第9話 檻の中
1
アデルとセシリアが出会ったのは、彼女が十五歳の誕生日を迎えた朝だった。“誕生日”と言っても彼女には記憶がないため、正確な日付でも無ければ正確な年齢でもない。おそらくこのぐらいだろう、ということでその日セシリアは十五歳になったのだ。
「お誕生日おめでとう、セシリア」
「ありがとうございます、シスター」
セシリアの育ての親であり、彼女の育った修道院のシスターでもあるドロシーは彼女に優しい笑顔を向ける。そんな彼女の手に抱きかかえられていたのが、まだ小さなアデルだった。
「……シスター、その子犬は?」
「今日からうちに入る、あなたの新しい友人よ」
「まあ! ここで飼うのですか?」
「飼うのではないわ、一緒に過ごすのよ。あなたの新しい友人として、一緒に遊んであげてくれる? セシリア」
子犬は眠たそうに欠伸をこぼし、大きく澄んだ丸い瞳でじっとセシリアを見つめた。記憶がなく、人との交流の少ない彼女に出来た新しい友人。後にアデルと名付けられるその子犬を、彼女は嬉しそうに微笑んで抱き上げた。
「ええ、もちろんです! お姉さんとして、私がこの子の面倒を見ます!」
「ふふ、頼んだわよセシリア」
「はい!」
抱き上げたその体は小さくて、暖かかった。ふわふわと生え揃った白銀の毛並みに、まるまると大きな金の瞳。小さくて可愛らしかった彼女の友人が、どんどん大きくなって頼れる相棒になるまでの、長いようで短かった時間。
ああそうだ、アデル。もうすぐあなたと私のお誕生日ね。
今年は修道院のみんなにはお祝いしてもらえないけれど、私たち二人で楽しくお祝いしましょう。
ねえ、アデル。
返事して、アデル。
死んだなんて、嘘でしょう?
「──おい!!」
「!」
はっ、と意識が覚醒して目を開ける。すると険しい表情をしたトキが目の前で自分の顔を見つめていた。セシリアは翡翠の目を見開き、勢いよく体を起こす。
「……あ、れ……、私……?」
「……やっと起きたか」
はあ、と溜息を吐き出して彼は近くの壁に凭れ掛かった。周囲を見渡せば、まだそこは牢屋の中で。
「アンタ、さっき倒れたんだぜ。魔法も使い過ぎてる事だし、肉体的にも精神的にも疲労が限界だったんだろ」
そんなトキの言葉で、ようやくセシリアは自分の状況を理解する。どうやら疲労で倒れてしまったらしい。
「……そう、だったんですね……」
覇気のない声を絞り出し、彼女は視線を落とした。そっと胸の前で両手を重ねる。
不意に、シスターの腕に抱かれた白銀の子犬が脳裏に浮かんで、彼女は息を飲んだ。握った手のひらには嫌な汗が浮かぶ。
「……あの、トキさん」
「……」
震える声で呼びかければ、彼は黙ってこちらを向いた。けれどセシリアの声はそこで詰まり、言葉の続きが出てこない。
「……あの……私……」
「……」
「……あの……」
ああいっそ、嘘でもいいから悪い事は全て夢だったと誰かが言ってくれないだろうか、なんて。そんな都合のいい考えすらもお見通しなのか、トキは視線を逸らしてぽつりと言い放った。
「……残念だが、さっきのは夢でも妄想でも無いぞ」
「……さっきの、って……」
「分かってるだろ」
アイツらの言ってた言葉だよ、とハッキリ言い切られ、もはやセシリアはずっと躊躇していたあの言葉を思い出すほかない。
──殺したよ。
その冷ややかな一言は、セシリアの心に重く重くのしかかって。しかし思い出したところで、その現実をすんなりと受け入れられるほど彼女は大人にはなれなかった。
「……信じません」
