カコイネコ
木兎 みるく
カコイネコ
すぐに覆されたとはいえ、ノワールの第一印象は正直言ってあまり良くなかった。これはノワールのせいではなく、ヴィオレの馬鹿のせいだった。ノワールが引っ越しの挨拶をしに私の部屋に来た時、丁度ヴィオレも一緒にいて、私がノワールについて何か思うよりも先に、「綺麗な人だな」と呟いたのだ。
確かにノワールは綺麗だ。髪はこの辺りでは珍しい、きらきらしたストロベリーブロンド。肌は健康的な小麦色。柔らかい微笑みからは、明るさと優しさがにじみ出ていた。けれどヴィオレが言う、綺麗な人、というのはそういう事ではない。
自分では気付いていないようだが、ヴィオレにとって「綺麗な人だな」とは、「俺この人好き」という意味である。美人系だろうとかわいい系だろうと清楚だろうと派手だろうと、好きだと思えば綺麗だと言う。私が知る限り、ヴィオレは綺麗だと称した女性とは必ず付き合い、しかしすぐに別れてしまっていた。お隣さんと幼なじみが恋人になって、しかもすぐ別れるなんて面倒くさい、あまり関わらないようにしよう。私は瞬時にそう思い、それでノワールに対する印象も悪くなってしまったのだった。
「これ、良かったら飲んでください。前に住んでいた国のお茶なんです」
「ありがとうございます」
ノワールが差しだした紙袋を受け取った瞬間だった。ごぽり。耳元で水の音が鳴った。
「!」
覚えのある感覚に慌てる暇も無く、足下から水が物凄い勢いで湧き上がり、私は一気に水中に引きずり込まれた。どこまでも広がる藍色、そして静寂。耳の奥にコルクの栓がされたように何も聞こえない。ごぽりと口から白い泡が溢れて上っていった。息が出来ないことに気が付いて、途端に苦しくなる。
パニックになりかけた私を引き戻してくれたのは、ノワールだった。
「大丈夫。落ち着いて、力を抜くの。そうしたら浮かんで来られるわ」
届いた声に、自然と従っていた。強い光に、瞬きを二、三度。私は家の玄関にいて、前には心配そうにこちらを覗き混むノワール、横にはきょとんとした顔をした馬鹿ヴィオレがいた。息が出来る、変に意識してしまい、空気を吸い込むのに失敗した。
「えふっ……えほっげほっ……」
「おいおい大丈夫かよ」
ヴィオレが背中を叩いてきたので睨み付ける。咽せている時に背中を叩かれても何の助けにもならないし、普通に痛い。
ゆっくりと深呼吸。大丈夫、今度こそ息が出来る。
「あなたには青魔女の素質があるのね」
私の様子を確認して、安心したようにノワールは微笑んだ。
「私は緑魔女なの。困ったことがあったら何でも聞いてね。アドバイス出来ること、たくさんあると思うから」
「……ありがとうございます」
私の両手を包んだノワールの手が温かくて、申し訳なくなってしまった。私はとりあえず心の中で、あまり関わらないようにしよう、と思ったことを謝っておいた。
*
小さい頃、私は水がとても怖かった。海や川には近づけなかったし、コップの水を飲むのにでさえ少し勇気が必要だった。その理由ははっきりしていた。突然水に「呑まれる」ことが、良くあったから。
耳元でごぽりと音がする。それを合図に、足下から一気に水がはい上がってきて辺りを満たし、周りの全てが一瞬にして無くなってしまう。独り藍色の水底に取り残された私はパニックを起こして藻掻き、水を飲み、溺れてしまう。しかし気が付くと元の場所にいて、私はただ激しく咳き込んでいるだけなのだった。どうしたのかと訪ねられ、必死に「水が」と訴えても、誰も解ってはくれなかった。
それが起こるタイミングに規則性はなかった。遊んでいようが絵本を読んでいようが、テレビを見ていようが眠っていようが、起こるときには突然起こったし、起こらない時には起こらなかった。
ただ、その現象は成長するにつれてだんだん起こらなくなり、中学校に上がる頃には全く無くなっていた。水を怖がる事もなくなり、そんな経験をしていたこと自体、段々と忘れていった。
その話をノワールにすると、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい。それじゃきっと、また起こるようになったのは私のせいだわ」
「ノワールのせい?」
尋ねながら、クッキーを一口かじる。ノワールが手作りしたというクッキーは、不思議な甘い味がした。
