第2章「嫌悪」

 バンケットホールはたくさんの着飾った人間達で盛況していた。

 男性のほとんどが背広またはタキシード、女性は色とりどりのドレスに身を包んでいる。

 ここ選手達が宿泊する舞ケ岳リゾートホテルで、明日から行なわれるフリースタイルスキーワールドカップ第七戦ジャパンステージの前夜祭が行なわれているのである。各競技の選手やチーム関係者、メーカー、スポンサー、そして報道関係者などが多数詰めかけていた。

 三分の一ぐらいは日本人かもしれないが、他はフランス、スイス、カナダ、アメリカ、オーストリア、ノルウェー、ロシアなど様々な国の出身者が顔を揃えている。一線級のほとんどの選手が一堂に会していた。

 この前夜祭は大会運営側が自主的に開催したもので、参加が義務付けられたものではない。日本の大会関係者が懇親の意味で独自に開いたものである。

 にもかかわらずこれだけの参加者がいるというのは、狙いは別にある。

 ワールドカップも残り二戦となると、各国の代表チームとそこに資金を提供するスポンサー、マテリアルを提供するメーカーとの契約の更改が近い。それぞれが今までの戦績を参考に、自分たちが今の契約を継続するか、それともさらに良い条件を求めて違う側にアプローチしてみるか、など水面下での攻防がある。

 その舞台の一つに全ての人間がごく自然に一つの場所に集まるこのパーティーは、それにうってつけのものだった。

 しかしそんな事は何も考えていない、一人不貞腐れている男がいた。慣れないタキシードを窮屈そうにしている登である。登は朝に抜け出した罰として、櫻田にこのパーティーに出席するように言われたのである。

 夜十時を過ぎて、ゲレンデのナイタースキーももう終わっている。他に何もない雪山の中で、さすがに櫻田の目を盗む手段もなかった。

 登は世界を転戦できて選手になれて良かったと思うが、こういうスキー以外のことは面倒でしょうがない。ことあるごとに櫻田には選手としての自覚を持てと言われるが、滑ることはちゃんとやるから後は櫻田に任せたかった。

 その櫻田は向こうの方で中年の男達と話している。おそらく日本スキー協会か何かの偉い人達なのだろうが、登は全然知らない。強いて興味があるなら櫻田のショウアップした姿だった。

 珍しく、と言ったら失礼だが櫻田が化粧をしているのはめったに見ない。それにあんなドレスはどこから持ってきたのだろうか不思議である。

 こうして見てみると結構綺麗かもしれない。だが、まだ登にはそれを主体的に見て魅力を感じるまでには至らなかった。やはり普段から接しているとそういう面は意識せずとも排除されてしまう。むしろ登には櫻田の姿は隙がなく、仕事の延長のように見えた。

 あちこちで談笑が続く場内にマイクの声が入った。

「今夜はようこそ、フリースタイルスキーワールドカップ第七戦ジャパンステージ前夜祭にお越し下さいまして、誠に有難うございます。司会は私、原沢が務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」

 その後、同じ台詞を英語で繰り返すと場内から静かな拍手が聞こえてきた。若干の笑いも聞こえる。

「壇上の方は関係者の方々にご挨拶をして頂きますが、皆様はそのままおくつろぎになってお聞き下さい。では始めに…」

 原沢という司会者は壇上に初老の男性を招いて色々言っていたが、会場の方は再び騒つき始めた。

 登は誰と話すことも話しかけられることもなく、一人で軽食の置いてあるテーブルの前に立っていた。手持ちぶたさなので、夕食はすでに食べたのだが仕方なくブルーベリーの乗ったリッツを手に取る。

「ったくナパームの奴、慣れないことしやがって」

 登は壇上の原沢を見て言った。自ら司会者を名乗るあの原沢という男は、実はフリースタイルの大会でDJをしているのである。

 フリースタイルの大会では、必ず場内のアナウンスや曲紹介など観衆を盛り上げるDJがいる。そのパフォーマンス性を重んじるフリースタイルでは、選手の競技中は各選手が選択したBGMを流す。そしてDJがその技術を解説しながらテンションを上げていく。大会の成功を握る一つにDJが関係すると言っても過言ではない。 あの原沢という男、実はDJ名をナパーム原沢と言い、国内のフリースタイル大会では有名である。意味不明の言葉を並べながら否が応にも場内を盛り上げ、その爆裂した喋りはそれなりに好評を得ている。それが珍しく正装し畏まった話し方をしているのだから、場内から失笑が漏れても不思議ではない。

 登は何気なく口にしたブルーベリーのリッツが思ったよりも美味しく、もう一つ口にした。これじゃ夜食を食べに来ただけである。櫻田は今度は外人と何か話している様子で、登は退屈なままだった。

『ヘイ、クッキーばかりかぶりついてどうした?』

 英語で話しかけてくる声が後ろからした。リッツを口にしたまま振り向くと、デニムのシャツにジーパン姿の背の高い金髪の白人が立っていた。

『マーク、すごい格好だな』

『すごいのはお前だろ。子供がハロウィンに一人紛れ込んだみたいだぜ』

 マークはそう答えると登と同じリッツを手にした。登に英語で親しく話しかけてくるのは、このワールドカップで友人となったマークしかいない。このパーティーに一人浮いたカジュアルで参加する姿は、そのままマークの性格を表していた。時々そばを通る日本人がそんなマークの服装を見て顔をしかめるシーンもあったが、一緒にワールドカップを回る選手や関係者達はマークのいつもの言動に慣れてしまっているので全然気にしていなかった。

『登、コンディションはどうだ?』

 笑みを浮かべてマークは登に聞いてきた。どんな場所でもマークはご機嫌である。

『最悪だよ。お目付け役にはこんな所に連れてこられるし』

 不機嫌そうに登は答えた。

『オメツケ?』

 クエスチョンマークを浮かべるマークに、日本語を使ってしまった登は修正した。

『Brother’s Keeperのことさ』

『オーケー。ミス・サクラダのことだな』

 マークは面白そうに、向こうで話している櫻田と登を見比べた。

『でも、ミス・サクラダは予想通り綺麗だな。普段もメイクアップすればいいのに。うちの選手なんか必要もないのにパウダーを付けてるぜ、どうせ顔なんてゴーグルで分かりはしないのに。でも前から彼女はマークはしていたんだが』

