三津凛

第1話

知らないふりが上手くなる。

それは血の匂いに勘付いてから、慣れ切るまでに憶えたことだ。

私は母によく似た女が割いた腹を抱えたまま、死んでいるのを静かに見つけた。母が暗い顔をして山に消えたのはちょうど、2日前のことであった。



母からはいつも鉄臭い匂いがしていた。初め私は牛か馬を屠る家に自分が産まれたのだと思った。

それで、10の歳に本当に子牛を屠ってみた。私は村の老人どもが驚くほど上手くそれを捌いてみせた。牛の首をかきながら、これはどうも違うぞと私は途中から思った。牛の血は母から漂っていた血の匂いとは少し違う。

それで私は今度は子馬を屠ってみせた。これも老人たちが嘆息するほど見事で、私の捌いたその皮は都に贈られて行った。ここでも私は途中から、どうも違うぞと思った。馬の血も母から漂うあの匂いとは違う。

老人たちは私の手捌きに何か言いたそうにして、帰って行った。それからたまに、彼らは暴れて手のつけられない牛や、役目を終えた老いた馬の処分を私に託すようになった。

私はどんな獣を捌いても母から漂うあの匂いがしないことにすぐに気がついた。だがすぐにその正体に気がつくことになったのだ。


寒い朝方に、私は鈍い腹痛を覚えて寝床から起き上がった。股の間がぬらつくような、気味の悪い感触がして私は慌てて厠に立ったのだ。

着物は真っ赤に汚れて、私は咄嗟に自分が不治の病にかかってしまったのではと慄然とした。冷たい頰のまま、私は母を大声で呼んだ。

母は不思議なほど落ち着いて、「お前も大人じゃけぇな」とだけ呟いた。それからわずかに赤飯を炊いて2人で静かに食べた。

私は自分から漂う血の匂いに、母と同じものを感じとった。

そうか、あの匂いは「あれ」の匂いだったのだ。

だがすぐに私は奇妙なことに気がついた。母からはいつも血の匂いがする。そうして、私は母が夜中に何人かの客の相手をして決まって山の中に何日間か消えていくことに気がついたのだ。

私は老人どもに頼まれるまま、牛や馬を屠り、時には鶏も締めた。その腕をしきりに老人たちは褒めて、笑った。

母はそれを静かに眺めて、すぐに戸を閉めた。

「お前もいい加減、家業を継がないかん」

そう言って、母は私に今夜は寝るなと釘を刺した。

私は言われた通り丑三つ時までしっかり起きていた。

月の陰が一層濃くなる刻に、家の戸を叩くものが来た。母は着物の帯を締め直して迎え入れた。私は隅の方で成り行きを見守った。

頭巾を被った若い女が項垂れて、男に付き添われている。男の一人は老人たちの息子の一人で、抜け目のないいやらしい男であった。狐のような小狡い顔立ちをしている。

「じゃあ、頼みますよ。なるべく傷はつけずに」

男はそう言い置いてすぐに出て行った。

母は振り返って私を見ると、近くに来るようにと合図した。

若い女はほとんど顔さえ見えない。さした紅の赤さが峻烈で血のようなのが不吉だった。

母は奥に敷いた布団の上に女を追いやって、沸かした湯を盥に張って大切そうに刃物を取り出した。女の股を割って母は綺麗にした指先を突っ込んだ。

あっ、と女は声を出して暴れる素振りを見せた。それが屠られる前の獣を思い出させて、私は発条のように動いて女の四肢を抑え込んだ。

雛鳥の羽毛のような恥毛がなんとも柔らかげで、そこだけ幼く見えた。

女の秘所はふっくらと盛り上がって、桃色に染まっていた。そこから2枚の肉が開かれて、まるでむずかるように微かに震えている。そのさらに奥の穴は微細なくせに底なしに暗かった。初めて眺める女の秘所に、私はじいっと惹きつけられた。

だが母の冷たいあかぎれだらけの手が割って入る。よく研がれた刃物を押し当てて、勢いよく女の穴に突っ込んだ。それから腹の中を遠慮なく掻き捌くのだ。女の見るからに柔らかそうな下腹をその刃物が押し上げているのが見てとれた。

