第12話 泣き虫の魔法
1
ざあざあと降り続く横殴りの大雨は外の景色を真っ白に染め、時折大きな雷の音が洞窟内に響き渡る。そんな中、上半身裸の青年に押し倒された少女は冷たい地面に寝そべったまま、はだけた胸元を手で隠してぶんぶんと首を横に振った。
「や、やっぱりだめです……! こういうのは、その……も、もっとお互いをよく知ってからじゃないと! ふざけて、勢いでしていいことじゃないでしょう!?」
真っ赤な顔で叫ぶように吐き出した言葉。トキは表情を変えることなく黙ってそれを聞き、更に顔をぐっと近付ける。
「別にふざけてないぜ? 冷え切った体を温めるには裸で抱き合うのが一番だって言うしな」
「ひゃあ……っ!?」
冷え切ったトキの手が彼女の背中に入り込み、白い素肌をなぞる。その冷たさに身を震わせ、セシリアは身じろいだ。
「つ、冷たいです! 背中触らないでください!」
「じゃあ前なら触っていいのか?」
「だめに決まってるじゃないですか!」
はだけた胸元に手を伸ばそうとしてくるトキの腕を捕まえ、彼女はキッと彼を睨んだ。しかし潤んだ瞳で睨んだところで迫力などあるはずも無く、彼から冷ややかな嘲笑を返されるだけなのだが。
「薄情だな聖女様。俺が凍えて死んでもいいっていうのか」
減らず口だけは一丁前に叩く目の前の青年は、この状況を心底楽しんでいるらしくずっと口元が緩んでいる。からかっているのは明白だが、あまり調子に乗せすぎると本当に服を剥ぎ取られ兼ねない。セシリアはトキから顔を逸らし、語気を強めた。
「何と言われてもだめですからね!」
「……でも、そう言いながらアンタ、さっきまで少し乗り気だったろ?」
「……!」
ぎく、と背筋が冷える。セシリアは目を見開き、声を詰まらせた。
(き、気付かれてる……!)
──先程、確かに、抵抗出来たはずなのにそれが出来ない瞬間があった。このまま流れに身を任せてしまおうかと、押し倒される前に一瞬考えてしまったのだ。
全てを見透かしたような彼の瞳が、セシリアの視線と交わって、細められる。
「……否定しないのか?」
「……っ」
「ホント、つくづく人生損するタイプだな、アンタ」
暗に肯定の意を示す彼女に気を良くしたのか、トキは不敵に口角を上げ、はだけた胸元に唇を寄せた。しかしその行動にすぐさまセシリアが気付き、彼の両頬を掴んで止める。
「や、待っ……だめ!」
「……」
不服げな瞳がじろりと持ち上がるが、セシリアもぷるぷると身を震わせて負けじと彼を睨んだ。もちろん意味は無いのだが、せめてもの抵抗のつもりでそのままじっと彼の目を見つめる。
しかしその時、彼の髪からセシリアの胸元に向かってぽたりと水滴が一粒落ちて来たことで、状況は一変した。
「……!」
ハッと目を見開いたセシリアは即座に上体を起こし、彼に詰め寄る。
「と、トキさん! 髪濡れたままじゃないですか!」
「……は?」
唐突すぎる発言に顔を顰めたのはトキの方だ。だがそんな彼の反応などお構い無しに彼女は続ける。
「ダメですよ、風邪を引いてしまいます!」
「……いや、別にこのくらい、」
「ダメです!」
不安げに揺れていた瞳は一変。いつもの凛とした色に戻り、今度はトキがたじろぐ。直後、彼女は自身の下敷きになっていた毛布を手に取り、冷え切った彼の体を優しく包み込んだ。
「……ごめんなさい。私、ずっと手袋をしていたから、あなたの体温に気が付きませんでした。……きっと、トキさんの方が体冷えてますよね」
「……」
「これで、寒くないですか?」
にこ、と目の前の瞳が柔らかく細められる。それはまるで、母親が幼い我が子へと向けるような慈愛に満ちた表情さながらで──トキは一瞬息を呑んだ。
「──っ……」
言いようのない感情が蔓延り、ややあって彼は突き放すように組み敷いていた彼女の体から離れる。きゃっ、と短い悲鳴を上げてセシリアは地面に手を付いたが、すぐに再び上体を起こした。
「な、何するんですか、もう!」
「……うるさい。アンタのせいで興が醒めた」
はあ、と溜息混じりに俯き、トキは壁に凭れかかるように腰を下ろした。セシリアは小首を傾げ、はだけた胸元のボタンを止め直しながら彼の横に並んで座り込む。
「……あの、私、もしかして何かしてしまいました?」
「……した。お節介」
「ええっ! ご……ごめんなさい……」