 登は危うくブルーベリーを口からこぼしかけた。

『おいマーク、お前は櫻田さんにまで目を付けていたのか?』

 マークの女好きもまた有名である。以前にもバレエの女子選手と噂があったばかりだ。

『までも、とは失礼な。俺は美しい女性には声をかけずにはいられないんだ』

 不服そうな顔をするマークだが、少しも冗談では言っていない。

『じゃあ、櫻田さんは?』

 マークは舌打ちした。

『彼女には他を寄せ付けない威厳が感じられて、なかなかアプローチできない。アダルトな女性の魅力を感じるのだけど』

『へえ、マークは年上が好みか』

 わずかに笑いながらも、どこか自分にしてもマークの考え方に否定できない気がする。だが今の登は基本的に女性にはあまり興味がない。スキーが恋人、という奴である。

『しかし今日はよく揃ってるな。グロスピンも来てるし、ハインツァー、コシールもいる。うちのメアーズなんか、引退した後の仕事を探すとか言って張り切ってたからな』

 どれもモーグル界の一流選手である。片手にグラスを持ち同じチームの選手と優雅に話しているのがエドワード・グロスピン。フランスの選手で現時点での世界ナンバーワンと誰も疑わない。恐ろしいほど正確な滑りからその破壊力も込めて『ターミネーター』と呼ばれている。

 ハインツァー、コシールも常にトップ6に顔を見せる常連である。

 フレニー・ハインツァーはスイスの選手。やはり『アーティスト』というニックネームを持ち、自分で

「私は銀盤に旋律を奏でているのだ」

と言ってのけるナルシストだ。しかし、その余裕を持った舞うような滑りは誰にも有無を言わせない。

 ユーリ・コシールはスロヴェニアの選手で、ソ連時代から参戦している選手である。若くまだ荒削りではあるがパワーでは引けを取らない。

 マークの言うメアーズとはアメリカの古豪選手で、モーグルが大会として認められた当初から連戦連勝を重ねてきた男である。すでに四十に近いとの噂もあるが、まだ現役選手として活躍している。

 ゲレンデに出ると、なかなか選手達のスタイルというものは滑り以外には出てこない。普段は紳士的に振る舞う選手も、一度スタートハウスに入れば叫びながらコブに突っ込んでいく。登も自分の上を行く一流選手達を見ると刺激されるものがあった。登も日本人初の決勝進出選手として注目されてはいるが、自分で見てもまだ彼らのレベルには到達していないと思う。

 そして付け加えることがあるならば、登の目の前にいるマークもモーグル界の三本の指に入る男だ。若手ナンバーワンと言われ、滑りやエアーの中に今までにない数々のパフォーマンスを見せることで名前を馳す、グロスピンの次を行くトップと目されている。だが時に突拍子もないことをやり、審査員泣かせとも言われていた。

『今度はどうだ、登? たまには俺の後も滑ってみろよ。予選ならトップの奴も少しは滑りを抑えてくるぜ』

 決勝は予選の順位で最下位の選手からスタートする。マークの口には余裕と期待が込められている。登にはきつい言葉だった。しかし、友人とはいえ選手同志である以上弱気なことは言えない。

『今度は予選から飛ばすよ。マークこそいつものくせで予選失格にならないように気を付けた方がいいんじゃないか』

 相手がマークだからこそこんなことを言えるが、マークの後を滑るということはトップ3に入ることである。『それなんだけど、あそこにいる女性達を見てくれ』

 マークは顔を振ってある方向を示した。見てみると、そこにはやたらと黄色い声を振りまいている日本人女性が外人選手を囲んでいた。

『あいつら誰? うちにあんな選手いないぜ』

 登は露骨に嫌悪感を示してその女性達を眺めた。パーティーに参加する人間にしては不自然である。特にボディコンシャスに身を固めた過激とも言える格好は、明らかに会場から浮いた存在だった。

『彼女達は、東京の「ジュリアン」というクラブのクィーンだって言ってた。登は知らないのか? メジャーなナイトスポットらしいけど』

『「ジュリアン」? 知らないね。俺はそんな所で遊んだことないから』

 登は極端なまでの拒否反応を示す。思春期にありがちの優等生のようだった。

『ヘイヘイ、冷たいな登。彼女達は今回のミュージックをスポンサードしにきたらしいぜ。俺もクラブミュージックは嫌いじゃないし、アプローチしてみたんだ』

『また?』

『「ジュリアン」を今回俺が派手にパフォーマンスしてみせる代わりに、大会の後トーキョーを案内してもらうことにしたんだ。もちろん彼女達全員だぜ』

 たしかにマークのような美形外国人を連れて歩けば、あのボディコンギャル達も悪い気はしないだろう。しかし登にはあの女性達が、流行に廃れたディスコ店員の地方巡業のように見えるのは気のせいであろうか。マークもジャパニーズガールに声を掛けられていい気分なのだろう。

『また変なことしでかそうとしてるんだろ』

『ハハ、それはトップシークレットだ』

 口に指を当てるするマークだが、また関係者を怒らせるようなことを考えているに違いない。登が色々と憶測をを飛ばしているうちに、ボディコン軍団がマークを見付けてこちらにやってきた。

『ハーイ、マーク。何そんな所で男相手にしてるの?』 集団の中で唯一英語が喋れる帰国子女らしき女性が話しかけてきた。それ以外は何やら意味不明の単語の羅列でマークのご機嫌を取ろうとしている。だがてんで通じず、中には恨めしそうに口を尖らせている者もいる。

『友人と話してたんだ。紹介するよ、日本の誇るモーグラー、沢井登だ』

 突然視線を向けられて登は戸惑った。この手の人種をこんなにたくさん目の前にしたことはない。

「あら、かわいい! 君もスキーの選手なの?」

「え、ええ」

「きゃあ、タキシードなんか着ちゃってるう。ねえねえ君、年いくつ?」

「二十歳ですけど」

「うっそお、ねえねえ真由美と同じよ。ほら真由美、べたべたしてないで来てごらんよ。この子、真由美と同い年なんだって」

 マークにくっついている化粧の濃い女がこちらに来る。

「やあだあ私、日本の男の子って軟弱だから嫌い。それに、やっぱり身長は一八〇なくっちゃねえ」

 知識のほとんどを女性雑誌とトレンディドラマで吸収する彼女達に、社交的な挨拶をする頭など持ち合わせていなかった。登はおもちゃにされていることにも気付かず、ただ唖然としている。ましてや同年代の女性に軟弱と言われても、自分のことを言っているのが分からなかった。