初めて入ったノワールの部屋は、私の部屋と同じ間取りでありながら、雰囲気が全く違っていた。見慣れない異国の植物と輸入物らしき家具は、私が勝手に思い描いていたノワールのイメージと食い違っていて、私は初め変に驚いてしまった。しかし考えてみれば、この部屋の雰囲気はノワールが引っ越しの挨拶の時に持ってきたお茶の味にぴったりだった。この前のとは違うもののようだが、今日出されたお茶も、やはり似たような香りを漂わせている。
「魔女の素質のある子が魔女に会うと、それが刺激になって力が誘発されちゃうことがあるの。私のせいで面倒なことになっちゃったわね……」
ノワールに会ってから、私はまたたびたび水に呑まれるようになってしまっていた。ただ、あの時ノワールがくれた言葉のおかげで比較的すんなり浮かび上がることができ、苦しい思いはせずに済んでいた。
「だとしてもノワールが悪いんじゃないよ。平気になったわけじゃないけど、ノワールのおかげで昔ほど怖い思いしてないし」
「アポワちゃんは強いのね……でも不便でしょう? コントロール出来るようになるといいわね。そういう薬を作れたらいいんだけど」
ノワールは少し周りを見渡し、目を閉じた。部屋のあちこちに置いてある植物から薬を作れないか、考えているらしい。ノワールは植物から作る不思議な薬を売って生活しているのだという。不安気にノワールの部屋の番号を尋ね、しばらくして明るい顔をして帰っていくお客らしき人達を、私は何度か目にしていた。
「駄目。この部屋の草じゃ無理みたい。みんな、自分はそれには効かない、って」
「草と話せるの?」
「緑魔女は植物の声みたいなものが聞こえるの。植物が人の言葉を話すわけじゃないんだけど……上手く説明出来る気がしないわ、ごめんなさい。でも、教えてくれるのよ。自分はこういう症状に効く、って。私はそれを元に薬を作るってわけ」
「へ~」
「私も昔は聞きたくもない声を聞いてしまって、すごく困ったの。先生に助けて貰って、少しずつ力をコントロール出来るようになって、聞きたい時にだけ、聞けるようになったのよ。でもそれまで、二年ぐらいはかかっちゃった」
昔を思い出すノワールの目は、とても幸せそうだ。今ではいい思い出になっているのだろう。
「この部屋の植物はみんな、私が魔女修行をした国のものなの。南の国の太陽を浴びさせてあげられなくて申し訳ないけど、少しでもあの頃と同じ空気を感じていたいのよ。あんな素敵なところ、他には無いと思うから」
「へ~」
相づちを打ちながら、お茶を一口飲む。きっとこれも、その南の国のお茶なのだろう。
「アポワちゃんの力もね、コントロール出来るようになれば便利に使えるのよ。上手に水底に降りて行ければ、魔法の品を持って帰ってくることが出来る。水龍の髭とか、人魚の鱗とか」
「どんな効果があるの?」
「水龍の髭はお肌を若返らせるし、人魚の鱗は永遠の恋を作れるの」
「永遠の恋?」
「そう。男女が人魚の鱗を半分ずつ呑むと、永遠に相手を愛するようになるのよ」
「お話みたい」
「だって魔法だもの」
ノワールは傍らの鉢植えの葉を千切り、手の中で丸めた。そしてふっと息を掛ける。ノワールの手から、緑の小さな花火が上がった。
「近いうちにいいことが起きる魔法よ」
ぽかんとしている私の様子が面白かったらしく、ノワールはくすくすと笑った。釣られて私も嬉しくなるような、かわいらしい笑みだった。
*
ヴィオレが彼女に振られた。そろそろだろうとは思っていたので別に驚きもしない。問題は、そのヤケ飲みに私だけじゃなくノワールまで付き合わせようとしていること。ノワールは優しいから、嘆くヴィオレを上手に励ますだろう。そうしたら、きっとヴィオレは本格的にノワールに惚れてしまう。私としては、次にヴィオレと付き合い別れるのがノワールになるのは勘弁だった。ノワールと気まずくなりたくない。
「はぁ……」
大きくため息をついて全ての息を吐ききった、丁度そのとき。ごぽり。耳元であの音が鳴る。
「っ……!」
落ち着いて対応すれば大丈夫なことはわかっている。けれど、今は丁度息を全部吐いてしまったところなのだ。吐いた後には吸わなければならない。しかし周りは全て水。息を止め続ける苦しさに、私は必死で藻掻いた。
勝手に開きそうになる口を手で押さえる。この状況で力を抜くなんて無理だ。ばたばたと足を動かすも、体はちっとも上がっていかない。どうしようどうしようどうしようどうしよう……!