オロオロと焦る彼女に視線を向け、さらけ出された白い二の腕を見つめる。少し鳥肌が立っているそれにやれやれと首を振り、トキは自身の肩に掛かっていた毛布を乱暴に投げ付けた。
「わぷっ」
「着とけ、寒いんだろ」
「でも、トキさんが……」
「俺は慣れてる。アンタに風邪引かれる方がよっぽど面倒だ、俺は看病なんか出来ないぞ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、彼はその場で横になった。外に一瞬目を向けるが、やはりごうごうと降り頻る雨は未だ止みそうにない。
「……少し寝る。何かあったら起こせ」
「あ……はい、おやすみなさい。良い夢を」
にこ、と微笑み、鈴の音のような優しい声がトキの鼓膜を揺らす。こんな寝心地悪い場所で良い夢なんか見られるか、と一人溜息をこぼし、トキはそっと瞳を閉じた。
2
「……ん……」
重たい瞼を持ち上げ、目を開ける。ゴツゴツとした冷たい石ころが体の節々に食い込み、いってえな、と眉根を寄せつつトキは身体を持ち上げた。
──ぱさり。
身体から何かが滑り落ちてふと視線を下げると、セシリアが羽織っていたはずの薄手の毛布が視界に入る。どうやら身体に掛けてあったらしく、彼は隣に顔を向けた。
「……」
すやすやと、穏やかな寝息を立ててセシリアは眠っている。ノースリーブのワンピース姿のまま、寒そうに身を縮めて。
(……このバカ、ほんと言う事聞かないな)
はあ、と呆れがちに頭を押さえつつ毛布を投げた。「ううん……」と一瞬寝苦しそうな声を発して寝返りを打った彼女だったが、再び規則正しい寝息を繰り返して眠り始める。
呑気に寝こけているその顔を見つめてみればみるほどに、そこに居るのはまだ顔に幼さの残るあどけない少女だった。歳を訊ねてみたことなどないが、おそらくまだ十代だろう。
「……」
トキは黙ったまま、セシリアの額に手を伸ばす。穏やかに繰り返されるその寝息が途切れることのないよう、ゆっくり、壊れ物を扱うように、淡い金色の前髪を掻き分けて彼女の白い
(……熱は、ないか)
ほ、と胸を撫で下ろす。──別に彼女が風邪を患って苦しもうが、トキにとって知った事ではないはずなのだが。なぜだか妙に気になって、その体温を確かめてしまう。
ひとまず体温は正常のようで、トキはそっとセシリアの額から手を離した。すると不意に、彼女の瞼がぴくりと動く。
「…………ル、……」
「……?」
起こしたか、と一瞬思ったが、どうやらそうではない。翡翠の両目は閉じられ、未だ寝息は続いている。なんだ、寝言か、とトキが息をついた頃──再び彼女の唇は音を発した。
「……アデル……」
「……!」
ぽつり、彼女の唇からこぼれた名前。それに続くように、閉じきった瞼の隙間からは一粒の雫がこぼれ落ちる。
ぽた、と地面に染みを作り、一瞬で消えたそれを目で追いかけ、トキは彼女の顔を覗き込んだ。
「……」
寝息は続く。しかしセシリアの瞼からは再び涙の粒が顔を出し、トキはそれをそっと指で掬い取った。
指の先に転がり込んで消えた涙を見つめ、彼は視線を彼女へと戻す。
(……無理してんだな、アンタ)
──彼女の番犬が居なくなった後、セシリアは一度も泣かなかった。殺されたと聞かされた時には倒れこそしたが、「アデルは生きてます」「死んだなんて信じません」の一点張りで、トキを気遣い、いつも優しく微笑んでここまで来た。
暗い表情を見せることもあったが、それでも彼に心配かけぬようにと。さっきの毛布だってそうだ、自分も寒いくせに、いつだって彼女は自分の身よりも他人の事ばかりを優先する。
「……バカかよ、アンタ」
辛いなら、辛いと言えばいい。泣きたいなら、勝手に泣けばいい。
けれど決してそうしない彼女だからこそ、トキは興味を引かれたのかもしれない。
「……」
トキは口を閉じたまま、セシリアの顔の横に手をついて静かに身を乗り出す。そのままゆっくりと眠っている彼女に顔を寄せ、先程も触れた白い額に自身の唇を押し当てた。
──幼い頃、自分が泣いていた時にしてもらったように。
「──……」
彼は額から唇を離すと即座に彼女から離れ、バッと口元を片手で覆い隠した。手のひらには嫌な汗が浮かび、ぐるぐると視線が泳ぎ回る。
(……いやいや、待て。おい、何やってるんだ俺は……!)