『ベイビー、ここ抜け出してどこか静かな所で…』

 マークは人気が登の方に傾きかけて少し気にしたらしく、場所替えを持ち出した。

「わあ、あたし行く」

「私も私も」

「仲間外れ嫌だあ」

「じゃあ私、店長に聞いてくるね」

 彼女達が行けば静かな所もうるさくなると思うのだが、マークは気にせず全員を引っ張っていくつもりらしかった。

 潮が引くように登の前を喧騒が去った。いつの間にかテーブルの上の軽食もなくなっていた。登は何はともあれうるさいのに解放されてほっとしたが、ほとんど間を持たず登にとってさらにうるさい女がやってきた。

「登、お忙しいところいいかしら?」

 櫻田は機を見計らっていたように登をつかまえた。櫻田の横に一人の中年男性がいる。

「紹介するわ。明日からあなたが使うニューモデルを提供してくれる『ニシムラ』の萩原さんよ」

 櫻田は眼で登を威嚇しながらあくまで上品に紹介した。萩原は長身だが痩せてはいない。やり手のビジネスマンを感じさせる、高そうなスーツを着た男だった。

「よろしく。活躍は聞いています」

「どうも、沢井です」

 自然に萩原の右手が出てきた。釣られるように登は握手した。握り返す力は適度に強く、何か威圧するものを感じる。

「萩原さん、と言ってるけど彼はうちの社長なの。今回の大会を気にして自ら観戦しにきたのよ」

 櫻田は代表チームのサービスマンだが職業はスキーメーカー『ニシムラ』の社員であり、ここには派遣されてやってきている。

「若いね。気力に充ち溢れている」

 登の姿を流し見て萩原は手を元に戻した。

「それだけが取り柄ですから」

 当たり障りのない返事をする登。

「何か今までのうちの製品で困ったことがあったかな? あったら遠慮なく言って欲しいんだが」

 あるのならばこんなことを聞いてきたりはしない。それぐらいの状況は当然掴んでいるはずだ。実際、登自身マテリアルに何ら不安は感じていないし、櫻田の前で言える不満はない。

「特にありません。櫻田さんが色々とサポートしてくれているので」

「色々と?」

「ええ、生活面でも」

 場合によっては誤解されかねない台詞だが、登の言葉にそんなニュアンスは感じられなかった。櫻田は平然としており、萩原も特に訝しく思う様子もない。

「そうか。彼女は優秀だから色々と教えてもらうといい」

 登はその言葉に冷たい印象を覚えた。社長と社員など、所詮それだけの関係なのだろうか。自分を指導する立場の人間が、言葉にしなくても蔑まれているのを感じるのは嫌なものがあった。

「いいのよ、何か不満があるなら気にしないで言って」 櫻田には登の心理が手に取るように分かるらしい。

「そんなことないです。結果が出なければそれはぼくの責任です」

「いい心がけだ。君のような選手なら、私も安心して任せられるよ」

 あくまでも良心的な態度だが、やはり冷たい。人間関係にすたれていない登には敏感に感じるものがあった。櫻田はどう思っているのだろうか。

「登、他の人達にも挨拶した?」

「一応」

「一応ね」

 萩原の手前か、それ以上は櫻田は聞いてこない。

「じゃあ今日はもういいわ。明日の公式トレーニングから早速使ってもらうから、リポート頼むわよ」

「よろしく」

 萩原にも念を押された。

「分かりました」

 登はまた仕事が増えると内心がっかりしながらも、とりあえずこの場を去ってよい許可が下りたのでほっとした。普通のスキーヤーなら、ニューモデルのスキーで滑れるということだけで大喜びする。もちろんその機能性に期待するのもあるが、新しいデザインはスキーが『見られるスポーツ』である以上、他のスキーヤーと差を付ける重要な要素である。

 登はまだ壇上では関係者の挨拶が続き、談笑に包まれている会場をようやく後にした。きつく絞められていた首元を、手を入れて緩める。この櫻田が用意してくれたタキシードも後で返さなければならない。

「別に普段着でも良かったじゃないか」

 選手達はそれなりに着飾っていたとはいえ、マークのような例も考えると少し後悔もする。それともこういう場でやたらと服装を気にすること自体、まだ子供なのだろうか。登は人気の無い廊下を歩きながら、会場であったことを色々と考えていた。

 スキー一筋だった登も大人の世界を垣間見た気がした。特にあの萩原という男にはその言葉からだけでははかりきれない何かを感じる。普段自分からそういう世界を遠ざけていても、いざ中に入るとそうでなくてはいけないような空気に押しつぶされそうになる。そこに不安と戸惑い、そして否定できない憧れが含まれている。

 登は部屋に戻るとベッドに腰掛けた。窓にはすでに明かりを消した、暗やみに包まれたゲレンデが見える。空には満天の星が輝いていた。

 山の夜空には都会では見ることのできないたくさんの星を見ることができる。スモッグもなく、ネオンの光に輝きを消されることもない。登は東京に初めて出た時、東京の空には星がないのを見て愕然とした覚えがある。 窓を開けると刺すような冷たい空気が部屋に流れ込んできた。登は上着を脱ぎ、胸元を開けて風を受け止める。先程までとは違う解放感が体に充ち溢れてきた。

 気持ちが自然と雪に、そして明日に向かっていく。明日はコースインスペクションと公式練習が行なわれる。そしてその翌日が予選。そして最終日に決勝が行なわれる。

 今回はとにかく結果を出したかった。周りの人間は登のことを色々言う。気にしていないつもりでも脳裏のどこかにそれは忘れられないでいる。自分がそれに束縛されないためにも、今回は結果を出しておきたかった。

 この世界は嫌いではない。いや、好きだ。一度スキーを投げ出した自分が見つけた、求めていたスキーがここにはある。ライバルも多く、やりがいもあった。自分はモーグルに執着している。それは否定できない。自分のやりたいことをやるために、それに縛られていく。まだそれを楽しむ余裕は登にはなかったが、これ以外の道は考えられなかった。

