第13話 夜の山
1
洞窟を出た二人は泥濘む地面に足を取られながらも再び次の街を目指して歩き始めた。
最初こそトキの体調を心配していたセシリアだったが、いつもと変わらない彼の様子に「気のせいだったのかな?」と小首を傾げ、深く踏み込むことは諦めて彼のあとを付いていく。
「……そろそろ次の街に着くはずだがな」
ぼそりとトキがこぼした言葉にセシリアは顔を上げた。先導する彼はこれまでの道中迷いなく道を選び、旅慣れないセシリアを導いてくれていたのだが、その地理感覚は一体どこで
「あの、トキさん」
呼びかけると、彼は足を止めることなく振り返った。雨上がりの山道はとにかく滑る。セシリアはひっくり返らないよう慎重に彼を追い、言葉を続けた。
「何で次の街が近いって分かるんですか? 地図も持ってないのに……」
「地図なんてなくても、街が近いことぐらいは分かるだろ」
片眉を下げ、さも当然だと言わんばかりに彼は答える。それでもなお理解していない彼女に肩を竦め、トキは前方を指差した。
彼の指し示す方角に落ちていたのは、壊れた農具の残骸。随分と古いものなのか、雨風に打たれて錆び付いてしまっている。更にその先には人の手で切られたと思わしき真新しい切り株や、切り倒されたであろう木の残骸が複数あった。
「ああいう人工物とか、人の手が加えられた形跡が多くなってる。つまり周辺に人が住んでいるということだ」
「ああ、なるほど……!」
「これを辿れば人里に着く。勉強になって良かったな、聖女様」
嫌味ったらしい言い方で淡々とこぼし、彼は再び前を向く。なんだか馬鹿にされてるような、と口元をへの字に曲げるセシリアだが、地理感覚の乏しい彼女は大人しく彼に付いていく他に道はない。釈然としないまま、セシリアは再び歩き始めた。
ふと、トキの耳が妙な声を拾い上げたのもその時で。
「……待て」
「えっ?」
突然足を止め、警戒を強めるトキにセシリアは身を強張らせる。魔物だろうか、と不安げに彼に視線を向けると、トキは耳を澄まし、ゆっくりとどこかへ向かって歩いて行ってしまった。
(……え!? ど、どうしよう……ここで待ってた方がいいの……?)
びくびくと周辺を警戒しながら、セシリアは両手を握り合わせる。もしこのままここに残ったとして、一人で魔物と鉢合わせてしまったら……と最悪の想定が脳裏に過ぎって、彼女はぶんぶんと首を振った。
(いえ、付いていった方が絶対いい!絶対そう!)
嫌な想像を振り払い、セシリアは小走りでトキを追い掛ける。すると彼はまだ案外近くにいたようで、岩陰に身を潜めて何かを窺っていた。
彼女は忍び足で彼の背後に近付き、その背中からそっと顔を覗かせる。
「……何か、居たんですか?」
こそ、とトキに耳打ちすれば、彼は人差し指を口元に当て「しー」と小声を返した。静かにしろ、という事らしく、セシリアは大人しく口を閉じる。
するとようやく、彼の聴いていたであろう声が彼女の耳にも届いた。
──……ぐす、……ぐすっ……。
「……泣き声?」
セシリアが呟けば、トキは武器を持って立ち上がる。彼の視線は前方を捉えたまま、ぼそりと彼女に口を開いた。
「子どもの声らしいが、魔物の罠の可能性もある。こういう子どもの泣き声なんかを真似て人を誘き寄せ、のこのこ付いてったバカを餌にするタイプの魔物もいるんだ。まあこの辺りは山の中で暗いし、住み着いているとしたら
「
トキは一通り説明を終えるとセシリアに自分の荷物を投げた。セシリアは顔面蒼白のまま慌ただしくそれを受け止め、顔を上げる。
「……アンタはここで待ってろ。俺が様子を見てくる」
「……は、はい」
「俺がいない間にもし他人に話し掛けられたら、迷わず大声を出して逃げろ。
「ひえ……!」
末恐ろしい忠告をするトキにあからさまに怯むセシリアだが、そんな彼女を置いて彼は泣き声のする方へさっさと歩いて行ってしまった。一人で置いて行かないで! と叫びたかったが、そうするわけにも行かない。うざったそうに舌打ちする彼の顔が脳裏に浮かんで、セシリアは大人しくその場に身を潜めた。
ただでさえ薄暗い場所やホラーの類が苦手だというのに、と先程の忠告を思い出しては鳥肌が立ってしまう。
(わ、私、あんまりアンデッド系の魔物って得意じゃないのに……!)
まだそうだと確定したわけではないのだが、ああ言われてしまってはいくら危機感の薄いセシリアでも周囲を警戒するもので。必要以上に周囲を見渡し、預かった荷物をぎゅうっと握り締めた。
その時。
「──うわあああっ!!?」
「!?」
突如響いた悲鳴に、びくうっ! とセシリアの肩が跳ね上がる。忙しなく動き出した胸を押さえ、青い顔で恐る恐るとトキの進んで行った方向を覗き込んだ。
──するとそこには、十歳前後だと思わしき少年の首根っこを摘み上げたトキの姿があり、捕まえられた少年はトキの手から逃れようと大暴れしている。
「いってええ! 離せよォ! 何だよお前!?」
「ちょちょちょちょっとトキさん!? 何してるんですか!?」
心底うざったそうな表情で少年を見下ろすトキに慌てて駆け寄る。すると彼は暴れる少年を乱雑に投げ、「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて小さな体が地面に落ちた。その行動にセシリアはギョッとする。
「ちょ、ちょっと! 子どもに……! 一体何があったんですか!?」
「……そいつが岩の隙間に引っかかってめそめそ情けなく泣いてたから好意で引っ張り出してやったんだよ。そしたら人の顔見るなりうるさく喚きやがって。ムカついて一発拳骨落としたら暴れた。それだけだ」
「ええ!? 子ども相手に何やってるんですか! 小さい子に乱暴したらダメでしょう!! ボク、大丈夫!?」
何の悪びれもなく言い放つトキを叱咤し、セシリアは地面に蹲っている少年を抱き起こした。彼は瞳一杯に涙を溜め、ぐずぐずと鼻を鳴らして震えている。
セシリアは即座にトキを睨んだ。
「もう! 怖がってるじゃないですか! 子どもには優しくしてあげて下さい!」
「はあ? 何で俺が見ず知らずのガキに優しくしないといけないんだ」
「見ず知らずでも子どもには優しく接してあげるべきなんです! 大人気ないですよ!」
珍しくセシリアが声を荒らげる。しかしトキは知ったことかとそっぽを向いてしまった。むうう、と眉間を寄せる彼女だったが、お説教よりもまずは少年へのフォローが大事だと気持ちを切り替える。
うっうっ、と未だにしゃくり上げる少年へセシリアは柔らかい笑顔を向け、その頭を優しく撫でた。
「ごめんね、怖かったね。大丈夫? 痛いところない?」
「……」
ぐす、ぐす、と鼻をすすり、大粒の涙を落としながら少年は怯えるように彼女を見上げた。しかし向けられたその微笑みが母親を彷彿とさせるような慈愛に満ちた優しさを含んでいて、怯えきっていた少年の心がやんわりと落ち着きを取り戻す。
「……だい、じょう、ぶ」
小さな声を絞り出せば、透き通った翡翠の瞳がにこりと細められた。
「そっか、強いね。立てる?」
「うん……」
少年は伸ばされたセシリアの手を取って立ち上がる。彼の体に付いていた葉っぱや泥を丁寧に払い落とし、彼女は「よかった、怪我は無いみたいね」と安堵した。
「……姉ちゃん、旅人?」
少年は目尻をごしごしと拭いながら問いかける。セシリアは「そうよ」と答えて微笑んだ。
「私はセシリア。色々あって旅をしてるの。ボクはこの近くの街に住んでる子?」
「……俺は、リモネ……すぐそこの街に住んでる」
リモネと名乗った少年は前方を指差し、鼻をすすり上げる。ようやく泣き止んだ彼の頭を優しく撫でていると、不意にトキが止めていた足を動かし始めたことでリモネの体がびくっと跳ね上がった。
そんな彼の反応を察して、セシリアは苦笑をこぼす。
「さっきは本当にごめんね。そんなに怯えなくても大丈夫よ。あの人ちょっと不器用というか、少し人見知りなだけだから……」
「あ、あの怖い兄ちゃんと一緒に旅してるのか!? アイツ相当やばいよ、騙されてるんじゃ……!」
「おいガキ、どういう意味だ」
じろ、と紫色の瞳がリモネを睨む。彼は飛び上がり、すぐさまセシリアの背後に隠れた。
リモネを背中に隠しつつ、セシリアはトキの威圧的な姿勢を咎める。
「トキさん! だめです! 怖い態度取らないで下さい!」
「……チッ」
子どもの盾となり、目付きを鋭くするセシリアにトキは眉を顰めた。──常に弱き者を守ろうとするなんざ、実に神官らしい行動で反吐が出るな。そんな皮肉がこぼれかけたが飲み込み、彼は不機嫌そうに歩いて行く。
トキが離れて行ったのを確認して、リモネは恐る恐ると彼女の背後から顔を出した。
「こっわ……! 何アイツ、やっぱめっちゃ怖いじゃん!
「……ふふ、大丈夫よ。ああ見えて本当は優しいから」
「はあ!? 本当かよ……」
信憑性のないセシリアの言葉にリモネは訝しげな視線を向ける。あんなのが優しいとか絶対ねーだろ、と淡々と歩くトキの背中を睨み、むうっと口元をへの字に曲げた。
そんな中、隣で手を引いて歩く対照的な彼女がリモネに尋ねる。
「ところで、リモネくんはどうしてこんな所に居たの? 迷子になった?」
優しく尋ねる声に、リモネはかっと頬を赤らめて目尻を釣り上げた。
「ま、迷子になんかなるわけないだろ! もう十二歳だぞ、俺は!」
「あ、そうなの? じゃあ自分の意思でここに来たのね?」
「え? あ、うん……まあ……」
煮え切らない返事にセシリアは首を傾げる。リモネはばつが悪そうに目線を逸らしたが、前方でハッ、と鼻で笑う声が耳に届いてすぐに顔を上げた。
「な、何だよ! なんか可笑しいのかよ、怖い兄ちゃん!」
「……いや? お前十二歳だったのかと思って。岩に足引っ掛けてピーピー泣いてるから、てっきりまだ乳離れ出来てないガキだと思ってたぜ」
「なんだとぉ!?」
トキの揶揄にリモネは憤慨する。横で「もう、またそんな事ばっかり言って!」とセシリアが彼を咎めるが聞き入れる気もないようで。
トキは気だるげに首を回し、セシリアの背後からこちらを睨んでいる焦げ茶色の瞳に視線を合わせた。
「そんなことよりガキ、お前街まで送ってやるから宿まで案内しろ。助けてやった礼にそれぐらいは出来るだろ」
「……えっ……!?」
「わあ、それは助かりますね! お願い出来る? リモネくん」
突然の要望にリモネは目線を泳がせる。しかし気に食わないトキの頼みならまだしも、心優しく接してくれるセシリアの期待を裏切るのは些か心が痛い。
──でも。
(……でも……俺は……!)
ぐ、とリモネは奥歯を噛み締める。並々ならぬ決意を持って山に入ったというのに、岩に足を挟んだだけで降りて来ただなんて。そんなの格好悪すぎて誰にも顔向け出来ない、と強く自分に言い聞かせた。
「……いやだ……」
「へ?」
「……嫌だ! 俺は街には帰らない!」
「……ええっ!?」
「……」
まさかの一言にセシリアは目を見開く。一方のトキは顔色一つ変えることなく、やはり淡々と進む足を止めることはなかった。
「な、何で? もうすぐ夜になるよ、お家に帰らないと」
「嫌だ、帰らねー! 俺はあの山に用事があるんだ!」
「よ、用事って……今日はもう駄目よ。雨で地面が泥濘んでるし、夜になったら真っ暗だもの。危ないでしょう?」
「……でも……!」
頑なに山に残ろうとするリモネの前にしゃがみ込み、セシリアはそっと彼の頬に手を添える。揺れる焦げ茶色の瞳に視線を合わせ、彼女は諭すようにハッキリと言い聞かせた。
「なんと言おうと、今日は駄目。大丈夫、明日はきっと晴れるわ。だから明日にしましょう? 今日は私たちと一緒に帰らないと」
「……っ」
ね? と微笑むセシリアに、リモネはぎゅっと唇を固く結ぶ。しかし、迷ったように視線を泳がせはするものの、彼が首を縦に振る気配はない。
そんなリモネに嘆息し、トキは足を止めて振り返った。
「放っとけ。どうせ家出でもして来たんだ、好きにさせたらいい」
「……でも……!」
「例えそいつが死んだってどうだっていいだろ? どうせ他人だ。俺たちには関係ない」
突き放すような冷たい物言いにセシリアは眉を下げる。そんな言い方しなくても、と彼女が小さくこぼした瞬間、「まあでも、」と更にトキは言葉を続けた。
