第3章「疑問」
一平は来なかった。
宿題が終わらなかったのだろうか。
それにしても朝も勉強するというのは偉いかもしれない。
それとも単に頭が悪いのか。
それは失礼だ。
第一、登もそんなことを言える立場ではない。
スポーツができて勉強もできるなんて不公平だ。
それは俺が許さない。
とりあえず今日の朝一番は俺が貰う。
貰った。
というわけで櫻田にばれないうちに登は早朝スキーから戻ってきた。昨日は一平と滑れてそれはそれで楽しいものがあったが、やはり独り占めは嬉しい。
リフトのおじさんにはまたかと苦い顔をされたが、もう何も言わず登を通してくれた。きっとスキーを愛する者には通じる心があるに違いない。きっとそうだろう。そうならいいなあ。そうじゃないかなあ。違うかなあ。違うかもしれない。きっと違うだろう。違うに違いない。
まあ、いいや。
登はまだ汗の引かない体のまま着替えて朝食を取りにレストランへ出掛けた。ほとんどの選手が一緒のホテルに泊まっているせいか、よく知ってる顔とすれ違う。もちろん挨拶ぐらいはするし、気の合う相手だったら簡単に言葉も交わす。
だが、これが競技前夜や当日ともなるとそうはいかない。お互いに自分の中の高まる緊張感を維持するために、顔を合わせてもまず口を開けない。別に無愛想なわけではなく、両者の暗黙の了解の上でのことである。
モーグル競技は基本的に対抗競技ではない。一人ずつ滑り、それぞれに点数が付けられていく。一部の競技ではデュアル形式と言い二つのコースを選手二人が同時に滑り、ターン・エアー・タイム・総合などの各基準に分け、勝利部門の多い方が勝ち進むというトーナメント方式のものもある。
個人の対抗競技ともなると自然と相手に意識は集中されるが、このような個別競技ともなると当然のごとく敵は自分となる。皆、自分のマインドコントロールに集中したいがために声も掛けないし、ましてや自分から掛けようとはしない。
だが、そんな駆け引きは全然関係ない男が一人いた。『グッモーニング、登!』
レストランにはバイキング形式の朝食を皿に山盛りよそうマークがいた。朝からよくそんなに食べられると不思議である。
『おはよう。マークは朝から元気だな』
登はいつものことながら呆れて、トレーを持ってマークの次に並ぶ。
『当然だ、徹夜だからな』
『げっ、お前寝てないの?』
『もちろん。今日は大事なインスペクションだからな』 だったら寝ろよ、と言いたかったが登も自分の分をトレーに取らなければならず一時中断した。マークは隣でスクランブルエッグを一皿丸ごと盛っている。見ていて気持ち悪くなりそうだ。
『あの娘達と一晩中飲んでたのか?』
『そう、最後にはバーも貸切だった』
『あそこは十二時には閉まるだろ』
『一度出て、またこっそりボトルを持って忍び込んだ』『何だかなあ』
登はスクランブルエッグは盛らず、その隣の海苔と卵を取る。
『何だ、その紙は?』
『海苔だよ、NORI。海藻の一種だ』
登はビニールをかぶった海苔を開けると、その場で食べてみせた。マークは不思議そうな表情をしている。
『ナトーとか、ウメボシなら俺も聞いたことけど』
『ナトーじゃなくて納豆。戦争するんじゃあるまいし』『ナット? Nut? ジャパニーズはそんなもの喰うのか?』
『いいよ、もう。ほら、早く喰おうぜ』
説明するのが面倒になった登はマークをテーブルに促した。マークはまだ怪訝そうな表情をしていたが、テーブルにつき朝食を目の前にすると興味はそちらに移る。登は律儀にいただきますを言うと、早速卵を割った。気が付くとマークは十字を切っている。
『マークはクリスチャンか』
何を念じていたかは分からないが無事祈りを済ますと、マークはフォークを手にした。
『グランマザーにいつも言われていたんだ。食事の前はイエスに祈れと』
果たしてマークが本当に敬虔なクリスチャンかどうかは疑わしいが、登は別に手を合わせることもなく卵をかき回している。
『そう言えば登、昨日は夜明けから熱心だったな。部屋に戻る時見ていたぜ』