――にゃあん
ふいに水中に響く鳴き声。水が、すーっと引いていく。
「げほっ……おぇ……げほっげほっ」
激しく咽せて酷い声を出す。少し息が落ち着いてから、涙目で辺りを見回した。時計塔通りから右に曲がった路地。私の住むアパートに続く道だ。見慣れた道に、見慣れないものが一つ、いや一匹。柔らかそうな毛並みをした、灰色の猫。
「あなたが助けてくれたの……」
目があって、どきりとした。どこまでも澄んだ綺麗なブルー。どこまでも見通せるようでありながら底の見えない、深い深い透き通った海。この中になら沈んでもいい。直感的に、そう思った。
私が動けないでいるうちに、猫はゆるりとこちらに背を向け、しずしずと歩いていってしまった。そのしなやかで美しい動きに見とれてしまう。
ノワールの魔法は効いたのだ、とぼんやりと思った。確かに私にいいことが起こった。
アパートに向けて歩き出す。何故だろう、顔がひどく熱い。
*
ノワールがお酒が飲めないということで、飲み会は中止になった。その代わりに、と、その夜ノワールは、私とヴィオレを部屋に招待してくれた。
「お酒を飲むよりずっと元気になれると思うわ」
そう言ってテーブルに並べられたのは、見たことのない不思議な果物の乗ったパイと、白っぽい黄色の濃厚そうなジュース。
「魔法の修行が上手くいかない、って落ち込んでた時、先生の奥さんがよく作ってくれたの。そしてね、先生が最後にこうやって仕上げをしてくれたわけ」
ノワールはパイに、ぱらぱらと香辛料のようなものを振りかけた。
「元気が出る魔法入り。さ、召し上がれ」
「いただきます」
一切れ目を口に運ぶ。……癖のある味にとまどった。ヴィオレも同じ様に思ったのだろう。微妙な顔をしている。さらにジュースを飲んでみて、咽せそうになった。どろりとしていて、妙に甘い。
その様子を見ていたノワールが吹き出した。
「二人とも同じ顔してる。私もね、最初に食べたときは反応に困ったの。でもまさか、おいしくないなんて言えないでしょう? 一生懸命食べ続けたら、途中から不思議とおいしく感じられてきたのよ。だから騙されたと思ってたくさん食べて頂戴」
「わかった。頑張る」
「俺も」
言われた通り、頑張って食べ続ける。なんとなく、段々楽しくなってきた。ノワールの魔法が効いてきたのかもしれない。
「なんか失恋とかどうでも良くなってきた。ありがと、ノワール」
「いいえ」
ヴィオレは来たときの辛気くさい顔が嘘のように楽しそうにしていた。
「彼女ぐらい、ど~せまたすぐ出来るよな。うん」
「しばらく彼女作らないでいる期間作ってみたら? いっつも同じ事ばっかり繰り返すんだから」
週末はデート、記念日は毎月祝って、プレゼント。初めは“優しい彼”と思ってもらえても、次第に飽きられるか、もしくは気付かれる。相手じゃなくて、“形式”に恋をしていること。
「だって彼女いねーと寂し~じゃん。お前はよくずっと彼氏なしで生きてるよな。彼氏作らねーどころか、恋もしねーだろ」
「うっさい。恋ってしようと思ってするもんじゃないでしょ」
何故か昼間の猫が頭に浮かんだ。青い青い、どこまでも光を受け入れるような綺麗な瞳。
「アポワちゃん、今誰かを思い出してるでしょう」
我に返ると、ノワールが少し人の悪い笑みを浮かべて私を見ていた。
「え?」
「え、お前今恋してんの!?」
ヴィオレが妙に驚いている。失礼な。
「違いますー。なんとなく、昼間見た猫を思い出しただけよ」
「恋の話で?」
「ぜってー嘘だ!」
「嘘ね」
「嘘じゃないったら」
信じて貰えず、ノワールとヴィオレは私の思い人はどんな人かという話で盛り上がり始めた。きっとイケメンだ、背は高いのかしら、年上かな、同じ学校の人かしら……
「はぁ……もういいよ何でも」
ぐいと一気にジュースを飲む。べたついた液が喉に張り付き、けほけほと小さく咽せてしまった。水が欲しい。
*
ノワールはお菓子を作るのが趣味らしく、クッキーやパイを作っては私を家に招待してくれた。その日、マフィンを焼いたから食べに来て、とベランダから声を掛けてくれたノワールにいつもと違う何かを感じながら遊びに行くと、なんとなくぎこちない雰囲気のノワール。少し不思議に思ったが、マフィンもお茶も、南の国独特の味にすっかり慣れた私には、いつも通りおいしかった。二つめのマフィンが私の口の中に消えた時、ノワールは緊張を隠しながらこう尋ねてきた。