──柄でもない、こんなこと。
他人を慰めるような行為など、今までしたことも無ければやろうと思ったことすらない。むしろそんな行為は甘えだと、鼻で笑ってすらいたと言うのに。
(……くそ……!)
トキはぐしゃりと前髪を掴み、壁に凭れてしゃがみ込む。調子が狂う、と眉根を寄せて俯いたその時、脳裏に響いたのは幼い頃によく聞いた声。
『──トキ、また泣いてるの?』
彼女の──ジルの声だった。
『もー、今度はどうしたの? またお母さんに怒られた? それとも町の子達にいじめられた?』
記憶の中のジルは、彼と同じ紫色の瞳を細めてけらけらと笑う。幼いトキは涙でぼやけた瞳をごしごしと擦り、彼女を睨んだ。
『泣いてない! 目にゴミが入っただけだ!』
『嘘ばっかり、鼻水まで垂らして。ホント泣き虫ねえアンタは』
『そ、んなこと、……う……っ』
せっかく袖で拭ったはずの涙は再び溢れ出し、またもや視界はぼやけてジルの姿が見えなくなる。ぐしぐしと鼻をすする音だけが耳に届いて、情けなさと恥ずかしさに耐えきれずひたすら地面を見つめた。
すると必ず、彼女は優しく抱き締めてトキの額に口付けをくれる。
『はい、泣き虫さん専用の涙が止まる魔法だよ。どう? 止まった?』
『……』
彼女は楽しそうに微笑み、トキの手を握る。ぱちぱちと目を瞬いて、最後の一粒となった涙を流し切ると、トキは立ち上がった。
『……うん』
頷けば、ジルはやはり笑う。
ああそうだ、この後、俺は家に帰った。そして母親に叱られるんだ。でも途中でジルが割り込んで、俺を庇って、でも結局、二人とも怒られて泣いて──。
──ごめんね、トキ。
「……っ!」
ナイフを持って、優しい笑みを向けながら泣く“あの日”の彼女の姿が脳裏を過ぎって、トキはハッと息を呑んだ。ドクン、ドクン、と心臓が嫌な鼓動を鳴らし始め、彼は胸を押さえて背中を丸める。
(……やめろ……思い出すな……!)
必死に自分に言い聞かせ、頭の中から“あの日”の記憶を消す。思い出したくない。“彼女”のことも、“自分”のことも、“あの日”のことも。
青く輝く宝石を持った、“彼”のことも。
「──トキさん?」
「!!」
不意に声が響いて、トキは弾かれたように顔を上げた。すると酷く心配そうに自分を見つめるセシリアと目が合って、ようやく彼のざわついていた心が静けさを取り戻していく。
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「……」
そっと頬に手を触れ、セシリアはトキの顔を覗き込む。彼女の瞳に映る自分は、随分と酷い顔をしていた。悪夢に魘されて目覚めたあとのような、酷く情けない顔。
「……どこか、痛むんですか?」
「……」
「それとも……怖い夢でも、見ました?」
ふふ、と目の前にある翡翠の瞳が細められる。優しいその声が、微笑みが、トキの荒れきった心を綻ばせて。
無意識に、手が動いた。
「……っ」
──しかし思わず抱き寄せようと伸ばしかけた手は、空中でぴたりとその動きを止める。そのままぐっと拳を握り込み、行き場を無くした彼の手は、再び冷たい地面の上へと逆戻り。
「……見てねえよ、バカ。起きたんならもう行くぞ」
冷たく吐き捨て、彼はその場に立ち上がった。素肌にまとわりつく砂を落とし、岩肌に掛けて干していた衣服を手に取ればだいぶ乾いていて小さく息を吐く。
雨も上がったらしく、外は既に明るさを取り戻していた。もはやこの洞窟に用はない。
「ほら、さっさと支度しろ。置いて行かれたいのか?」
「ちょ、ちょっと待ってください! すぐします!」
忙しなく毛布を畳み始めた彼女を溜息混じりに眺め、彼はくしゃりと前髪を掴んだ。──けらけらと、未だ心の中で笑うジルの記憶にそっと蓋をする。
(……忘れろ。思い出すな)
トキは伏せていた目を持ち上げ、睨むように虚空を見つめる。自分自身に言い聞かせた言葉を頭の中だけで呪いのように繰り返し、彼は再び前へと足を踏み出した。
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