マークはサラダに真上からフォークを突き刺すと、ためらわずにそのまま全て口に運んでいった。
『別に練習じゃないよ。ただのプライベートスキーさ』 実際その通りであるので登は何ら臆することなく答えた。
『そうか、お前も結構余裕があるな』
『そんなんじゃない。精神衛生上滑らないと具合が悪いんだ』
『マインド? お前からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。それもブシドーの一つか』
マークは陽気な理解ある青年だったが、同時にコテコテのアメリカンだった。登は学校でならった日本史から武士道というものはな、と食べながら講釈をたれたがマークに分かるはずもない。マークはただ聞き慣れない日本語を聞いてそれだけで興にいってる。もっとも食事中の手と口は常に動いたままだった。
『ところで登。お前、噂によると今日からニューモデルを使うらしいじゃないか』
マークが話を変えてきた。
『そうだよ』
まだ記者会見などは『ニシムラ』の方ではしておらず、一応まだ未公表なのだが登は呆気なく肯定してしまった。
『「ニシムラ」って言えば、テクニカルスキーの方では有名だぜ』
テクニカルスキーとは基礎スキーのことである。
『へえ』
登は卵をご飯にかけた。
『しかもこのジャパンステージのためにスペシャルバージョンにしたらしいじゃないか。羨ましいぜ』
『そうなんだ? 知らなかった』
海苔を取り出し、ご飯の上に乗せる。
『お前、期待されてるってことだぞ』
『有り難いね』
海苔でご飯を器用に巻くと、そのまま口に運んだ。
『登!』
マークはフォークを持ったままの手でテーブルを叩いた。登は突然の事に驚く。ご飯がむせ返りそうになった。
『ゴホッゴホッ。どうしたんだ、マーク?』
『登、お前は自分の履く板に興味はないのか? デザインとか色彩とか機能とか』
マークは何にも考えてない登に驚きと嫉妬を隠せなかった。
『別に。ただ今日は滑った感じを櫻田さんに報告しなくちゃいけないけど。まあ、変に折れたり外れたりしなきゃいいんじゃない』
登はマテリアルのことで色々言われても、関心が無いのでその通り答えるしかなかった。登には自分で失敗することはあっても、道具に助けられることはないと日頃から思い続けている。
『…そうか。ミス・サクラダはマテリアルのサービスマンだからな。それに関しては彼女任せというわけだ。…ところでミス・サクラダは? 全然様子を見ないけど』
登の態度に呆れながらマークは周りを見回した。櫻田の姿はない。
『そんな、飯喰う時まで一緒にいるわけないだろう。今頃まだ寝てるんじゃないか?』
登をマークすれば櫻田にも会える気がしたマークだったが、期待外れに終わって残念がった。
『マーク、しつこいと嫌われるぞ』
『そんなつもりはない』
マークの手が止まった。何やら怪しい考えてるらしい。
『…登、一つ頼みがあるんだが』
マークは登の耳元に届くように身を乗り出した。
『何だ、頼みってのは?』
『これは、もしお前がよかったら何だが…』
登は素直にマークに耳を貸した。マークは人目を気にしながら小声で話す。登もまたマークが何を考えているか興味があり、それなりに熱心に聞いていた。
『…いいか、登?』
『いいよ、そんなことだったら。てっきり、櫻田さんを呼び出すのかと思った。それなら別に人目気にすることないのに』
マークはあわてて登の口元を手で押さえた。
『馬鹿、ばれたらスキャンダルだぞ。そもそもF1レーサーが他のチームの車に乗るか?』
登はマークがなぜ人目を気にしたか全く分からなかったが、マークの申し出をためらうことなく承諾した。
◇ ◇
その頃、櫻田はすでに朝食を済まして乾燥室にいた。しっかり施錠したスキーカバーを外し、昨日渡された『ニシムラ』の板を取り出している。
「…悪くないわね」
ニューモデルのデザインを櫻田は色々とチェックしていった。蛍光色の地に、流星が軌跡を描いて流れている。トップには『ニシムラ』のトレードマークである鹿が刻まれており、横に“Super Extream”と書いてある。