「アポワちゃんってヴィオレ君のこと好きなんじゃないの?」
「……はぁ……」
ノワールのぎこちなさの原因が分かってため息をついた。昔からうんざりするほど勘違いされてきたが、私にとってヴィオレはただ弟のようなものだ。
「ノワール、ヴィオレに告白されたんでしょ」
言い当てると、ノワールは一瞬だけ息を詰め、ええ、と短く答えた。
「私は全くヴィオレをそういう対象として見てないから、そこは安心して。ただ、ヴィオレってすごく飽きっぽいっていうか……同じ彼女と半年以上付き合ったことがないの。早いときは一ヶ月もしないうちに別れちゃう。恋人にするのはあんまりお勧めしないよ」
「忠告してくれるのは嬉しいけど、アポワちゃん。それは、ヴィオレ君を捕られたくない、って言ってるようにも聞こえるわよ?」
言葉の割に、嫌みな感じは一切無かった。ただただノワールは私を心配しているようだった。どこを見ていたらいいかわからない様子で落ち着きを失っている瞳に、どうしていいかわからない、という気持ちがよく現れていた。
「私ね、昔、すごく水が怖かったの」
急に関係のない話をされて、ノワールはきょとんとした。構わずに続ける。
「それをヴィオレも知ってたはずなんだけどね。六歳ぐらいの時かな、“いいとこ連れてってやる”って言って、あいつ私を田んぼに連れて行きやがったのよ」
「田んぼ?」
「広い土地にびっしり生えた緑の稲が、風でザーって動くのが面白くて、それを私にも見せたかったんだって。でも私は田んぼに溜まってる水が怖くて怖くて、わざわざ私をこんなところに連れてきて、それで得意げな顔してるヴィオレは、なんてデリカシー無いんだろうって思って。それ以来全くあいつをそういう対象として見れないのよね」
「なんというか、ヴィオレ君らしいわね」
ノワールは安心したようにくすくすと笑った。大体の人に、よく分からない、と言われてしまう話だけど、私と同じくコントロール出来ない力に悩まされたことのあるノワールには、上手く伝わったらしい。
「ごめんなさい。ほっとしたわ。三角関係になっちゃって、アポワちゃんと気まずくなったら嫌だな、って思ってたから」
「ご心配なく。で、どうするの?」
「付き合おうかなって思ってるの。いい機会かな、って思って」
「いい機会?」
「初恋の人が忘れられなくて。ずっと恋、してなかったから」
柔らかく微笑んだノワールを見て、きっとその人は例の南の国の人だ、と直感した。
「どんな人だったの?」
「薬の作り方を教えてくれた先生なの。すごく優しくて、いい人だったわ。暖かくて、幸せなだけの恋だった。褒めて貰えるのが嬉しくて、勉強を頑張ったわ」
「あれ、でも先生って」
言い終わる前に、ノワールはうなずいた。
「奥さんがいらしたわ。すごく美人で素敵な奥さんでね、私にとてもよくしてくれた。私ね、先生のことも好きだったけど、奥さんのことも好きだったの。だから悔しくなんてなかった。先生は私にはもったいないもの。私は先生と一緒にいられるだけで幸せだった。時々、先生が奥さんを呼ぶのを聞いて、胸がきゅうってなることは確かにあったけど……それはとっても甘美な切なさだったのよ」
そう語るノワールの目は、どこか夢見るようにうっとりしていた。今もノワールは恋をしているのだ。先生になのか南の国になのか、思い出になのかはわからないけれど。
「一度あんな素敵な人に恋してしまったんだもの。自分から恋をするのは難しいかなって。こんな私を好きになって貰えたのはありがたいことだし、ヴィオレ君のこと、これから好きになっていくことも出来るんじゃないかとは思うのよ。別れちゃったとしても、新しい恋に挑戦しただけ一歩前進じゃない?」
「そういうことならいいんじゃないかな」
ほっとして、私はお茶を一口飲んだ。ヴィオレとノワール、案外お似合いかも知れない。
*
大学からの帰り道、ついでに夕飯の買い物をすませてモールから出ようとすると、怪しいおじさんに声をかけられた。
