第10話 初めてのダンジョン探索2
シェザリエ・カームベルにとって、その依頼はとても気乗りしないものだった。
フラルタリア王国の端にある田舎貴族からの依頼。
それは腕白な娘に形だけでも剣術という物を教え、貴族に相応しくない『夢』を持つ彼女に現実という物を叩きこんでほしいという内容だった。
要約すれば、なんとも傲慢な依頼だと思ったものである。
だが、当時は無名だった彼女にとって、田舎貴族とはいえ貴族が用意する報酬の額は魅力的で、抗いがたい誘惑があったのも事実。
一日迷った末、彼女はその依頼を受けた。
善意からではない。
高額な報酬の為だ。
シェザリエもまた、地方の田舎出身の女性探索者だ。アーウェインほど何もない田舎というわけではないが、決して都会とは言えない村の出身だった。
そんな貧しい村での生活に嫌気がさして家を飛び出したのが十五歳の頃。
それからは、それなりに覚えのあった剣の技術を独学で磨き、フラルタリア王都にあるダンジョンへ潜って日銭を稼ぐ日々。
裕福ではないが、しかし田舎の村で暮らすよりも充実した日々。
シェザリエにとって、お金とは命と同等の価値がある大切な物だった。
美味い食事も、上質な道具も、貴重な武具も。
金さえあれば手に入る。
逆に、金が無ければ何も手に入らない。身一つ。自分の技術だけで稼ぐしかない。
そんな世界。
ダンジョン探索に一獲千金を夢見る探索者の多くは“追い詰められた者”だ。
貧しい生活に、身分不相応の夢に――追い詰められて、最後に縋る最も簡単で最も危険な場所。それがダンジョン。
悪魔との命の遣り取りを経て富と名声を得るか、死ぬかの二択しかない場所。
シェザリエはダンジョン探索者としてそれなりに名を馳せ、そしてアーウェイン家に僅かな期間だが奉公する事となった。
地図にも載らないような田舎の村娘が貴族から請われて屋敷に勤める。
その現実が面白くて、迎えの馬車の中ではにやにやとした笑みが抑えられなかったほどだ。
そうしてアーウェインの家へ向かった彼女が出会ったのが、セレスティア・アーウェインだった。
やんちゃな盛りなのだろう。
櫛が通されていない癖のある金髪に、着崩したドレス姿。貴族の令嬢というよりも、貴族のドレスを盗んだ村娘という印象が先に立つ、粗野な娘。
それが、シェザリエ・カームベルがセレスティア・アーウェインへ抱いた第一印象。
(これは、確かに言う事を聞かなさそうだ)
その目付きは鋭くて、とても貴族の令嬢が浮かべていい類のものではない。
乱暴な内面が滲み出ていて、鋭い。獣というよりも、世間知らずな我儘さを現していると言えるだろう。
「よろしくお願いします、セレスティア様」
「ああ、よろしく頼む!」
ただ、そんなシェザリエの第一印象とは異なり、セレスティアはちゃんとシェザリエの目を正面から見返しながら、はきはきとした口調でそう言った。
明るく。前向きに。
「私は英雄になりたいのだが、どうしたらなる事が出来るだろうか?」
……二言目から頭が痛くなったが。
・
そこは、入り口の物々しい雰囲気とは、本当の意味で“別世界”だった。
雲を突く高い岩山に美しい木々。
清浄な空気は呼吸する度に体内から浄化されるように心地良く、天井から差し込む光が温かく肉体を包み込んでくれる。
所々にある岩山の肌には長い年月で育った苔が目立ち、しかしその苔を餌にするはずの虫の姿は無い。
そこは、まるで一枚の絵画の中に迷い込んだような、『地獄への入り口』と揶揄された迷宮の入り口とは真逆の光景。
――ダンジョン。
それは、文字通り『別世界』へ通じる入り口なのかも、と。足を踏み入れたセレスティアとアスカはそう感じた。
「書物で調べてはいたけど、本当に凄い所ね」
「そうですね」
セレスティアはそう言うと、自分達が入ってきたダンジョンの入り口へと振り返った。
後ろに合ったのは、入り口と同じ悪魔の口を模した出口。その口の中は真っ暗で、外の光は差し込んでいない。
そう、太陽の光でさえも。
この道を自分達が通ってきたのかと思うとぞっとするが、しかし通っている間はちゃんと道があったし、自分が地に足を付けているという感覚もあった。