弾力性を高めるために板にはベンドと言う歪みが加えられているのだが、櫻田はそれを確かめるために、板の両端を手に持つとわざと力を入れてみた。板は緩やかな曲線を描いて歪んでいく。
「まだ硬いかしら。…しょうがないわね、新品だから」 櫻田は板をチューンデスクに置いた。そこには板を固定するための万力がセットしてあり、エッジを磨いたりワックスを塗るのに利用する。
スキーのチューンナップは、本格的にするとなると膨大な時間が必要とされる。
まず板の裏面に付いた汚れや古いワックスを丁寧に削り取る。ここではスクレーパーという板状の道具を使う。
櫻田は板を裏返した状態で固定すると両手でスクレーパーを持ち、力強くトップからテールに下ろしていく。その度にワックスの屑が地面に勢いよくこぼれ落ちる。 それが終わったらシーサーバーというスプレーを吹き付け、さらに細かい不純物を浮き上がらせる。それからしばらく時間を置いた後に、専用のペーパータオルで拭き取る。
スプレーは屋外で使わなければならない。櫻田は板を外に持ち出し、丁寧にスプレーを吹き付けていった。辺りに薬品の匂いが漂う。
そして次からワックスである。ベースワックスとレース用のワックスを重ねて塗る。ワックスは固形の物を利用し、それを専用のアイロンで溶かしながら熱で板にしみつけていく。ベースワックスは何を使用しても大きな差はないが、レース用ワックスは本番の雪質にあうように使用温度で分けられた物を使う。サービスマン達は雪面に温度計を突き刺し、毎日綿密に温度を調べている。ワックスは溶かす、塗る、乾かす、伸ばすの繰り返しであり非常に手間のかかる仕事である。
下に用意しておいた新聞紙を敷くと、櫻田はぽたぽたとワックスを垂らしていく。板の滑走面を見る櫻田の眼は鋭い。
そして今度はエッジ。金やすりが組み込まれたシャープナーで、両脇のエッジを刃のごとく鋭く磨き上げる。危険防止のため作業は常に手袋をして行なうが、それでも誤って手を切ってしまうことがある。
櫻田は用具箱から、ゴムのストッパーの付いた手袋を取り出す。シャープナーを両手で握ると、勢いよくエッジの上を滑らしていった。螺旋状になった金屑が辺りに飛び散る。櫻田の服にもいくつか屑がこびり付いた。
そして最後は金具の調整。まず選手の靴のサイズに合わせて、板の上で金具を前後に移動させて固定する。流れ止めのためのストッパーを押して確認。そして競技で予想される板へのショックを想定して、靴と板を固定する金具の強度を調整する。
櫻田の体から徐々に湯気が立ちこめてきた。
「ここにいたんだ」
乾燥室のドアが開いた。櫻田は金具を調整する手を止める。
「もう準備できたの?」
現われたのが登であることが分かると、櫻田は息を一つ吐いて板から手を離した。
「まだ朝食を食べただけだけど。板の方が気になってね」
登は板を手に持つ櫻田の方に近付いていった。櫻田の額にはいくつもの汗の粒が見える。
「珍しいわね。登が見にくるなんて。いつもは私が持っていくのを受け取るだけなのに」
デスクの上に万力で固定されている板を外すと、櫻田はまだチューンアップ途中の一本を登に手渡した。
登は渡された板を色々と見て確かめてみる。だが、その色やデザイン以外どうも他の物との違いが分からない。
「いいでしょ」
汗を手で拭いながら櫻田は笑みを浮かべた。
「うーん。…正直言ってどこがいいのか分からない」
櫻田は笑った。
「いいのよ、あなたは滑ってみた時の感覚を教えてくれればいいんだから」
気のせいか櫻田の機嫌がいい。充実した仕事をしていると自然と気持ちも高揚するのだろうか。
「今日は何時にゲレンデに上がるの?」
登は板を櫻田に返した。
「十二時ぐらいにスタートハウスの前に来て。それまでは適当に滑って脚を馴らしておいてくれればいいわ。私もこれが終わり次第行くから」
