風となって異世界転生

violet

風となった俺

 目が覚めると、俺は風になっていた。


 比喩ではない。俺の身体はまるで無かった。さあっと風が吹き抜ける。それは俺だ。吹き抜けた風が俺の元へ舞い戻ってきた。


 可笑しい。俺は人間だったはずだ。糞企業の糞会社員だったはずだ。


 なのに何故、と俺は辺りを見渡した。やはり可笑しいことになっていた。


 真後ろは晴天。一面が草原だった。俺の風によって草花が揺れている。蝶が、鳥が飛んでいた。


 目の前は曇天。一面が雪景色である。積雪によって地面は埋もれていて、いかにも寒そうな景色が広がっていた。


 まるで国境のように、春と冬が仕切られているかのようだった。


 ぽわん、とシステム音のような音が響いたかと思えば、現実でいうゲームのUIのような画面が出現した。


 野原 春木のはら はるきという文字が『name』という項目に表示されている。まさに俺の名前だった。その下には『job』という項目があって、そこには『春一番』と表示されている。


 どうやら『春一番』という職業の詳細を表示できるようで、俺はとりあえずそれを読む。


”春一番。厳しい冬の終わりに、春の訪れを知らせる強風です。あなたが通った場所の周辺は春となります”


 マジで風になってやがる。それもオプション付きだ。周辺の景色を見れば、どのような効果なのかも理解できる。


 俺は移動を試みる。


 ヒュウゥゥゥウウウウウウウ。


 風が吹き抜ける時に鳴る特有の音が響く。そして後方の草花と、前方の雪が舞う。


 雪が溶けて、草花が芽吹く。虫たちが目を覚まして、地面から這い上がってくる。幼虫は蛹になった。やがて羽化して蝶となり、花々を巡った。ちゅんちゅんと鳴き声がしたかと思えば、鳥たちが暖かさにつられて飛んで来た。


 すげえ。なんて思いながら俺は移動していく。俺の通った場所は、確かに春となっていた。


 おや。なんだ。どうした。女性が雪に埋もれている。この世界で初めて見る人間だ。


 俺が近づくと、女性を埋めていた雪が溶けていった。やがて同じように草花が生え、その女の子の周囲を蝶が舞った。


 桃色の長い髪の毛が印象的な女性だった。飛んでいた蝶の一頭が、彼女の髪を花と間違えてとまった。


 俺のおかげで周囲が春に包まれ、暖かくなった為か彼女は意識を取り戻して起き上がった。とまった蝶がひらひらと飛んでいく。


 彼女が起き上がったので、その顔を見ることが出来た。端麗な女性だった。肌が白くて、目の色は髪の毛と同じ桃色をしていた。それがなんだか不思議な魅力を醸し出していた。


「ここは、どこ」


 フルートの音色のような、美しい声だった。


「私は、いったい」


 そう言って立ち上がる女性。飛んでいた蝶がどこかへ逃げていった。


 そしてゲーム画面のようなUIが表示される。


”クロエラ”


 おそらく彼女の名前だろう。可愛くて、美しい女性だ。ものすごくタイプである。


「やだ、びしょ濡れじゃない」


 クロエラは雪で濡れた厚着の服を見て、不愉快そうな表情を浮かべた。


「服よ、変われ」


 そんなことを言ったかと思うと、クロエラは唐突に輝き出した。視認出来ないほどに輝きを増したかと思えば、一気に収束する。


「よし」


 クロエラの服装が変わっていた。桃色のワンピースは彼女によく似合っていた。


 ははん。良いことを思いついたぞ。俺は風だ。つまり、やりたい放題である。


 俺は自身の風をクロエラに吹き付けた。


「きゃあ!」


 クロエラのワンピースの裾が風によって捲れそうになった。クロエラは反射的にそれを手で押さえる。


 パンツは見えなかった。しかし彼女の、それはそれは艶めかしい、太ももの付け根あたりまでの生足を拝むことができた。白い太ももは、お尻の近くで徐々に丸く太みを増しているのがよく見えた。


 良い。凄く良い。えっちである。現実世界で女性に縁がなかった俺。とても新鮮で愉快である。よし、もう一度。


「もう、なんてエッチな風なの!」


 キッと俺を睨みつけるクロエラ。可笑しい。俺がわかるのだろうか。


 そしてクロエラは初めて自分の後ろを見た。


「何、これ」


 先程と見ていた景色がガラリと変わって、クロエラは狼狽えていた。


「すごい、冬と春の境界にいるのね」


 そしてクロエラはやはり俺の方を見る。


「あなたが春を連れてきているの? それとも、あなたが春そのものなの」


 なんてことを言う。クロエラは一体何を捉えているのだろう。少し試してみようか。


 俺は『春一番』という風だ。俺が通った場所は春になる。


「うーん、反応ないわね。もしかして喋れないのかしら」


 俺の思いは伝わらなかった。クロエラは顎に指を添えて思案する。やがてぱっと目を見開いて、閃いたような様子を見せた。


「私の髪がそよぐ程度の、風を吹かせなさい」


 とクロエラは言った。ほお、考えたものだ。面白い。言う通りにしてみよう。


 ヒュウ。


 俺の狙いや力加減は思った通りで、クロエラの髪が程よくそよいだ。


「やっぱり」


 クロエラは確信したような表情を浮かべた。


「このドスケベ風野郎め!」


 清楚な容姿の彼女から、とんでもない言葉が飛んできた。しまった。先程の風が、実はパンチラを狙ったものだとバレてしまった。


「罰として、私をあの山の頂上まで連れていきなさい!」


 クロエラはそう言って、未だに真冬である向こう側の、そのまた遥か遠くにある山の頂上を指さして言った。


「どうやら記憶がないみたいなの。だからお願い。私を連れて行って」


 クロエラはしおらしく言った。先程の勢いはどこへ行ったのだ。しかし俺はクロエラを大層気にいってしまった。良いだろう。連れて行ってやろう。多分俺の本気は、


 凄いぞ。


 ヒュオォォォォォオオオオオオ。


 一段と強い風が吹く。あまりの強さにクロエラが空高く宙に舞った。


「きゃあ!」


 クロエラは悲鳴を上げた。綺麗だった桃色の髪の毛は、乱れに乱れた。そのまま風に乗って上昇していく。


「きゃあぁぁぁあああ! いやあぁぁぁあああ!」


 絶叫。先程までクロエラが気にしていたワンピースの裾は、捲れに捲れて、その純白のパンツが天空にてまる見えになっていた。


 行くぜ!


