第7話 辺境の村
1
日課のお祈りのため少し早めに目を覚ますと既にトキは起きていてぼんやりと焚き火の前に座っていた。おはようございます、早いですね。と何気ない挨拶を口にすれば、いつもよりも覇気のない声で「ああ、」と素っ気なく返される。
その後お祈りを済ませ、他愛ない会話を口にしてみたが彼はどこか心ここに在らずといった様子で、ただぼんやりと遠くを見つめていた。
「……大丈夫でしょうか、トキさん……」
「ガウ?」
森の中を進みながらぽつりとセシリアが呟く。前を歩く彼は一言も発する事無く淡々と前に進んで行き、こちらを振り返る気配すらない。素っ気ないのはいつもの事だが、何だか今日は一段と元気がないように思えて彼女は表情を曇らせた。
そんな彼女の様子にアデルは小首を傾げるばかり。そっと頬を寄せてみれば、セシリアは小さく微笑んでその背を撫でた。
「あ……ごめんねアデル。心配させちゃったかな」
「ガウ」
「ふふ、いい子ね」
よしよしとアデルを撫で、木々の生い茂る森の中を歩いて行く。ふと、遠くの方が一際明るく光っているように見えて「ん?」とセシリアは目を凝らした。そして彼女は叫ぶ。
「と、トキさん! 見てください! 出口ですよ!」
「……!」
前を歩いていたトキに呼びかければ、彼はハッとしたようにその場に立ち止まった。前方に顔を向けると、確かに木々の生い茂る暗闇の中で一筋の強い光が差し込んでいる。
「…………」
「行きましょう、トキさん!」
眩しそうに目を細めたトキの手を、後ろから駆け寄って来たセシリアの手が掴む。その瞬間、また彼女の幻影がその姿と重なって見えて。
──行こう、トキ!
「……っ、やめろ!!」
怒鳴りつけ、勢いよくその手を振り払った。容易く離れた手は一瞬空中をさ迷い、唖然とした表情で見つめる彼女と視線が交わる。
しん、と静まり返る沈黙がやけに長く感じて──ハッとトキが我に返って顔を上げると、セシリアは困ったように微笑んで、先ほどこちらに差し出していたはずの手を自らの手で握り締めていた。
「……す、すみません。いきなり手を取るなんて、馴れ馴れしかったですよね」
「……あ……」
「行きましょうか」
にこ、といつも通り優しく微笑んで、彼女は先を歩いていってしまう。しかしその笑顔がいつもよりどこか儚げに感じて、トキは視線を落とした。
(……何をやっているんだ、俺は)
目元を手で覆い、胸中に蔓延る嫌な感情を振り払おうと深呼吸する。八つ当たりなんてらしくもない。脳裏にちらちらと纒わり付く彼女が、
「……クゥン……」
「……!」
ふと、背後で悲しげな鳴き声が響いた。振り向けば、アデルが金の目をこちらに向けて心配そうに見つめている。
「……んだよ、デカい図体しといて子犬みてーな声出しやがって」
は、と小さく笑って、トキはアデルの頭に手を置いた。雑な手つきで撫で回しながら、彼はまた深呼吸を繰り返す。
ああクソ、獣なんて好きじゃねえのに。
「……悪かったな。さっき、お前の主人に怒鳴って」
目も合わさずにそう言って、彼はぱっとアデルから離れる。そのまま森の出口へと向かっていくトキの背中を、アデルは小首を傾げながら見つめていた。
2
森を抜けると久しぶりの陽の光が眩しく視界に突き刺さった。目を細め、先を歩くセシリアに早足で追い付くとその手を掴み取る。
「おい」
「……」
セシリアは黙って足を止め、やがて振り返った。その表情はいつも通りの穏やかな笑顔で、「はい、何でしょう」と素直に応える。
「……」
あまりにもいつも通りの笑顔を振り撒くもので、トキは言葉を詰まらせた。──何で笑ってるんだ、その笑顔は無理して作ってるんじゃないのか。せめて泣いたり怒ったりしていてくれれば、素直に謝罪の言葉ぐらいは告げられただろうに。
(……いや、そもそも何で俺がコイツのためにわざわざ謝らなくちゃいけないんだ)
そんなひねくれた考えまで浮かび、尚更言葉に詰まってしまう。そしてとうとう、セシリアの手がトキの手を拒むようにやんわりと離れた。
「……あの、無理なさらなくて大丈夫です。私は気にしてませんから」
「……おい」
「そんな事より見てください。村がありますよ、ほら」
トキの言葉を遮るようにしてセシリアは前方を指差した。そこには確かに小さな集落があり、「……ああ」と返事を返せば彼女は再び微笑む。
「これで物資の調達が出来ますね」
「……そうだな」
「アデルも美味しいものが食べれるわよ」
「ガウ!」
「……おい、ちょっと待て」
嬉しそうに吠えた狼をトキが制す。不思議そうに顔を上げたアデルには申し訳ないと思いながらも、彼は言葉を続けた。
「人里に魔物を連れて入るのは危険だ。しかもあんな小さな集落じゃ尚更だ、大騒ぎになるぞ」
「え、じゃあ……」
「……犬はここに置いていく」
告げられた言葉に、セシリアはあからさまに落胆して視線を落とした。アデルはよく分かっていないのか、小首を傾げて二人を見つめている。
トキはアデルの元に近寄り、今朝捕れた兎の肉を取り出してチラつかせた。
「おいクソ犬、これやるから一晩大人しくその辺で待ってろ。明日の朝には戻る。分かったな」
「ガウガウ!」
アデルは尻尾を振り、嬉しそうに兎肉を見つめている。それを放り投げればアデルも高くジャンプして、いとも容易く口の中に収めてしまった。
肉を食べて満足げなアデルにセシリアは近寄り、頬を寄せて語りかける。
「……ごめんね、少しだけ待ってて。明日には戻るから」
それだけを伝え、体を離す。アデルは小首を傾げていたが、やがて置いていかれることを理解したのか、くあ、と欠伸をこぼしてその場に丸くなってしまった。
トキとセシリアはその場にアデルを残し、村へ向かって歩き始める。村までの道すがら、度々セシリアは心配そうに振り返ってはアデルの事を見つめていたが、やがてその姿は遠ざかり見えなくなった。
「……たった一晩だ。アイツも自分の身を守るぐらいは出来る」
「……そう、ですよね……」
セシリアは目を伏せ、そっと前に進む。胸中に蔓延る不吉な予感が、どうか当たりませんようにと願いながら。
3
村の入口まで辿り着いた二人は、のどかな村の風景を眺めながら村の中へと入っていった。メエ、メエ、と羊が鳴き、小鳥たちが楽しげに空で戯れている。花や草木も楽しげに風に揺れていて非常にのどかで平和そうな村だったが、一点だけ気になる事があった。
「……人が居ませんね」
「……そうだな」
何度周囲を見渡せど、人の姿はどこにも見受けられず話し声や笑い声すらも聴こえてこない。誰も住んで居ない訳ではないだろうに、と飼われている羊を見つめながらセシリアは首をかしげた。
「……」
トキは周囲を注意深く観察し、そっと視線を前に戻す。セシリアは気が付いていないが、彼は村に入った時から感じていた。
どこからともなく向けられている、無数の視線の数々を。
(……歓迎ムードってわけでは無さそうだな)
おそらく各々の建物などの中からこちらの様子を窺っているのだろう。随分と警戒されている事だけは伝わって来る。
その警戒心を少しはうちの聖女様にも見習って欲しいものだ、と溜息混じりに考えて、彼は早足で歩を進めた。
向かった先は、宿屋。
──カラン、カラン。
扉を開けると客の訪れを報せる鐘の音が響いた。薄暗い店内にゆっくりと足を踏み入れれば、カウンターに座っていた老婆がにこりともせずに出迎える。
「……あ、よかった。人がいたんですね」
背後で呑気にそんな事を言っているセシリアの鈍さは置いておいて、トキは警戒しつつカウンターへと向かった。老婆はやはり笑わず、じっと探るようにこちらを見つめている。
「……今夜、二部屋借りたいんだが」
「……」
トキが淡々と告げると、老婆は暫く黙ってこちらを凝視していた。やがて徐ろに立ち上がり、鍵を一つだけこちらに投げる。
「……悪いが、今は一部屋しか空いてないよ」
「……何?」
「嫌なら出ていっておくれ、忙しいんだ」
老婆は冷たく言い放ち、ふいっと顔を背けてしまった。眉間を寄せるトキだったが、そんな彼の背後からセシリアの声が割り込む。
「あ、では一部屋だけお願いします」
「……!?」
にこ、と笑って身を乗り出した彼女の発言にぎょっとして「おい!」と引き止めると、セシリアは不思議そうに小首を傾げた。
「……? 何か問題あるんですか?」
「アンタ本気で言ってんのか!? 一緒の部屋で寝るって事だぞ!」
「え? でもいつも同じ空間で寝てますよね? それに一部屋の方が安く済みますし」
「……っ、ほんっとに……!」
──いい加減にしろこの脳みそお花畑女! と怒鳴りつけてやろうかと思ったその時、どん! とカウンターに手のひらを乗せた老婆の一言によってトキの怒声は喉の奥に引っ込んだ。
「二百テイル。借りるんだったらさっさと支払っておくれ」
「あ、はい。二百テイルですね」
セシリアは自分の財布を取り出し、銀の硬貨を二枚老婆の手の上に置いた。ふん、と老婆は鼻を鳴らし、セシリアに鍵を渡す。
「さ、行きましょうか、トキさん」
「…………」
笑顔で振り向いた彼女に心の底から呆れつつ、彼は頭を抱えてその手から鍵を引ったくった。行くぞ、と諦めたように呟いて先を急ぐ彼をぱたぱたと追いかけ、セシリアも階段を上がっていく。
そんな二人の後ろ姿を、老婆は黙って見詰めていた。そして徐ろに電話を手に取り、ゆっくりとダイヤルを回す。
「…………ああ、もしもし。私だ。例の連中、うちに一晩泊まるってさ。……ああ、もちろん。二人同室にしたさ。だから──」
──後は頼むよ。
その一言を最後に電話は切れ、老婆は再びカウンターの中に腰を下ろした。
4
「……トキさん、何か怒ってますか?」
「……怒ってない、別に」
「……そ、そうです……?」
階段を上がっていくトキは普段よりも早足で、への字に曲がった口元を見る限り明らかに機嫌はよろしくない。何かしでかしてしまっただろうか、とセシリアは肩を落とし、部屋へ向かう彼の背中をとぼとぼと追いかけた。
二〇四、と記された部屋は角部屋で、その周囲にもいくつかの部屋がある。だがやはり人の泊まっている気配はない。トキは眉間を寄せ、そっと二〇四の鍵穴に鍵を差し込んだ。
──ガチャン。
音を立てて鍵が解錠される。ゆっくりと扉を開けば、そこは一つだけの大きなベッドがその存在を強く主張しているだけの部屋で。ひくり、とトキは頬を引き攣らせた。
(……冗談だろ)
部屋の大半を占めるシンプルなダブルベッド。窓も椅子も無く、簡素なテーブルとランプがぽつんと置かれている。
まさに、そういう事をするためだけの部屋、という出で立ちだった。
「……」
黙りこくるトキの背後から、ひょっこりとセシリアが顔を出して部屋に入って来る。彼女は部屋に置かれたダブルベッドを視界に入れて、やはり能天気に微笑んだ。
「わあ、大きなベッドですね!これなら二人とも旅の疲れが取れそうです」
「……」
──二人ともって。アンタここで二人並んで寝るつもりなのか。
当然そのつもりなのだろう、穢れを知らない世間知らずの聖女様。隣にいるのが人の皮を被っただけの狼だなんてことは知る由もない。
彼女は男という生き物のことを知らなさすぎる。記憶喪失がどこまで影響しているのか分からないが、これを機に少し叱ってやろうとトキは鍵を施錠しつつ口を開いた。
「……アンタはいい加減少しは警戒心を持て。密室の部屋で一晩男と一緒に寝るなんて襲ってくれって言ってるのと同じだぞ」
「……?」
早速持っていた荷物を下ろしてベッドに腰掛けている彼女はきょとんと不思議そうにこちらを見つめている。──ああ、だからそうやって簡単にベッドに座るな。
「……男は狼だって習わなかったのか? アンタを保護したっていう修道院のシスターからは」
「……習いましたけど……でも、
「……ちがう、あの犬は別だ。普通の狼があんな風に人に懐くわけないだろ」
「そうでしょうか……」
よく分からない、と言わんばかりの複雑な表情に心の底から溜息をこぼしたくなった。とんだ箱入り娘だ。どうやって言い聞かせるのが一番効果的だろうか、と顎に手を当てて考えていると「でも、」と彼女が穏やかに笑って言葉を続ける。
「例え男の人がみんな狼だったとしても、トキさんは大丈夫です。あなたはきっと、私に酷いことはしないでしょう?」
「…………」
──やめろ、と心の中だけで叫んだ。この娘はとんだ大馬鹿だと、トキは奥歯を噛み締める。
俺のことをどれほど高く見積もってるんだか知らないが、そう思うのであれば、それは相当な勘違いに違いないのだから。
──だったら、分からせてやろうか。
心の隅で、悪魔のような自分の声が囁く。だが存外悪魔に近い生き方をしてきた彼には、その言葉を鵜呑みにすることなど容易くて。
「……本当にバカだな、アンタは」
「え、あの、トキさ……」
──ドサッ。
丸い瞳が見開かれ、言葉を飲み込んだ薄い唇がきゅっと不安げに震える。揺れている翡翠の瞳の中に映る自分の顔が、まさに腹を空かせた獣のようなそれで思わず笑いがこみ上げそうになった。
ベッドに押し倒された彼女は何か言いたげに唇を開いたが、結局言葉にはならず喉の奥へと引っ込んでしまう。
「……俺が優しいとか、酷いことはしないとか、笑わせるなよ聖女様」
「……」
「俺は男だぜ? 男ってのは狼だ。腹を空かしてる時に目の前に食べ頃の餌があれば、」
──食っちまうのは当然だろ?
そう囁いたのを最後に、飢えた狼は彼女の白い肌の上に歯を突き立てた。
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