小さな声ではあったが、はっきりとセシリアは言い放つ。トキは再び彼女を見た。
「私は……アデルが死んだなんて認めません。少なくとも、この目で見るまでは、彼が死んだなんて信じません」
「……」
凛とした表情で、真っ直ぐと。強い決意を秘めた目で彼女は言い放った。
てっきり泣いて喚くのだろうと思っていただけに、トキは少しばかり目を見開く。へえ、と口を開いた彼は壁に凭れたまま、ふっと一瞬口角を上げた。
「……アンタにしちゃ、珍しくまともな事を言ってるな」
「……え」
「俺も全く同感だ」
彼はそっと壁から離れ、牢の扉に近づいて行く。
「まだあの犬が死んだとは断定できない」
「……」
「あの犬もバカじゃないんだ、攻撃されれば抵抗ぐらいする。ただの村人ごときがまともに相手して殺せる相手じゃない。一発で急所でも突かれてりゃ死んでる可能性もあるが、あの男たちは狼が暴れたって言ってたからな」
トキは珍しく饒舌に事を語り、固く施錠された鉄格子に手を掛けた。ぎしりと微かに扉が動く。
「つまり暴れる狼をまともに攻撃するには捕獲する必要がある。だが実際に捕獲された可能性は極めて低い。アイツなら網を噛みちぎって逃げられるからだ。鉄の檻にでも誘い込まないと捕獲は不可能」
「……じゃあ、アデルは……」
セシリアは真っ直ぐにトキを見つめた。彼は振り向く事なく鉄格子の鍵穴を見つめ、そっとその場にしゃがみ込む。
「生きてるんじゃないか? 致命傷さえ受けてなければな」
たとえ気休めに放たれた言葉であったとしても、それで十分だった。セシリアはきゅっと唇を噛み締め、両手を胸の前で握りしめる。それは彼女が神に祈る際によく取る行動だった。
そんなセシリアの動向を一瞬横目で見遣り、トキの視線は再び鍵穴へ。彼はどこからともなく細長い針金のような器具を二本取り出し、それを簡素で錆びついたその穴の中に入れてカチャカチャと動かし始める。
「……トキさん?」
「少し待て、今集中してるんだ」
しゃがみ込み、何やら手を動かしている彼の背中に呼びかけると鋭い声で制された。セシリアは言葉を飲み、黙ってその行動を見守る。
ややあって、カチン、という軽快な音がその場に響いた。
「……!」
「よし、開いたな」
錆びついた錠前が外れ、キイ、と静かに扉が開く。セシリアは目を見開き、彼の元へ駆け寄った。
「……え!? な、なんで……!」
「フン、俺は
トキが得意げに鼻を鳴らせば「すごいです!」とセシリアは瞳を輝かせる。金属製の細長い器具を指の上でくるくると回し、彼は静かにそれを懐へと戻した。
「警備がザルで助かったな」
「そ、そういえば、確かに……。あのお二方はどちらへ?」
「さあ? 大方この通路の先にある部屋で俺たちの見張りでもやってるつもりでいるんじゃないのか」
興味なさげに呟き、トキは周りに視線を配る。自分たちの持っていた武器や荷物はここには見当たらない。
「チッ……無いか。まあいい、どうせこの奥だろ。早いとこ武器取り返してこんな村脱出するぞ」
「そ、そうですね……でもどうやって? 私たち丸腰ですよ?」
困惑した表情でセシリアが問う。するとトキは視線をずらし、首に巻いているストールで口元を隠しながら何かを考え始めた。
その直後、隠された口元は密かに弧を描き、薄紫の双眸がゆっくりと持ち上がる。
「……アンタ、ちょっと身体貸せよ」
低い声が楽しげに響く。ああ、きっとよからぬことを思いついたのだと、セシリアは逸早く察して頬を引きつらせた。
2
「はあ、退屈だな!」
ドスッ! と音を立てて紫の宝石が埋め込まれた
──ドスッ!