「楽…なわけないか」

 登は冷気を思いっきり肺に吸い込んだ。


      ◇            ◇


 エレベーターが最上階へと昇っていく。櫻田の目の前には、扉の前に立つ萩原の姿があった。会話もなく、やがて扉が開くと萩原は先に廊下へと歩みを進めていった。やや距離を置いて櫻田も続く。櫻田はパーティーのドレスを着たままだった。

「どうぞ」

 萩原が部屋の鍵を回し、ドアを開く。やはり無言で櫻田は部屋に入っていった。

 部屋はこのホテルのスイートルームだった。企業の社長である萩原が泊まる部屋なら当然であろう。

 櫻田は広い空間の中心に置かれているソファに腰を下ろした。テーブルにはタンブラーが置かれたままになっている。部屋を少し見回すが、別段めずらしい様子もない。

 萩原は背広を脱いでハンガーに立て掛けると、奥にあるバーラウンジへ歩いていった。

「白、飲むか?」

 迷わずにワインのボトルを手にして萩原が聞いてきた。

「…やめとくわ」

 萩原はそれを聞くとワインボトルを置き、代わりにスコッチを手にした。木製の戸棚を開けると冷蔵庫になっており、そこから氷を一つ萩原は取り出した。

 室内の明かりは付けられたままだった。薄明るい光が櫻田の肩を照らす。

「似合ってるじゃないか」

 萩原は櫻田の向かいに腰を下ろした。

「あの子自身は窮屈そうだったけど」

「彼じゃない、君の方だ」

 萩原は櫻田のドレスに目を遣った。

「これからはやめて。変に気を使うから。私だってパーティー用の服ぐらい持ってるから」

「じゃあ、なぜ僕が用意した服を着たのかな?」

 萩原は手に握っていた氷をタンブラーに入れると、ガラスの鳴る音が部屋に響いた。

「登の分も用意してくれたお礼よ」

 櫻田は視線を斜め下に向ける。

「皮肉なもんだ、彼は私があまりお気に召さないらしい。その男が出した服を着てたんだからな」

 櫻田は無言だった。萩原はスコッチのボトルの栓を開けると、片手で氷の上に琥珀色を注いでいった。

「一年ぶりか」

「ええ」

「君はまた綺麗になった」

 櫻田は萩原に視線を合わせず、手を膝の上に置く。

「どうかしら、年を取っただけよ」

 声に無い笑みを萩原は浮かべると、タンブラーを手に取った。

「そういう所は変わらない」

 櫻田は席を立った。萩原は顔を上げて櫻田の様子を伺う。

「…私も貰うわ」

 櫻田は萩原との距離を遠ざけているかのように、バーラウンジの方へ歩いていった。

「グラスは下の棚にある」

 萩原は振り返らずにスコッチを口にしていた。氷がグラスの中を回る。

「先に仕事の話をするか」

 櫻田が戻らないまま、萩原は一人で話を進めた。

「今回の『ニシムラ』のニューモデルについてだが、いくつか伝えておくことがある」

 櫻田のグラスにワインを注ぐ手が止まった。眼も萩原に向けられている。

「昼にやったテクニカルミーティング以外に、何か報告事項があるの?」

「少しね」

 萩原はタンブラーをテーブルに置き、ソファに体を任せた。

「何?」

 櫻田は先程とは違い、自ら萩原に近付いていった。

「君にだけ話しておきたいことがある」

 萩原は櫻田の顔を見つめる。この部屋に入って初めて二人の目が合った。

 櫻田の持つワインの水面が揺れた。

            過去



 登は公開練習が終わった後、ホテルに戻るとずっと部屋にこもっていた。

 怪我はない。

 ベッドに仰向けに横たわり、開けたままの窓に見える夕暮の景色を時折眺めながら考えていた。

 一回ぐらいの転倒を気にすることはないぐらい、登にも分かっている。あの後、櫻田には無理はすることない、と言葉の上では感じられなくても自分を気遣う様子があった。マークも俺と同じだと笑っていた。コーチ達もこれで問題点が分かるはずだ、と良い方向に考えてくれた。

 公式練習では、登は一つの課題を持って滑ることにしていた。それはいかにスピードを出しても足のクッションで衝撃を吸収するかだった。コースの深いコブを見て、登はこれを克服しなければこの大会はおろか、これからのワールドカップでは自分の滑りは通用しないと考えたのである。

 登はあの時の滑りを振り返った。


 自分は一番最初にスタートハウスに入った。他の選手の滑りを見て自分の滑りを見失いたくなかったからだ。 公式練習ではタイムだけは本番と同様に計ることができる。登はこのタイムに注目していた。いかに積極的にコブを深くえぐりながらタイムをキープできるか、これが指標となる。

 電子音によるカウントダウンが始まる。スタートには電衡管が設置されているので、この音はスタートする目安にしか過ぎない。

 焦る気持ちを抑え切れず、スタートの音を待たずに登は飛び出した。

 ラインは一番ギャップの深いコースを選んでいる。

 始めのいくつかのコブでターンのリズムを取る。このリズムを最後まで維持できるかが勝負の分かれ目だ。

 徐々にコブが激しくなってきた。体勢を前に保ち、フォールラインを崩さないようにしていく。

 エアーの前の最後のコブが目の前に迫った。ここではスピードをコントロールしなければいけない。登は板のテールに体重をかけてスピードを抑えようとした。

 この時、予想以上のショックが登の体を襲った。体が一気に後ろに飛ばされる。

 そして気付いた時、横たわる登の目の前には外れた板が転がっていた。


 登はジレンマに陥っていた。あの時、確かに雪面を捉えながらもスピードは落ちていなかったと思う。ところが今度はそのスピードに負けてしまった。あまりエアーの得意でない登は、スピードを抑えてしっかり体勢を作ってからでないと着地でバランスを崩してしまう。

