最終章「決勝」
決勝当日。
櫻田は早朝から外に出ていた。登の板を一緒に持ち出し、ホテルのスキーヤーズゲートを出た所で立っていた。
仕事をするのにもまだ早い時間だった。だが、部屋でいつまでも考えているのに耐えられなくなり外の空気を吸いにきた。
昨晩は一睡もしていない。
夜明けとともに日光に導かれたように雪の上に現われた。太陽が黄色く見える。昨日同様朝から厳しい北風が吹いていた。
しかし空は澄み切った青空。自分を通り過ぎていく風が清純なものに感じる。そして自分はその風を受ける資格すらない。
櫻田はまだ悩んでいた。
昨日、萩原から電話があった。
「彼が無事滑り終えるなら、それでうちは一向に構わない。彼が決勝で転倒しない保障があるなら、後は君の好きにしていい」
萩原は最後の選択を櫻田に託した。これで萩原自身の手が汚れることはない。櫻田は萩原の命令を断ることができなかった。彼が櫻田に命じたことは唯一つ。
まだ熟成されていない欠陥のあるニューモデルの金具を今回の大会で必ず使用すること。そしてそのためには選手に対する影響を問わない。
櫻田の立場は企業から派遣された一社員に過ぎない。もしこの命令に逆らえば二度とこの世界には戻れないだろう。
また萩原には、選手を引退し行き場のなくなった櫻田をこの世界に留めてくれた恩義がある。
そして今まで萩原と過ごしてきた時間があった。
登がもし無事に決勝を滑り終えたら、また転倒しても登に影響がなければ、何ら問題はない。
しかしそれでいいのか? 私はこれから一生登を裏切ってしまったことを心に刻んで生きていかなければならないのだろうか。
それともそれぐらいのことをしなければこの戦いの舞台に居続ける事ができないのだろうか。
櫻田はスキーを愛している。スキーと接点のない生活なんて自分には考えられない。他人から見ればここまでスキーに固執するのは愚かに思えるだろう。
でも私はスキーを愛しているのだ。これだけは偽りのない気持ちだ。
だが、登に真相を話したくはなかった。登には大人の薄汚れた世界に染められることなく、彼が思うままにこれからも伸びていってほしい。
登ならできる。登なら世界を舞台にトップまで上り詰めることができる。自分ができなかった真の一流スキーヤーに。登は櫻田の夢なのだ。
そして矛盾が起こる。今、櫻田はその夢を壊そうとしている。もし櫻田が全てを打ち明ければ、登は萩原を敵に回しこれから辛い目にあうことになるだろう。それだけ萩原の持つ『ニシムラ』のスキー界に対する影響は強い。やはり登に話すことはできない。
ならばこの不正を全ての人々に告白すればいいのではないか。そうすれば登は傷付かずに済むだろう。
しかしそれもできない。自分に萩原を追い詰めるようなことはできない。
どうすればいい。どうすれば誰もが傷付かずに済むのだろうか。
もし櫻田が誰にも話さず、このニューモデルを登に使わせるとして、櫻田には二つの選択があった。
一つは金具の強度を普通の状態にしておくこと。本来ならば限界を越えた負荷がかかった時に板からブーツを解放する『安全解放』の機構があるのだが、この金具はある程度の衝撃でも板を放してしまう。
もう一つは金具の強度を最大にすること。つまりブーツを板に捕まえておく力を最も強いものにセットしておくのである。これならば滑走中に板が外れて転倒するようなことはまずない。だが、問題なのは転倒しても外れないのである。
櫻田の選手時代がその例だった。転倒した場合、板はむしろ外れてしまった方がいい。そうでないと転倒して動く体に対し、板はストッパーの役目をして逃げ場のない負荷が体にかかってしまうのである。櫻田はそれで足を捻り、靭帯を切断してしまった。
つまり、たとえ転倒するにしても登の安全性を考えれば金具の強度は上げず、登の技術を信用して転倒せずに完走すると考えれば金具の強度を上げておく、というどちらかである。強度を上げるには中途半端では効果がない。もしその中間点にセットすれば両者のメリットを得られるように見えるが、それは同時にデメリットも二倍になることである。
櫻田はあらゆる場合を想定して悩んでいたが、心の中ではこの二つのどちらかを選択しなければならないと薄々感付いていた。
櫻田が握る一本のドライバーで登の運命が決まる。
櫻田は強度メーターのカバーを開けた。
◇ ◇
快晴。森緑。白銀。激光。強風。冷気。
期待。興奮。悦楽。不安。重圧。愛情。
嫉妬。尊敬。憧憬。憎悪。怨念。震撼。
「ハーイ、みんな元気にしてたかな? 昨日の興奮が冷めやらぬうちにもう今日の日が来てしまった。ワールドカップ第七戦ジャパンステージ、ついに決勝の日がやってきた。昨日の激戦から勝ち残った一五人のモーグラー達が、最もクレイジーな奴を決めるために今日もこのモンスターコースを攻めにきたぜ。昨日の予選では転倒者も続出、そのモンスターぶりをしっかりと見せ付けてくれた。当然今日は昨日にも増してモーグラー達はアグレッシブなパフォーマンスを見せてくれるはず。さあ、モーグラー達は果たしてこのゴールまで辿り着くことができるのか? 嬉しいことに今日もたくさんのスキーヤー達がここ舞ケ岳スキー場に詰め掛けてくれた。サンキュー、エブリバディ! じゃあ、今日現われる一五人のモーグラー達を紹介しよう」
ナパーム原沢のDJが場内に響き渡った。
会場にはすでにコースを取り囲むように観衆が集まっていた。旗を持って応援する者や顔にペインティングしている者、すでに選手の名前を叫んでいる者もいる。待ちきれないスキーヤーは場内に流れているBGMに合わせてリズムに乗って体を揺らせていた。
関はすでにジャッジ席に腰を下ろしていた。
関はこの日本で昔からフリースタイルスキーの振興に努めてきた。昔はちょっと目立ちたがりなスキーヤーが集まっただけの、観衆も少ない小さな大会を年一回やるぐらいがやっとだった。
それが徐々に海外の選手を招いたりコーチを呼んで技術の向上を促進してきた。また、日本の中でしっかりとしたフリースタイルの組織を創るのも様々な艱難辛苦が待ち受けていた。何事も新しいことを始めることは難しい。
それが実り始めたのは、このフリースタイルが若者に受け入れられ始めた頃からだろう。この自由奔放な、文字通りフリースタイルな性格が今の若者にマッチしたのだろう。
今では日本でワールドカップが開かれるまでに成長した。フリースタイルは関にとって子供のようなものである。これからもすくすくと育っていってほしい。
関は盛り上がる会場を眺めて目を細めた。
萩原は昨日と同じく貴賓席に座っていた。周りには様々な形でスキー界に携わる関係者達が集まっている。
萩原は日本代表チームのサプライヤーである『ニシムラ』の社長として出席していた。他にも様々なスキーメーカーからその出席者が姿を現している。
まだ発展途上のフリースタイルスキーは、市場としても十分魅力のあるものだった。アルペンやノルディックが比較的一般スキーヤーとは距離が遠いものであるのに対し、フリースタイルは普通のスキー場でもパフォーマンスを可能にする身近な競技である。特にモーグルは日本のスキー場に合っている。
日本のスキー場は外国のスキー場と比べるとやはり敷地面積が狭い。特に急斜面などは外国の広い一枚バーンと比べると否が応にも強調されてしまう。
そもそもコブというのはスキーヤーが滑った後に自然と作られるものであり、狭い日本のスキー場では必然的にターンが多くなりコブもできやすい。また狭い敷地内に多数のスキーヤーが詰め掛けるのだから、ゲレンデじゅうコブだらけになる。今まではそれを日毎に圧雪してスキーヤー達に滑りやすいバーンをスキー場側は提供してきた。
だが、モーグルはそうすること以外の新たな可能性を見出だしてくれたのである。コブの産地といっても過言ではない日本のスキー場に合った、モーグルはまさに日本にうってつけのスキーなのである。
それだけに国内の大会で自社のスキー製品をアピールするのは絶好の機会だった。
『ニシムラ』もその例外に漏れない。今まで基礎スキーと一般スキーヤーに接点を見出だすことにより実績を伸ばしてきた『ニシムラ』は、今新たにモーグルでその分野に挑戦しようとしている。
そのためにも何としても日本初のこのワールドカップに『ニシムラ』のニューモデルを提供しておきたかった。ここで出遅れては他社に先手を取られてしまう。それだけスキー製品にとって『新しい』という概念は重要なのだ。
現に毎年各メーカーからニューモデルが発表され、昨シーズンまでのモデルは見向きもされずに飛ぶように売れていく。大体昨シーズンのモデルは、小売店で五割以上割り引かれた価格で売られているのが当たり前の状況だ。そのためにも『新しい』ということ、ニューモデルを他社より早く発表することは重要な企業戦略の一つだった。
だから萩原は、今回のニューモデルをまだ熟成されていないのも覚悟の上で櫻田に使わせた。実際の市販品が市場ベースに乗るのにはまだ時間がある。当然それまでには問題点の解決や性能の向上も間に合うだろう。だが、とりあえずデザインだけでも一般スキーヤーの目にさらして最低限のパフォーマンスを見せておくことは必要だった。
つまりマテリアルとしての欠陥がクローズアップされない限りはそれでいいのである。幸いこの板を使用することになった登は、どちらかと言えば転倒することにより失格することの多い選手である。これならば転倒してもマテリアルに責任が転嫁される可能性は低い。また彼の特徴である攻撃的な滑りから上位入賞を果たしてくれれば、それはそれで『ニシムラ』としては文句がない。 萩原としては様々なリスクを負いながらも、この好条件を見据えて行動に出たのだった。
萩原は煙草を一本取り出して火を付けた。
目の前に広がるスキーヤー達が、全て自分の会社の客に見える。登の立場などどうでもいい。自社製品が売れればいいのだ。そうやって企業は生き残っていく。使う側もメーカーに勝つために無理注文を投げ掛けてくる。ギブ&テイクなのだ。選手を利用して何が悪い。俺だって利用されているんだ。
櫻田にしても、自分と接することにより得るものが少なからずあったはずだった。櫻田も自分の立場は分かっているに違いない。萩原はそれだけの自信があった。
萩原は中程まできた煙草を雪に投げ捨てた。足を組み、姿勢を楽にする。後は登が滑りだすのが楽しみだった。
一平はあまりの群衆の多さに驚いていた。村の人間全部集めてもまだ足りなさそうである。登に言われたまま会場にやってきたが、すでに人垣がコースを取り囲むように出来上がっていた。
「これじゃ見れんに」
一平は背伸びをしたり飛び上がってみたが、一つ先の人の頭が見えるだけだった。
「参ったに」
何とか人の間を割って前の方に行きたかったが、背の小さい非力な一平はすぐに弾き飛ばされてしまう。何度も試みたが、すでに大会の開始を待って夢中になっている観衆は後のことなど少しも気に掛けない。
「これなら親父連れてきて肩車でもさせるんだっただに。何か仕事とか言ってたけど」
一平はぶつぶつ文句を言いながら目の前の人の山を見て考えた。そして閃いた。
一平はその場に片膝を付いて四つんばいになると、観衆の股をくぐるようにして進んでいった。
「何だ?」
「今何か下を通っていかなかった?」
気付いた時には足元には何もない。一平は鼠のようにすばしこく前に進んでいった。
「あれ、今俺なんか蹴飛ばさなかったかなあ?」
一平は頭を抑えて前進を続けた。やがてようやく前が開けてきた。全て突き抜けたのを確認して一平は立ち上がった。
『何だ?』
一番前に陣取っていた外人が、突然足元から黒い影が伸びてきて驚いた。
『お前は誰だ?』
「おっさん何言ってるに?」
一平は英語で話し掛けてくるその外人に堂々と訛り付きの日本語で答えた。
『お前は英語が喋れるのか?』
さらに外人が捲くしたてる。
「何じゃうるさい外人だに。わしぐらい前に入れてくれたっていいだに」
『お前は日本人か?』
「ジャパニーズ? ジャパン? そうじゃ、わしは日本人だに」
一平は胸を張って答えた。
『そうか、ニッポンジンかグッド、グッド。さしずめお前は「カミカゼボーイ」だな』
どうやらボディランゲージが唯一の有効な手段であるということが両者とも分かってきたらしく、徐々に意図を伝えることが可能になってきた。
『お前は誰を応援するんだ?』
そう言って外人はパンフレットに載っている選手リストを指で示した。
「ふーん、こんなのがあるに。どれどれ、沢井登? これ兄ちゃんのことだに」
一平は別に意味が分かってそうしたのではないが、登の名前を指差すと喜んでいた。
『そうか、やっぱり日本人を応援するか。俺はな、このマーク・ブラッドショーを応援するんだ』
外人は別の名前を指し示した。
「何? マークブラド…、言いにくいだに。おっちゃんはこいつと知り合いか?」
『そうだ、俺はこいつを応援するために仕事場から駆け付けたんだ』
通じてるのかどうか分からないが、二人の会話は友好的に続けられた。
「そうか、おっちゃんも見にきてくれと頼まれた口だに」
『ああ、マークはアメリカじゃモーグル界のヒーローだ』
二人の会話をスピーカーからけたたましい声が遮った。
『どうやらスタートするようだぞ』
「もう始まるか?」
二人の間で最後だけ会話が成立した頃、場内に再びナパーム原沢のDJが聞こえてきた。
「さあ、みんな待たせたな。まもなくモーグラー達の狂宴が始まるぜ。トップバッターは予選一五位、ノルウェーのヤン・クリスチャン・マルクステン。昨日は不本意な滑りだったが今日はきっと見せてくれるだろう。さあ、決勝のスタートだ!」
一番手の選手がスタートしていった。登は四番スタート、予選一二位だった。昨日滑り終わった後は予選通過はぎりぎりと思っていたが、他の選手もこの大型のコブを持て余し転倒する者も相次いでこの順位に入ることができた。
マークはちょうど登の次にスタートだった。エアーのうち一回が無効にされたのにもかかわらず予選を通過するのだから、やはりマークの実力は只者ではない。もしまともに滑っていたら予選一、二位の辺りには付けていただろう。
登は櫻田と最後のチェックをしていた。
「決勝だからって無理しないのよ」
櫻田はそう言いながら板を雪面に擦り付けていた。直前まで板の滑走面を雪の温度に合わせて、ワックスの滑りを良くするのである。
「そうだね。転んでる選手も多いし」
だが櫻田の手には力がこもっていない気がした。
「次の大会もあるんだから、ここで怪我をしたら元も子もないわ」
今日朝に会ってから今まで、櫻田は登と目を合わそうとしない。
「怪我なんてしないよ。俺だって自分の限界ぐらい分かるさ」
登はしゃがんで櫻田の眼を見た。焦点が板に定まっていない。
「あなたはまだ先が長いんだから。私のように途中でリタイアしちゃ駄目よ」
「分かってる」
分かってるよ。
「地元だからって力むこともないし、普通どおり自分の滑りをすればいいから」
櫻田は作業を止めて、板を持って立ち上がった。
「分かった? 無理しちゃ駄目よ」
「ああ」
櫻田は板を登に手渡した。櫻田の眼は哀願に満ちたものだった。口では決して言わない。だが表情で隠しても眼だけは嘘が付けないでいた。
こんな櫻田を登は初めていとおしいと思った。今まではこの女性が見えていなかったのかもしれない。
多く話す人間は何も話していない。
言葉じゃないものから本当のものが分かる。
俺も言葉にはしない。
登は渡された板を装着した。
「見ててくれよ。頑張るからさ」
登は櫻田の肩を叩いた。
櫻田は普段そんなことはしない登に少し驚く。
「は、早くしなさい。もうすぐスタートよ」
櫻田は登を促した。
「じゃあ行ってくるよ」
登はスタートハウスに向かった。
登はスタートハウスで自分の番を待った。スタートを待つ選手達は、みな緊張した面持ちで精神を集中している。
だが登はそれとは違って焦った様子でスキーウェアのポケットをまさぐっていた。
「おかしいな、確かここに入ってたはずなんだけど…」『どうした登、もうすぐスタートだってのに何してるんだ?』
スタートハウスにマークが入ってきた。マークは登の次にスタートだ。
『いやあ、ちょっと捜し物をね。ちゃんと持ってきたはずなのになあ』
登はウェアだけでなくズボンの方のポケットも探している。
『何を探してるんだ?』
マークは忙しそうに探している登を見て不思議な顔をしている。
『コイン。マークが前にくれたラッキーコインだよ。俺の生まれた年のやつ』
二番スタートの選手がコースに飛び出していった。
『ああ、あれか。結構お前も信心深いんだな』
マークは納得した様子で、今度は自分のスキーウェアのチャックを開けた。
『実はな、俺これを持って滑ろうと思ってるんだ』
そう言ってマークは登を手前に呼び寄せる。登はマークの懐の中を見た。
『何これ? どっかで見たことあるような気がするけど』
『フェザーファン、日本語では「ハネセンス」と言うらしい』
マークは黄色と緑の蛍光色で染められた羽扇子を懐に忍ばせて嬉しそうに説明した。
『日本じゃこれを持ってクラブでパフォーマンスをするそうじゃないか。「ジュリアン」の女の子達から借りてきた』
登はまたまたマークの突拍子もない考えに呆れてしまった。
『お前またそんなことしたら今度こそ失格になるぞ』
『気にしないよ。ワールドカップで一回ぐらいポイントがなくたってどうってことない』
『だってお前、総合優勝のタイトルがかかってるだろ』 マークは澄ました顔で言った。
『あんなのグロスピンあたりにくれてやればいい。どうせあいつも今シーズン限りだよ。来シーズンは俺が全部勝つ』
マークは自信ありげだった。たしかに全部勝つとは言い過ぎでも、来シーズンはマークが総合優勝のタイトルを取っても誰も不思議には思わないだろう。
『自信たっぷりだな。それに贅沢な話だ。俺に少しはポイントを分けてくれよ』
三番目の選手がスタートしていった。次が登だ。
『じゃあ、今日が絶好のチャンスだ。俺が失格になればお前の順位が最低一つは上がる。後は入賞するかどうかはお前次第だがな』
マークはニヤリと笑った。マークはマークなりに集中力が高まっている。いつもより攻撃的な話し方がその表れだった。マークの闘争心の高まりが会話にも顕れてくる。
「あ、あった」
『どうした?』
登はスキーウェアのポケットから二五セントコインを取り出した。
『ポケットの隙間に挟まっていたよ。これがないと困るんだ』
登は安心した様子でコインの淵の部分を凝視した。
係員がスタートの準備をするように登に告げる。
登は了解するとその場にしゃがみこんで後ろを向いた。
『何をするんだ?』
登は片手にコインを持ったまま、自分の履く板の金具に手をかけた。
『!』
マークは驚きの余りに声が出せなかった。
「まあ見てろって」
登は金具の強度メーターのカバーを開いた。そして強度の数値を確認すると、その下に付いている強度調整用のねじに先程のコインを合わせる。
少しコインの方が薄かったが、何とか回すことができた。
登は金具の強度を上げていく。最大限にまで回していった。
右側の板の金具の強度を上げると、登はカバーを閉じて立ち上がった。
『これ持っててくれ』
登はコインをマークに投げた。慌ててマークはそれを受け止める。
係員が登の方を見た。
「アー ユー レディー?」
「オーケー」
登はうなずいた。スタート位置に付く。
『登、お前まさか…』
マークの声に登は顔だけを振り向かせた。
「マーク、お前いい奴だよ。昨日は嬉しかった。ありがとう」
『登、なんて言ってるんだ?』
マークは登の日本語が分からずに焦る。
「分かってるよ、マーク」
登は金具の感触を確かめるように一、二回板で雪面を叩いた。
「カウントダウンスタート」
係員の声の後、まもなくスタートカウントの電子音が聞こえてきた。
『お前、知ってて…』
ピッ、ピッ、ピッ。
登はすでに斜面の方を向いていた。
『無茶だ、よせ! 登やめるんだ! おい、係員、スタートを延期しろ。待て登、待て!!』
ポーン。
もうそこに登はいなかった。
「さあ予選一二位、沢井選手のスタートだ!」
全ての観衆の眼が登に注がれる。マークの、関の、一平の、萩原の、そして櫻田の思いが。
登の前に巨大なコブが立ちふさがる。化物だ。どんな勇敢なモーグラー達も跳ね返してしまいそうな恐ろしい影を落としている。
「少しは手加減しろよ」
登は正面から突っ込んでいった。自分の足元にあった雪面が一気にせり上がってくる。
コブは自分に襲いかかる敵を払い落とそうと登の体を突き上げた。
だが登は予想していたかのごとく、上体をやや前かがみにして足を胸元に抱き寄せる。
コブは攻撃をかわされて登を見送ることしかできなかった。
登には振り返ることは許されない。すぐ次に新手のコブが迫っている。一瞬でも油断すれば次々と襲いかかるコブに弾き飛ばされてしまう。
「まだまだ」
重力が登の体をコブの谷間に引き落とそうとする。
登は屈めたばかりの脚を一気に伸ばして、体と雪面との距離をゼロにした。
そして次のコブにかかるとまた瞬時に脚を抱え込む。 敵は遥か彼方まで並んで待ち受けている。
登とコブとの我慢比べだった。
コブはその姿や大きさを変えて登の前に立ちはだかる。それぞれに微妙に違った対応が要求された。
ここで手間取っている場合ではない。少しでもコントロールを失い、板にショックを与えたらそれで全てが終わってしまう。
登の脚はバネのように激しく素早くそして柔軟に上下動を繰り返した。
「やればできるじゃないか」
体中の全ての血が脚部に集中しているようだ。小刻みな熱い振動が登の体に伝わってくる。
跳ね上がる心搏数。高まるアドレナリン。
興奮が登の体を覆い尽くす。
気が付いた時はもう一回目のエアーだった。
素直だが一際さらに巨大なコブが登を待ち受けている。今度は登が自ら飛び出す番だ。
ダブルツイスター。
空中に飛び出した登は、これでもかと言わんばかりに体を強烈にねじる。一八〇度を越える角度だった。
なぜそこまでリスクを冒す。お前は何のために滑るのだ。
登は着地に細心の注意を払った。そのためにもトリプルではなく時間の余裕があるダブルを選んだ。自分の実力は分かっている。今だけはまだ我慢しなければいけない。
空中パフォーマンスを終えるとすぐに着地体勢に入る。脚を伸ばし、板が雪面に触れると同時に膝のクッションを最大限に活用した。
上体がやや後ろに傾く。ショックを和らげることに集中しすぎたのだろうか、衝撃を後ろに逃がしてしまった。
「させるかよ!」
登の腹筋に力が集中する。高速で前に進み続ける板に体を強引に引き寄せる。
その時足元が一瞬ぐらついた。ここまでの滑りで早くも筋肉が震えてきている。余りにも通常以上の力でターンに気を使っている分、脚への負担は倍増していた。
だが、登はすぐに第二のコブの山へと危険な領域に入っていく。
『あいつ、壊れるぞ!』
マークはスタート地点で何もできない自分に悔しさをあらわにしていた。
「ここからだ」
関は黙って冷静に登の技術をチェックしていく。
「兄ちゃん、なかなかやるだに」
一平は外人に肩車をしてもらって登の滑りを見ていた。
「いつまで保つかな?」
萩原は姿勢を変えずにじっと眺めている。
「登、やめて…」
限界へと突入していく登の姿を櫻田は静止することができなかった。
登の上体のブレは大きくなっていった。それだけコブの衝撃を受けてしまっている証拠だ。
意識は足元の金具に集中される。まだだ。まだ頑張ってくれなくちゃ困る。
登は金具の強度を強めた右側の板に負担を傾けていった。
筋肉がもう限界だと悲鳴を上げる。
登は自分の日頃のトレーニング不足を恨んだ。こんなことなら夏もちゃんと練習に参加するんだった。だが今後悔しても何にもならない。
「もう少し…」
歯を食いしばる。足の指先から徐々に力が抜けていくのが分かる。踏張りが効かない。許容範囲を越えたスピードが風となって登を襲う。
登はスピードコントロールをあきらめた。このままゴールまで突っ込むしかない。転がってでもゴールに駆け込んでやる。
登がほとんどターンをせず直線的に滑りが変わっていくのを見て会場は騒めいた。極度の興奮が不安に変わっていく。
「ああっと、完全にスピードを抑えられなくなっているぞ。これは危ない! このままゴールまで行く気か!? だがまだ第二のエアーが待っているぞ!!」
ナパーム原沢の悲痛な叫びが場内にこだました。それに刺激されたかのごとく場内はさらに騒めきだつ。
「登、もういい。エアーは避けてそのままゴールまで行って!」
櫻田の言葉が届くはずもなかった。
登は徐々に頭の中が空白になってきた。頭まで突き抜けてくるはずの衝撃も、誰か別の人間の体が受け止めているようだ。
自分は一面に敷き詰められた白い物体の上を浮遊している。体が流れるままに前に進んでいく。
何にもない。自分の体さえ見えない。ただ白だけが眼に入ってくる。
体が軽い。重力にさえも縛られていない。人の声も思惟も、自分の息遣いも欲望も、何もかも存在しない。
何にも束縛されていない。
俺は何のために滑ってるんだ?
そこにあるのは…。
「沢井、猛スピードのままエアーに入ってしまった!!」 登は太陽に向かって飛び出した。観衆を眼下に見下ろし、視界には澄んだ青しか見えてこない。
登の体が強風に煽られた。体躯が横に傾く。
「やめてー!!」
櫻田が絶叫した。
登はそのまま横に回転していく。
『バカ、お前まだやったことないだろ!』
マークには登のやろうとしていることが分かった。
登は自分の体を軸にしてコマのように体の向きを変えていく。両手は祈るように胸に交差して合わせられている。
登は空中でゴールを背にする形になった。
一平は口を開けたままだった。
関がジャッジ席を乗り出した。
萩原は体をびくっと震わせた。
登の体はさらに回転を続けた。徐々に正面に向き直ってくる。
『足りない!』
マークは叫んだ。
登の体が二七〇度程回転した時に、登の足は雪面に迫っていた。
強風がさらに登の体を揺さぶる。
爆発するような雪煙が登の着地地点に舞い上がった。
場内を水を打ったように張り詰めた静寂が襲った。女性の悲鳴が上がる。
雪煙から直線的な物体が跳ね上がった。それは力なく放物線を描いて落下していく。
板が雪面に突き刺さった。
『登!』
雪煙が消えた時、そこに登の姿はマークには見えなかった。
だが一平には見えた。
「兄ちゃん、それだに!」
一平には雪煙の中からもう一つ飛び出してくる影が見えた。
登だ。
右手のストックが曲がっている。その手はもう使っていない。
そして登の足には右足にしかスキー板はなかった。登は片足だけで滑っていた。
静寂が歓喜に変わった。
櫻田はその場に力なくしゃがみこんだ。
萩原は思わず席を立った。
登にもう滑ることはできない。後はスピードに任せて、バランスが崩れないのを祈ってコントロールラインを通過するだけだった。
「来い! 登」
関がその場で声を張り上げた。
マークは懐の羽扇子を放り投げた。するとスタート位置から離れてスタートハウスの出口に向きを変えた。
『見てらんねえぜ』
マークはスタートハウスを出ようとした。
「君、次のスタートだぞ。早く位置に戻りなさい!」
係員が呼び止める。
『いいよ、失格で。マーク・ブラッドショーは自信を無くして滑るのを放棄したと伝えてくれ』
マークは係員の制止を無視してスタートハウス前に出ると、その場に突っ伏している櫻田を見付けた。
『お前も来い!』
そう言うとマークは櫻田の手を掴んだ。
「何するの!?」
驚く櫻田を無視して、マークは両手に櫻田の体を抱えて持ち上げた。
『泣いてる場合じゃねえんだよ。登が心配じゃないのか?』
櫻田ははっとした。まだ自分にはやるべきことが残されている。
「早く」
『つかまってろよ』
マークはコースの横の普通のゲレンデを、櫻田を抱えたまま一気に滑りおりていった。
その時、ゴールでは二回目の雪煙が上がっていた。そこはゴール前に設置されているジャッジ席と貴賓席のちょうど間だった。
今度は登は完全に雪面に横たわっている。激突の衝撃でテントが崩れかかっていた。周りに座っていた人間は大騒ぎだった。
「登、大丈夫か?」
関が登に駆け寄った。
「…っう。あ、関さん」
登は関の顔を認めると立ち上がろうとした。
「あれ? すみません、そこの骨組みに挟まっちゃった板を外してくれませんか?」
関は言われた方を向くと、まだ外れていない板を見て不思議に思った。
通常ならこれほどの衝撃が加えられたら金具の安全解放機能が働いて、板は間違いなく外れるはずだ。
「待ってろ」
関は金具のスイッチを手で押した。なかなか押し切ることができなかったが、両手でやってどうにか板とブーツを離すことができた。
「随分硬いな?」
「ちょっと分けありで…」
登は舌を出して苦笑した。
関はある考えに思い当った。公式練習と予選の登の転倒。そしてここで強度を上げてある金具。突然の『ニシムラ』のニューモデル発表。
そして萩原は予想しない結果にその場に立ち尽くしていた。
「萩原さん、あなたは確か『ニシムラ』の社長でしたね」
関は登の元を離れて萩原に近付いていった。
「そ、それが何か…」
萩原は焦る様子を隠しきれず後退りをした。
「大会終了後、全日本スキー連盟の理事としてお話があるのですが」
関は普段は見せない厳しい表情で萩原に迫った。
「話すことなど、別にありません」
「あなたに無くても私にあるんです。私のジャッジが終わったらこちらからお伺いします」
登は何とか自力で立ち上がった。右手に全然力が入らない。着地の時、崩れかけた体勢を無理にストックを突いたのがいけなかったのであろうか。
そして右足も痛んだ。左手で何かに掴まっていないと歩くことができない。
「やっちまったかな」
登はテントからゴール前に出てきた。その姿を確認すると会場から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「ああ、沢井選手が出てきた! 足を引きずっているがどうやら大丈夫のようだ。今、歓声に応えている。ここまでこのモンスターコースに恐さ知らずに突っ込んでいったモーグラーが今までいただろうか? …おっと、ここで残念なニュースが入ってきた。次にスタート予定のマーク・ブラッドショー選手だが、棄権するということで…、あれ、あそこにいるのはマークか!?」
DJの声に促されて観衆は辺りを見回した。すると選手用通路から逆にゴールに向かってくる人影があった。 一人はゆっくりと歩いていたが、もう一人は雪に足を取られながらこちらに向かって走ってきた。
「櫻田さん!」
櫻田は人を掻き分けてくると、登の前に現われた。頬には涙が流れた跡がある。
「登、どこか痛む所は?」
櫻田はいつもの気丈な話し方で登に尋ねた。
「え? えっと右手が凄く痛くて、右足がちょっと痛い。あとは…疲れた」
戸惑う登を尻目に櫻田はすぐに登の足元に片膝を突くと、登のブーツを脱がしにかかった。
「い、痛いよ。痛い!」
「我慢しなさい!」
ここまできて怒られると思わなかった登は意気消沈して櫻田に従った。
「どこ? 足首? 膝?」
「足首」
櫻田は登の踵を持って少し曲げてみた。
「・」
「どうやら大丈夫のようね。足自体は動くみたいだし、きっと捻挫ぐらいよ」
櫻田は足を離し、登の左手を自分の肩に回した。
「あの、手の方は…」
「ちゃんとつながってるでしょ。腕の一本や二本折れたってスキーはできるわ」
「そんな…」
登は櫻田に肩を借りて歩き始めた。
登は櫻田にどう弁明しようか考えていた。自分で勝手にマテリアルをいじったとなれば、いつも以上の雷が落ちるに違いない。
「兄ちゃん、今度はうまくいっただに」
客席の方から聞き覚えのある声がした。
「おう、一平来てたか」
一平は外人に肩車をしてもらいながら手を振っていた。
「お前と練習して良かったよ。また今度滑ろうな」
「明日は駄目かに?」
「ちょっとそれは勘弁してくれ」
登は自分の足を指差して見せた。一平は仕方なく了解したようだが、やはり残念そうだ。
「兄ちゃん、もう帰っちゃうか?」
「明日にはな」
一平はさらに落ち込んでしまった。登もそれを見て気の毒になった。
「また来年も来るよ。それまでお預けだ」
一平は下を向いたまま返事をしない。
「しょうがないだろ。俺だってやることあるんだから」「…約束だに」
「約束だ」
登と一平との距離は離れていたが、互いに意志は通じたようだった。一平は目の辺りをこすっているが、登にはそれが何をしているか見えても分からないことにした。
一平は手を振った。肩車をしている外人も手を振った。言葉は分からずともそれなりに別れのシーンであることは理解したらしい。その外人の顔に水滴が一つ落ちてきた。
「ところで練習って何?」
黙って二人のやりとりを聞いていた櫻田がいぶかしげに尋ねてきた。
「え、あ、まあ本番に向けての秘密練習を少し…」
「ふーん。子供相手に」
櫻田は登の足を爪先で突いた。
「がっ!」
「まあ、いいわ。これでしばらく悪さはできないでしょ」
「良くない…」
登は目に涙を貯めて痛みを訴えたが、櫻田はまるで気にせず登に肩を貸しながら歩き続けた。
と、櫻田が歩みを止めた。目の前に男が一人立っている。
「萩原…さん」
萩原は二人の前に立ったままその様子を見つめていた。登は敵意丸出しで萩原を睨む。
「残念だよ、こういう結果になって。君のせいでニューモデルの発売は白紙に戻りそうだ」
萩原にはいつも見せる余裕の表情はなかった。
「てめえ、今更櫻田さんのせいに、っつう、痛てえ!」 登は萩原に組みつこうとしたが、足の痛みがそれを妨害した。櫻田は登の体を受け止める。
その様子を萩原は確かめるように見ていた。
「萩原! 櫻田さんがどれだけ苦しんで…」
「いいの、登」
櫻田は登を制止した。
「ちょっとごめんね」
櫻田は肩に回していた登の手を元に戻すと、萩原に歩み寄った。
「今回は全て私のミスです」
萩原は黙っていた。
「選手に対して適切なアドバイスをできなかったのも、マテリアルの面で現場の人間として問題を解決できなかったのも、そして選手を裏切り、一企業の社員として上司命令を遂行できなかったのも、全て私の責任です」
櫻田は淡々と述べていった。
「そうか。それで君はどうする?」
「辞めさせていただきます」
「俺が辞めさせるとでも思っているのか!」
萩原は強い口調で答えた。
登が櫻田の前に立ちはだかる。
「やめろよ、これ以上櫻田さんを責めるな」
「君の立ち入る問題じゃない」
「てめえ!」
登の拳が萩原の顔面を捉えた。萩原は後ろによろめくと尻餅をついた。頬に手を当てて萩原は立ち上がる。登は殴った勢いで雪の上に倒れてしまった。
櫻田が登を起き上がらせる。
「元気な若者だな」
萩原は殴られた箇所を気にしながら櫻田に言った。
「あなたが止めても私はもう戻りません。辞めさせて下さい」
櫻田の視線が萩原の眼に訴えている。萩原は櫻田の眼を見つめた。二人とも相手のことは見ていない。二人の過去を見つめている。
しばらく時が止まった。
「…そうか。もう戻らないか…。分かった。君を本日付けで解雇する」
「ありがとうございます」
櫻田は萩原に深々と礼をした。
「本当に長い間…ありがとうございました…」
萩原は返事をせず踵を返した。黙って櫻田から離れていく。登はただそれを見送っていた。
萩原が立ち止まった。
「あのドレスは退職金代わりに持っていてくれ」
櫻田は頭を上げた。
「いえ、後で会社にお送りします」
萩原はしばらく考えていたが再び歩きだした。
「そうか…」
萩原は今度は止まることなく二人から遠く去っていった。
◇ ◇
登は櫻田に救護室に運び込まれた。しかし、そこには誰もいなかった。
「おかしいわね。たしかここのはずだけど」
櫻田は登をベッドに座らせると、一度部屋を出て辺りを見回した。たしかにここが救護室である。
「変ね、誰もいないなんて」
櫻田は部屋に戻ると医師用の椅子に座った。
二人だけの空間が初めて出来上がった。
登は自分からは何も言いだすことができず、怪我の具合を気にしながら櫻田と眼を合わせないようにした。
「…マークに聞いたわ。登、知ってたんだってね」
櫻田は下に俯きながら先程までとは違う力ない声で言った。
「誤解しないでくれ、知ったのは昨日の夜だから。櫻田さんとマークが口論しているのを聞いて初めて…」
登も自分としてはやることはやったわけであり、後は櫻田次第だった。
「そうだったの。馬鹿ね私って。自分だけが苦しんでいるとばかり思っていた」
櫻田は椅子から立つと、登の座るベッドへと歩いていった。
「別に櫻田さんが悪いわけじゃ」
「悪いのは私よ。登のことを少し過小評価していたみたい。私なんかいなくても登はちゃんとやっていけるわ」 櫻田は登の隣に座った。
「俺、そんな…」
「一年間だったけど色々と勉強になったわ。もう私は『ニシムラ』の社員じゃないから、あなたのサポートはできない」
登は弱気な櫻田に少し怒りすら覚えた。
「何言ってるんだ、そんなのどうにでもなるだろ。今更投げ出す気か?」
投げ出すという言葉に、櫻田の心は痛みを感じた。
櫻田は自分の履いている作業用のズボンを下から上げていった。
「そう、私はこれで最初に投げ出したの」
櫻田は裾を巻き上げると、膝にある手術の痕を登に見せた。痛々しい縫合の痕跡が残っている。
「その場その場では一生懸命やってるつもりなんだけど、結局逃げ出しちゃうのよね。自分の失敗に耐えられなくて」
「俺はしょっちゅう失敗してるよ」
登は必死に櫻田を思い留まらせようとした。
「それは私が女であなたが男で、…それはちょっと安易ね。あなたと私じゃ生き方が違うから。私はあなた程強くないから」
「そんなの言い訳だよ。甘えてるだけだ」
「甘えてるか。登に言われるとはね…。でもその通りかもしれない」
櫻田はその場で姿勢を正した。
「甘えついでで、一つお願いがあるの」
「何? 櫻田さんの頼みなら」
登も思わず姿勢を正した。
「膝を貸してくれない?」
「膝? 別にいいけど」
登は自分の膝を見つめた。このろくに動きもしない足をどうするのだろうか。
「痛いかもしれないけど」
そう言うと櫻田は登の膝元に顔を擦り付けてきた。
櫻田は泣きだした。
言葉にならない嗚咽を叫んで、登の膝に涙を擦り付けていった。
登の体に怪我の痛みが伝わってきた。
その痛みは登のものだけではない。
出発
登の順位は結局九位だった。
昨日の風はもうやんでいた。
だが空はどんよりと曇り、雪が降っている。
コースはすでに撤去されて、舞ケ岳スキー場は普通のゲレンデに戻っていた。
平日ということもあり斜面を滑るスキーヤーの数は少ない。
ホテルのスキーヤーズゲートから登と櫻田が出てきた。
登は右手を包帯で吊し、右足を時折引ずりきながら歩いている。悪戯をする前のわくわくする子供のような笑顔をしていた。
櫻田はいつものサービスマン用のユニフォームとは違う、ツーピースのスキーウェアを着ていた。櫻田は好対照にいやそうな顔をして登に背中を押されている。
櫻田の手にはかなり旧モデルの板が握られていた。板の表面に何か削られた跡がある。
登は櫻田を説得しながらゲレンデに歩いていった。
櫻田は少し笑みをこぼしながらも、その足取りは重い。
登は櫻田から板を取り上げると、自分の手で雪面に敷いた。その場に座り込み板に向かって両手を差し伸べる。
櫻田は仕方なく足を板の上に乗せた。
力を込めて踏み込むと心地好い音がしてブーツが金具によって固定された。
登はそれを確認すると櫻田に前に進むように促す。
だが櫻田は足元が気になって自分で金具の辺りを点検しようとした。
登は手で櫻田にストップをかけると、ポケットから二五セントコインを一枚取り出した。
カバーを開けて強度を確認する。コインでねじを一、二回まわした。
カバーを閉じると登は櫻田に具合を伺う。登は体を乗せて板を雪面に固定した。
櫻田はそれを見て足に力を込めて板を持ち上げようとした。
上がらない。
今度は登が櫻田の足を固定したまま、ブーツを強引に横に動かした。
今度は板が外れた。
登はにっこりと笑う。
櫻田も笑いながらうなずいた。
櫻田はストックで勢いを付けて、ゆっくりと前に進みはじめた。
登が座ったまま拍手をする。
櫻田は振り返って登を怒った。
だが足元はいまいちおぼつかない。
ある程度進むと向きを変えてこちらに戻ってきた。板をハの字にして慎重に滑ってくる。
登は身振り手振りで櫻田に滑り方を教えた。
櫻田は黙ったまま足元を見てうなずいている。
何とか登の元まで辿り着いた。
登は立ち上がり手を広げて歓喜の表情を見せる。
照れる櫻田。
そこに一人の外人がやってきた。
二人に英語で話し掛けてくる。
二人は突然の訪問に驚いたがその外人の話を聞く。
登は驚いた表情で櫻田を見た。
櫻田は悩んでいた。
登はどうしたんだと言わんばかりに櫻田の腕を叩く。
櫻田は首を横に振った。
必死に説得する登。
だが、櫻田は話を聞いても悲しそうな顔をして黙ったままである。
突然、そこにいた三人を雪煙が襲った。
頭から雪を被り登は思わずバランスを崩して転んでしまった。
雪煙がやむとそこにはマークが立っていた。上から滑ってきてブレーキングの雪飛沫を登達に浴びせたのだった。
怒る登をなだめながら起き上がらせるマーク。
マークは二人に話し掛けてきた外人の肩に手を乗せて話し始めた。
その外人もスマイルしてマークの話を聞いている。
登は合点がいったらしく改めて櫻田に引き受けるように説得した。
マークもその外人も登の後に続いて色々と喋り続ける。
櫻田は俯いている顔を上げた。
三人の口が止まる。
息を呑んで櫻田を見つめる。
櫻田は押し黙ったまま首を縦に振った。
登は大喜びでその外人と握手をした。マークも握手を求めてきた。
そして登は櫻田を抱き締めた。
◇ ◇
舞ケ岳スキー場を発つバスは、もうすぐ出発しようとしていた。行きとは違う、普通の乗り合いバスである。 乗っているのは登だけだった。
登は先程の外人から、とりあえず櫻田を日本に留まらせてほしいということを伝え聞いていた。
見送りには櫻田と関が来ている。
登は窓越しに、しばしの二人との別れを惜しんでいた。
櫻田は遠征先での色々な注意をする。登は時折顔をしかめたが、その度に櫻田が睨むので素直にうなずいた。 関はあまり多くを語らず、二、三言告げると登と握手をした。
運転手がバスに乗り込む。まもなく出発だった。
その時、道の向こうから大声で叫ぶ少年が走ってきた。
登は見覚えのある長髪に嬉しくなってこちらから手を振った。
一平は息を切らしながら出発寸前のバスに辿り着いた。
一平はもう一度、かならずまた来ることを約束してもらう。
登は窓越しに一平の頭を撫でて約束した。
関が一平の頭を小突いた。反抗する一平。関は無理をさせてはいけないと一平を叱った。
登は不思議な顔をしてその二人を見る。
一平は関の横に納まった。
関は一平が自分の息子であることを告げた。
驚く登。
一平は父と登に面識があることに驚いていた。
登は一平の母のことを思い出した。
思わず関の顔を見る。
関は何の心配事もなさそうに笑っていた。
登はそれを見て安心した。
バスの運転手が出発を告げた。
手を振る一平。
登もそれに応えた。
櫻田は柔らかい表情をして登を見つめていた。
登はそれを見て黙ってうなずいた。
櫻田は目元をわずかに細ませる。
バスが動きだした。
一平はその動きに合わせてバスを追い掛けながら手を振り続けていた。
関はその場で立ち止まったまま片手を上げている。
櫻田はバスに向かって軽く頭を下げた。
まもなく登から三人の姿は見えなくなった。
バスは林道を車体を揺らしながらゆっくりと進んでいく。
登は窓から舞ケ岳を見上げた。雲がかかり頂上までは見えない。
席の向こうではもんぺを履いたおばさんが二人、地元の方言で話していた。
登はその違和感に気付く。
思い出した。一平のあの訛りは信州のものだった。
開け放したままの窓から、登の体に雪の結晶が舞い下りてきた。
登の体に付くと、やがてそれは溶けて姿を消していく。
登は窓から入る風を顔で受け止めていた。
登の髪を風が後ろに靡かせる。
風が心地好かった。
バスの振動で足に痛みが走った。
思わず登は苦笑した。
登は眼を閉じて体の力を抜く。
頭の中に櫻田の言っていたことが浮かんできた。
登は呟いた。
「自由、か」
(完)
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