「分かった。じゃあ先に滑ってるよ。ウェアは普段のでいいんでしょ。競技用まだ貰ってないし」
「任せるわ」
櫻田は再び板をテーブルに固定した。登はこれ以上仕事を邪魔するのも気が引けて、退散することにした。再び仕事を始める櫻田を後にして乾燥室を去る。
櫻田は板をデスクの上に置こうとした。
その時、一度閉じられたドアが再び開いた。
「どうしたの?」
櫻田が顔を上げる。登はドアから頭だけ出した。
「頑張って。今日はよろしく」
それだけ言うと登はまた行ってしまった。
しばらく動きが止まったままの櫻田。ドアの方を見つめたままだった。
やがて胸に嬉しさが込み上げてきた。自分の仕事を評価されて悪い気がするわけない。
だが誰も見ているわけではないのに、表情には出さないように努める。櫻田の眼は手に持つドライバーに向けられていた。
胸の中の喜びが、一瞬で消え去っていく。金具を調整する手も心なしか動きが重い。登の労いの言葉が余計に櫻田の心を沈ませた。
「…まだ、分からない…はずよ」
自分を弁護するように櫻田は呟いた。
◇ ◇
スタートハウス前には各チームのサービスマンや選手達がすでに集まり、各自作戦を話したりマテリアルの調整、雪質の確認などをしていた。
いくつかの選手はすでにコースに出てインスペクションを始めている。インスペクションとは競技の前にコースを開放して、選手達にコースの内容を確認させることを言う。どのラインを滑るか、エアーはどこで着地するか、コブの深さはどうかなどチェックすることはたくさんある。
モーグルのコースはやや急斜面の長さ約二三五メートル、幅約二〇メートルの仕切られた範囲の中に、ほぼ均一な巨大なコブが並んでいる。選手達はこのバーンをフォールラインと呼ばれるゴールへの直線状に真下へ滑っていかなければならない。
またコースには特に大きくせり上がったコブが二つ作られている。これはこのコブでジャンプし、空中パフォーマンスを見せる『エアー』のためのものである。パフォーマンスにも色々な種類があり、足を広げたりツイストしたり、またフィギュアスケートのように自分の体を軸に一回転するものもある。
インスペクションはまだ始まったばかりだったが、登はすでにコースの真ん中に立っていた。櫻田に履いている板を悟られないために先にコースに出たのである。
実は登は櫻田からニューモデルの板をスタートハウス前で受け取ると、一度下まで滑り降りマークと板を交換してきた。櫻田は自分の仕事に集中しており、そばを違う板を履いて通り過ぎる登には気が付かなかった。
登はコースの中を丁寧にチェックしていった。
少しずつ滑り降りてはスタート地点を見上げ、どれが自分に最も適したラインか見定める。
「随分きついコブだな」
登はコブの頂上に立ち、その底を見つめた。登の滑りはそのスピーディーな攻撃性のある滑りが売りである。そのためにはできるかぎりフォールラインを維持しなければならないが、コブのショックを完全に吸収できないと体が飛ばされて転倒しかねない。登にとっては、深いコブはどちらかといえば不利だった。
雪の硬さを確かめる。まだ二月ということもあり硬く圧されたバーンにパウダースノーが被っている。その時、登の眼に自分の履いている板が目に留まった。そこにはトップの方にアメリカ国旗のシールが貼ってある。
「やっぱり誰の板だって変わらないな。まあ、少しこっちの方が長いけど」
板には“Mark Bradshow”と記されていた。登はマークの板を履いても全然違和感を感じなかった。
登がコースを滑り降りる頃、マークはまだ斜面の上部にいた。マークの板には流星が流れている。
『羨ましいぜ、こんなニューモデルが履けるなんて。登も後は自分のテクニックだけだな』
マークも登の実力は十分に分かっていた。まだまだこれからである。ちょうど自分の一年目の滑りに似ている気がする。あの時は何も分からずに、ただ斜面を猛スピードで駆け降りていた。マークは当時の滑りを否定する気はないが、まだあの時はモーグルというものが分かっていなかった気がする。
