかける。──けれどもう、先ほどの言葉の続きを掘り返そうなどとは思えなかった。リモネは見てしまったからだ。

 さっき、額を指で弾かれる直前。


 辛そうに表情を歪ませて、もうやめろと訴えかけるような、彼の瞳を。



(……なんだよ、さっきの顔……)



 リモネはきゅっと唇を結び、モヤつく感情に気が付かないフリをして、目の前の臆病な背中を追いかけて行った。




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