第5話 彼の見る夢


 1




 結局、ほとんど寝られなかった……。


 まだ夜も明けぬ星の光が煌めく空の下、セシリアはのそりと起き上がって冴え渡ってしまった目を擦った。アデルは横ですやすやと寝息をたてていて、そっとその背を撫でると気持ち良さそうに喉を鳴らす。



(……お祈りの時間には少し早いけれど、しばらく眠れそうにないし……)



 少し早めにしてしまいましょう、とセシリアは寝袋から出た。朝方の風は夜よりも冷たく、彼女はぶるりと身を震わせてローブを羽織る。

 空はまだ暗く陽の光は見えなかったが、代わりに月が空の方角を教えてくれた。セシリアは空に輝く半月に背を向け、東の空へ向かって歩くと両手を握り締め、そっと地面に片膝を付く。



「シズニアの大地の神よ、どうか今日も私達をお守りください……」



 目を閉じて静かに神に祈れば、川の流れや風のせせらぎがまるで返事を返すかのように大きく耳に届いた。


 この世界──シズニアは、遠い昔に大きな災いが降り注いだと言われている。その災いを地中深くに封じ込め、この世界を作ったのが大地の神・ヴィオラなのだ。神職に就いた者達は、シズニアの守り神であるヴィオラに、毎朝祈りを捧げている。



「……」



 日課であるお祈りを終え、目を開けると、遠くの空が少し明るみを帯びていて。セシリアはほう、と目を細めて息を吐いた。



「……夜が明ける……」



 ぽつりと呟いている間にも、白み始めた空は美しいグラデーションを描いて夜の闇を溶かしていく。気分転換も兼ねて寝袋を出た彼女だったが、もう本格的に眠れそうにない。



(……暖かいお茶でも淹れようかしら)



 ふ、と小さく微笑んで、セシリアは踵を返した。

 少しだけ明るさを取り戻したキャンプ内には相変わらず一人と一匹が静かに寝息を立てて眠っている。彼らを起こさぬよう忍び足で近付き、小鍋とドライハーブを手に取ると、昨夜の内に汲んで濾過しておいた水を火にくべた。焚き火に直接小鍋を置いているため少しバランスが難しいが、何とかその場に収まっている。



「……う……ぅ……」


「……?」



 ふと、背後で唸り声のようなものが発せられ、彼女は振り返った。視界に映ったのはトキで、何やら寝苦しそうにしている。



(……寒いのかも)



 薄着のまま木にもたれかかって眠っている彼に、セシリアは自分の毛布を持って駆け寄った。ストールの向こうから僅かに窺える唇は青ざめているように見える。



「……う……ぐ……、うぅ……」


うなされてる……)



 嫌な夢でも見ているのだろうか。眉間に皺を寄せ、苦しげに呻く彼をセシリアは心配そうに見つめた。

 ひとまず毛布だけでも掛けてあげようと近付く。しかし彼女がその毛布を彼の肩に掛けようとした瞬間──紫色の瞳がカッと見開き、一瞬で喉元に短剣が突きつけられていた。



「……っ!」



 悲鳴すら出ず、その場でセシリアは硬直する。トキはハァ、ハァ、と息を荒らげ、何かに怯えるように見開いた双眸を震わせた。喉元に刃を突きつけたまま、互いに無言で見つめ合う。──そしてようやく、トキは我に返ったようだった。



「……何、してんだ、アンタ」



 息を整えつつ、彼は静かに問いかけた。突きつけられていた短剣が離れ、やっとセシリアの思考も動き始める。



「……あ……う、魘されてたので、寒いのかと、思って……」



 毛布を……、と続いた言葉によって、トキはそっと視線を彼女の手元に向ける。どうやら毛布を掛けようとして自分に近付いたらしい、と彼女の行動を理解したのか、彼は息を吐いて短剣を鞘に仕舞った。



「……それはどうも、聖女様」


「……あの、大丈夫ですか?顔色が優れないようですけど……」


「問題ない。いつもの事だ、気にするな」



 トキは突き放すようにそう言って、セシリアの手から毛布を引ったくる。そのまま背を向けて寝る体勢に入ってしまった彼に、セシリアは再び近付いた。



「……まだ何かあるのか」


「すみません、一瞬だけでいいんです。首元、失礼しますね」



 そう言った彼女の手がトキのストールの中に伸び、そっと肌に触れる。レザーグローブの冷たさにトキは一瞬ぴくりと肩を震わせたが──すぐに触れた指先がポウ、と暖かみを帯びた。



「……はい、終わりです」



 指先が離れ、セシリアは微笑む。触れられた箇所に彼も触れてみるが、特に変わった変化は無くトキはじとりと彼女を見上げた。



「……何をした? 何の魔法だ?」


「魔法ではなくて、おまじないです」


「おまじない?」


「はい」



 にこりと優しい笑みを向け、彼女は続ける。



「もう魘されなくていいように。安心して眠れるおまじないです」


「……」



 ──馬鹿馬鹿しい。心底そう思った。


 トキが魘されていようと寒さで凍えようと、彼女には関係ない事のはずなのに。なぜそこまで他人に対して、優しい笑顔を向けられるのだろうか。


 仄暗い世界で十数年も生きてきた彼には、その行動が全く理解出来ない。



「……どうも」



 胸中にモヤモヤと何とも言えない感情を蔓延らせ、彼は今度こそ彼女に背を向けた。セシリアは微笑み、踵を返して再び焚き火の前へと戻って行く。

 遠ざかる足音を聞きながら、トキはそっと瞼を下ろした。不思議と自然に意識が微睡み、とろりとろりと、彼は夢の中へ旅立って行ったのだった。




 2




「──……さん、トキさん」


「…………」



 呼びかける声が脳裏に心地よく響いて、トキは重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。暗かった視界に眩しい光が差し込み、眉間を寄せると微笑む彼女の顔が視界に入った。



「おはようございます、そろそろ出発する時間ですよ」


「…………」



 そこでようやく、ハッと意識が覚醒して勢い良く体を持ち上げる。辺りを見渡せば、もう火の後始末や荷物の片付けなど全て済ませてあり、アデルが欠伸をしながら纏めてある荷物の傍に座り込んでいた。



「……!? どういう……」



 どういうことだ、と尋ねかけてふと、明け方の彼女とのやり取りを思い出した。よく眠れるおまじない──その効果がこれだというのだろうか。


 自分の胸に触れると、毎朝必ずあった嫌な痛みも釈然としない感情も無く、ただ心地よい眠りから目覚めてすっきりと冴え渡った頭だけが困惑気味に動いている。

 目の前のセシリアに顔を向ければ、彼女は申し訳無さそうに頭を垂れた。



「あ……ごめんなさい。すごく良くお休みのようでしたから、起こせなくて……。勝手に片付けてしまいました」


「…………」


「……よく、眠れました?」



 控えめに尋ねれば、トキはぱっと視線をそらす。

 よく寝たか寝てないかと問われれば、間違いなく前者だった。彼は人の気配に敏感で、キャンプの片付けなどしようものなら確実に目を覚ましていたはずだ。しかしそれにすら気付かないほど熟睡していたのだから、かなり熟睡したのだろう。

 はあ、と溜息を零しながらガシガシと頭を掻き、その場に立ち上がる。その後、不安げに見上げてくるセシリアへと視線を戻し、彼は口を開いた。



「……久しぶりによく寝れた、気がする」



 素っ気ない口調で、一言。しかしその言葉だけでもセシリアの頬を緩ませるのには十分すぎる材料で。



「ふふ、良かったです! 本当はあの後、ハーブティーを淹れたのでそちらも飲んで頂きたかったんですけど、もうお休みのようだったので」



 多めに作ったけど一人で飲んじゃいました、と照れ笑いする彼女に能天気なもんだと呆れてしまう。明け方喉元にナイフを突き付けられた事などすっかり忘れているようだ。



「……なら、水分補給は十分だな。さっさと出発するぞ」



 やはり彼は素っ気なく返すが、彼女もまた笑顔を崩すことなく「はい!」と答えて歩き出す。荷物はアデルに背負ってもらい、二人と一匹は再び魔女の元へ向かって進み始めた。




 3




 キャンプ地を出て数時間。広いだけだった高野も徐々に高い木が目立ち始め、周辺の景色は薄暗い森の中へと姿を変えていた。

 生い茂る木々の隙間から僅かに陽の光は差し込んでいるものの、肝心の太陽の場所は分からず、だんたんと方向感覚が鈍って行く。



「……なんだか、不気味な森ですね」


「迷ったら面倒だな」



 ざわりざわりと揺れる木々。進むに連れて暗く深くなって行く森の中で、セシリアは不安げに両手を握り締めた。



「……」



 なんだか、おばけでも出てきそう……。そんな考えが一瞬浮かんで、ふるふると首を横に振る。しかし一度想像してしまうと、なかなかその悪い妄想を振り払うのは難しいもので。



