第17話 酒のせい(※2019/09/20内容修正)


 1




 泥酔して力無く肩に寄りかかっているトキを支え、セシリアはロゼから教えて貰った道を辿って何とか宿屋まで帰って来た。ふらふらと宿の扉を開けて中に入るとカウンターに腰掛けていた女性が「手伝いましょうか?」と声を掛けてきたが、トキが小さく首を振って拒否したのを察してセシリアはやんわりと断る。

 覚束ない足取りで階段を上がるトキに心底肝を冷やした彼女だったが、危なげながらも時間を掛けて階段を上り終え、ようやくセシリアは安堵の溜息をこぼした。ここまで来れば、あとは彼の部屋に放り込むだけだ。



「トキさん、大丈夫ですか? あともう少しですから、頑張ってくださいね」


「……あぁ」



 掠れた声が力無く答える。そんなに飲んでいたのだろうか、と常に冷静な彼の思わぬ酔いどれっぷりにセシリアは眉を八の字に下げた。

 重たく寄りかかるその体を引きずり、程なくして彼の部屋の前へと辿り着く。トキのポケットの中から鍵を引っ張り出し、扉を開けた頃にはセシリアの体力も限界に迫っていた。



「と、トキさん、着きましたよ……っ」



 息を上げ、扉の鍵を閉めることも出来ないまま部屋の中へと入る。力が抜けて重みを増したトキの体をなんとかベッドに座らせると、彼は背中を丸めて項垂れてしまった。

 何も言わず俯いてしまった彼の顔を、息を整えながらセシリアは心配そうに覗き込む。



「……あの、大丈夫ですか? お水いります?」


「……」



 トキは何も答えない。ストールに顔を埋めてひたすら俯き、その表情さえも確認できず、セシリアの心配が募っていく。このままでは自分の部屋へ戻ろうにも戻れないではないか。



「トキさん──」



 彼女がまたも不安げに口を開いた、その時だった。


 突如伸びてきたトキの左手がセシリアの腕を捕まえ、ぐっとその体を引き寄せる。セシリアは当然前方に大きく傾き、そのままトキの腕の中に倒れ込んでしまった。

 次いで視界が反転したかと思えば、いつの間にか彼女の四肢はベッドの上に張り付けられていて。



「……え、えっ……?」



 困惑したように視線を泳がせ、目の前の彼を見上げる。トキは楽しげに喉を鳴らし、弧を描いた唇からは随分と鮮明な声が放たれた。



「……あーあ、やっぱ軽率だな聖女様。まんまと男の部屋にお持ち帰り」



 アメジストの瞳がゆっくりと持ち上がる。酔いどれて俯いていた彼はどこへ行ったのか、先ほどまでとは打って変わったその様子にセシリアは戸惑うしかない。



「え……? と、トキさん……? 酔っていたんじゃ……」


「あの程度で酔うわけないだろ。適当に口実作って連れて帰らせただけだ」


「えええ!?」



 セシリアは驚愕に目を見開く。という事はつまり、彼は酔ったフリをしていたという事だろうか。

 何でそんなまどろっこしい事を……と困惑する彼女だったが、不意に持ち上げられた視線が怒りの色を滲ませているように感じて、セシリアは口を閉じた。



「……なあ、アンタいい加減、その無防備なところ何とかならないのか?」



 怒気を孕んだ低い声が耳に届く。やはり彼は何かに怒っているのだと即座に察して、セシリアは震える声を返した。



「……ご、ごめんなさい……私、また何かしてしまいましたか……?」


「やっぱり気付いてなかったのか。全く幸せな頭だな」



 嘲笑をこぼし、一目見ればすぐに体のラインが分かってしまうそのワンピースの上から腹に指を滑らせる。突然触れられて驚いたのか、びくっと体を震わせてセシリアの瞳が揺れた。



「こんな薄いワンピース一枚で夜の街を彷徨うろついた挙句、雨に濡れて下着まで透かした状態で酒場の中に入るなんざ、酔っ払いを誘惑しに行くようなもんだろ。わざとやってるのか?」


「……えっ、透けっ……!?」



 やはり気付いていなかったらしい。下着が透けていた、という事実に目を見開き、セシリアは顔を真っ赤に染める。



「ご、ごめんなさい……そんなことになってたなんて、知らなくて……! あの時も、急に雨が強くなったので雨宿りしようと、たまたま酒場に入ってしまって……!」



 わたわたと弁解するセシリアに今度こそ深い溜息がこぼれてしまう。この調子だといつか悪い男に付け入られるに違いない。そう考えると無性に腹が立って、その苛立ちが彼の言葉の棘を鋭く尖らせた。