「──お前も夜の山に入ってくんなら、それ相応の覚悟はしていけよ、ガキ」
「……!」
不意に語りかけられ、リモネはびくっと肩を揺らす。鋭いトキの視線が真っ直ぐとリモネを射抜いて、その仄暗い瞳から目が逸らせない。
「……夜の山の危険は、足元とか遭難だけじゃない。魔物も夜の方が活発に活動するんだ。分かってるのか?」
「……そ、それは……」
「特にこの山の夜は危険だ。出るからな」
「……!?」
無表情のまま放たれていくトキの言葉に、リモネはゾッと背筋を冷やした。──出る? 出るってまさか……、と彼の顔はみるみる青ざめて行く。
「……知ってるか? 夜になると、どこからともなくガサガサと物音が聞こえるんだ。不思議に思って見渡せど、肝心の姿はどこにもない。それでもまだ聞こえる。ガサ、ガサ、ってな」
「……、……っ!?」
「よくよく聞いてりゃ、そいつはどんどん近付いて来る。真っ暗な闇の中で、一人きりの時にだ。得体の知れない物音が、ガサ、ガサ、と傍に近寄って来て──とうとう、すぐ真後ろまで来やがる」
「……っ、あ、お、俺……っ」
「そして振り向くと、そいつがにたりと笑うんだ。どデカい出刃包丁を持って、その先から滴る真っ赤な血を舐め、今晩のおかずはお前だって言いながら、真っ白な生気のない顔を一気に近付けて──」
「──俺!! 宿屋まで案内してやるから!! そのクソつまんない話やめてさっさと付いてこいよ!!」
徐々に近付いて来るトキの手を勢い良く振り払い、顔面蒼白のリモネは街の方角へと走り始めた。半泣きになったその声が「早く来いって!!」と二人に向かって怒鳴る。──どうやら帰る気になったようで、トキは呆れがちに溜息をついた。
そんな彼の背後で、ふふ、とセシリアの笑い声が漏れる。
「……何だよ」
不服げにトキが振り返れば、そこには口元を押さえて目尻をやんわりと緩ませているセシリアの姿。彼女はゆっくりと歩き出し、すれ違いざまに小声でこそりと耳打ちする。
その表情は穏やかで、トキは心底居心地悪そうに視線を逸らした。
「今の話、わざとしたんでしょう? あの子を街に帰すために」
「……」
「やっぱり、トキさんは優しい人ですね」
くす、と微笑み、セシリアは先を歩いて行く。トキはバツが悪そうに首の後ろを掻きながら舌を打ち、「そんなわけないだろ……」と吐き捨てるようにこぼした。
ふと頭上を見上げれば、日もだいぶ落ちて空が薄暗くなっている。あと三十分もしないうちに真っ暗になるだろうな、と予測して彼も再び歩き出そうと一歩足を踏み出すが──その瞬間、体を射抜くような冷たい殺気が彼の背中に突き刺さった。
「──っ!?」
どこからとも無く感じた鋭い視線に目を見開き、その足の動きはぴたりと止まる。武器に手を掛け、いつでも引き抜けるよう構えながら、彼は表情を強張らせた。
「──……」
周囲に意識を集中させ、向けられた視線の気配を辿る。しかし先程感じた殺気にも似た鋭い視線は、一瞬でその気配を消してしまっていた。
背後を振り返り、濃くなった闇の奥を睨む。木々はざわざわと風に揺れ、一層不穏な空気感が漂って気味が悪い。
(……さっきの話も、あながちデタラメじゃないかもな)
いくつかある不審な気配に舌を打ち、トキは踵を返して歩き始める。
暗闇の中からギョロリと目を光らせる、得体の知れない複数の視線を背中に感じながら──。
.
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