女は時折声を上げて、私と母を睨んだ。

女の股ぐらからは血が流れる。暫くすると、真っ赤に熟れた柿のようなものがぼとんと脚の間から堕ちて、母はそれを着古した着物の屑に包んで置いた。

女は白い顔をしているけれど、生きているようだった。母はこの家には似つかわしくない真綿をどこかからか取り出して、まだ血の止まらない女の秘所に押し当てて詰め込んだ。

「しばらく客を取るのはやめにすることだね」

母はそこで初めて口を開いた。

女は目を開けると、感謝するでもなく憎々しげに呟いた。

「そうしなきゃあ、与助さんに嫌われちまうじゃないか」

母は女を無視して、美しい銀色の刃物をよく沸かした湯にくぐらせて綺麗にしている。女は覆い被さる私を睨みつけて、無理に起き上がった。

股からまた血が流れる。母は真綿をふんだんに取り出して使ってやる。女はその間だけ、神妙な顔をしていた。

やがて夜が明ける頃になると血も静まり、あの狐のような顔をした男が戻って来た。

男は母に金子をいくつか渡すと、遊女を伴って帰って行った。

家の中には血の匂いで満ちていた。着物の屑に包まれた柿のような塊が、かつて赤子の屑であったことは分かった。

母は私の方を向くと、珍しく煙管を吹かしながら「山へ捨てておいで」と呟いた。

「道はちゃんとあるんだ。お前にも分かるだろう」

私はまだ温かい着物の屑を手に持って、まだ日の上りきらない山を静かに登って行った。

赤子の屑を捨てる場所はすぐに分かった。何十年も人が踏み固めて歩いた道は一直線で間違うことはなかった。古い古い水子地蔵の祠があって、そこが赤子の捨て場だということが私にはすぐに分かった。土は肉の栄養を吸い込んで、葉や芽は青々としていた。

私は近くを流れる沢の中に、赤子の屑を捨てた。勝手な遊女のために堕ろされた命と今しがたの殺生を憐れに思った。

この道すがら、私は母の生業と私の継ぐべき宿命を確信したのだ。



母は赤子の堕し方を、まるで魚を捌いて見せるように私に教えた。

牛や馬よりかは幾分難しく、頭の使うことだった。だが、慣れればなんてことはない単純なことだった。

女たちは途切れることなく、決まって夜に訪れて、その分金子が落とされて行った。

やがて、母とあの狐顔の男がいい仲であることに私は勘付いた。狐顔の男は昼間となく夜となく無遠慮に家に上がり込んでは飯を食べたり酒を呑んだりしていた。

随分長い間母と男は寝床に籠ったまま、出てこないことがよくあった。時折何か押し殺したような、泣き声が聞こえてきた。

知らないふりをした。

私は女たちとほとんど話さない。膨らみかけた赤子をちょん切るときも、知らないふりをした。女の後ろにいる逃げた男や、女を脅した男のことも知らないふりをした。

それはほとんど宿命に近いものであった。だから、私は母と狐顔の男のことも知らないふりをしていたのだ。

やがて母はほとんど自分では赤子を堕ろさなくなった。

時折徒然に写経をして、薄ぼんやりと過ごすことが多くなった。それが初めは幸せそうにも見えて、次第に赤子を堕ろすためにやって来る女たちの悲壮な色合いと重なって見えてくるようになった。

その頃には私は1人で女たちの腹を捌くようになっていた。赤子の屑も、もう本当の屑のようにして捨てていた。

赤子たちはただの肉の時もあれば、あともう少し女が辛抱すれば無事に産まれるような立派なものもあった。



母が消えたのはちょうどそんな頃合のことである。

しばらく狐顔の男が通わなくなった時であった。

私は知らないふりをした。母と男とにあったことや、その胤がどこに宿るかを知っていながら目を瞑ったのだ。しばらく母も、私と同じようにしただろう。

狐顔の男は、何食わぬ顔でまた女を連れてきた。痘痕の目立つ醜い女である。私は女の腹を掻きながら、母はどうなっただろうと考えた。

そして、一番上等な刃物が無くなっていることに気がついた。私はそこで、女の腹を掻き出すのをやめた。

赤子の屑はまだ出てきていない。私は血を吸い込んだ真綿の束を女に見せて、赤子は屑になったと嘘をついた。

やがていつものように狐顔の男は金子を持って女を連れて帰って行った。



私は母の跡を求めて山へ登った。

そこで自分の腹を割いて死んでいる母によく似た女を見つけたのだ。

一番最初に見た、あの熟れた柿のような塊が昏い腹の穴からのぞいていた。

「母さん、そんなにまで好きやったんか」

私はそれだけ言って、あとはただただ泣いた。

あの上等な刃物は腹の一番深い所に綺麗に収まっていた。



狐顔の男が母の行方を尋ねることはなかった。相変わらず女たちの手引きをして、金子を置いていく。そのうち手を出すような素ぶりをしてきたので、私は男を捌いて母と一緒に埋めてやった。

狐顔の男を捌いた後は、また別の男が女たちの手引きを勝手出た。この商売は儲かるらしかった。私たちの村とその老人たちはこの生業で血を繋いでいるらしかった。

だから誰も狐顔の男のことは咎めなかった。

母の屍体を埋めた後には枯れ木ひとつすら、寄らなかった。私は哀しく思って麓の市場で花を贖い、そこの土に埋めてやった。

意地悪な鳥でも啄んでいくのか、花は暫くすると必ず枯れてしまってどこかへ吹き流されていった。

肥えた球根を埋めても、決して芽を出すことはなかった。2人の人間を埋めてやっても、その後に緑は生えなかった。どんなに母鳥が精魂込めて温めても孵らない卵があるように、咲かない花もあるものだ……。

それが母の生業……私の継いだ生業への業なのだろうか。


それは仏の怒り、天の戒めなのかもしれなかった。

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三津凛 @mitsurin12

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