「……そういうところが無防備だって言ってるんだ。馬鹿な行動は控えろ。おつむの弱いアンタのことだ、そのうちどうしようもない男に捕まって襲われるのは目に見えてる。泣いたって知らねーぞ」



 トキが低い声を絞り出す。すると彼女はきょとんと瞳を瞬き、睨み付けて来るその目を見上げた。



「……それが原因で、怒ってるんですか?」


「……、……は……?」



 不意に放たれた彼女の言葉に、トキの思考が一瞬止まる。翡翠の透き通った瞳が真っ直ぐと彼を見つめ、彼女の薄い唇は再び開いた。



「……私の無防備なところを心配して、怒ってくれてるって事……ですよね?」


「……!」



 がつんと、頭を鈍器で殴られたような感覚がトキを襲う。──そう言われてみれば自分は何に対してこんなにも腹を立てているのだろうと、彼はらしくもなく目を泳がせた。


 けれど彼女が酒場に入って来たあの時、無防備に透けた彼女の体が、周りの男の下卑た視線の前に晒されている事に言い様のない嫌悪感を覚えたのは事実で。


 しかしそれをすんなりと認められるほど、彼は大人ではなかった。



「……違、う」



 情けなく声が掠れて、目の前の彼女の表情が穏やかに緩む。──ああやめろ、そんな顔で見るな。向けられた優しい視線から逃げるように、トキはそっと目を逸らした。



「……ふふ。何だ、心配してくれていたんですね」


「……違うって言ってるだろ。勘違いするな」


「トキさん、演技はお上手でしたけど、嘘をつくのは少し苦手でしょう?」


「おい、調子に乗るなよ聖女様。アンタがあのまま酔っ払いに絡まれて身包み剥がされて乱暴されようが、俺には関係ない」


「ええ? でも──」


「うるさい、もう黙れ」



 楽しそうに紡がれるその言葉を遮って、トキは強引にセシリアの唇を塞いだ。唐突に口付けたせいか彼女は全身を強張らせて身をよじるが、その抵抗も無視して深く唇を貪って行く。



「ん、……っ!? トキ、さ……!」


「……は……っ」



 荒々しく舌を絡め、言葉すら発せないように唇を啄んだ。薄く開いた潤んだ瞳と視線が交わり、ぞくりと背筋が情欲で波立つ。



「……ん、ぅ……」


「……」



 ちゅ、ちゅ、とわざとらしく音を立てれば、セシリアは頬を真っ赤に染めて恥ずかしそうに目を閉じた。その表情の一つ一つに、トキは己の内側に宿る何かがぞくぞくと波立つのを感じて眉を顰める。


 溶けるように熱い太陽の光が、じりじりと心臓に焦げ付くような。



(……何だ、これは)



 知らない、感覚。いや感情と言った方が正しいのだろうか。

 普段の“クスリ”のやり取りであれば、もうこのぐらいでいいかと冷静に唇を離し、さっさと彼女を部屋に戻して寝てしまえる頃合だ。その予定だ。そうする、はずだった。


 しかしどうした事か、口付けて貪った彼女の唇からなかなか離れることが出来ない。絡まる舌の動きが、上がる熱が一向に止まらない。



「……っはあ、」



 もっと、もう少し、あと少しだけ、と回らない頭の中で繰り返し、無我夢中で彼女の唇を啄んで。

 気が付けば随分と長い間、お互いの熱を舌で味わっていた。



「……っ、は、あ……っ」


「……は……、」


「……トキ、さ……、も、むり、です……っ」



 限界を訴えて薄い唇が声を紡ぐ。もうやめろ、これ以上はダメだと脳裏で警笛が鳴り響くが、それすらも耳に届かないほどに熱が頭を支配していた。

 トキは首元のストールを抜き取り、ベッドの向こうへと放り投げる。そのまま彼女の開いた胸元へ唇を移し、白い肌に舌を伸ばした。



「……や、トキさん……っ!?」



 つつ、と胸元をトキの舌が這い、セシリアは体を震わせた。鎖骨に唇を寄せ、吸い付いて歯を立てる。微かな痛みを感じ、彼女は固く目を閉じた。



「ん、や……っなに、トキさん……っ」


「……は、」


「きゃっ……!」



 弱い耳元に唇を寄せられ、セシリアは小さく震えて身をよじる。熱い吐息が耳を掠めて、「なあ……」と熱を孕んだ声が鼓膜を揺らした。



「このまま……」


「……っ」


「……、このまま……」



 熱い吐息が、掠れた声が。耳に掛かって、けれどその言葉の続きはいつまでも紡がれる気配はない。

 トキはぼうっと目の前の白い肌を見つめた。石鹸の匂いが鼻をくすぐり、理性が甘く食い潰されて行くようだ。



(……何だ。どうしたんだ、俺は)



 ──このまま──何だ? さっき俺は何を言おうとした?