 一つを進めると一つが退く。自分の中の天秤が崩れかけていた。

「なぜ、俺はスキーでこんなに苦しまなければならないのだろう」

 登の心理は現実逃避するかのごとく、別の方へ移っていった。

 自分が好きで始めたスキー。雪面を激しく、風を切って滑っていく快感は何物にも代えられないものがあった。

 自分は技術に束縛されることを嫌い、基礎スキーを捨てた。あの時のことは今でも覚えている。理論なんて糞食らえだった。

 だが、今自分が悩んでいるのはまさにその理論ではないか。今まで自分が雪の上で答えを出してきたはずのスキーが、今ここで壁に当たっている。やはり方法論のないスキーには限界があるのだろうか。

 登の今までのスキーに対する考えが揺さ振られている。

 ゲレンデにナイターの光が点り始めた。橙色の空が青から黒へと変わっていく。スキーヤーは山を降り始め、徐々にその数は少なくなっていった。

「俺、何のためにスキーやってんだろ」

 ふとそんな言葉がこぼれてしまった。

 自分のため? 当たり前だろそんなこと。

 じゃあ何だ、快楽のためか? それなら普通にスキーをやってて十分に済むじゃないか。

 歓声を浴びるため? この世界でトップに立つため? それも正解には違いない。だが、それだけではない。何なのだろうか? 自分自身今までやりたいことをやってきたが、それは何のためだろうか。分からない。分からない。

「何のために俺は生きてるんだ?」

 思考が哲学的になってしまい、登はそこで考えるのを止めた。そこまで行くと馬鹿らしくなってしまう。

 だが、本当はそれを考えるのが恐いのではないか。自分が何も考えずに日々を無駄に過ごしているのを認めたくないのではないか。

「ちきしょう!」

 登は勢いよくベッドから起き上がった。窓から何か叫びたい気分だった。だがそれもできない。そしてできないことに腹が立つ。

 登は壁を力の限り拳で叩いた。鈍い音が部屋に伝わる。登の手に痛みが込み上げてきた。

 泣きたくなる。泣いてどうにかなるわけもないが泣きたくなる。

 自分の不甲斐なさに、登はどうしようもできないでいた。


      ◇            ◇


 櫻田はドアをノックした。周りの廊下には誰もいない。しばらくの静寂の後、中から声がしてきた。櫻田の表情はこわばっている。

「開いてるから入ってくれ」

 櫻田は力を込めてノブを握ると、部屋に入っていった。

 そこには広い部屋の中に、デスクに向かって仕事をしている萩原の姿があった。

 萩原は眼鏡を外すと椅子に座ったまま振り返った。

「今日は呼んだつもりはなかったが…」

 櫻田の姿を認めて萩原はペンを置いた。

「登が転んだわ」

 萩原の言葉を無視するかのように櫻田は切り出した。

「板が外れたのよ!」

 櫻田は強い口調でもう一度繰り返した。しかし萩原は興奮気味の櫻田に対して冷静を保っている。

「だから?」

「だからとは何よ、あれは金具のせいよ。あの程度のショックで外れるわけないじゃないの!」

 櫻田は座ったままの萩原に歩み寄った。

「君に言った通りじゃないか。予定調和が現実となって何を驚いている。あの金具には欠陥があると昨日伝えたろ」

 萩原は嘲る態度で櫻田をあしらった。櫻田は立ったまま拳を強く握り締めている。

「昨日はあなたの言ったことが本当かどうか信じられなかった。だから今日登に履いてもらって試してもらうつもりだったのよ。登もインスペクションの時は大丈夫って言っていたし」

「つまり、君は自分のチームの選手を実験台にしたわけだ。しかもその本人に何も伝えないままに」

 櫻田の顔が見る見るうちに蒼白していった。

「それで転んだことを僕の責任にしようとするのは、少し違うんじゃないか」

 萩原は立ち上がり櫻田の手に触った。一瞬櫻田は体を震わす。萩原は櫻田の掌を両手で包んだ。

「どうした、千文。いつもの冷静な君はどうした? 昔の君ならこれぐらいのことで取り乱さなかったはずだ」 萩原の手が徐々に上に移動する。

「…確かに、私は登を使って試したかもしれない。でも…」

「でも、何だい」

 萩原の口調が、先程までのビジネスライクなものから子供をあやすような言葉に変わっていく。櫻田は身をこわばらせたまま萩原の手が肩に掛かるのをそのままにしていた。

「私、できないわ。…もしかしたらあの子、壊れてしまうかもしれない」

「なぜだ? まだ彼は若い。次の大会も、また来シーズンもあるじゃないか」

 萩原の手が櫻田のうなじを包み込むようにして止まった。背筋に悪寒が走り、櫻田は萩原に背を向けた。

「あの子はガラスのように脆い子なの。若いってことは、傷付きやすいってことよ」

 萩原は櫻田の背中を見ながら笑みを浮かべた。

「…そうだな。ちょうど選手時代の君みたいに」

「昔の話はよして!」

 櫻田は萩原から離れた。守るように体を手で抱え込む。

「いいじゃないか。それとも君と同じことが彼にも起こるというのかい? それはないだろ、君がちゃんと細工さえすれば」

「やめて!!」

 櫻田はその場にしゃがみこんだ。萩原はそれを見下ろすように櫻田に近付いていった。

「何も君の過去を否定することはないじゃないか。…別に僕は君に強要しているわけじゃない。社長命令にしたって良かったんだが、それじゃ君と僕の間ではあまりにも不自然じゃないか」

「…」

 櫻田は無言のままうずくまっていた。

「それなら恩返しと思ってくれてもいい。別にそんな気はないんだが、君の良心が痛むならそうすればいいだろう。僕が、引退後行き場のない君を拾ったその報酬として」

 屈辱的な過去が櫻田を襲った。自分は今まで自分の過去を恥ずかしいと思ったことはなかった。だが、その見下すような萩原の言葉に自己嫌悪を感じずにはいられなかった。体が震えているのが分かる。

「…馬鹿ね、私って。その場その場で一生懸命やってればそれでいいと思ってた。でも、後で自分を苦しめることになるなんて」

 櫻田は立ち上がると萩原の胸にすがりついた。

「馬鹿、馬鹿!」

 萩原の胸を叩く。萩原は櫻田の体をやさしく抱き締めた。

「これはビジネスだ。彼だってこれぐらいのことで壊れたりはしない。モーグルで大きな怪我をしたという話もないじゃないか。大丈夫だよ、割り切って考えるんだ」 萩原のワイシャツが徐々に染みを広げていった。その染みを櫻田は握り締める。