「おじょうちゃんおじょうちゃん、安くなってるから見ていきなよ!」
おじさんはこの間まで空き屋だったテナントに、期間限定のアクセサリー店を開いた人だった。来月には店をたたんで他の街に行くらしい。首都の方にある大きな店がつぶれるにあたり、在庫を処分するために各地を回っているらしいが、正直言って嘘くさい。値札にはどれも定価と安売りの価格が書かれているが、おそらくこの定価は嘘だろう。
「有名モデルさんがつけてるのと同じのとかもあるんだよ!」
無視して通り過ぎようとしたのだが、視界の隅に映った宝石に、つい吸い寄せられてしまった。緑と青に光るオパールの綺麗な指輪。あの猫の瞳に、よく似ていた。
「お嬢ちゃん、これが欲しいの?」
私が指輪に興味を持ったことに、商魂たくましい店のおじさんも、さすがに不思議そうにしていた。それはそうだろう。明らかに私の歳で持つものじゃない。それでも。
「あの、これ下さい!」
「え、ほんとかい?」
財布からお札を全部出す。危なかったけれど、なんとか足りた。指輪を受け取り、逃げるようにその場を離れる。
家が近付くと段々冷静になってきて、酷く後悔し始めた。占い師のおばさんがつけるようなごてごての指輪をつける機会など私にはない。どう考えても無駄な買い物だった。
ため息をつきながら指輪を眺める。返品しに行こうかと一瞬考えたが、足はそのまま家に向かった。どうしても、一度手に入れたオパールを手放す気になれなかったのだ。
アパートに着き、石造りの階段を上がって二階の廊下に出ると、何故かヴィオレが私の部屋の前にいた。
「何してんの」
「おー丁度良かった。この間借りたCD」
紙袋に入ったCDを渡される。念のため紙袋を覗き込み、貸した分が全部返ってきているか確認する。
「はい確かに」
「本はもうちょい待って。あとちょっとで読み終わるから」
「はいはい」
鞄に手を入れ、鍵を探す。なぜかいつものポケットに入っていない。ごそごそと探っていると、先ほど買った指輪が鞄の中から飛び出した。慌てて拾い上げ、砂を払って息を吹きかける。考えてみたら、何の入れ物も貰わずに裸で受け取ってきてしまった。高いものなのにどう考えてもおかしいと、ため息をついた。
「お前どうしたの、それ」
ヴィオレが不思議そうに覗き込んできたので、慌てて鞄の中に隠す。
「あんたには関係ないでしょ」
思いがけず冷たい言い方になってしまったが、ヴィオレはあまり気にせず、あっそ、と言っただけだった。
「そういえばさ、この前あそこの道で、猫見たぜ」
「え!?」
猫、という言葉につい反応して顔を上げた。私の必死な様子が変だったらしく、ヴィオレは眉を寄せた。
「お前、マジで猫に恋してる……?」
「違うったら!」
少し引いたような声に、腹が立つ。たかだか猫に反応したぐらいで、恋愛依存症の男に引かれる筋合いはない。足を思いっきり踏んでやったら、「図星かよ!」と余計に誤解を深めることになってしまった。失敗。
私はただ、あの深い瞳にまた見つめられたいだけなのに。
*
次の日は授業が一つ休講になった。開いた時間に買い物にでも行こうと家を出ると、丁度家から出てきたノワールと鉢合わせた。ノワールは教会に用があるというので、途中まで一緒に行くことにする。
「教会に何しに行くの?」
「新しく引っ越してきた緑魔女です、って登録しに行くの。そうしないと、魔女は教会に目をつけられちゃうんですってね。私全然知らなくて」
「知らなかったの? まずくない?」
「だって、前にいた国ではそんなことする必要無かったのよ。一昨日薬を買いに来たお客さんが教えてくれるまで、全然知らなかった。ひどいと思わない? 口に入れるものを売るから、役所にはちゃんと申請出してるのよ。それなのにお役所の人、そんなこと全く教えてくれなかったわ」
「お役所仕事だねぇ」
アパートを出ると、冷たい風が吹き付けてきた。寒いね、と言おうとして口をつぐむ。改めて見てみると、ノワールは薄手のワンピース一枚。明らかに寒そうな格好なのに、寒さを全く気にしていない様子なのだ。
「ね、その格好で寒くないの?」
「体が温まるお茶を飲んでるから、寒くないのよ」
