第6話 追憶の影
1
ばしゃ、と顔に水を被れば冷たい水滴がぱたぱたと渇いた地面に染みを落としていく。足元に置かれたバケツの中では捕れたばかりの魚が泳ぎ、腰には先ほど狩った兎が数匹ぶら下がっていて。今夜は大漁だな、とトキは一人満足げに息を吐いた。
この森に入って、早いものでもう一週間。いつまで経っても森の出口に辿り着く気配はない。幸い生き物や木の実の種類は豊富で川もあるため食料に困る事はなかったが、いつまでも不気味な森の中で過ごしているせいか日に日にセシリアの笑顔から覇気が失われてきたように感じる。
トキは陽の光の下よりもこういう暗い森の中の方が落ち着くわけだが、昼間の森ですら怖がり倒していたセシリアにとってはかなり居心地が悪いようで。別に彼女のことを気遣うわけではないが、このまま精神的に弱られるのも面倒なため、早々にこの森を出る必要があるなとトキは冷静に考えていた。
隣に置いていた釣竿とバケツを持ち、腰を上げて一人キャンプ地に残している彼女の元へと踵を返す。食料調達に向かうと言った時には笑顔で送り出していたが、おそらく今頃ビクビクと身を震わせているだろうということは何となく察しがついた。
(番犬も残して来たし、魔物や暴漢に襲われることは無いと思うが)
まあ、何かに襲われているとしたら虫だろうな。と、寝袋の中に虫が侵入したと言って大騒ぎしていた二日前の夜の出来事を思い出す。この森で過ごしてトキが学習したことは、まず虫が出ると気が狂ったかのようにセシリアが騒ぐ事。それから、アデルが意外と可愛げのある奴だという事だ。
だが中でも特に彼が衝撃を受けたのが、彼女の作るアレだったのだが……。
「あ! トキさん、おかえりなさい!」
「……」
無事にキャンプ地へと帰ってくれば、にこ、と嬉しそうにセシリアが微笑みを向ける。しかしトキは微笑み返してやることなど出来ず、むしろ顔を顰め、背筋に嫌な汗が伝うのを感じながら彼女に視線を向けた。
「……おい、アンタ何してるんだ」
「え? ああ、暇だったので、フルーツを切ってました。あとスープも作ってみたんです、体が温まるかと思って」
「……」
──スープというのは、アンタの目の前で煮込まれているその真っ黒な液体か? と言いかけて、トキは寸前で飲み込んだ。
彼女の善意の塊から作り上げられた特製スープは激臭を放ち、ぼこぼこと黒い水面を沸騰させて、異様な植物の葉が中で踊っている。一体何を入れたらこうなるんだ。ちらりとアデルに一瞥をくれれば、彼は渋い表情で距離をとって丸くなっている。お前も苦労したんだな、とらしくもなく同情した。
そう、彼女はとんでもなく料理が下手だったのである。
「どうでした? お魚は釣れました?」
「あ、ああ……」
ごく自然に話し掛けてくるセシリアに答えるが、その胸中は穏やかではない。にこにこ微笑む彼女の手元で切られているフルーツは、今にも指を切ってしまいそうなほど危なっかしい手つきで果肉ごと皮が切り落とされていく。別皿に移された完成系と思わしきフルーツたちはでこぼこと歪な形に歪み、一見ただのイモにしか見えなかった。
トキはひくりと頬を引き攣らせ、危なっかしい手つきでフルーツを剥く彼女の手から素早くナイフを奪い取る。
「……アンタはいいから休んでろ。俺がやる」
「え、でも、トキさん今まで食料調達に出掛けていてくれましたし……」
「いいから。それより火が弱い、焚き木でも拾ってこい」
渋る彼女から無理矢理仕事を奪い、彼はどっかりと焚き火の前に腰を下ろした。激臭を放っている小鍋には蓋をし、なんとか空気の淀みを抑える。
「あ、そのスープ、飲んでいいですからね」
「……」
悪意のない悪魔の囁きについ視線を逸らしてしまう。ああ、まあ、気が向いたらな……、と曖昧な言葉を返して慣れた手つきで魚を捌き始めれば、彼女はにこりと微笑んで森の中へと消えて行った。その背をちらりと目で追って、トキは「おい」とアデルに向かって呼び掛ける。
「ほら、お前の分だ」