「…約束して。もう二度とこんなことはしないって。私も言われた通りにするから。あなたの言うことを聞くから…」

「大丈夫だよ、これはビジネスなんだから。約束は守る」

 萩原は胸にもたれ掛かる櫻田を支えながら、その髪の毛を撫でた。

「大丈夫だ」

 その顔は言葉と裏腹に恐ろしいほど冷酷なものだった。


      ◇            ◇


 やりきれない気持ちをどうにかしようと、登は夜のゲレンデに飛び出した。スキー場はゲレンデを限定して、九時までナイタースキーをやっている。

 滑ることによってきっと何かが掴めると思って、登は雪を踏みしめた。

 スキーヤーは数える程しかおらず、リフト乗り場は誰も並んでいなかった。四人乗りの座席を一人で占領する。

 足を楽に広げてくつろいだ姿勢を取った。ナイター用のライトがさまざまな角度から光を発しており、雪面には登の影がいくつも照らしだされている。

 しばらく上がっていくと登が今日転倒したモーグルのコースが見えてきた。本当ならこのコースを何度も滑って練習したいところなのだが、コース内は演技中とインスペクションや公式練習以外は立入禁止である。下手に入り込んだのがばれて出場停止になったら元も子もない。

 しかし登はコースから目が離せなかった。夜になるとコブ一つ一つの影が斜面に照らしだされて、闇の世界にもう一つ斜面があるような錯覚さえ覚える。そしてその闇がコブの深さを一層際立たせていた。

「やっぱりでかいよな」

 登は溜め息を吐く。その時、闇の中に何か動く姿が見えた。

「何だ?」

 この時間に人がコースの中にいるわけはない。それとも一般スキーヤーが紛れ込んだのだろうか。それならば注意しなければならない。登はリフトを降りたらそこに向かうことにした。

 リフトに乗ってる間もずっとそちらを見ていたが、その影はなかなか立ち去ろうとせずコースの中を行ったり来たりしている。やはりスキーヤーらしい。

 登はリフトを降りると早速コースに向かって滑り降りていった。夜の空気が登の顔を刺激していく。

 すぐにコースの前に辿り着いた。まだあの人影は下の方で蠢いている。登はコースの横をゆっくりと斜滑降で降りていった。

「すみません、そこ関係者以外立入禁止なんですが」

 登は聞こえるように大声でその人影に叫んだ。ゲレンデに登の声が響く。

 するとその人影から返事が返ってきた。

「君は誰だ?」

 まさか逆に聞かれるとは思わなかったが、注意してる立場からも一応身分ははっきりさせたほうが良いと思った。

「ここを滑る大会の選手です。沢井って言います」

 何か間の抜けたものを登自身感じたが、他の言い方も思いつかなかった。

「君は沢井登君かい?」

「え? はい、登です」

 驚いた。なぜ俺の名前を知っているのだろう。結構俺も日本じゃ有名なのだろうか?

「何だ、やっぱり登か。私だよ、関だよ」

 関という名に、登はすぐにピンときた。その人影はこちらに近付いてくる。やがてその姿がはっきりと見える距離になった。

「関さん!」

「久しぶりだな、登」

 登が再会を驚く関という名のスキーヤーは、初老の髭を生やしたスキースクールのウェアを着た男だった。


 今度は二人でリフトに乗ることになった。四人乗りの座席に、やはりゆったりと登と関が座っている。

「関さん確か長野じゃありませんでしたっけ? こっちに来てるなんて思いませんでしたよ」

 登はは久しぶりに関に会えて、先程までの悩みも忘れ素直に喜んでいた。

「ワールドカップをやるというから、今シーズンの始めに呼ばれてね。今はここのスクールの副校長をやってるよ」

 関は登の恩師である。基礎スキーを捨ててただの野良スキーヤーになっていた登を、モーグルの世界に導いてくれたのが当時フリースタイルチームの強化委員をやっていた関だった。

「それもそうですね、この大会に関さんが顔を出さないのもおかしい」

「最近デスクワークばかりでね、久しぶりにゲレンデで働ける仕事をもらって喜んでやってきたよ」

 関も久しぶりに自分の弟子に出会えて嬉しそうだった。

「ところでさっき何をやってたんですか?」

 こう言っては失礼だが先程の不審な行為について登は尋ねてみた。

「コースが荒れてるのが気になってね。係員の人達もしっかり整備はしてくれているんだが、やはり自分の手で確かめないと不安で。それにコースに入り込もうとする失礼な奴らがいるかもしれないし」

 登は一瞬肝を冷やした。だが、人目のない夜にコースを整備するとはいかにも控えめな性格の関らしかった。

「関さんは今回何かやるんですか?」

「それが俺も年だ。何と明日からのジャッジをやることになっちまったよ。もう俺は見る方の立場なのかね」

「えっ、じゃあ僕のジャッジも?」

「当然だ。この仕事を引き受けた時から楽しみにしてたよ」

 関は日本のフリースタイルスキーにおいて開祖とも言える人物である。まだ日本にフリースタイルが根付いてない当初から様々な方面に働きかけて、今のこの状態になるまで貢献してきた。関自身最初はモーグルの選手だったのだが、日本にもフリースタイルが浸透し、後進の選手が育ったのを認めるとあっさり身を引いてしまった。

「いいんですかね、僕達こんなところで話していて。これじゃまるで密会ですよ」

「気にするな、俺は誰にでも点数は厳しく付けるよ。特に公式練習で転けてるような奴にはね」

 登の顔色が変わった。

「見てたんですか?」

 昔の恩師に自分の情けない姿を見られるのは実に恥ずかしく、関にも悪い気がした。

「ワールドカップの活躍は俺も十分耳にしてるよ。なかなか初めてにしては頑張ってるじゃないか」

 関は登の膝を軽く叩く。関には登の考えていることは分かる。

「…世界は強いだろ」

「ええ、強すぎます」

「日本じゃ敵無しだったお前を外に出したのは、それをお前に分からせるためだよ」

「十分身に染みてます」

 登は苦笑いをした。ワールドカップを転戦して、世界の選手達のレベルの高さは嫌というほど思い知らされていた。

「それでいいんだ。何も世界に出ていきなり勝てとは言わんよ。今は自分の本当の実力というものが分かればそれでいい」

 関は前を向いたまま諭すように登に語っていく。

「焦ってるんじゃないか?」

「え?」

 登は関の方に顔を向けた。

「この一年は、日本がお前に与えた研修期間みたいなものだよ。別に結果にこだわる必要はない」

 関の言うことは的を得ていた。今、登が求めているのは何よりも結果である。

「そうですね。…でも関さん、俺」

「何だい?」

 登は偽らざる気持ちを述べた。

「やっぱり勝ちたいですよ。そりゃあ、関さんの言うとおり俺には先があるかもしれない。でも、だからってやるからにはトップを狙いたい。今、俺は一番いい滑りをしたいんですよ」