そして今度は、ダンジョン内の天井にある疑似太陽を見上げる。
「あれが魔力で作られた太陽だなんて、信じられないわ」
「雲もありますしね」
ダンジョンの天井には雲と太陽があり、隆起したように聳える岩山と背の小さな木々がその風景を彩る。
ただ、青空だけが無い。
ダンジョンの天井は厚い雲で覆われていて、太陽の役割を果たす魔力の塊がある一部だけが剥き出し。
しかし地上を見れば土の大地と険しい山奥を連想させる無数の岩山が隆起する光景。
もし目隠しでもしてこの場所を訪れたなら、どこか遠い場所に迷い込んでしまったのではないか――そう混乱してしまいそうなくらいに、ダンジョンの中の自然は“自然”だった。
「空気は冷たいし、動物は居ない、か」
「はい」
けれど、と。
天井を見上げているセレスティアとアスカの視界に、大きな影が映る。
天井は高い。岩山と木々が小さいせいで錯覚してしまいそうになるが、それこそダンジョンの外にある空と同じくらいと錯覚してしまいそうなほど。
そのダンジョンの空。厚い雲の下を飛行する黒い影。
鳥ではない。
鳥よりももっと幅広で、そして大きく太い翼。
悪魔。ダンジョンの奥から湧き出る、人類の敵。
そして、その体内に人類ではいまだ到達しえない技術で作られた貴重な道具を内包する存在。
空を飛ぶ悪魔はフォルネウス。空飛ぶ魚。
セレスティア達から見て翼のように見えるものはヒレである。そう錯覚してしまうくらいの巨体。
悪魔は人類の敵であり倒すべき存在だが、一目で今の自分達では手も足も出せないと分かる威容が、空を泳いでいた。
悪魔フォルネウスも地上から見上げてくる小さな存在でしかないセレスティア達、騎士学校の生徒など気にせず、優雅に遊泳を楽しんでいた。
「あれがフォルネウス。あと第一層に出現するのは猿の『グシオン』蛇の『ボティス』、そしてカラスの『ラウム』ですね」
空の遊泳を楽しむフォルネウスを楽しげに――それこそ、瞳を輝かせる雰囲気で見上げるセレスティアの後ろで、アスカが地図を広げながらそう言った。
現在、アーウェインのダンジョン探索は第六層まで完了している。
それは三年前にダンジョンが発見されてから今日まで、一獲千金を夢見る探索者や各国から集まった騎士達のお陰だ。
そして、街では改装に合わせた地図も売られている。
セレスティア達がダンジョンへ潜る前に配られた地図もその一つ――だが、アスカが地図を開くと、それは完璧とは言い難いものだった。
「けっこう空白が目立つわね」
「町でも事前に地図を購入することは禁じられていましたし、この地図を埋める事も成績に影響するのかもしれません」
「なるほど」
セレスティアは自分の地図も広げたが、アスカの物とそう変わらなかった。
ただ、細部が少し異なる。
どうやら生徒ごとに埋める場所が違っているらしいというのが分かる。
「取り敢えず、アスカと私の分を合わせて埋めてみる?」
「それが楽かもしれませんが――」
アスカがそこで言葉を切って、離れた場所へ視線を向けた。セレスティアもつられてそちらへ視線を向ける。
するとそこには、試験を見張る騎士の姿。
ダンジョン内を歩き回って、生徒の無事を確かめているようだ。セレスティア達を見ると、怪我をしていないと判断して別の場所へ歩いていく。
「生徒同士で助け合うのも良いのでしょうが、それだと試験の意味が無いかと」
「……自分で歩いて地図を埋めていないところを見つかったら減点ってこと?」
「かもしれません」
ありえるなと呟いて、セレスティアは自分の地図を回復薬や僅かな食料が入った荷物袋に入れる。
「取り敢えず、どっちの地図も入り口付近は埋まっているみたいだし、少し歩かない?」
「ふふ、そうですね」
セレスティアは難しい事を考えるよりも、まずはダンジョン内を歩いてみたかった。
いや、腰にある友人が作ってくれた自分だけの剣の具合を試したかったと言い変えるべきか。
その表情はワクワクする内心を隠せない子供と同じ。
これから悪魔と戦うのだというのに緊張はない。
アスカも腰にあるレーベが打ってくれた打刀の具合を確かめたいという気持ちがある。主人の言葉を断る理由は無かった。