今だって分かっちゃいない。だがようやく自分がこの競技でやっていきたいことが見えてきた。
『随分とディープだな。日本の人間はコブに恨みでもあるのかな?』
流すようにゆっくりとマークは斜面を滑り始めた。
マークはインスペクションにはあまり時間をかけない。とりあえずどのラインを滑るかさえ決めれば、後は出たとこ勝負である。前以て具体的にターンやエアーを考えても、どうせ本番ではそんなことは忘れてしまう。
『ようし、「ニシムラ」の板の性能とやらを確かめてみるか』
マークはニヤリと笑うと、まだ何人かの選手がコースに残っているのに板をゴールに向けた。
『ヘイ、ちょっとトレーニングするから退いてくれ!』 振り向いてマークに気が付いた選手はあわてて横に退避しはじめた。また始まったという表情をしている。マークはコースの中心のラインを滑り始めた。
マークの足は『サスペンション』の異名を取る凄まじい動きを見せる。車などに付けられているサスペンションと同じで、どんなショックも胸に付きそうな程の激しい伸縮で吸収してしまう。そして確実に雪面をとらえて飛ばされることもない。
なめらかな滑りは徐々にスピードを増していった。
『フゥー!』
マークは高まるスピードに思わず声を上げた。すでに気分は本番である。間もなくエアーのコブが近付いてきた。
一瞬コブの影に姿が消え、次の瞬間飛び出してきた。 ダーフィー。
両足をそれぞれ前後に上げるエアーパフォーマンスの一つである。一つしか入れないこともあり高い位置で綺麗に決まった。
そして着地。うまくコブの谷間にランディングして体制を整えた。
その時、足元で何かずれる感覚があった。マークは敏感にそれに気付く。
『シット!』
マークは滑走中にもかかわらず急激に片方の足に体重を乗せた。体勢が崩れる。
金具からカチッ、という金属音が聞こえた。マークは危うく転倒しそうになり、滑走を中止した。
周りで見ていた一般スキーヤーから歓声が揚がる。まさか前日から選手の滑りが見れるとは思わず、その技術に釘づけにされていた。
しかしマークは不機嫌だった。
『何が起こったんだ?』
マークはその場で板を外すと金具を見てみた。別に変わった様子はない。
『あの程度でセーフティーが効くか』
自分の滑りとしてはそれ程無理をした覚えはない。あの音はブーツが金具にはまる音だ。マークは登にどうやってこの板の感想を言えばよいか悩んだ。自分が一回ぐらい滑っただけで他のチームのマテリアルに疑問を持つことなどできない。第一そんなことが表にばれたらことは大事になる。
マークは板を履き直すと、登の待つゲレンデハウスに向かった。櫻田に板を交換したことがばれないように中に入る時はハウス前に板を置き、出る時は何気なく自分の元の板を履くことにしていた。
ごく普通の斜面では問題なく、むしろマテリアルのフォローを感じるぐらいに気持ち良く滑れる。マークは、やはり自分の気のせいだったのかとも考えた。しかし、あの時マークは確かに金具が靴を解放する感触を感じていた。
ゲレンデハウスの中の食堂には、すでに登が昼食を食べながら待っていた。
『随分遅かったな。てっきり俺より早く来ていると思ったのに』
『ああ』
マークは先程までの思考がまだ続いていたせいか、生返事しかできない。座っている登の傍らに立ったままだった。一方、登はインスペクションも終わり午後の公式練習に気持ちが向いて、すでにエキサイトしている。
『どうした、マークが飯を前にして浮かない顔をするなんて珍しい。何かあったの?』
登はカレーを頬張りながら尋ねた。マークは我に返り、とっさにいつもの表情に戻した。
『それが参ったぜ、危うくフォールダウンするところだったんだ』
『へえ、マークが転けそうになるなんてそんなこともあるんだな。それなら本番でやってくれよ』
『ビッチ! 生意気な口を叩くボーイだ』
マークは登を小突いた。
『はいはい、どうせ俺はボーイだよ。ほら、早く昼飯買ってこいよ』
『言われなくてもそうする』