そう言って先ほど狩ったばかりの兎を一匹だけ投げれば、アデルは嬉しそうにかぶりつく。小さな兎はあっという間に食い尽くされ、もっとくれと言わんばかりにアデルはトキに視線を向けた。
「分かった分かった、でも先にお前のご主人に付いて行ってやれ。帰ってきたらまたやるから」
「ガウ!」
アデルは返事でもするかのように鳴き声を発して、セシリアの向かった方へと駆けていく。利口な犬がいて助かるな、とトキは再びナイフを手に取り、魚の内臓を取り出し始めた。
2
パチパチと焚き火の前に並べられた魚達が美味しそうな匂いを放っていたのは数十分前までで、今となっては残った骨だけが燃え盛る火の中で横たわっている。アデルは兎を腹一杯食べて満足したのか木に凭れて気持ち良さそうに眠ってしまった。
不格好な果物の皿も空になり、最後のシメにいかがですかと問いかけられたスープを断ったところで、彼らの食事は終わりを告げる。
「はあ、満腹です。トキさんはお魚を捌くのがお上手ですね」
まあ、アンタよりはな。と心の中だけで呟いて、彼はそっと立ち上がった。徐々に近寄って来るトキの姿を視界に入れ──セシリアは彼の目的を逸早く察したのか、ぱっと顔を逸らす。
「……」
「……薬の時間だぜ、聖女様」
「……はい……」
かあ、と頬を赤らめ、彼女も立ち上がる。そのまま彼の背を追いかけて暗い森の木陰まで移動すると、そっと木の幹に体を押し付けられた。
「……っ」
「……アンタ、まだ慣れないのか」
「な、慣れるわけないじゃないですか、こんなの……」
「ふぅん……」
神にでも祈るかのように両手を握り締め、彼女は頬を赤らめたまま俯いている。そっと顎に手を当てて
「……いつまでもそんな、獣でも見るような目されても困るんだが」
「……だ、だって……」
「だって?」
「…………」
恥ずかしそうに目を逸らし、それ以降の言葉を渋る。まあいいか、とトキは興味なさげに小さく息をこぼして、彼女の唇を塞いだ。
「……ん……」
柔らかいその唇を啄み、角度を変えて舌を割入れる。彼女の小さな舌を絡め取れば、ぎこちない動きで合わせてきた。先ほど食べたフルーツの甘みが舌の上に残っていて、やたら甘ったるく感じてしまう。
「……ふ……ぅ……」
「……おい、ちゃんと息しろ」
「……はあ、……っ」
もう何度目かの口付けだと言うのにいつまで経っても呼吸の仕方が分からないらしく、セシリアは苦しげに目尻に涙を浮かべていた。少し唇を離してやれば彼女は艶っぽい吐息を繰り返し、ギュッと閉じていた瞳を薄く開く。もう、終わりましたか、と息も絶え絶えになりながら掠れた声で問いかけるその表情は、情事中のそれさながらで。
「……」
──そんな顔をされては、少し意地悪したくもなるじゃないか。フッと薄い笑みを漏らし、彼はまたすぐに深い口付けを再開した。
「……え、っん……!」
「……は……、」
「んんー……!」
じたばたと動いて抵抗するセシリアの両腕を押さえ付け、ぢゅっ、とわざと大きめの音を立てて舌を吸い上げる。ぞくぞくと背筋を駆け上がっていく甘い痺れに身を震わせ、セシリアは熱い吐息を吐き出した。
「……はあ、トキ、さ……っも、もう、む……っ」
「ん? もっとして下さいって?」
「……っ、違……!」
口喧しく紡がれるその言葉の発生源をまた塞げば、捕まえている両腕にぐっと力が籠る。真っ赤に頬を紅潮させ、顔を逸らそうとする彼女の抵抗を一切無視して口内を犯し尽くし、ようやく唇が離れた頃──彼女はへなへなと力無くその場に座り込んでしまった。
「……っ、はあ、はあ……」
「これで少しは慣れたか? 聖女様」
意地悪く笑ってみる。すると彼女は潤んだ瞳でトキを睨みつけた。
「……し、死んでしまうかと思ったじゃないですか! 息が出来ないって何度も合図してるのに!」
「へえ、息が出来なかったのか。それじゃあちゃんと出来るようになるまでもう少し練習する必要がありそうだな」
「え! い、いや、も、もう大丈夫ですっ」
顔を近付けてくるトキから勢いよく離れ、赤く火照った頬を両手で包み込む。未だに慣れないこの緊張感。いい加減慣れないと、と深い息を吐き出して気持ちを落ち着かせている間に、トキはキャンプへと戻って行く。