「魔法のお茶?」
「そう」
わざわざそんなお茶を飲まなくても、少し厚着をすればいいだけなのに。本人が寒くなくても、見ている側としては寒い。そう言うと、ノワールは少し苦笑いをした。
「冬物の服持ってないの」
「え、何で」
「んー、どんな服を試着してみてもしっくり来なくて。この服、ちょっと生地が特殊なの。この肌触りに慣れちゃうと、普通の服って着られなくて」
「もしかしてそれ、例の南の国の服だったり」
「よくわかったわね。そうなの。そこの特産の生地なのよ。軽くてよく風を通すの」
ノワールが幸せそうに微笑む。私も笑い返したけど、苦笑いになってしまったと思う。冬が近付くなか、「よく風を通す」服を喜んで着ているなんて。
「ノワールはほんと、その国が好きだよね」
「あそこに居た時が、ほんとに幸せだったから。全部の思い出が、とってもきらきらしてるのよ。もちろん、今がつまらない、なんてことはないけどね」
そう語るノワールの顔はやはりうっとりしていた。
時計塔通りに出るたところで、ごぽり。耳元であの音。呑まれる前に、と息を吸った。直後、予測した通り、足下から水がはい上がってくる。
「アポワちゃん……?」
ノワールの声が遠のく。待たせてしまうのを申し訳なく思いながら、勝手に強張ってしまった体の力を、息を吐くことで意識的に抜く。大分慣れてきたから、すぐに戻れるはずだ。
――にゃあ
「!」
水中に、凛と響き渡る声。驚いて勢いよく息を吸ってしまった。自分の失敗に一瞬背筋が寒くなったが、さいわい体はすでに水から上がっていた。横にノワール。足下には、この前の猫。
「あら、かわいい猫」
おいで、とノワールがかがみ込んで手を伸ばす。猫は人に慣れているようで、素直にノワールに寄っていき、首もとを撫でられて喉を鳴らした。
「アポワちゃんも猫好きなんじゃなかった?」
撫でるのをやめ、ノワールが私を見上げる。すると猫は、あろうことか媚びるように私の足にすり寄ってきた。
「……」
どうしていいかわからず、動けなくなる。猫が私を見上げる。ああ、なんて綺麗な目。私を惹き付けてやまない瞳。
私がもたもたしているうちに、猫は飽きたのか離れて行ってしまった。その姿を、呆然と見送ることしか出来ない。あの毛の色は灰色じゃなくて青なんだ。しなやかに動く肢体を見ながらそう気付いた。
「アポワちゃん……?」
ノワールがおずおずと、私の顔の前で手を振った。
「え、あ、」
「大丈夫……?」
「え、……うん」
困惑したように眉を潜めたノワールの顔は、「猫に恋してるのか」と言ったヴィオレに似ていた。あのときは腹が立ったけれど、今度は少し不安になる。確かに私は少しおかしい。最近はずっと、とりつかれたようにあの猫のことばかり考え、あの日買ってしまった指輪を眺めていた。今もポケットに、あの日のオパールが入っている。
*
ベランダに置いた皿のミルクが減っていないのを確認して、ため息をついた。猫用のものに変えてからも、猫が舐めに来た気配はない。すぐ側に枝のしっかりした木が生えているから足場はありそうだし、上がって来られないわけではないだろう。やっぱりミルクには二階まであがってみようと思わせる程魅力が無いのかも知れない。今度はマタタビにしてみようか。どっちにしろ、下までにおいが届かなければ意味もないだろうけど。
隣の部屋の窓が開く音がした。ノワールが洗濯物でも干すのかと思い挨拶しようと振り返る。途端、ごぽりと音がした。
たちまち広がる藍色の世界。まだ少し怖いけれど、いい加減慣れてきたので慌てはしない。なんとなく周りを見渡してみた。ただ藍色が揺れているだけかと思いきや、すぐ近くを何かが横切った。赤く光る鱗をした魚。
「……」
魚を追って体の向きを変え、特に何も考えず、ただなんとなく手を伸ばした。するとその魚はゆっくりと私に近付いて来て、手の平に収まった。
――にゃあん
まばたきする間に、元のベランダに戻ってきていた。足下に、あの猫。
「っ……」
「にゃあん」
くらくらする程綺麗なエメラルドが、真っ直ぐに私の手を見つめている。何かと思い私も手を見ると、先ほどの赤い魚がぴちぴちと動いていた。
「きゃぁっ!」