「そうですね。半日――夕方まではダンジョンに潜ることになるのですし、少し周囲を探索しましょうか」
「ええ。行くわよ、アスカ」
「はい」
そうして、セレスティアはダンジョンの奥に向かって歩き出した。セレスティアは地図を片手にその後を追う。
そんな二人の姿を、少し離れた位置から眺めている人影が三つ。
そのうちの一つ、美しい波打つ金髪の女性はほう、とセレスティア達の背中を目で追いながら息を吐いた。
「お元気な方が居るようですね」
「彼女は確か、アーウェインの御息女ですな」
「まあ、彼女が。公の場にはまだ姿を見せていないという」
女性の言葉に返事をしたのは、彼女の背後に控える二つの影のうちの一つ。兜の隙間から覗く肌は皺が目立ち、声は枯れて聞こえる。
重厚な鎧姿からは分かり辛いが、初老の男性騎士である。
黒地に金の飾りが施された鎧と、手には両刃の大斧と大柄な巨体全身を隠せそうな大盾。その盾にはフラルタリア騎士団の紋章である獅子の頭を持つ大鷲の紋章が描かれている。
そしてもう一人。
目立つ豪華な飾りが施された白銀の鎧を纏うのは、細身の女性だ。頭部を守るのは重厚な兜ではなく、豪奢なサークレット。宝石の類は無いが繊細な意匠の銀と金の細工が美しい銀色の髪と金髪の女性にも匹敵する美貌を際立たせる。
腰には細身のレイピアがあり、清楚な青いマントが純白の彼女を彩る。
――ダンジョンの入り口でセレスティアと言葉を交わした女性騎士シェザリエだ。しかしその雰囲気はまったく違い、まるで別人である。
鎧と同じ、どこか冷たい雰囲気を纏った女性は周囲を警戒し、金髪の女性に危険が及ばないように気を張っている。
その強い気配に当てられたのか、第一層の悪魔は彼女達に近寄ろうともしない。
「たしかシェザリエが昔、剣術を教えていたとか」
「はい。もう三年も昔になりますが」
「そうなの。人の縁というのは不思議ね……彼女も貴女と同じく、騎士を目指しているの?」
「どうでしょうか……」
セレスティアと初めて会った時の事を思い出し、シェザリエは困ったように苦笑した。
それをどう感じたのか、金髪の美女は不思議そうに首を傾げる。
「言いづらいようなことを聞いてしまったかしら?」
「いいえ――彼女には夢がありまして。それは、他人が口にするのは憚られると言いますか……」
貴族の令嬢が絵本に憧れて『英雄』を目指している――というのは、確かに家族でも友人でもないシェザリエが口にするのは憚られた。
「もしお話をする機会があられましたら、お聞きになって下さい。国に害がある夢でもありませんので」
「ふうん。貴女が言葉を濁すだなんて、珍しいわね」
「申し訳ありません、姫様」
謝らなくてもいいのよ、と。金髪の美女――フラルタリア王国国王の娘。第三女という王位継承権から遠い存在だからこそ許される我儘を最大限に利用する『人形姫』アリス・フラルタリアは微笑みながらダンジョン奥へ進むセレスティアから視線を外した。
「……シェザリエ。貴女は彼女がこの試験で落第するとは思っていないのね」
この試験はクラス分けが主な理由だが、あまりに成績が悪い者は問答無用で退学になることもありうる。
確かに稀な事だが、各国の騎士学校で同じようなクラス分けの試験を行い、数年に一人は現れるのだ。自分は特別だと変な自信を持ち、大きな失敗をする者が。
中にはこの試験で命を落とす者も――だから昨今の試験では、騎士団から人員を配し、試験会場であるダンジョンの第一層を見回ることになっていた。
「私が知っているセレスティア嬢は三年前までですが、あれからもずっと努力を続けているなら」
「ふふ――ラシュトン殿が推す田舎者の剣士と貴女が推す夢を見る貴族。さて、どちらが上かしら。楽しみね、爺」
「そうですなあ。私としましては、先ほどの若剣士の方に分があるように思いますが」
それは、三人が先ほど見掛けたラシュトンが田舎の村で見つけたという青年――キーラの事だ。
試験を受ける生徒の中で最も優れた武具を集め、第一層とはいえダンジョンの最奥を真っ直ぐに目指す迷いのない足取り。
迷いの無い姿勢はそれだけで仲間達に勇気を与え、それがどんな不安だろうと希望を抱かせる事が出来る。