 上手く回らない頭を動かすが、明確な答えには結び付かない。とにかく目の前の白い肌が酷く甘美な誘惑を放って、今にも食いちぎってしまいそうな衝動を抑え込むので精一杯だ。



「……っ、トキさん……」


「……」



 不安げに揺れる翡翠の瞳は、真っ直ぐとこちらを見つめている。その涙の張った潤んだ目が、紅潮した頬が、熱を帯びた吐息を繰り返す唇が。残り僅かだった理性の糸を引き千切るのはあまりにも容易くて。



 ──ああ、もうダメだ。



「……えっ? あ、ちょ、トキさん……!」


「……」



 するりとワンピースの中に入り込んだ手が、滑らかな腹の上を撫でる。そのまま上へと向かう彼の手を華奢な両腕が制するが、それを振り切って手早く下着をずらした。



「やあ……っ、だめ……!」


「……うるさい」


「あ……っ」



 低く呟いて彼女の耳に舌を這わす。その瞬間両腕の力が緩まり、その隙に胸を鷲掴めばセシリアの体はびくっと跳ねた。



「いや、ぁ……っ、トキさんやめて……っどうしちゃったんですか……!」


「黙れよ」


「……っ、んん!」



 再び唇を塞がれ、セシリアは強く目を閉じる。舌を割入れられ、熱いそれが絡まり、口の端からだらしなく唾液がこぼれた。吐息に混ざる酒の香りと舌に残った苦い大人の味が、くらくらと脳に毒を注ぐようだ。

 溶けてしまいそうなほど激しい口付けの合間にもトキの手は胸を揉みしだいていて、セシリアの肌が波を立てる。



(……どうしよう、私、このままじゃトキさんと──)



 この行為の先に待ち受けているであろう事の顛末を想像してしまい、セシリアは下腹部の奥が痺れる感覚を感じた。しかし恋人同士でも無い自分達が、ましてや神に仕える身である自分が軽率にそれを許すわけにはいかない。


 けれどトキに与えられる刺激によって無理矢理掻き立てられた情欲は、セシリアの抵抗意欲を削ぎ落とすばかりで。



(どうしよう、私、私……っ)



 ──もっと触って欲しいと、感じてしまっている。



「……っあ!」



 一際高い声を発し、彼女の体がびくんと跳ね上がる。咄嗟に口元を覆うが、その反応をトキが見過ごすはずもない。



「……何? 今のがお気に召したのか、聖女様」


「……っ」



 セシリアの反応に気を良くしたのか、トキは再び同じように手を動かす。弱い電流が流されているかのような感覚に思わず腰を浮かせれば、獣のような目をした彼が楽しそうに舌舐めずりをした。



「耳も舐めてやろうか? 好きだろ、聖女様」


「……ん、んっ……ぅ!」


「くく、満更でもないような顔するなよ」



 完全にタガの外れた彼はセシリアの弱いところばかりを攻め立て、真っ赤な顔で快感に耐えるセシリアを満足げに見下ろした。

 呼吸を荒らげ、もはや抵抗すら出来ない彼女のとろんとした表情が、ぞくぞくとトキの情欲を掻き立てて。


 ああもう、これは最後まで止まる気にもなれない。


 そう考えた。もう無理だ。

 彼はとうとうブレーキの効かない本能に身を任せ、白い首筋にも歯を立ててしまおうと彼女のを隠していたチョーカーに手を掛けた。──その瞬間、彼女の背筋にゾッと冷たいものが広がる。



「……っ!!」



 翡翠の瞳は大きく見開かれ、登り切っていた熱が一瞬でその温度を失う。手を掛けられた首元。その場所を見られてしまうと悟った途端、凍える様な恐怖が彼女を襲った。


 そして彼女はほとんど反射的に、覆いかぶさる彼の体を突き飛ばす。



「──やめてッ!!!」



 悲鳴のような声がトキの耳を貫き、彼はハッと目を見開いた。カタカタと小さく震える両腕でトキの体を押し返した彼女の瞳は、恐怖の色を強く映し出していて──昂っていた彼の熱は急速に冷え、その温度を失って行く。