 登の言葉を聞いて、関は大声で笑った。

「そうか、勝ちたいか。いいなあ、登らしい。勝とうとする気持ちは大切だよ」

「別に笑うことはないじゃないですか」

 登は恩師の大笑いに不平を申し出た。

「すまん、すまん。いやあ、てっきりお前が他の選手達に打ちのめされてしょげかえってるんじゃないかと思っててね。ところがお前はそれでも勝ちたいと言う。感心したよ」

 登はそう言われてはっとした。戦う者にとって一番大事なことは、闘争心を失わないことだ。

「関さん…」

「今はあまり深く考えるな。お前は今まで通りやりたいようにやればいい。沢井登という人間を分かっている人なら、みんな黙ってお前を手助けしてくれるよ」

 登にはその時初めて分かった。自分を支えてくれている人達の存在、そしてその本当の価値を。

「それでもお前が悩むなら、その人達に聞いてみなさい。過ごしてきた年月に違いはあれども、皆お前の経験していない違った人生を持っている。きっと得るものがあるさ」

 やはり関は、登にとって教えられることばかりの先生だった。今まで彼は登に技術的なことは一切教えていない。全て登自身が身に付けていくように彼は一切口出ししなかった。それでも登の中に関の存在が大きかったのは、関が常に黙って自分のスキーに対する姿勢を見せ続けてきたからであろう。

 リフトが終点に近付いてきた。登は関の言葉を聞いたまま黙っている。

 関が先に座席を降りた。

「うーん、それでもお前が納得しないなら…そうだなあ。じゃあ、雪にでも聞いてみればいい」

 気障な台詞は苦手らしい。関はそう言うと登を待たずしてゲレンデに向かっていく。

「関さん!」

「明日からの滑り、期待してるよ」

 関は行ってしまった。登も追い掛ければすぐに追い付くこともできたが、そんなことも野暮に思えた。ライトの間の暗闇に関は消えていったが、登はその場で関の滑りを見送った。まるで見せ付けるかのように小回りでも大回りでもなく、自由に自分が思うままのラインを残していく。

 背中で語るとはこういうことを言うのだろうか。

 登の中にまだ答を得られない不安は残されたままだったが、それでも関によって一筋の道が照らしだされたような気がした。そこをどうやって進んでいくかは登次第である。

 一瞬でもスキーを辞めたいと思った自分が馬鹿みたいだった。


      ◇            ◇


「いるかな…」

 登はナイタースキーから戻ったその足で、直接櫻田を尋ねることにした。関に言われたばかりではあったが、登は櫻田と話がしたかった。別に何を話そうと決めているわけでもない。ただ、櫻田と言葉を交わしたいだけだった。

 登は櫻田の部屋をノックした。

 何も返事がない。

 もう一度ノックした。

 すると部屋の中から何か音がした。

「櫻田さんいますか? 登ですけど」

 まだ部屋の中は人が動く音がしてくるだけである。

「おかしいな…。櫻田さん、忙しいんだったらいいんですけど」

「ちょっと待って。今、開けるから」

 ようやく櫻田の声が聞こえてきた。気のせいか声がかすれている気がする。もしかしたら寝ているところを起こしてしまったのかもしれない。今更戻ることもできず、登は後悔した。

 しばらく櫻田の動く音が部屋から聞こえていたが、ようやくドアが開いた。

「ごめん、待たせて」

 ドアから現われた櫻田は、昼間着ていたの代表チームのウェアやズボンを着たままだった。

「もしかして寝てました?」

「ううん。起きてぼーっとしてた。どうぞ、入って」

 どうやら睡眠を邪魔したのではないと分かって登は安心したが、では起きてたのになぜこんなに待たされたのかが逆に疑問として残った。

 櫻田の部屋は意外に散らかっていた。ベッドは整えられていたが、テーブルの上にはスキー雑誌やノート、書類などが乱雑に置かれている。床にもチューンアップ用の道具がいくつか並べられていた。