短剣は先ほど突き刺さったそれよりも随分と下の位置に突き刺さり、投げた男が悔しそうに眉を顰める。
「ああくそ! また負けた!」
「くくくッ、コントロールが悪いんだよオメーは。ほら、三千テイル寄越せ」
「チッ……」
バン! と男の手が乱暴に机の上を叩いた。握りつぶされて皺くちゃになった紙幣が三枚、くしゃりと丸まってその場に落ちる。
「くっそ、もうヤメだ! やってられるか!」
「んだよ、ツレねえな。もっと稼がせてもらおうと思ったのに」
「うるっせえ! バカにしやがって!」
男の一人は苛立ちを露わにし、頭をがしがしと掻き毟って椅子に寄りかかった。もう一人の男は丸まった紙幣を一枚一枚上機嫌に開き、鼻歌を歌いながらポケットに詰めている。
「つーか、いつまでこんな退屈な見張り番なんかやんなきゃいけねーんだよ! もう夜中だぞ!」
男は喚き、机に足を乗せて不服げに眉間を寄せた。もう一人の男は「まあまあ、」とニヤついて苛立つ男を宥め、頬杖を付く。
「あと数時間の辛抱だろ? 夜が明けたらあの二人を魔女への見せしめに火あぶりにするって話だったし」
「それにしたって見張りが俺らだけなんて納得いかねーだろ! あのジジイ共調子に乗りやがって! 夜通し見張れなんてバカじゃねえのか!」
「しょうがねえだろ、この村俺らぐらいしか若者いねえんだから」
男は肩を竦め、苛立つ男を
「あの女、どうよ。なかなか上玉だよな」
にやにやと嫌らしい笑顔を浮かべ、男は問いかける。すると今まで苛立っていた男も「……あー、あの女か」と頬を緩めた。
「惜しいよな。魔女の仲間じゃなければ味見したかったのによ」
「まだ若いけど随分美人だよなあ。男の方もやたら男前だったけどさ」
「やっぱ魔女は美しいものが好きなんだろ、羨ましいこった」
男は椅子に背をもたれて天井を仰ぐ。
「つーか、アイツらデキてるんだろ? 二人で牢屋に入れてていいのかよ、今頃お楽しみの最中かもしれねーぞ」
「しょうがねえだろ、牢屋一個しかねえんだから。まああの二人、昼間も宿でよろしくやってたところを邪魔されてるからなァ。そろそろおっ始めてもおかしくねーよな」
ははは、と笑いがこぼれ、男は机の上から足を降ろした。その時ふと、向かいの男が一瞬眉間をよせる。
「……おい、今なんか聞こえなかったか」
「あ?」
もう片方の男もまた眉を顰め、耳を澄ます。すると確かに、微かな女の声が耳に届いた。それも酷く悩ましげな、熱を帯びたそれが。
──……あ……、ん……っ……。
「………………」
男達は口を閉ざし、ゆっくりと顔を見合わせる。どちらからともなく短い笑いが漏れ、二人は腰を上げた。
「……おいおい、マジかよ」
一人が牢屋へと続く扉の前に向かう。そっと小窓から中を覗けば、真っ暗な通路の奥でやはり悩ましげな声が響いていた。
「うーわ、真っ暗じゃねーか。ご丁寧に灯り消してんぞ」
「くっそ、ここからじゃ見えねえな。お前ちょっと見て来いよ」
「おう、任せろ。ちょっと覗いてくるわ」
にやりと下卑た笑みを浮かべ、男は静かに鍵を取り出すと出来るだけ音を立てないよう慎重に扉を開ける。そのまま忍び足で、彼は牢屋へと続く通路を進み始めた。通路の奥へと向かうに連れて、艶っぽい吐息は鮮明に彼の耳に入ってくる。
「……ん、嫌、ですっ、そこばっかり……!」
「おい、手どけろ。邪魔」
「だって、……あっ、う……!」
ちゅ、ちゅ、と静かな空間に淫らな音が響いて、忍び足で近付きながら男はごくりと生唾を飲み込んだ。真っ暗で何も見えないが、想像は出来る。
(うわ、絶対ヤってんじゃん。牢屋ん中でとかマジか、エロ……)
飛び出して止めるべきか、という考えが一瞬脳裏によぎったが、そんな考えなど若者の好奇心と圧倒的な欲望によって掻き消されてしまった。それはそうだろう、男女が暗い牢獄の中で二人きり、それも女はかなりの美人。健全な男であれば誰しもがそう思う、この先で行われている行為を、あわよくば一目見たいと。
──それが罠である事になど、一切気が付かずに。
「ああ、来たなドスケベ」
「──!?」
牢屋の中を覗き込もうと顔を出した瞬間、耳元で低い声が響いた。男は目を見開いて即座に身を翻し、大声を上げようと口を開くがにやりと口角を上げたトキの手が男の頭に摑みかかる方が何倍も速く。
──ガァン!