 ヒュウゥゥゥウウウウウウウ。


 彼女を風で押すように吹き飛ばす。それに合わせて俺も前進する。


 高速で移動していく。時速200キロは出ているに違いない。絶叫マシン程の速度を安全装置なしでクロエラは味わっている。


 風によって舞った雪や草花が一瞬で通り過ぎていく。時折、川を通り過ぎてその度に水しぶきが勢いよく跳ねた。太陽の光をきらきらと反射させる水しぶきは、俺が通った軌跡のような現象を見せて、それを動物たちが目で追った。


「や、やっと慣れてきたわ」


 俺に吹き飛ばされてクルクルとずっと回り続けていたクロエラは、まるで空中を泳いでいるかのような動作をしながらバランスを取っていた。しかし既に一時間程移動しており、山頂は目前だった。


「あれは、神殿?」


 クロエラが言った。山頂に神殿らしき建物が見えていた。


 ドクン。


 風である俺に心臓なんてあるはずがないのに、力強く鼓動した気がした。


 ドクン。


 また。何故だろう、あそこに行かなければならない様な気がする。


 俺は徐々に減速していく。俺が近づいたことで真っ白な山肌は緑色に染まっていった。やがて神殿に辿り着く。神殿の入り口から建物内に入り、クロエラを下ろした。


「あの人は」


 神殿内部は吹き抜けになっていた。広い部屋の中央に台座があって、そこに横たわっている男性を見てクロエラは言った。


 ドックン!


 とても力強い鼓動。


 行かなければ!


 俺はクロエラを追い抜いて、一直線にその男性へ向かう。そうする他ない。そうするべきなのだ。何故なら、あの男性は紛れもなく、


 俺なのだから。


 風である俺は、人間である俺の前まで来た。ほら見ろ、なんて無様な姿だ。よれよれのスーツ。ぼろぼろの革靴。錆だらけの腕時計。糞みたいな会社の糞みたいな業務のせいで、身だしなみはろくに整っていない。女に縁がなかった俺は当然独り身で、髭や爪の手入れもする必要がなかった。


 すうっと俺が俺の中へ入る。視界は暗転し、ぷつりと意識が一瞬飛んだ。そして懐かしい感覚が蘇って来た。低い体温。肌とスーツが擦れる感触。冷たい手足。


 視界は真っ暗だ。俺は目を瞑っているらしい。瞼を閉じている感覚がわかる。ちゅんちゅんと鳥の鳴き声が聞こえて、俺はゆっくりと目を開けた。


 石造りの無機質な天井。俺は起き上がって周囲を見る。吹き抜けの神殿内部。俺がいる中央の台座がぽつんとあるだけ。


 俺は入り口を見た。春の日差しと、雪解け水が滴る草花。それに群がる蝶。そんな神々しい景色が入り口の先から見えた。そしてその神々しい景色の真ん中に、一人の女性が立っていた。


「クロエラ」


 俺は声を発した。何度も思った名前。発声したのは初めてのことで、妙に心がさわさわした。


「あなたが、野原春木君?」


 クロエラが言った名前は、まさしく俺の名前だった。


「どうして俺の名を」


 なんてことを言っていると、ぽわんと音がしてUIが立ち上がった。


「そういうことか」


 俺は全て理解した。なんてことはない。彼女にもこのUIが立ち上がるのだ。彼女は俺を捉えていたのではない。俺の真上に立ち上がったUIを見ていたに過ぎないのだ。


 クロエラが俺の近くまで寄ってきた。すると彼女の匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。春の匂いだ。俺と一緒にいたからだろうか。


「何か私に言うことあるよね」


 フルートの様な声に、俺の思考は誘われる。そうだ。俺はクロエラにずっと言いたいことがあった。


「クロエラ。その」


 俺は言葉に詰まった。


「スカート捲ってごめんなさい」


 するとクロエラは途端に顔を赤くする。


「白いパンツ。君らしくて、とてもえっちでした」


 俺の言葉にクロエラは少し俯く。上目遣いで俺をキッと睨んでいた。


「もうっ! このドスケベ風野郎め!」


 なんてクロエラは言う。ああ、やっぱり可愛い。堪らない。もう誤魔化すのはやめよう。俺はこの気持ちを伝えなければならない。


「クロエラ」


 俺は彼女の名を呼ぶ。クロエラは俺を見つめた。まだ顔が赤い。きっと俺の顔も。


「クロエラ」


 もう一度呼ぶ。彼女は微笑んで俺を見ていた。


「なあに」


 優しい、フルートの音色。


「君のことが……」


 その時、さあっと風が吹き抜けた。俺ではない。しかし俺が呼び寄せたものだ。


 風の音で聞き取り難かったであろう俺の声を、クロエラはしっかり聞き取っていた。彼女は春に咲く花のような笑みを浮かべて、口を開く。


 俺にも春がやって来た。風がそう告げているのだ。

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