騎士――それも前線に立つ者に必要な資質だ。
老騎士はキーラのその姿勢を思い出し、兜の下で口元を僅かに綻ばせた。くぐもった声が弾み、その声音にアリスも手で口元を隠して肩を震わせる。
「さて。それじゃあ私達も奥を目指しましょうか。無名の村人や貴族が一番で、王族がその下というのでは、他の生徒に示しがつきませんからね」
「ですな」
(同じ生徒という立場で上下関係も、というのは無粋なのでしょうね)
それが貴族であり、王族としての立場があるのだろうとシェザリエは内心で思う。
他にも、この試験で上位を目指している者は多い。
とくに、他国である騎士国メルカルヴァからは筆頭騎士――数多ある騎士団の中でも精鋭揃いと噂される赤凰騎士団団長の息子。
魔道具の研究者を多く輩出するクリシュマリス王国からは稀代の天才と噂される男性がこの試験には臨んでいる。
他にも、自国他国からは優秀な才能を持つものが多数。
そして、キーラと同じく爵位など持たない身から才能を武器に成り上がりを目指す者も。
自国に出現したダンジョン。
なら、自国フラルタリアの王族である自分が成績一位でなければならない――とはアリスも思わない。
自分よりも優秀な物は、それこそ星の数ほどいるのだと理解している。
それでも、そう求められるのだ。王女という立場は。
だから彼女は不本意ながらズルをして、試験の規則を捻じ曲げた。
ダンジョン探索の際、生徒は仲間と協力してダンジョン探索を進めてもいい。
この仲間とは、普通は試験を受ける生徒同士と解釈するのが普通だろう。けれど、それを明言していない。
アリスはその解釈を捻じ曲げて、アーウェインに駐留する騎士団から二人、仲間に加えた。
幼い頃から国王と親交があり、アリスの事もよく知っている老騎士――アーウェイン騎士団、第二部隊副団長のアスクレオス。
そして、若手ながら実力でその地位を勝ち取ったアーウェイン騎士団第一部隊隊員シェザリエ。
その二人を従えて、アリスはアーウェインのダンジョン、第一階層最奥を目指す。
・
自分達が妙な評価の対象になっていると気付いていないセレスティアとアスカは――。
「っと」
軽く息を吐きながら半身になって、頭上から振り卸の一撃を最低限の動きで回避。
振り下ろされたのは毛むくじゃらの腕。猿のような外見をした、けれど野生に生息する猿よりも二回りは大きな体躯を持つ悪魔『グシオン』だ。
その数は三匹。
セレスティアはその三匹全部を視界に納める事が出来る位置まで下がり、一対一の状況を作りながら戦っていた。
手にはリーベが鍛えてくれた特注のブロードソードが握られ、すでにその刀身は悪魔の血で汚れている。
よく見ると、地面にはグシオンの死体が一つ転がっていた。頭が割られ、絶命している。
そして、いつもセレスティアと一緒に居るはずのアスカはというと――。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
少し離れた位置で、こちらは大型の蛇――身長が高いアスカでも簡単に丸呑みしてしまえそうな大蛇『ボティス』と相対している。
緑と黒のまだら模様が印象的な鱗に全身が覆われ、瞳孔が縦に裂けた金色の瞳は片時もアスカから逸らされない。
鋭利な牙とエラが大きく広がった頭部は実際以上にその巨体を太く見せ、アスカへ威圧感を与えてくる。
「なるほどっ、これが悪魔っ!」
「まったく」
二体四。数の上では不利な状況だが、セレスティアの声にはまだ余裕があった。
その雰囲気にアスカはため息にも似た呆れ声を上げながら、ボティスの攻撃を避ける。
蛇型悪魔の武器は鋭利な牙と、自在に動く尻尾だ。書物によれば、牙には麻痺効果のある毒があり、多量に与えられればショック死してしまうほどの濃度。
尻尾は先端が尖っており、大型のボティスとなれば鉄の鎧すら貫くほどの威力になるのだとか。
アスカが相対している人間を簡単に丸呑みできそうなボティスは、大型に分類される。
その尻尾も立派な凶器だ。けれど、アスカはセレスティア以上に気持ちに余裕があった。
(速いし重いけど、動きは短調なのね)