硬い壁に男の後頭部を強く叩き付け、間髪入れず鳩尾に膝蹴りを叩き込む。男は白目を剥き、力なくその場に倒れた。彼の意識がトんだ事を確認すると、トキはすぐさま地面を蹴って通路の奥へ。
「な、何だ!? どうし……」
奥の部屋で待っていた男も不審な物音に気がついたのか、勢いよく扉から身を乗り出す。しかし彼の目の前に現れたのは、地下で幽閉されているはずの男の姿で。
「──ッ!」
「寝てろ」
──バキッ、ドゴッ、ドシャッ!
目にも留まらぬスピードで掴み掛かられた男は一切の抵抗もできず、されるがままにトキの攻撃を受けた。顔や体を散々殴られたところで首を絞め落とされ、彼はずるりと力無くその場に倒れる。
「……フン、雑魚だな」
呟き、意識を無くした男の体を蹴り飛ばす。それまでの喧騒が嘘のように、殺風景な部屋には痛いほどの沈黙が訪れた。
「……おい、もう出て来ていいぞ」
ポキポキと首を鳴らしながら通路の先に呼びかければ、顔を赤くしたセシリアが忙しなく駆け寄ってくる。そしてすぐさまトキの目を睨みつけた。
「も、もう! なんて無茶なことするんですか!」
「怒るなよ、牢屋から出れたんだから文句ないだろ?」
「文句あります! あ、ああああんなことして……!」
先ほどまでの行為を思い出したのか、セシリアはただでさえ赤い頬を更に紅潮させて口元を手で覆う。そんな初々しい反応をトキは鼻で笑い、床に倒れている男の体を通路へ投げ込んで扉を閉めた。
「あんなことって。耳舐めただけだろ」
「耳だけじゃないです! む、胸も触ったでしょう!?」
「アンタが頑なに声を我慢しようとするからだ」
「だ、だってあんな声……!」
かあ、と再び顔を赤くして彼女は俯く。身体を貸せだなんて一体何のつもりだろうと不審には思っていたが、まさかあんな使い方をされるとは思いもよらない。
「あ、あんな淫らな声を知らない人に聞かれてしまって……わ、私、もう人前を歩けませんん……」
なんて訴えているセシリアの抗議を一切無視し、トキは先ほどしれっと拝借しておいた鍵を使って牢屋へと続く扉をカチリと施錠した。これでしばらくは大丈夫だろうと、彼は身を翻してきょろりと周囲の様子を窺う。
(俺のダガーはどこだ……?)
視線を動かし、愛用の短剣を探す。そしてその視線が壁に突き刺さっているそれを捉えた瞬間、彼はピキッと額に青筋を浮かべた。
(あのクソガキども……俺の私物をこんな安っぽい遊びに使ってんじゃねーよ……)
トキは不機嫌そうに舌を打ち、壁から短剣を引き抜いて鞘へと仕舞う。よく見ると取り上げられていた荷物も壁際で乱雑に放置されており、彼は小さく息を吐いてそれを掴み取った。
「おい、ここに用は済んだ。説教なら後でたっぷり聞いてやるから、さっさとこの村出るぞ」
「うう……、はいぃ……」
しょんぼりと肩を落としたまま返事を返す。不意に投げ渡された荷物をセシリアが慌ただしく受け取ったあと、二人は部屋の外へ続く扉を静かに開いた。
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