「……あ、ま、待って、置いていかないでください!」
セシリアもトキを追いかけ、暗い森に背を向けてキャンプへと戻って行った。
3
「……ん……」
チチチ、と小鳥の
小鳥が鳴いてはいたが、辺りはまだ暗い。森の中まで陽の光が入らないだけで、外はもう夜明けの時間なのだろう。彼は立ち上がり、拾っておいた焚き木を弱まってしまった火の中に投げ入れる。その時ふと、すやすやと穏やかに寝息を立てていたセシリアが寒そうに身を丸めたのが分かった。彼女の体の上に掛けてあったはずの毛布は少し離れた場所に放り出されている。
(……こいつ、あんまり寝相も良くないよな)
そんな事を思いながらトキは呆れた。どこかへ転がっていくような酷さではないが、夜にふと起きてみると毛布がはだけていたり、寝袋から片足だけ飛び出していたりとどうも大人しくはしていないようで。一度寝ぼけてアデルの腹を蹴り飛ばし、彼が何事かと飛び起きたこともある。その犯人はこうして気持ち良さそうにすやすやと寝息を立てているわけだが。
(安心しきったような顔で寝やがって)
はあ、と溜息をこぼし、彼女が自分で投げたと思わしき毛布を拾い上げた。それをそのまま丸くなって寝こけているセシリアの体に投げ付ける。
「……んん……」
「……」
寝苦しそうに呻いて、彼女は毛布をぎゅっと抱き締めると再びすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。
──その寝顔が、遠い昔に見た彼女の横顔と一瞬重なって見えて。
「……っ!」
バッ、とトキは顔を覆い、突如早鐘を打ち始めた嫌な鼓動を鎮めようと胸を押さえる。思い出したくもない笑顔が脳裏に浮かんで、彼はその場にしゃがみ込んだ。
「……っ、う……!」
無邪気に笑う顔が、自分の名を呼ぶ声が、呪いのように脳裏を駆け巡る。やめろ、やめろといくら心の中で叫んでも、脳裏に響く声は止まってはくれない。
青く輝く宝石が、赤く赤く染まっていく光が、暗い瞼の裏に浮かんでしまう。
「……っ」
──いやだ、やめてくれ。
そう心の中で願った時、彼の頬に感じたのは湿り気を帯びたざらついた感触で。
──べろり。
「…………」
「…………」
べろ、ともう一度アデルの大きな舌がしゃがみ込んでいたトキの頬を舐める。ぽかんとトキは呆気に取られたが、直後またもやアデルが彼の頬を舐めようと口を開いたことでようやくトキは我に返った。
「っちょ……! やめろ!」
「ガゥ?」
「うわ、やめっ……分かったから!」
迫るアデルを無理矢理引き剥がし、トキは唾液に塗れた顔をうんざりしたように顰めた。アデルはくあ、と欠伸をこぼし、再びその場で丸くなる。
「……このクソ犬……」
やるだけやっといて寝やがって……、とトキは苛立ちを露にしながらその場に立ち上がった。ベタつく顔を洗い流そうと彼は川に向かって歩き始める。
そっと胸に手を当ててみれば、もう嫌な感情は蔓延っていなかった。狙ってやっていたのかどうかは定かでないが、結果的にアデルの行動によって正気に戻ったのは間違いない。
(……なんか釈然としねえ)
一人その場で舌を打てば、チチチ、と小鳥の囀りが返事を返すかのごとく森の中に木霊して、木々の隙間からほんのりと陽の光が差し込み始める。朝が来たのか、と感じながら、彼はたどり着いた川岸に腰を下ろした。
両手で水を救い上げ、顔に被せる。冷たい水滴がぱたぱたと渇いた地面に落ちて染みを作り、揺れる水面に映る自分の顔が酷く歪んで見えた。
(……ああ、酷い顔してたんだな、俺は)
しゃがみ込んだまま片手で顔を覆い、その場で俯く。脳裏に浮かぶのは、満面の笑みをこちらに向ける、彼女。
「……ジル……」
呟いたその名は誰の耳に入ることも無く、流れる川の音に掻き消されてしまった。
.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます