第4章「予選」

 フリースタイルスキーの大会は屋外競技のため天候に左右されやすい。モーグル・エアリアル・バレエともジャッジの目によって演技に点数が付けられていく。

 スモッグや極端な風雪のために視界が悪くなると、大会は一時中断することもある。選手達にとっても自分が滑る雪面が見えなくなるのは滑りを著しく困難にする。モーグルでは視界が悪くなると、コブの上に炭や着色料などを撒いてそのグラデーションが際立つように工夫することもある。

 予選日の舞ケ岳スキー場は、時折強い風が吹く決して良いコンディションとは言えない状況だった。当初は大会を延期する動きもあったが、雪は降っておらず視界は確保されているので通常通り開催されることに決定した。

 山の天気が変わりやすいのは、スキーヤーならずともよく知られている。今後天候が悪化してきたらやはり大会は一時中断されるかもしれない。

 そしてその微妙な違いが選手達に影響を及ぼすこともある。人間は常に自然に支配され続ける。だが、それに打ち勝つことができる選手だけがこの世界で生き残れるのである。

 雪との闘い。それは自然との闘い。

 闘いの幕は今まさに切っておろされようとしていた。

 会場には強い風にもかかわらず多数のスキーヤー達が、あの巨大なコブに果敢に突っ込んでいく気違いじみた奴らを見てやろうと集まっていた。仕切られたコースを囲むようにたくさんのスキーヤー達が選手達の訪れを待っている。

 場内には設置されたいくつかのスピーカーから軽快なディスコサウンドが流されていた。やがて音声が小さくなり、人間の声が聞こえてきた。

「ハーイ、エブリバディ。元気にしてたかな? ついにフリースタイルがこの日本にもやってきた。ワールドカップ第七戦ジャパンステージは皆が待ってたここ舞ケ岳でついに行なわれる。さすがだね、日本のスキーヤー達は。こんな天気でも平気でやってくるクレイジーな奴らばかりだ」

 場内から歓声が揚がる。

「でももっとクレイジーな奴らが、これからこのモンスターコースに無謀にも挑戦しようとしているぜ。俺達はそんな本当に狂っちまったモーグラー達を、この目でしっかりと見届けてやろう。司会は日本のクレイジーDJナパーム原沢だ、よろしく!」

 場内から再び歓声が聞こえてきた。

 モーグルはその激しさやパフォーマンス性から若者達に人気がある。スポーツとして完成を目指す反面、そのエンターテイメントとしての役割も主催者側は常に意識している。

「さあ、今日のルールを簡単に説明しよう。選手達はあの赤いスタートハウスから飛び出して、一気にゴールまで滑り降りてくる。もちろんあのコブの中をだ。そしてその滑りを恐いジャッジ達が厳しいポイントを付けて下さるという寸法だ。見るのはコブを攻撃的に、そしていかに的確に滑ったかを見るターン。レース中二回あるジャンプでパフォーマンスをするエアー、そしてタイムとそれぞれを計算したポイントがゴール地点にある電光掲示板に表示される。全選手の中から上位一五名だけが明日の決勝に出場できるサバイバルマッチ。さあ、明日もこのモンスターコースを滑らなければいけない不運な、いや幸運なモーグラー達は誰か? Don’t miss it! なお、今流れているサウンドはメトロポリス東京から今日の大会を盛り上げてくれるために来てくれた『ジュリアン』のご機嫌なテクノだ。ジュリアンクィーン達も応援に駆け付けてくれたぜ。ヘイ、ガールズ、調子はどうだい?」

 ゴール地点で派手な蛍光色のスキーウェアを着た女性達が手を振って奇声を上げた。

「オーケー。彼女達もすでに導火線に火が付いちまってる。あとはモーグラー達が現われるのを待つだけだ。はやる気持ちは分かるけど、もう少しだけ待ってやってくれ。じゃあ、また後で。サンキュー!」

 場内は大歓声に包まれた。ただでさえ今かと選手達を待っているのに、さらに高揚させられてかなり雰囲気は限界に近付いていた。

 スタートハウス前では各チームが最後の調整に終われていた。サービスマンは温度を合わせるために雪の中に埋めておいたスキー板を取り出す。

 選手には自分の集中力を高めるために目をつぶって空を仰ぐものがいる。

 あえてチームメイトと気さくに会話をする者もいる。 冷たい風の中筋肉が縮まらないようにコーチのマッサージを受けるものもいる。

 全てが緊張に包まれていた。

 予選とはいえ、その当落線上にいる選手達にとってはこの日が決勝である。今日をウォーミングアップと考えられる選手はほんの一握りしかいない。

 当然、登は今日が勝負の日だった。今まで何度も予選落ちをしている。全て転倒してのものだ。攻撃的な登の滑りは常にリスクを伴う。時折『一発屋』とか『カミカゼ』と呼ばれることもあった。ならば今日も転倒さえしなければまず予選は通るだろう。

 だが、今日の登にその気持ちはない。最初から攻める気持ちしかなかった。もちろん作戦などない。ただ攻めるのみ。自分を試すなど少しも考えていなかった。

「登、準備はできてるの?」

 櫻田が板を持ってきた。

「うん、いつでもいいよ」

 登はすぐにその板を受け取ると雪面に置いた。足を合わせると体重を掛けて思い切り踏みしめる。

 気持ち良い金具がブーツを捕まえる音が足から伝わってきた。

「俺、何番スタートだったっけ?」

 櫻田は当然覚えてはいたが、懐から出走表を取り出して確認した。

「五番目。早い方よ。まだ削られていないコブが残っているわ」

 スタート順には様々な考え方がある。早目にスタートし、インスペクションの時とあまり変わらないコースを滑るというメリットを得られることもある。また前の選手達の滑りを見て、自分の滑りのレベルを調整する後半スタートも有利である。そしてその条件は各選手にとって違う。

 登の場合、最初から百パーセントの力でいくことを考えると早目のスタートの方が良かった。

「それ見せて」

 登は櫻田から出走表を受け取った。いきなりマークの名前が載っている。

「あいつらしいや」

「え、誰のこと?」

「マークだよ」

「ああ、マーク・ブラッドショーね。珍しいわね、彼ほどの選手が一番スタートを選ぶなんて」

 予選のスタート順は今までのワールドカップ総合ポイントで上位の選手から選ぶことができる。予選突破を確実視している選手達は最終スタートから選んでいくのが普通だった。その方が彼らにとって余裕のある滑りができる。

 登はマークの姿を探して辺りを見回した。するとすでにマークはスタートハウスに入ろうとしていた。競技開始は近い。


「待たせたなエブリバディ、いよいよ競技開始だ。一番最初に現われる飛び切りの目立ちたがりやは、現在ランキング第三位、アメリカのマーク・ブラッドショーだ。いきなりハイレベルなモーグルが見れると思うと、もう俺はちびりそうだぜ。BGMは『ジュリアン』レーベルの“I wanna be FREE”!さあ、頼むぜマーク!」

 場内に流れる音楽が変わった。先程までと同系等の音楽だったが、いきなり女性の叫び声が響いた。

『ヒャッホー!』

 その出だしに合わせるようにマークも叫ぶと、マークはストックを支えにして大きく後ろに振りかぶった。

『GO!』

 出だしからマークは飛び出してきた。

 マークの目にはコブが映っているのだろうか。まるで平らな一枚バーンを滑っているかのように、真っすぐ下に進んでいく。

 どんな巨大なコブも瞬間的な足の伸縮でショックを吸収してしまう。場内は歓声すら揚がらなかった。

 マークは一回目のエアーに入った。コブの前でわずかにスピードをコントロールすると、空中に飛び出す。

「トリプルツイスト! いきなりトリプルの大技だ!」 ナパーム原沢の解説が入った。

 ツイストは自分の体を軸にして身をよじるように板を水平に九〇度ずつ回転させる。それを空中で右左右と三回やってのけた。

 それでもまだ空中で余裕のあるマークは体勢を整えて着地、すぐにまたコブに対してアタックを再開した。

 今度はスタート直後よりもややスピードを落としていた。だがそのターンテクニックに魅了されてスキーヤー達は全然気付かない。マークは次々とコブを丁寧にクリアしていく。これだけでマークの予選通過は確実だった。

 二回目のエアーの前でマークはさらにスピードを落とした。さすがにモーグルにしては極度にスローな滑りに場内は騒めく。だがそれは次のエアーに何かを予感させるものだった。

 マークはストックを突かずに両手を真横に広げた。

「マーク、何をする気だ!?」

 ナパーム原沢が思わず叫ぶ。だがすぐにその答えは出た。

 マークはコブに任せたまま跳ね上がると、そのまま空中で逆さまになった。その危険な姿勢に悲鳴もいくつか聞こえた。

 だがその悲鳴を裏切りマークはそのまま垂直に一回転するとやや前のめりになったがなんとか着地した。

「ああっと、いいのか? これはエアリアルのバックフリップレイアウト、後方伸身宙返りだ!」

 二回目のエアーからゴールまではあまり距離はない。マークは着地のショックを受けてややふらついていたが、なんとかゴールまで辿り着いた。

「これは驚いた、なんと違う競技のエアリアルの技を使うとはこれはおそらく、いや間違いなく世界初だ! これには難度も設定されていないし過去にも例はない。さあ、ジャッジはどんなポイントを付けるのか!?」

 マークはゴールに着くとすぐに板を外してそれを掲げるとガッツポーズをしてみせた。それに反応して沸き返るような歓声が聞こえてくる。ゴール前で待っていた『ジュリアン』ガールズ達がマークを取り囲んだ。すでに優勝したような大騒ぎである。

「さあ、まもなくポイントが出ます。…一八・二五、おおっとこれは意外に低い点数だ。早くも場内からブーイング、一体これはどうしたんだ? ジャッジの目は節穴か!」

 ナパーム原沢は観衆に後押しされてやや過激な発言をした。マークはWHY? と両手を曲げてみせる。

 ナパーム原沢はさらに色々とまくしたてたが、隣に座るアシスタントからジャッジの経過を示す紙が渡された。

「みんな静かに。ジャッジから今のマークに対するポイントについて特別に基準が発表されました。二回目のマークのエアーは規則にある『意識的な回転技』とみなし、このエアーに関してはポイントゼロとなったそうです」

 場内からさらにブーイングがまき起こった。だが、マークの次には自分の滑走を待つ二番目の選手が待っている。マークは手を上げて観衆に応えると、『ジュリアン』ガールズをはべらせて選手用通路に消えていった。観衆はそのマークの潔さにさらに歓声を揚げて応えた。


「参ったな、マークにあんなことされると後に滑る俺達かすんじゃうよ」

 登はスタートハウスの横からマークの滑りを眺めて苦笑いをしていた。

「ああいうのは登には関係ないから。ほら、気持ちを切り替えなさい」

 櫻田が登の背中を叩く。だが、登はマークのあの歓声を浴びる滑りが羨ましくてたまらなかった。

「…でも、一八・二五か。この点数なら何とか予選は通るわ。それだけターンともう一つのエアーが良かったってことね。さすがは若手ナンバーワン、といったところかしら」

 櫻田は冷静にマークの滑りを分析した。

「そうでなくちゃ、マークは俺の前を滑らなくちゃいけないんだ」

 登は昨日の朝、マークに冗談で言われたことを思い出した。そう思うと、もしかしてマークは最初からあの一回転が無効になっても決勝に勝ち上がる自信があったのではないだろうか。そうならば、登はマークの実力と大胆さに両手を上げるしかない。

「おおっと! 二番スタート、オーストリアのラッセ・シュナイダー転倒!! エアーの前でオーバースピードになりそのまま弾き飛ばされた! これは先程のマークの影響でしょうか? ラッセ、悔しがっています」

 ラッセというその選手はストックを雪面に叩きつけながら、コース横に退場していく。彼の今大会はこれで終わりである。

「言ったこっちゃない。変に意識するからああやって墓穴を掘るのよ。登も分かったでしょ」

 櫻田はそれ見たことかと説明したが、登にはラッセは可哀相な犠牲者に映り、むしろ悪いのはマークの方に感じた。

 二番スタートの選手があっけなく競争を中止し、すぐに三番目の選手がスタートしていった。

「出番かな」

 登は手に持っていたゴーグルを顔に装着した。ストックのバンドにも手を通す。

「無理しちゃ駄目よ」

 櫻田が念を押す。先程の戒めもあるが、櫻田にとっては登が無理をしては困るのだ。

「俺は宙返りなんてしたくてもできないよ」

 登は笑って答えた。戦闘心は高まっているが、精神はリラックスしている。いい状態だ。

「頑張って」

「おう!」

 登は柄にもなくそう答えるとスタートハウスに入っていった。

 正直言って櫻田は登に今日のうちに転倒してほしいと思っている。今日の予選で今大会が終われば、それで登が決勝で転倒し、怪我をする危険はなくなる。もちろんこれを第三者が聞けば詭弁であるというだろう。今日の予選で登が怪我をすれば何の意味もない。しかし選手というものは決勝となれば自然と予選以上に自分の限界までスピードを出してくる。

 自分がサポートする選手の失敗を祈る。こんなことがあっていいのだろうか。

「さあ、次は五番スタート。皆がお待ちかねの唯一の日本人選手、沢井登だ。二十歳にしてワールドカップ初参戦ながら、今まで何度か決勝に進んでいる。恐さ知らずに斜面に突っ込んでくる彼の姿はまさに『カミカゼボーイ』! 今日も限界ぎりぎりのパフォーマンスを見せてくれるに違いない。さあ、頼んだぜ『カミカゼノボル』!!」

 場内はいっそうの興奮に包まれた。当日までにも、今大会唯一の日本人選手として周囲から注目されてきた。だが、登には周囲のプレッシャーはない。日本に帰ってきて時間がなかったこともあるが、むしろ自分自身が作り出すイメージに心を奪われている。

 スタートにいる係員が登を招き寄せた。ストックを固く握り締めて前に進み出る。板を前に出し、スタートスイッチぎりぎりに足首の位置を合わせた。

「アー ユー レディ?」

 無線機のイヤホンをを耳に付けている係員が登るに尋ねた。登は無言でうなずく。

「カウントスタート」

 係員が無線機に向かってそう言うと、まもなくカウントダウンの電子音が聞こえてきた。その音が一番高い音になるまで待つ。

「スリー、ツー、…」

 登は口の中でタイミングを数える。

「ワン、…っしゃあ!」

 登は雪面を蹴って飛び出した。

 今回は前の公式練習のように前もって考えておいたことはない。ただ攻めるのみ。

 しかし気負ってしまったのか、最初のコブで板が横にスライドした。コブの腹を削りながらすぐ次のコブに向かう。

 登はずれた方のストックを強く突いて体勢を保った。

「頼むぜ、おい」

 登は自分に言い聞かせる。

 次のコブも必然的に谷間を通るラインになってしまった。スピードは増すがターンとしては減点される損なラインである。

「おおっと、いきなりつまずいた。大丈夫か沢井?」

 場内にナパーム原沢の実況が流れる。

 登は次のターンを浅目にして、直線的にコブの山に突っ込んだ。

 見ている櫻田が一瞬肝を冷やした。

 だが意識的に選んだコースを、登は足を思い切り屈伸してショックを緩めた。

 登の滑りが徐々にリズムにのっていく。一流の選手ほどコブからリズムをもらうのは初めの数ターンで、すぐに自分のリズムでターンを刻んでいくようになる。コブに振り回されないでいかに滑れるかがポイントだ。

 登は加速していくスピードを風で感じていた。予想以上に早い。登はそう思った。

「いける!」

 このスピードで滑りを抑えられれば結果は出せるという感触を持った。

 一回目のエアーが目の前に迫った。ここでもスピードコントロールがうまくいく。登は万全の体勢で踏み切った。

 コザック。

 ロシアのコザックダンスから取った名称で、両足を広げながら前に出す技である。

「沢井うまく立直って最初のエアー! 空中で綺麗にコザックを決めました」

 着地も問題ない。すぐに次のコブに対する準備が整えられた。

「このまま、このまま」

 自分に暗示をかける登。気持ち悪いぐらいに順調だった。

 だが自分が理性で今の状態を保とうとすればするほど、体は前を求めていく。高まっていくスピードとコブを吸収する登の力は、辛うじてバランスを保っている状態だった。

「さあ、二回目のエアーに向けて沢井はぐんぐん加速。何とかコブをねじ伏せています」

 限界ぎりぎりに近付くに従って思考はふっ飛び、本能のおもむくままに体を動かしていく。この状態が登にとって最も気持ちいい瞬間だった。

 コースも中盤を越え、コブも最後の意地を見せるかのように高くそびえ立つ。

『やばいかな』

 そう呟いたのは下で登の滑りを見ていたマークだった。今までは何とか登が上手くこなしているが、これ以上の衝撃にはマークが考えていることが正しければ金具が耐えられなくなるはずだった。

 そしてそれは上で見ている櫻田も同じことを考えていた。

「エアーでなければ…」

 転倒しても怪我はない、と祈っている。ましてや風が強い。エアーの途中でバランスを崩すことも十分に考えられた。

 登は今までよりさらに激しく体を抱え込んだ。巨大なコブを一度越えるだけならまだ何とかなる。だがそれが連続すると足の屈伸運動が追い付くかどうかが問題だった。

「させるかよ!」

 まるでコブに向かって啖呵を切っているようだった。昨日の二の舞にはさせない。

 体を抱えたままコブに突っ込むと、次のショックに耐える余裕がなくなる。登は頭では考えていなかったが、意識的にコブを越える時に雪面を捉えるように体を伸ばした。

 筋肉に熱いプレッシャーが伝わってくる。登の脚は悲鳴を上げ始めていた。

「くっ」

 ここで一瞬でも力を緩めれば、コブに体を飛ばされて完全にコントロールを失ってしまう。ここからは日頃のトレーニングが試されるのだ。

「もう少し」

 コブに支配されかけた時に、都合良く二回目のエアーが来た。わずかの時間だが違う筋肉を使って体を休めることができる。

 天に助けを求めるかのように登は二回目のエアーに踏み切った。

「誤魔化せるか?」

 初めて登の心に不安が過ぎった。

『やばい!』

「いけない!」

 登をそれぞれの位置から見るマークと櫻田は直観的にそう感じた。選手としてのセンスや経験がそう言っているのだ。

 スプレッドイーグル。

 空中で登は両足を横に広げた。基本的なエアーの技である。

 強風が登の体を揺さ振る。一瞬着地時の恐怖が登の動きにストップをかけた。

 ダーフィー。

 その足をいったん閉じると今度は前後に上げた。空中を駆けるような形である。

「無理か」

 登は迫る雪面を意識してエアーをそこまでに留めた。

「今度はイーグル&ダーフィー、何とか形にできたがこれはちょっと不十分だ」

 ナパーム原沢が残念そうに解説した。

 そんなことは俺も分かっている。だが最後のゴールまでのコブが登に文句を言わせなかった。空中であえてゆとりを残し着地に神経を使った分、後はゴールに逃げ込むだけだった。

 完全に登をコブが制圧する。コントロールを失う寸前だった。

「保ってくれ!」

 その登の叫びが通じたのか、登の体が前に大きく傾いた時はゴールのコントロールラインを過ぎた後だった。

「沢井、何とかフィニッシュ! いやあ、危ないところでした。まさに限界ぎりぎりの滑り、見せてくれるぜ! …っと、沢井選手ゴール後に転倒しています。でもすぐに立ち上がって笑顔、どうやらポイントには影響がないのを分かって安心している様子です」

 登は外れた板を持って立ち上がっていた。周りから拍手が起きる。登は照れながらそれに手を上げて応えた。 その時、ジャッジ席の横に設置された貴賓席を立つ男がいた。

「意外だったな。…まあ、それはそれでうちの信用が上がるだけだ」

 萩原は登の滑りを見届けるとテントから出た。

「明日が楽しみだ」

 萩原は歓声を背にしてゲレンデを後にした。その顔はいやらしくにやけていた。

 何とか自分で立ち上がった登に、すでに先に滑り終わったマークが歩み寄ってきた。

『危なかったな。見ていてこっちがひやひやしたぜ』

 マークが登の肩を叩いた。

『なんとかね。これで、とりあえず櫻田さんには怒られずに済むよ』

 多少の不満もあったが、登は滑り終えた満足感で笑みをこぼした。

『持ってやるよ』

『あ、サンキュー』

 マークが労いの言葉をかけながら登の板を持った。その時、何気なくマークは金具の後ろにある強度のメーターを盗み見た。

『予選、大丈夫かなあ』

 登は心配そうにポイントの出る電光掲示板を見守っている。

『さあな、俺はジャッジじゃないし分からないよ』

 マークは板を雪面に立てて登が気付かないうちに元に戻した。

「さあ、今の沢井の滑りはどう評価されるんだ? 俺にはアグレッシブないいトライに見えたが…。出た、一八・〇〇、後の選手次第だがこれなら予選通過は間違いない! 沢井、期待に応えてくれたぜ」

 登は安心したようでようやく緊張が解けた。これで明日も滑ることができる。

『ちっ、マークよりも下だぜ』

『何言ってんだ、サマーソルトが正当に評価されてれば俺が予選トップに決まってる!』

 マークは登の肩に手を掛けて言い返した。

『嘘だ、規則にあるの知っててやったんだろ。だからお前ジャッジに煙たがられるんだぜ』

『さあ、何のことかな?』

 マークはとぼけて登から預かっていた板を渡した。登はそれを受け取ると、滑っている時にこびりついた雪を拭き取る。

 マークはおどけてみせたが、自分のマテリアルに何の疑問を持たない登に改めて自分の考えを話すのがためらわれた。ゴール後の転倒も一見オーバースピードで転んだように見えるが、あれは登が何とかブレーキングしようとした時にその力に耐え切れず板が外れたとマークは感じている。

『じゃあ明日な、登』

『ああ、明日も楽しみにしてるよ』

 マークは別れを告げると自分のチームの元に帰っていった。

 コースではすでに次の選手が滑り始めていた。ナパーム原沢のうるさいDJが聞こえてくる。

 選手用の通路をファンに声をかけられながら進んでいくと、向こうから櫻田が走ってきた。どうやらコースの上から急いで徒歩で下りてきたようである。

「大丈夫、登?」

 櫻田はまず登の安否を気遣った。

「大丈夫だよ、別にゴールだってスピード落としていて転んだだけだから」

「…そう、良かった」

 妙に櫻田が親切なので登は気持ち悪かった。

「そんな心配しなくていいよ。それより今の滑りどうだった?」

 登は半ば反論を予想しながら尋ねた。

「そうね、エアーで無理をしなかったから何とかなったわね」

 櫻田はいつもの冷静な様子に戻って登の滑りを振り返る。

「でも、エアーがトリプルまで行かないと決勝はきついわよ。今日みたいに風の強い日はターンでゆとりを持たないと、エアーで崩れることになる。それに予選にしてはいくらあなたでも飛ばし過ぎね」

「そうだったかなあ? 最後を除けば前半は特にコントロールできたと思うけど」

 登は反感を示した。

「傍目から見てそうでもなかったわよ。…そうね、強風を浴びてスピードが思ったより出ていないと錯覚したのかしら。それで途中からどんどん加速していったから」「そうか、風か…。タイム分かる?」

「三〇・二九秒、タイムで点数を稼いだわね。その分エアーが低かったけど」

 ポイントの話をしていて関のことを思い出した。登はその場から一段高く作ってあるジャッジ席を見上げた。

「あ。やっぱり関さん、エアーの担当だ」

 登は苦笑いをした。遠くから見て席の座っている前に『AIR』と書いて貼ってある。登は思わず苦笑した。言っていた通りの厳しい点数である。

「何見てるの?」

 櫻田が不思議そうに尋ねてきた。

「いや、別に」

「そう、じゃあホテルで早速マッサージを受けてきなさい。相当無理したでしょ。それじゃ明日が保たないわよ」

 櫻田は登から板とストックを取り上げた。

「なんだ、他の奴らの滑りを見たかったのに」

「もう一回言おうか?」

 櫻田が語尾を強めて登を睨んだ。ここまでされると登は櫻田に逆らう術を知らない。

「分かったよ。別におじさんじゃないんだからマッサージなんて…」

「早く行きなさい!」

「はい!」

 登は逃げるように選手用の通路を走っていった。ここで走っては筋肉は疲労するばかりなのだが。周りのスキーヤー達が二人のやり取りを可笑しそうに見ている。

 櫻田は登が行ったのを確認すると、片膝を付いて金具を調べ始めた。すると強度メーターのカバーが外れているのを見付けた。

 一瞬、櫻田の動悸が高まる。

 だが、その危惧はすぐにありえないことだと確信した。

 マテリアルにまるで無関心な登が金具をいじるわけがない。それに登の性格上もし金具のことに感づいていたら、すぐに櫻田に言いだすはずだ。

「滑っている時のショックで外れたのかしら?」

 櫻田はカバーを閉じた。

 だがその時、マークは良く自分の所に来る自国のジャーナリストを捕まえて話を聞いていた。

『ニシムラのニューモデルについて、何か知っていることはないか?』

 これがマークの質問だった。

 場内では次々に激しいパフォーマンスを見せてくれる選手達に、鳴り止まない歓声が響いていた。

 その様子をホテル最上階の自室で萩原は眺めていた。手には使い慣れたタンブラーがある。

「明日か…」

 やはり萩原は不適な笑いを浮かべていた。

            前夜



 夜の八時頃。登はすでに自分の部屋に戻り休んでいた。マッサージが思っていたよりも気持ち良く、夕食を食べたらすぐに眠くなってしまった。

 今日の予選の疲れが当然あるのだろう。自分では分からなくても体の方が休息を求めてしまう。

 すでに登はベッドの上でウトウトし始めていた。

 心地好い眠気が登の体に浸透していった。


 ボン


 何かが物に当たるような音がして登は目を覚ました。 寝たまま辺りを見回すが特に変化はない。気のせいと思い、登は再び目を閉じた。


 ボン


 まただ。二回目だとやや気になる。隣の部屋で枕投げでもしているのだろうか。やはり登は気にしないようにして布団をかぶる。


 ボン


 三回目だといい加減うるさく感じられる。しかも定期的に聞こえてくるのは何か気味が悪い。

 登は仕方なく起き上がると、次にどこから音がしてくるか確かめようとした。


 ボン


 また来た。登は音がした方に顔を向けた。

 窓だった。外で何かやっているのだろうか。登は立ち上がると窓の方へ近付いていった。やはり夜にやると言えば道路工事かもしれない。登はまだ頭が寝呆けていてここがスキー場である認識も忘れている。一言文句を付けてやろうと登は窓を開けた。


 ベチャ


 その瞬間、登は一気に目が覚めた。

「冷てえ!」

 登の顔にはちょうど鼻の辺りを中心に小さな雪山が出来上がっていた。

「誰だ!」

 登は外に向かって叫ぶ。目の前はただの空間だった。

「兄ちゃん、俺、俺だに」

 声が下の方から聞こえてきた。当たり前である。ここは三階だ。空中浮揚ができる人なら話は別だが。

 登は下を見た。

「兄ちゃん、俺、一平だに。一昨日の朝、一緒に滑った」

 そう言われて初めて思い出した。舞ケ岳に着いた時、早朝のゲレンデでいきなり出会った少年だ。

「・・、お前か。冷たいじゃないか」

 どうやら一平が下から登の部屋に向かって雪玉を投げていたらしい。それがタイミング良く窓を開けた登に当たったのだ。

「わりい。こうでもせんと兄ちゃん呼びだせんから」

「呼び出す?」

 地上と三階の間で会話は続いた。

「何だよ一体。俺に何か用か?」

 寝ているところを起こされたうえに雪までぶつけられ登はすごぶる機嫌が悪い。

「兄ちゃん、今から滑ろ! 昨日滑れなかった分、今滑ろうよ」

 呆れた。お前に友達はいないのか。別にわざわざ俺を呼び出さなくたっていいだろう。

「こんな遅い時間に何を言ってるんだ。子供は家に帰って早く寝ろ」

 自分が早く寝ていたから偉そうな口を叩いている。

「なあ、そんなこと言わないで滑ろうよ、滑ろうよ」

 一平は甘えるような声で繰り返す。あまり自分の主義主張は変えないほうだったが、子供にこうまでして頼まれると断るのも大人げない。

「別に明日だっていいだろう」

「明日日曜だから早くから人来るに、今日のうちに滑りたいだに。せっかく宿題も早く終わったし。なあ、滑ろ」

 宿題が早く終わったという言葉に、登は心を動かされた。自分と会うために一生懸命宿題をやったのだろうか。

「宿題終わったか」

「終わった。合ってるかどうかは知らんが終わらせただに」

 どうもこの『だに』がどこか哀愁を漂わせる。登は時計を見た。八時一〇分。九時までまだ少しある。これで抜け出したらまた櫻田に何か言われるかもしれない。だが、子供の気持ちを踏みにじるというのも気が進まなかった。

「…一平、そこで待ってろ」

「早く、早く!」

 観念を決めた登の様子を見て一平は本当に嬉しそうだった。相手の立場を何も考えていないが、逆にやたらと気を使う子供というのも不自然だ。自分も子供の頃はこんな風だったのかもしれない。

 登は着替えを始めた。


 一平は一昨日の朝と全く同じ格好で待っていた。特にその後ろに流れる長髪が印象的に登の頭の中に残っている。

 登がホテルの乾燥室からスキー板を持って出てくると、すぐにスケーティングをして登の方に近付いてきた。

「良かった。やっぱりこの前の兄ちゃんだ」

 一平は登の体をべたべたと触った。

「何だ気味悪いな。そんな急に変わるわけないだろ」

「だって東京に帰っち待ったかも知れないに、心配だった」

 一平は大きな目を見開いてニコニコしている。登もそこまで喜んでもらえると、自分も少しは役立っているような気がして満更でもなかった。

「行くか」

「うん!」

 一平は先頭を切ってリフト乗り場に向かっていった。

 リフトの上ではお互いの自己紹介をする形になった。前回は滑るだけ滑ってほとんど特別なことを話してはいない。

「で、モーグルって何?」

「その、コブがいっぱいある斜面をとにかく止まらずに滑っていけばいいんだ」

 登は自分がモーグルの選手だということを説明したが、一平にはピンとこないらしい。

「コブ? なんでわざわざあんな滑りにくい所を」

「だから滑るんだよ。そういう難しい所を滑るから、お客さんも見て喜ぶ」

 一平は登の顔を見つめた。

「じゃあ、兄ちゃんは滑ってるの見せて金貰ってるんだに」

「いや、その、そうじゃなくて…」

 登は返事に窮した。間接的にはそう言うことになるのだが、まるで自分が客寄せパンダのように思われるのは心外だった。

「ええっと、俺が滑るのにお金を出してくれる人がいて、その人は俺が宣伝した物を売ってお金を貰う。そしてそれを買う人は俺が滑るのを見て買おうと思う。そうやって人から人へ…」

「やっぱり金貰ってるだに」

「ううん、そういうことになるのかなあ」

 登は逆に考えさせられてしまった。

「そうか、滑って金貰えるなんて知らんに、兄ちゃん若いうちから働くなんて偉いなあ」

 一平は感心していた。誉められることなんて全然した覚えはなかったのだが、そう言う意味で良心的に考えてくれると有り難かった。そう考えれば自分自身、これからスキーをやっていくにしても変な抵抗はなくなる。

「ところで、どうしてあんなことして俺を呼んだんだ? 他に何かやり方があったろ」

 一平は口を尖らせて言った。

「だって兄ちゃんがあそこのホテルに泊まってるって言うから入り口で色々聞いたに、何とかどの部屋にいるかは分かったけど中に入れてくれないから…」

「そんなの知らないふりして入ってきちゃえば良かったのに」

「だって兄ちゃんの名前も部屋も分からなかったから」 一平はしょげかえってしまっている。たしかにあの時泊まっている場所は教えたが、名前も何にも教えていなかった。

「そう言えばそうだなあ」

「だに、だからああするしかなかった」

「でもよくそれだけで俺がいる部屋分かったなあ」

「横から数えてった所に雪玉投げた。最初は違う人が出てきて逃げてきたけど」

 一平の強引なやり方に登は呆れた。他に起こされた宿泊客が気の毒である。

「お前、友達とかと一緒に滑ったりはしないのか?」

 登は話題を変えた。

「…うん、あいつらと滑っても面白くない。足ぴったりくっつけて滑ったり、棒立ててその横を通り抜けてったり、小さいことばっかりやってるから。わしは山降ろしが大好きだに、そんなのつまらん。だからわし、ここじゃはみ子だに」

「はみ子?」

「仲間外れのことに」

 一平は座席に座ったまま板を前後に揺らした。一平の言っていることは分かる。

「俺も一平の言う通りだと思うよ。せっかくこんな広い世界があるのに、あんな窮屈なことしていて勿体ない」 一平は地元の子供達が所属しているスキーチームの基礎スキーやレーシングのことを言っているのだ。もし一平が本当にそう思っているなら、一平には第三の選択肢としてフリースタイルスキーが最も適しているに違いない。

 基礎スキーやレーシング系を嫌う気持ちは登自身そうだったのでよく分かるのだ。

「そうか…、一平は山降ろしが一番か」

「うん、山降ろしが一番気持ちいい。兄ちゃんも好きだろ?」

 一平は自分の意見が支持されたらしく、嬉しそうに同意を求めた。

「そうだな、面白かったよ。でも、俺は山降ろしよりもモーグルがいいや」

 登は正直な気持ちを述べた。一平の前だと自然に自分の気持ちを形にして外に出せる。

「そんなにモーグルっていいかに?」

 一平は自分が認めてもらったから今度は登の主張するモーグルの話を聞きたくなった。

「ああ、最高だよ。あんなに激しくってスリリングでエキサイトな競技は他にない。誰かがモーグルを『スキーの格闘技』って言ってたな。ようは肉体的に激しい動きが要求されるということだろうけど」

 登は自分の意見を考えながら語った。

「たしかに滑ってると絶対体のどこかが痛んでくる。腰に負担がかかって椎間板ヘルニアになる人が多いって言うし、この前の大会でコブのショックを吸収しようとして抱えた膝で自分の前歯を折った選手もいた。俺は今ん所五体満足だけどね」

「ふーん、わしも山降ろしした後はふくらはぎが固くなって動くとズキズキする。最近はあまりなくなったけど」

 それは筋肉が疲労することによって筋細胞が破壊される。そして二日程経つと新しい筋細胞がさらに強いものとなって再生される。この回復を超回復という。筋肥大を目的とするのに用いられる方法だ。

 一平は週何回か強度の筋肉運動をすることによって、自然と脚の筋力がパワーアップしている。しかしかかる負担は滑っているコースが変わらない以上同じであり、従って筋肉への疲労の蓄積が少なくなっているのだ。

「そうか、ちょっと脚触らせて」

「ん? 別にいいけど」

 一平は不思議そうな顔をしていたが、登はスキーズボンの上から一平の太ももからふくらはぎにかけて触ってみた。

「兄ちゃん、こそばゆいだに!」

「悪い悪い。俺、別にその気はないから」

 この年でお稚児さんを持つ趣味はない。

「やっぱりすげえや」

 予想通り一平の脚の筋肉は小学生にしては異様に発達していた。自然にこの筋肉が付いたとすれば、山降ろしの効果は絶大である。

「何がすごいに?」

 一平はくすぐったいのを必死にこらえて聞いてきた。

「いやあ、脚が太いって」

「そうだに、いつもみんなに太いって言われる。普通のズボンが履けなくて親父が町まで出てでっかいのを買ってくる」

 一平は子供心に困ったものだと嘆くふりをしたが、どちらかというと、子供特有の自分だけの特別なことを誇りに思っているに違いない。

「ふーん、でもあんまり早いうちから筋肉付けると、背が伸びなくなるぞ」

 登は良心的に忠告したつもりだったが、一平の顔付きが変わった。

「それは言うなあ! わし列の一番前だに気にしてるんだ。もしこのままいつまでも一番前だったら恥ずかしくて婿にも行けん」

 意外な言葉が飛び出した。

「何だ一平、お前今から結婚すること考えているのか」 一平は途端に顔を赤らめた。

「…わし、大きくなったら、背大きくなったら、わしの肩ぐらいの女の子と結婚するだに。…ちょうど親父と母ちゃんがそうっだった」

 一平は手をもじもじさせながら答えた。登の目にも一平のその仕草は可愛すぎる。

「そうか、どんな女の子がいい?」

 登は聞いていて自分も嬉しくなってきた。

「うん…母ちゃんに似ていて、色の白いきれいな顔の女の子がいい」

 一平の顔が真っ赤になってきた。これだけ恥ずかしくても答えてしまうのが、本当に純真な少年らしい。

「母ちゃんみたいな人がいいのか。一平の母ちゃんどんな人だ?」

 登は興味津々で続けて聞いた。

「怒ると親父よりも恐くてしょっちゅう泣かされたけど、普段は優しい母ちゃんだった…」

 登ははっとした。聞いてはいけないところまで聞いてしまったらしい。登は話題を変えようとしたが、先に一平の方から言い出した。

「…母ちゃん、山に出ていったきり帰ってこなかった。わしが夜まで山降ろししていたから捜しに行ったに、わしが戻っても母ちゃんは戻らんかった…」

 登は何も言うことはできなかった。こういう時に自分に他人をなぐさめることができる器用さがあればと思う。今、自分が何かを言ってもただ一平を傷つけかねない。

「だからわし、今でも山降ろしやってる。ちゃんと宿題やって、親父と約束した時間になったらちゃんと戻って母ちゃん待ってる。…もしかしたら山で母ちゃんに会えるかもしれないだに…」

 一平は半べそだった。単に自分が滑りたいからここに来ているのではない。登は真剣にジンときてしまった。

「…会えるよ、きっと母ちゃんに」

 大人とは子供に残酷な嘘を平気でつく。登もそれは自覚していたが、ここで真実を言うのはもっと残酷なことだと思った。

「でも…もう母ちゃんが戻らんで何ヵ月にもなるに…。母ちゃん、雪に呑まれたかも知れん」

 一平も自分の置かれた状況はある程度分かっていた。

「じゃあ、どこかで一平がここで滑ってるの母ちゃんが見てるだろ。きっとちゃんと滑ってるか、時間になったらちゃんと帰ってるか見張ってるよ」

 登は自分で言って辛かったが、こんな非現実的なことも言葉にすると現実的なものに思えてくる。言霊という言葉もある。信じればたとえどんな形にしてもいいことがあるんじゃないだろうか。

「なあ、母ちゃん見てるかなあ。どっかで母ちゃんわしのこと見てるかなあ。なあ、兄ちゃん、なあ」

 そう言いながら一平は真正面を向いていた。それから一平はリフトが終点に着くまで一度も登の方を振り向かなかった。


 リフトを降りると、一平は手袋を付けたまま顔を拭いていた。鼻がぐずぐず言っている。

「どうした、大丈夫か一平」

 登はたとえ少年でもその心意気は尊重してあえて深く追求はしなかった。

「大丈夫じゃない! 兄ちゃんが外であんなに待たせるから風邪ひいちまっただに」

 そう言って目を真っ赤にさせて鼻をこすりながら一平は笑った。

「そうか、悪かったな。じゃあ悪いついでに俺が先に行くぞ!」

「あ、ずるい! 待つに、兄ちゃん!!」

 登は一平の笑顔を確認すると一目散に飛び出した。後は自分が気の済むまで滑るしかない。

 登は体勢を意識的に低くし、外脚を蹴るように加速しながら斜面を進んでいった。ナイタースキーは途中の中級コースまでしか上ることはできない。これぐらいの斜面なら思うように滑ることができた。

「行かせんに」

 すぐに一平が横に追い付いてきた。登は自分がこれだけ加速して追い付いてくるなんて信じられなかった。思わず横の一平を見たが、その時はすでに登の前に来ていた。

「兄ちゃん、遅いぞ!」

 一平はなんとこの斜面で直滑降をしていた。いくら中級者コースでコブは小さくても、この斜度で直滑降はクレイジーである。

「一平、やりすぎだぞ」

 自分が煽っておいたくせに登は悔しさ紛れに叫んだ。すると一平も自分が抑えられる限界スピードを感じたのか、それとも登の前に来て満足したのか、浅目のターンに切り替えた。

 登は無理に一平を追い越そうとせず、一定の距離を保った。一平はこのシチュエーションが一番気持ちいいらしい。

「兄ちゃん、これできるか?」

 一平はそう言うと少しスピードを緩めて登の横に戻った。そして登の視線を確認すると、スーッと左足を上げた。

「え?」

 登の驚きの声を期待していたかのように、一平は片足で滑り始めた。片足で滑るにはその足がターンの外側に来る時は、比較的簡単にできる。もともとスキーのターンは外側の足に体重をかけるからだ。だが、それが内側にきた時は難しい。体をやや内側に傾けながら、同じ板の反対側のエッジを効かせなければいけない。少しでもバランスを崩すとターンできないままコースを外れたり、内側にそのまま転んでしまう。

 しかし一平のバランス感覚は抜群だった。ターンを浅目にして微妙に体重を調整しながらスムーズにターンを繰り返す。

「どうだ、兄ちゃんもやってみろよ」

 一平は得意気に右側の足を上げたまま左右に降ってみせた。その挑発に登のプライドと冒険心がGOサインを求めて、足にかかる重力を軽くする。

「何だ、兄ちゃんこんなこともできんか」

 一平は馬鹿にした様子で今度は逆の足を使ってまた片足で滑り始めた。登の足がぶるぶると震えだす。

「ええい、ままよ!」

 登の右足は重力から解放された。とりあえず左側の足で、右に向かって一回ターンを入れる。

 何とかうまくいった。

 次に左へ。何となく体を内側に入れて板の左側のエッジに体重をかけた。

 何かが違う。どうしても板が向きを変えてくれない。危機感を覚えた登はもう少し体を内側に傾けた。今度は板は左側に向きを変えていった。どんどん向きを変えていった。さらに向きを変えていった。十分なほど向きを変えていった。行きすぎるほど向きを変えていった。戻れないほど向きを変えていった。危険なぐらい向きを変えていった。

「あ、あ、あ、だーっ!」

 登は言葉にならない声で叫ぶと、斜面の下側を背にして完全にバランスを崩した。

「がーっ!!」

 死ぬ寸前の獣のような雄叫びをあげて登は豪快にひっくりかえった。雪煙が揚がり、そのまま何十メートルも先に登の体は転がっていく。

 一平は登の異変に気付いて、先の方でブレーキングした。振り返ってみると、はるか上の方に板を残したまま登が雪に顔を突っ込んで倒れていた。

「馬鹿だにい」

 一平はそれを見て笑っていた。登は笑う前にまず人のことを心配しろと言いたかったが、それも負け惜しみのように思えて立ち上がった。転んだ時にすぐに板が外れてくれたせいか、特に痛いところもない。

 登は板を探すために辺りを見回した。一本の板はすぐ近くに落ちていた。だが、もう一本は何十メートルも上の斜面に置き去りにされていた。

「マジかよ…」

 ここからその位置まで徒歩で登るにはあまりにも距離がありすぎた。

 途方に暮れている登の元に一平が下から上がってきた。

「兄ちゃん、これでまた片足スキーの練習ができるな」 一平はニンマリと笑って近くに落ちている方の板を拾って登に手渡した。


 登がナイタースキーを終えて下まで降りてきた時は、もう体はボロボロだった。心もボロボロだった。

「大丈夫かに、兄ちゃん」

 一平が勝ち誇った顔をして聞いてくる。登はすでに負け犬だった。

「もう駄目。これじゃ明日の決勝は持たないよ」

 登は板を履いたままその場にへたり込んだ。

「兄ちゃん、その決勝って何だに?」

 ちょうどいい高さにある登の顔を見て一平は尋ねてきた。

「俺、明日モーグルの大会の決勝に出るんだ。ほら、あそこに見えるコースを滑る」

 登は上方に見える長方形状に仕切られたコースを指差した。

「なんだ。あれ、兄ちゃんが滑る所だったのか。何か前から変なのがあると思っていただに」

 登は疲れた声で一平に説明した。

「俺、明日あそこで滑るからさ…たしか昼過ぎぐらいだけど。お前明日休みだろ、見にこいよ。このままじゃ俺のプライドが許さない」

 一平はしばらく登の顔を見つめた。

「わし明日忙しいに、見にこれんかもなあ」

 素っ気ない様子で一平は登を見下ろした。

「て、てめえ、もう宿題は終わったって言ったろ!」

「さあ、予習もしなくちゃいけんに」

「お前が予習をするような坊主か!!」

 登は疲れた体を起こして立ち上がると一平を捕まえようとした。だが一平はグロッキーのレスラーをあしらうかのように体をすり抜けさせる。笑いながら登から逃げ出した。

 登は追い掛ける気力もなく再びその場に座った。一平も登が捕まえにこないのを察して戻ってくる。

 一平は本当に楽しそうだった。登から見て、一平は雪から得られる全ての快楽を享受しているようだった。

「なあ、一平。お前はスキーやってて何が一番楽しい?」

 ふと一平に聞きたくなった。一平は全然予想していない質問にしばらく考え込んだ。一平には高度な質問だったか、と失礼なことを登は思った。

「そうだに…。スキーやってる時は宿題も親父の雷も忘れてわしの好きなようにできるに、それが一番気持ちいい。雪の上にいればわしの思うままだに」

 一平は腕を組んだまま自分で確かめるように言った。 登はまた一本取られたと思った。

「そうか、一平の言う通りだな」

 登は一平の頭をぽんと叩いた。

「それじゃ、早く帰らんと親父が怒るに。こればっかしはどうにもならん」

 一平は先程の自分の言葉を受けて苦笑いをした。

「そうか、親父さんを心配させるな」

 登は一平の背中を押した。一平はその勢いを受けてそのまま滑りだした。

「兄ちゃん、明日見にくるに。頑張るだに!」

 一平は後ろを振り向きながら手を振っていた。登は見えなくなるまで手を振っていたが、まもなく一平は闇の中に消えていった。

 登は『雪ん子』という言葉を思い出した。いつも山の中に住み、時々里の子供達と遊ぶこともあるという。雪のある冬の間だけ現われて、雪が溶けるとまた次の冬に現われる。雪男と雪女の子供という話もあるし、山の精とも雪の精とも言われていた。

 とにかく突然現われて風のように去っていく一平が、まさに『雪ん子』のように思われたのである。

 登は『雪ん子』に何かを教えられたような気がした。

      ◇            ◇


 登は一平を見送ると、自分も部屋に戻ってすぐに寝ることにした。さすがに体力には自信がある登も明日の決勝に備えて寝ておきたかった。

 登は板を外すと両方を重ねて肩に背負った。今持っているのは前回の大会まで使っていた旧モデルの板である。こんな時に大会用のニューモデルを持ち出したら、それこそ櫻田に大目玉を喰らうに違いない。

 それに今夜抜け出したこともばれないようにしなくてはならない。決勝前夜に滑ってました、とういのもきっと櫻田の怒りの対象となるだろう。

 登はホテルのゲレンデへの出口となるスキーヤーズゲートをくぐると、屋内に入って周りに人がいないのを確認し、ロッカーに急いでスキー板をしまった。ブーツを脱ぎ、スリッパに履きかえる。後は運悪く櫻田に遭遇しないのを願って速攻で自分の部屋に戻るだけである。

 登は悪戯をした後の子供のようにキョロキョロしながら早足で歩いていった。ナイタースキーから戻ってきた他の宿泊客が、その登の姿を見て不思議そうにしている。

 登は部屋に向かう途中、乾燥室の横を通り掛かった。『君はそれでもサービスマンか?』

 荒い口調の英語が乾燥室のドアの向こうから聞こえてきた。登は部屋に早く戻らなければいけなかったが、サービスマンという言葉から大会に関係あるのではないかと興味を持って立ち止まった。

『自分の選手に欠陥品を使わせるなんて、一体何を考えている? 危険な目に遭うのはあいつなんだぞ』

 欠陥品? おかしい。どこかで聞いたことのある声だ。登はドアに近付いてさらに耳をそばだてた。

『あなたに何が分かるというの? これはうちのチームの問題なのよ、口出ししないでちょうだい』

 登は体を凍らせた。櫻田の声だ。

『第一、違うチームのあなたが推測だけで私に疑惑を持ちかけるのはおかしいんじゃない?』

『それはどうかな』

 分かった、相手はマークだ。登はほとんど接点を持たない二人がなぜ口論をしているのか、まだ分からなかった。

『登にその板を履かせてもらったよ』

『え?』

『公式練習の時にね。エアーの着地で板が外れかけた。自分で言うのもなんだが、あの時は限界を超えたショックは受けていないはずなのに、金具はもう安全解放をしようとしていたよ』

 公式練習の時にマークと板を交換したのを登は思い出した。

『それに登自身の公式練習、予選のゴール後、あれもどう見たって不自然だ。記者の一人が言っていたよ。「ニシムラ」は板では基礎スキーで実績のある製品をサプライしているが、モーグル用の板や金具を開発するのは今回が初めてだと。シーズン前のテストも行なっていないらしいし、記者の方も今回の突然の導入に驚いていた。少し条件が揃いすぎていないか?』

 登がまったく気が付いていなかった事実が述べられていく。だが自分の周りに起こっていたこととマークの話を比べると、決して的外れなこととも思えなかった。

『だ、だから? あなたがそんなことを言ったって証拠もないし、たとえそうだとしてもあなたには関係のないことよ』

 櫻田の取り乱している声は初めて聞いた。

『関係ない? 一人の選手が何も知らないで、転ぶためにあのモンスターコースに飛び出そうとしているんだぞ。あんた、それでも登のサービスマンか!』

 そしてマークが声を荒げるのも初めて聞いた。

『…別に、転ぶとは限らないわ』

『何言ってるんだ? あんな石につまづいたぐらいで外れるような板で、あのコースを最後まで持つわけないだろ。予選は登の滑りに助けられただけだ。それぐらいあんただって分かってるだろ。決勝じゃあいつ、間違いなく転ぶぜ。そしてまた自分のせいだと思って悔しがる。下手すればダメージを受けて二度と滑れなくなるかもな』

 登は愕然とした。今までの転倒は全てマテリアルのせいだというのか。

『…分かってるわ』

『何だよ…スポンサーか?』

『…』

 櫻田は黙っていた。登にも全てが分かってきた。話を聞いた時、初めに少しでも櫻田を疑った自分が恥ずかしかった。

 しばらく二人の間に沈黙が続いた。登もその場を離れることができず、ドアの前で身を硬直させていた。

『あんた、たしか昔アルペンの選手だったろ』

 櫻田は黙っている。何も言わないのは肯定しているということに他ならない。

『…なら、分かるんじゃないか? チームメイトに裏切られるのがどれだけ辛いことか』

 最後のマークの声は寂しげなものだった。櫻田は何も言わない。いや、何も言えなかった。

 口論は終わったようだった。ドアに近付く人影が見えて慌てて登は身を隠す。

 マークは荒々しくドアを開けると、叩きつけるようにして閉めて行ってしまった。

 櫻田は出てくる様子はない。登はどうすれば良いか迷った。

 ここで櫻田に真相を確かめればいいのか? 少なくても自分にはその資格があるはずだ。

 だが、それは今まで二人の間に培ってきたものを全て破壊してしまう恐怖を感じた。

 それに櫻田のプライドを持って仕事に打ち込む姿は決して偽りのないことだと思う。

 たしかに櫻田に聞きたい。櫻田の口から全てを話してほしい。それが真実であることを確認してしまうのも恐いが、やはり目の前にそれがあるならば手を伸ばしたくなる。

 櫻田は闘っている。自分を滑ることに集中させようとして、外からの全ての圧力と闘っている。

 スポンサーというのは、あの萩原という男のことだろうか? マイナスの方向にある予想は、大体当たってしまうものである。登は初めて会った時から萩原には悪い印象しか受けなかった。

 萩原への憎悪の念が徐々に込み上げてくる。事実として櫻田の取った行動はたしかに登への裏切りだった。だがその矛先は萩原へと向きを変えられてしまった。一度標的の定まった憎しみは、もう動かすことはできない。 どうすればいい?

 ただここで萩原を殴りにいっても櫻田に迷惑が掛かるだけだった。

 櫻田を助けたい。今まで自分を支えてくれた櫻田を助けたい。

 自分ができることは何だ? 自分が櫻田のためにできることは何だ?

 登は物音をたてずにその場を立ち去った。そしてゆっくりと廊下を歩いていった。


 一つしかないだろ、俺ができることは。


(最終章「決勝」につづく)

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