 彼女の瞳が真っ直ぐと訴え掛けていたのは、完全なる“拒絶”だった。



「……あ……」



 動きを止めて硬直したトキの下で、ふと我に返ったらしいセシリアが戸惑いがちに口を開く。その瞳はもう恐怖の色が抜け落ちていたが、彼は苦虫を噛んだような表情で彼女の上から退しりぞいた。



「……あ……っ、ち、違うんです! トキさん! 今のは──」


「──もういい、終いだ」



 慌てて弁明しようとするセシリアを突き放すように吐き捨て、トキは華奢なその腕を引いてベッドから強引に引っ張り起こす。そのまま何も言わずに扉の奥へ押し出そうとするが、彼女はそれを拒むように彼の腕に縋り付いた。



「……違う、違うんです! 私、あの……っ」


「……何も違わないだろ。アンタの行動は正しい。酔って襲い掛かってきたロクでもない男を拒絶して身を守った。それだけだ」


「……っ私は……!」



 まだ何かを訴えようとする彼女の声すらも聞きたくなくて、トキはぐっと強くその肩を押し返す。短い悲鳴と共に部屋の外へ追い出された彼女は泣き出しそうに表情を歪めた。それを見下ろしながら、トキは冷たく言い放つ。



「……今日のは酒のせいだ。忘れろ」



 吐き捨て、何かを言われる前に扉を閉めた。すぐさま鍵を掛けて施錠し、静かになった部屋の中で、ごつ、と彼は扉に額を預ける。

 じんわりと冷たいそれを感じながら、彼は奥歯を軋ませた。


 ──先ほどの、恐怖に慄いた彼女の瞳が。はっきりと拒絶の意を示していた表情が。脳裏にこびり付いて、離れてくれない。

 それを思い出す度、トキの胸は押し潰されるように痛んだ。


 何だこれは。

 こんな感情は、知らない。



「……酒の、せいだ……」



 呟き、目を閉じる。言いようのない感情の答えは見つからないまま、彼は暫く、その場から一歩も動く事が出来なかった。




 2




 チク、タク、チク、タク。


 時計の針が秒針を刻む音だけが耳にまとわりつく。時刻は深夜三時。アリアドニアの街もようやく喧騒を失い、静まり返る頃合だ。

 自室の椅子に腰掛け、青年は一人、分厚い小説の文字を黙って目で追い掛けていた。しかし内容など一切頭に入って来ず、彼は神妙な面持ちで再び同じ文字を追う。



 ──コンコン、



 ふと扉が控えめに叩かれ、青年はぴくりと反応して素早く小説を閉じた。そのままゆっくりと扉に近付き、鍵も掛かっていないその扉を静かに開く。



「……」


「……よ、根暗坊主」



 扉の前に居たのは、小声で悪態をつく幼馴染。その手には酒瓶とグラスが握られ、何も言わない彼を無視して部屋の中へと入って来た。



「……」



 青年──ロゼは静かに扉を閉め、カチリと鍵を施錠する。一方部屋に入り込んだ幼馴染──シェリーは、先ほどまでロゼが腰掛けていた椅子に座り、机の上に酒とグラスを並べていた。