 ──パキッ、


「……ひっ……!」


 ──カサッ、


「……う……!」



 どこからか枝葉の落ちたのか、そんな何でもない物音にすらいちいちビクついてしまう。大丈夫、大丈夫、と自分を落ち着かせるがやはり不安感は拭えない。



「……っ」


「……おい」


「ひゃっ!」



 唐突にトキが振り向いたことで、セシリアはびくっと一際大きく体を震わせてその場に立ち止まった。しかしすぐに平静を取り戻し、「な、何でしょうか?」と笑顔を作る。



「……さっきから、変な声がうるさいんだが」


「……あ、す、すみません……! 気をつけます……」


「……」



 申し訳無さそうに俯き、彼女は胸の前で握っていた両手を更に強く握りしめる。その手が微かに震えているのをトキは見逃さ無かった。



「……何だ、アンタ怖いのか?」


「……!」



 問えば、彼女の体がびくりと跳ね上がる。そんな反応をされては、何も答えずとも図星なのが丸分かりだった。

 トキは馬鹿にしたように嘲笑をこぼし、彼女の顔を覗き込む。



「おいおい、アンタそこまでお子様じゃねーだろ? こんな真昼間の森に怖がっててどうするんだ」


「……う……」


「ハッ、そんな調子じゃ先が思いやられるな。何なら手でも握ってエスコートしてやろうか? 聖女様」


「えっ」



 冗談半分で放たれた彼の言葉にセシリアはパッと顔を上げる。希望を見つけたと言わんばかりに向けられたその瞳がキラキラ輝いているように見えて、トキは一瞬で「まずい」と察した。



「……手を、握ってくれるのですか?」


「…………」



 キラキラと、純粋無垢な翡翠の瞳が薄汚れたトキの心に訴え掛けてくる。違う、さっきのは冗談だ、からかっただけだ。そう言って突き放すことも出来たはずなのに、ふと今朝の彼女の微笑みが脳裏にちらついてしまった。


 ──よく眠れるおまじないです。


 その暖かい光が、トキの心を迷わせて。



「……チッ」



 彼は大きく舌打ちを放ち、ぶっきらぼうに手を差し出した。骨張って古傷だらけのその手のひらに、セシリアの手が重なる。



「……今日だけだ」


「……ありがとうございます!」



 ほっ、と安堵したようにセシリアは笑顔をこぼし、彼の手を握った。手袋越しなのでその体温までは分からないが、きっと暖かいんだろうなと目を細める。



「ふふ、てっきり冗談だって言われて断られると思ってました」


「……そうするつもりだったんだがな」


「トキさんは、やっぱり優しい人ですね」


「おい、勘違いするなよ。今日は借りがあったからそれを返そうと思っただけだ」


「借り?」



 きょとん、とセシリアの丸い目が不思議そうにトキを映す。真横からじっと向けられる視線から顔を逸らし、「独り言だ、気にするな」と素っ気なく返せば彼女はますます首を傾げた。



「あ、あの……借りって何のことでしょう? 私何かしましたっけ……?」


(……言えるか、馬鹿)



 はあ、と溜息をこぼし、トキは歩くスピードを速める。あ、ちょっと待ってくださいー! と慌ただしくそのスピードに合わせようと走り出し、強く握り返された手のひらに彼は頭を抱えた。


 ──こいつといると調子が狂う……。


 仄暗い世界で生きてきた、薄汚れた自分とは正反対の彼女。そんな彼女のペースに飲み込まれて、余計なことばかり口走っている気がする。

 今朝のアレが「借り」だなんて、そんな甘いことを言う人間だっただろうか。



(……アンタのおかげで久しぶりにいい夢を見た気がするから、なんて)



 ──馬鹿馬鹿しいな。


 一生懸命握ってくる手のひらをそっと握り返し、彼らは森の奥深くへと消えて行った。




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