「どうしたの、そんな格好で私の所に来るなんて。何か伝えたいことでもあるのかしら?」

 櫻田は言葉の割に、自分がこんな格好をしていることには気付かないでいた。登はそのことも聞いてみたかったが、ここで変な詮索をして櫻田との会話を崩したくはなかった。

「さっきまでナイター滑ってたんだ。そうしたら関さんに会ってね」

「関さん? その人たしか、今回日本人初のジャッジを務める人じゃないかしら。あの人は私が入る前は代表チームのコーチもやってた人じゃない?」

 櫻田は自分の記憶から情報を引っ張りだした。

「へえ、櫻田さんも関さんを知ってるんだ」

 関を知っているのは自分だけにしたい、という子供じみた考えもあったが、知ってるならそれで構わなかった。

「たしかそんなことが大会側が発行しているプレスに書いてあったわ」

 そう言うと櫻田は机に置かれたいくつもの書類の中からそのプレスを捜し出そうとする。

「別にいいよ、そこまでしなくて。櫻田さんの言う通りだから」

「で、その関さんがどうしたの?」

 別にその先を考えていない登は返事に困った。

「う、うん。その人って俺をモーグルに引っ張ってきてくれた人なんだ」

「ふーん、登をね」

 もしそれが本当ならば、関という人は登の素質を見抜いたという点でなかなかすごい人物だと櫻田は思う。

「何か話したの?」

「特にはね。まあ、明日は頑張れって」

 関との会話をここで再現するのは、少し登は気恥ずかしく思った。ましてや自分を支えてくれている人、なんてことを言うのはその人を目の前にして言うのは変だった。

「そう。やっぱり皆は地元での唯一の日本人選手ということで、期待してるわよね」

 櫻田はベッドのサイドテーブルに置かれている煙草の箱を手に取った。

「えっ。櫻田さん、煙草吸うの? 俺見たことなかった」

「時々ね。仕事場じゃ吸わないわ」

 ボックスタイプの蓋を開けると中から細長い煙草を取り出した。

 登はその様子を黙って見ている。普段見られない櫻田のプライベートを見てしまった気がして、少し得した気分だった。

「何黙って見てるの。そんなに珍しいかしら?」

「い、いやそんな吸うのは自由ですから」

 逆に問い詰められて登は言葉を濁した。

 登は、なぜ櫻田の言っていた『時々』が今なのかは分からない。そして櫻田の眼の下にうっすらと黒い線が見えることも登は気付かなかった。

「怪我はない?」

 櫻田は登が公式練習で転んだのを思い出してそう言った。転んだこと自体を追求するのは、登を追い詰めかねないので言葉を選んだ。だが、それ以上に登の身を危惧する気持ちがある。

「大丈夫、全然。またポカやっちゃったね」

 登がこうやって軽く言い出せるのも関のおかげだった。

「いいのよ気にしなくて、まだ練習なんだから。明日の予選はそうは行かないけど」

「勘弁してよ、これでも結構気にしてるんだから」

「そうは見えないけど」

 登がそれ程転倒を意識していないようなので櫻田は安心した。だが転倒が実は『ニシムラ』の金具のせいだということが分かっている櫻田には、それさえも気休めに過ぎない。

「私ね、昔は選手やってたの」

 櫻田自身、言おうともしてないことが口からこぼれた。

「え、選手って?」

「もちろんスキーよ。アルペンで主に滑降をやってたの」

 突然櫻田から自分の過去を語りだしたので登は驚いた。今までこんなことは一度もない。

「そうだったんだ。前からスキーに携わっていたとは思っていたけど」

「これでも代表選手だったこともあるのよ。ちょっとの間だけど」

 櫻田は煙草の灰を灰皿に落とした。

「へえ、櫻田さんって凄いんだ。でも、何で辞めちゃったの?」

 登は思わぬ収穫に耳をそばだてる。

「…怪我しちゃってね。靭帯が切れて滑れなくなったの。普通にしてる分には大丈夫なんだけど」

 櫻田はなぜ自分がこんなことを話しているのか分からなかった。今まで人に自分の過去を話すなんて、同情を惹くみたいで嫌っていた。

 登は返事に困った。踏み入れてはいけない櫻田のプライベートに入ってしまった気がした。

「それで今はこの仕事をしているのよ。だから、登のやっていることや考えていることは大体分かるわ」

「じゃあ、今俺が何を考えているかも?」

「そう。あなたは今、突然私の話を聞いて戸惑っている」

 櫻田は不適な笑いをした。

「…その通りだよ」

 他人に自分の思考を見透かされるのは気持ちの良いことではない。櫻田がわざと自分の話をして登の反応を楽しんでいるようにさえ感じた。

 だが、櫻田にその気はない。櫻田は一度出してしまった過去という刃物のやり場に困っている。

「いいんじゃないかしら、これぐらいのことならチームメイトとして知っていても。何も怪しいことでもないし」

 怪しいことはその先にある。それさえも言ってしまいそうで、櫻田は必死で自分を抑えていた。

「そうだね。櫻田さんがそう言うなら僕がとやかく言う必要もないよ。悪いことしたね、変なこと聞き出しちゃって」

 言いだしたのは櫻田の方だったが、登にはそれを聞いてしまった罪悪感みたいなものの方が強かった。

「邪魔しちゃったね、部屋に戻るよ」

 登は席を立った。

「明日は九時には起きてね。ミーティングもあるしゆっくりする時間もないから」

 登が立ち去るのを内心胸を撫で下ろしながら、櫻田は頭を仕事の方に移していった。

「もう予選か。もう少し練習したかったけど」

「何を言ってるの、十分滑ってきたくせに」

「これでもお目付け役の目を盗むのは大変なんだ」

「誰よ、そのお目付け役って」

 櫻田は目くじらを立てて質問したが、登はそのままドアに直行した。

「じゃあ、明日に備えて寝るから」

「遅れたら承知しないわよ」

 櫻田はいつものように登に言い放った。登も適当な生返事をすると、ドアのノブに手を掛けた。

 その時櫻田の心に何かが走った。

「登」

 出ていこうとする登に櫻田は声をかけた。

「どうしたの、他に何か?」

 登の振り返った顔を見て、また櫻田は我に返った。

「何でもない。早く寝るのよ」

 登は不思議な顔をしていたが、了解すると今度こそ部屋を出ていった。


 登が部屋を去ったのを確認すると、櫻田は倒れこむようにベッドに横になった。煙草を灰皿に置く。いくつか灰がこぼれた。手のひらを目の辺りに当てる。

「何であんなこと話したんだろ」

 自分自身なぜか分からなかった。萩原と会ったばかりで気が動転していたのだろうか。こんな時に予期しない登の来訪を受けて口が軽くなってたのかもしれない。

 でも、それだけとは思えなかった。あの時たしかに私は自分の過去を話したいと思っていた。もう少しでなぜ怪我をしたかまで喋ってしまいそうだった。

 実はあの時、サービスマンの指示を無視して自分で金具の強度を上げたのが原因だったと。そのレースで櫻田は転倒し、本来なら外れるはずの板が外れずに、斜面に突き刺さる板に転がる体の回転が止められてしまった。その時の負担が全て足に加わってしまった。

 前走で板が外れたのをサービスマンのせいにして、自分で逸脱した行為を取ったのが事故の原因だった。

 悪夢を再び繰り返すのだろうか。今まさに私は自分の選手を手に掛けようとしている。

 しかしその行為を止めさせないものに、萩原への思いがあった。私情でこんなことが許されるのだろうか。

 もしかしたら登に色々と話したのは、萩原にだけ自分の過去を知られているのが耐えられなかったからかもしれない。

「今回だけよ。今回だけ無事に終わってくれれば…」

 やりきれない気持ちが櫻田の体を震わせていた。


(第3章「疑問」につづく)

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