「……いい酒貰ったからさ。たまにはロゼと一緒に晩酌でもしようと思って」


「……」


「はい、これ」



 シェリーはテキパキと酒のコルクを抜き、手渡したグラスの中に透明な液体を流し込んでいく。なみなみと注がれたグラスの向こうで、シェリーはふっと微笑んだ。



「つまみは選ぶの面倒で持って来なかった。でもま、酒だけでいいよね」


「……シェリー」


「あ、でもロゼは腹ぺこかな。あたしはさっきバケット盗み食いしちゃったから平気だけど。まあ大丈夫大丈夫、二日酔いでもどうせ朝だけ、」


「なあ、シェリー」



 コトン、と酒の入ったグラスを机に置き、ロゼは彼女の言葉を遮って呼び掛ける。シェリーは目を合わせる事無く、なあに、と小さく返した。



「これ、かなり度数高い酒だろ。……お前、どういうつもりだ?」


「……あれえ、そう? でもごめん、チェイサーも面倒で持ってきてないや」


「……シェリー」



 ロゼはそっと彼女に近付き、その横に腰を下ろす。



「……お前、俺が酒弱いこと知ってるだろ。俺と晩酌したいんだったら、こんな度数の高い酒持ってくるのに水も氷も持って来ないなんておかしい。……何考えてる?」


「……」


「……なあ、こっち向けよ」



 俯く彼女の長い髪を、ロゼの白い指がさらりと掻き分ける。シェリーはその手に自分の手をそっと重ね、やはり顔は俯かせたまま語り掛けた。



「……ロゼとは、孤児院に居た頃からずっと一緒だったじゃん? 二人で店長に引き取られた時も、それからも」


「……うん」



 添えられた彼女の手をロゼはきゅっと握り締めた。細くて白いその手のひらは、もうすぐ遠くに離れてしまう。



「喧嘩ばっかりしたよね。根暗坊主って呼んだら、あんたがガサツ女って呼んで、殴り合いになって、最後には店長ババアに怒られるの」


「……」


「大人になっても相変わらず。テキトーなあたしは怒られてばっかで、愛想振り撒くのが苦手なあんたも接客ナメてんのかって怒られてさ。そんでお互いすぐ喧嘩になるし、ほんと、よく飽きないよね」


「……」


「このままずっと、死ぬまでそんな生活が続くんだろうなって、勝手にそう思ってたんだけどな」



 乾いた笑いを漏らし、シェリーはこてん、とロゼの肩に凭れ掛かった。彼は黙ってそれを受け入れ、強く奥歯を噛み締める。



「……ねえロゼ、あの酒飲んでよ」


「……やだよ、何で」


「……お願い」



 弱々しい声で懇願する彼女に、ロゼは視線を落とした。切なげに表情を歪めるシェリーは、今にも泣き出しそうな顔でロゼを見上げる。



「……お願い、ロゼ。あたし、もう結婚しちゃうんだよ。結婚なんかしたくないのに、でも、もう引き返せないから……」


「……っ」


「……だから、その前に……」



 震える声が、吐息が、ロゼの首筋に掛かって。彼は何も言わず、ただじっとその場で俯いた。



だけ、欲しいの……」



 ぽろりと涙が滑り落ちて、シェリーはロゼの肩口に顔を埋める。──“思い出”とは、暗に“体を重ねる”ことを意味しているのだと、彼はすぐに理解してしまった。


 そしてもう一度、彼女は小さな声で「お願い、」と繰り返す。



「──全部、あの酒のせいにして、いいから……」



 目の前のテーブルに置かれた、透明な液体が視界に映る。チク、タク、と時を刻む秒針の音と微かな嗚咽の声だけがやけに耳にまとわりついて、ロゼは拳を握り込んだ。


 暫く何も答えずに黙っていた彼だったが、やがて震える彼女の手のひらに手を添え、重々しい口を開く。



「──嫌だ」


「……!」



 低く放たれた答えに、シェリーは体をびくっと震わせた。やがて唇を噛み、彼の肩口に押し付けられた表情が歪む。


 ──やっぱり、だめか。


 何となく分かりきっていた答えに、彼女の唇からは乾いた笑みが漏れた。そっか、と力無く呟き、彼から離れようと腕に力を込める。


 しかしその直後、強い力で彼女の体は引っ張られた。



「!?」



 ドン! と乱暴に体を放り投げられ、背中に強い衝撃が走る。何事かと目を見開いた時には、目の前に見慣れた幼馴染の顔があった。



「……へ……?」



 きょと、とシェリーの目が見開かれる。ややあって、彼にベッドの上に押し倒されているのだと理解した。

 ロゼは辛そうに表情を歪め、掠れた声を絞り出す。



「……俺は、嫌だ……」


「……」


「……俺は……」



 こつ、と降りてきた額同士が軽く触れ合って。細い指に絡まった手に力が篭る。



「お前との思い出を、酒のせいになんか……したくない……」


「……!」


「……だから、」



 ロゼはシェリーの目を真っ直ぐと見つめ、強い決意を秘めた声でハッキリと言い放った。



「俺にも、シェリーとの思い出を、全部くれよ」



 耳の奥にじんわりと、その言葉が染み込んで行く。やがてシェリーは表情を綻ばせ、細めた瞳からは一粒の涙が滑り落ちた。



「……うん。いいよ」



 頷き、目を閉じる。


 そっと降りてきた唇の感触を胸に刻み込むように、二人は深く口付け、長く切ない夜が幕を開けたのだった。




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