思わず手を離して飛び退く。ぬめぬめした感触のする手を、干していたタオルでごしごし拭いた。
美しい肢体を優雅にくねらせ、猫は魚に寄っていった。赤い体に歯が食い込み、バリバリと骨を囓る音がなる。乾いた音だけでなくねちゃねちゃという湿った音もしていることに気付いて、ごくり、思わず唾を飲み込んだ。あんな風に、私の首も噛まれたら……噛まれたら嫌なのか、噛まれたいのか。よくわからない。
「にゃあん」
「……っ」
食べ終わると、猫はお礼を言うように私の足に軽く頭をすり寄せ、ぴょんっと木に飛び乗って下へと降りていった。私は腰の力が抜けて座り込み、しばらく猫が帰っていった方向を呆然と見つめていた。
その日から、猫はたびたび私の家を訪ねてくれるようになった。私は猫のために窓を少し開けておくことと、魚を用意しておくことが習慣になった。猫は安い魚では食べてくれず、いい魚を出しても不満そうな顔をした。猫が欲しがっているのは、あの水の中から持ち帰った魚だった。私が望む物を差し出せた時には、ご褒美として凛と響く鳴き声と、温かい頬ずりをくれた。
初めは気持ち悪かった魚を触る感触も、面倒だった腹ワタの処理も、何度も繰り返すうちに慣れていった。冷蔵庫に溜まる魚の切り身。調子よく連日捕れると、冷蔵庫がいっぱいになってしまった。これは人でも食べられるのだろうかと思いながらノワールに見せに行くと、「上手く力を使えるようになったのね」と、とても喜ばれた。そしてこれらは青魔女にしか捕ることの出来ない魚で、とても美味しく、買って食べようと思ったらかなりの値が張るのだと教えてくれた。しかしそれを聞いても、私は自分が食べる気にはなれなかった。なんとなく、私が食べるのは畏れ多い気がしたのだ。
耳元で水の音が鳴る。恐怖はもう感じない。私は無意味に水に飲み込まれるわけではないのだ。私は猫のため、魚を取りに行かねばならない。
*
本格的な冬がやってきても、ノワールはノースリーブのワンピースしか着なかった。ヴィオレとノワールはまだ付き合っていて、週末はデート、記念日は毎月祝って、プレゼント、という生活を続けていた。そろそろヴィオレにしては長い方に入るのかもしれない。私は相変わらず猫の気まぐれに翻弄され続けている。
クリスマス市が始まったので、私はノワールと一緒に買い物に行った。かわいいクリスマスカードが並んでいるのを見て何の気無しに、ノワールは例の国にカードを出すんでしょ、と言ったら意外な返事が返ってきた。
「いいえ。出さないわ」
「毎年出してるんじゃないの?」
「出してない。あの国を出てから、一切連絡は取っていないの」
いつものノワールではなかった。その顔色を窺おうとしたが、ストロベリーブロンドが影を作り、表情を隠していた。
「私が国を出るときね、“次に戻ってきたら、私の妹弟子か弟弟子がいるんでしょうね”って言ったの。そうしたら先生は笑って、“いいえ、弟子を取るのはあなたで最後です”っておっしゃったわ。そのときはそうですか、って笑ってすませたけど、後で思い返してぞっとした」
「?」
「魔法使いはね、不老なの。自分の死ぬ時を、自分で決めることが出来る。先生はもう随分長く生きて、たくさんの弟子を育てていらっしゃる。私で最後にするってことは、きっともう長く生きる気がなかったのよ……考えるだけで恐ろしいわ。あの暖かい国から、あの人達がいなくなるなんて……あのサトウキビ畑が、他の人の手に渡っていたり、あまつさえもう無くなっているかも知れないなんて……想像したくもないし、もしそうなっているとしても、そんなこと知りたくないの」
次々に溢れるようにノワールの口から出てくる言葉に、圧倒された。口を挟む間もなく、ノワールはしゃべり続ける。
「このままずっと連絡を取らなければ、私の中であの人達はずっと幸せに暮らしているわ……。このままにしていれば、ずっとそのままなの。だから連絡は取らないし、私は二度とあそこには戻らない。先生達は今もお元気だろうし、サトウキビ畑は青々と風に揺れているでしょうし、太陽はいつだって輝いて、そういう幸せを照らしているに違いないの。だからカードは出さないの」
いつものノワールが私に笑いかけていた。カード、という言葉に私は一瞬きょとんとしてしまい、決まりが悪くなって苦笑いをした。クリスマスカードの話をしていたことを、すっかり忘れていた。
*
その後のノワールはいつも通りだったけれど、私は最後まで戸惑いとぎこちなさが抜けず、家に帰る頃にはすっかり疲れていた。上着を放り、ぼふり、とベッドにとうつぶせになる。太陽が照りつけ、サトウキビ畑で魔法使いの夫婦が笑う。ノワールの恋する情景をぼんやりと思い描く。昔ヴィオレが私を連れて行ったのが田んぼではなくサトウキビ畑だったなら、私がヴィオレを好きになることもあったのかもしれないと、ぼんやりと思った。ノワールは未だヴィオレを好きになれていないのだろう、とも。
足に何か柔らかいものが当たった感触がして、体を捻る。すると、ゆるりと揺れる青い尻尾が目に入った。いつの間に入ってきたのか、猫がベッドに上ってきていたのだ。
「あ、魚すぐ用意す……」
体を回転させて上体を起こす。そのまま立ち上がろうとしたのだが、猫と目があって動けなくなった。猫の雰囲気がいつもと違う。
「えっと……」
エメラルドブルーが真っ直ぐに私を見据えて近付いてくる。心臓がばくばくして、身を固くしてしまった。やがて私は、私を今動けなくしているのは澄み渡る青ではなく、その中心、真っ黒な裂け目なのだと気が付いた。少しだけその目が、ヴィオレが好きな人を見る目に似ていると思いかけて、すぐに打ち消した。この瞳はもっとずっと深くて綺麗だ。虹彩は明るく透き通り、光をどこまでも受け入れる昼の海だが、瞳孔は光を吸い込み隠す、夜の海だ。近付いたら危ないとわかっているのに、何故か吸い寄せられるような。
「にゃあん」
猫から逃げようとして無様に失敗し、私はベッドに仰向けに倒れた。無防備に晒された私の首に、猫のざらついた舌が這わされる。
「ちょっ……、」
軽く歯を立てられ、小さな痛みに身をよじった。体の奥から水の湧く気配がして、目眩がする。上目遣いでこちらを見上げる深い海。ああ、この中になら沈んでもいい。
部屋もベッドもなくなって、一人水中に浮かぶ。猫の瞳の中は、どこまでも透き通って輝いてしている。抵抗を止め、流れに身を任せて、私はゆっくりと底へ底へと沈んでいった。息のことなど忘れていた。不思議と全く苦しくならないのだ。
海底で私を受け止めたのは、猫の毛と同じ灰青色の柔らかい砂地だった。そこに身を横たえて上を見上げる。水面は遙か遠く、光の筋がゆらゆらと揺れている。波が私の体を撫でていき、思わずため息をもらした。白い泡が上へ上へと上がっていく。水の中なのに、とても暖かい。きっとこの砂の奥底には、真っ黒い裂け目がある。水はそこから湧いているのだ。だからこんなに暖かい。
しばらくそうしていると、砂の中に何か光るものを見つけた。桃色に光る鱗。人魚の鱗だ、そう思った。
鱗を手の平に収めて起き上がり、砂を蹴った。体がゆっくりと浮き上がっていく。
途中、白銀に輝く体を悠々と波打たせて泳ぐ細長い生き物を見た。手を伸ばしても、寄っては来ない。気高いのだ。優美な姿にうっとりと見とれながら、私の体は浮かんでいく。魔法使いは不老だという。あの肉を食べれば私も不老になれるのだろう。そう思った。
ザバリと水から上がると、私はベッドの上に一人きりだった。猫はいつの間にかいなくなっていて、私の手には、男女を永遠の愛で結ぶ魔法が握られていた。
*
質屋に指輪を売りに行った帰り、紅茶の専門店でお茶を買った。ごく普通のダージリン。今日の夕方、私の家で、ノワールとヴィオレを呼んでお茶会をする。私のお茶にはこれから取りに行く白銀を、ノワールとヴィオレのお茶には、昨日持ち帰った桃色を混ぜる予定だ。
家に帰ると、猫がベッドで丸くなっていた。思わず頬を緩ませ、隣に座ってその背を撫でる。
「ちょっと待っててね」
目を閉じ、ゆっくりと息を吸って、体の奥から水を呼ぶ。
待っててね、今日は今までで一番おいしいお魚を捕ってきてあげる。二人で一緒に、分けて食べよう。
――FIN
カコイネコ 木兎 みるく @wmilk
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