マークはさらに登にヘッドロックをかけた後、セルフサービスの列に歩いていった。登は戦闘前とばかりに、気合いを入れてカレーを口に運んでいる。マークは遠目からその姿を見てさらに悩みを深めた。
『あいつは何も知らないな。今の登にはシークレットにした方がいいかもしれない…』
マークは早急に決断を下すことを避けた。やはり自分の思い違いかもしれない。もしかしたら、無意識のうちに自分の限界スピードを越えていた可能性もある。登自身が今日滑ればきっと分かるだろう。
マークはトレーにハンバーグとライス、それにコーラを乗せて登の座る席に戻ってきた。
『登、日本のランチは高いなあ。アメリカじゃこれで5、6ドルしかしないぜ。変なタックスも付いてるし』
そういってマークは登にレシートを見せた。一三三九円と打ってある。
『スキー場じゃこんなもんだよ。どうせ、マークが払うんじゃないんだろ』
『まあ、そうだけどな』
登は素っ気ない返事をするとマークに席を勧めた。促されるまま座るマーク。食事を済ませた登は早速聞いてきた。
『それでどうだったマーク、板の方は。俺、櫻田さんに後で報告しなくちゃいけないんだ』
登は期待を持ってマークの言葉を待っている。内心どきっとするマークだったが、ポーカーフェイスで答えた。
『グットだ。なかなかいいレスポンスだったよ。軽いし、雪面を捉えやすい』
嘘はついてない。確かに板は良かった。
『ふーん。転びそうになったって言うけど、板は大丈夫? 変に曲がってなければいいけど』
『見くびるな、これでも俺はお前よりもテクニックは上のつもりだぞ』
『汚いぜ、それを出すのは』
渋い顔をする登。普段親しくしているマークに実力の差を言われると、登は何も言い返すことができない。
『まあ、あの板を使えばお前も順位がそこそこ上がるんじゃないか』
『マテリアルに期待はしていないよ。上がるとしたら俺次第だ』
登の視線がマークには眩しかった。
『その通りだ。後はお前次第だよ』
そして登はマークに励まされると、多少の悔しさもあるがやはり嬉しかった。と、その時ゲレンデハウスに入ってくる櫻田の姿が目に入った。あわてて一旦身を伏せる。
『マーク、櫻田さんが来た。詳しい話はまた後で聞かせてくれるかな』
状況を察したマークは席を立った。
『オーケー。じゃあ、俺はゲレンデに戻る』
マークは食べかけのハンバーグを残したまま、トレーを返却口に置きにいった。食事を残すのは実に惜しかったが、話を荒立てないためにもここは退散した方がいい。櫻田に接近したいという気持ちもあるのだが。
登はマークが離れていくのを確認すると姿勢を元に戻した。しばらくして、マークと入れ違いに櫻田が登の元にやってきた。登がインスペクションをしている間、櫻田は他のチームのサービスマンと情報交換したり、雪の温度を調べて雪質に合うワックスを色々と試していた。
「どうだった、ニューモデルの方は?」
櫻田は開口一番、登に尋ねてきた。
「良かったよ、なかなかいい反応だったし。板も軽いし雪面を捉えやすかった」
全くのマークの受け売りである。
「そう。何か他に問題はなかった? アクシデントとか、どこか壊れたとか」
櫻田は真剣な面持ちで再度登に聞いてきた。登はマークが転びかけたことを思い出したが、そんなことを言うことはできない。それにマークも大したことなさそうに言っていた。
「別にないよ。後は俺次第じゃないかな」
内心舌を出す登である。
「…分かったわ」
櫻田の表情は冴えない。登はマークといい櫻田といい今日はどうしたのだろうか、と不思議でしかたなかった。
大丈夫だったのかしら。
櫻田はまだ不安を取り除けない。マークと同じように櫻田にも登を正視できない何かを感じる。
それぞれの思惑を持つ周囲の中、登だけは自分の滑りに意識を集中していた。
そしてその日の午後、公式練習で登は転倒した。
(第4章「予選」につづく)
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