牙による攻撃か尻尾による攻撃か、分かり易かったからだ。
予備動作があるのだ。牙なら頭を引く。尻尾なら頭を振る。
その後に同じ攻撃ばかりを繰り返してくるなら、これほど分かり易い攻撃も無い。最初はその威容と巨体に面食らって後手後手に回ったが、今はセレスティアの方を気にする余裕もある。
対するセレスティアは猿型悪魔『グシオン』の数と素早い動きに手間取っていた。
それでも一瞬の隙をついて一撃で仕留めている辺り、その動きはしっかりと見えている。
彼女の剣は、その小柄な体躯には似つかわしくない『剛剣』だ。
一対一という場面を作り上げる事が出来れば、その剣を正面から受ける事が出来る存在など同年代にはそうそう居ないだろうとアスカは思う。
実際、悪魔の中では小柄な部類に入るとはいえ、人間よりも強靭な肉体を持つグシオンだが、セレスティアの振り下ろしの一撃を受け止めようと両腕を振り上げ、その両腕ごと頭を割られて二匹目が絶命。
防御など関係ない。圧倒的な“暴力”によって悪魔が蹴散らされていく。
その数が減れば減るほどセレスティアはグシオンの動きを捉え、動きが洗練されていく。
一対二になれば囲まれないために立ち位置を調整する必要が無くなり、彼女本来の姿である攻めに転じ、一気に二匹の悪魔を圧していく。
踏み込み、攻撃を受け、押し返し、体勢が崩れてがら空きになった胴を袈裟に裂く。左化から入り、右わきへ向かって刃が進む。
けれど、力任せの一撃は胴体の半ばで止まってしまう。
いかに剛力のセレスティアでも、着る事よりも叩き潰す事に特化した剣で肉と筋繊維を引き裂くことは出来なかった。
三匹目。残り一匹。
グシオンは、悪魔は人間を恐れない。
人間にとって悪魔が倒すべき敵であるように、悪魔にとって人間は殺すべき対象。
その人間相手に逃げるという選択肢はなかった。
仲間が殺されている間にセレスティアの後ろへ回った最後のグシオンは、躊躇う事なく背後から強襲。
しかしセレスティアはブロードソードでグシオンを串刺しにしたまま振り返り、その死体ごと背後のグシオンを横薙ぎに殴りつけた。
その勢いで剣からグシオンの死体が抜け、地面に転がる。最後のグシオンは吹き飛び、離れた位置に合った岩山の剥き出しになっている岩肌に背中をしたたかに叩き付ける。
息を吐き、その動きが止まる。
躊躇いは無かった。
セレスティアは動きが止まったグシオンへ向かって突っ込み、自慢のブロードソードでその頭を割る。
アスカはそんなセレスティアの勝利を見届けてから、ボティスへ向き直った。
もちろん、ボティスもそんな隙だらけのアスカに何もしなかったわけではない。ただ、あまりに実力差があり過ぎた。
常に一撃必殺を心掛ける剛剣のセレスティアとの訓練の日々は彼女に『一撃も喰らってはいけない』という緊張感と集中力を与えていた。
精神を研ぎ澄ませたアスカは意識をセレスティアに向けたまま回避に集中し、ボティスの攻撃を見抜いた彼女は僅かな所作でその攻撃を回避。
そして今、ボティスがアスカの細い腰を噛み砕こうとその口を開け、普通の人間なら目で追うのもやっとの速さで迫った時――唾を切る音は一回。
その動きが“目で追うのがやっと”なら、彼女の動作は“目にも留まらない”速さ。
目にも留まらない速さで抜かれた刀がボティスの首を刎ね、次の瞬間には刃に着いた血液を払う動作。
そして、蛇型悪魔の頭部が地面へ落ちるのに合わせる形で、アスカはいつの間にか抜かれていた打刀を鞘に納めた。
髪どころかスカートすら乱れない、完璧な所作で戦闘を締める。
「お嬢様、お疲れ様です」
「……随分、余裕があるわねえ」
数が多い方を相手にするといったのはセレスティア自身だったが、まさかこんなにも自分が苦戦して、アスカが余裕で勝つとは思っていなかったのか、面白くなさそうに唇を尖らせていた。
それを察したアスカは困ったように一礼。
「次はお嬢様が大物を相手にされてはどうでしょうか?」
「そうね。油断するのは良くないのだろうけど、アスカに負けっぱなし……じゃない。対等に勝負したいし」
少し本音が漏れた主人を無表情の下で「可愛い」と思いながら、アスカはポケットに畳んで入れていた地図を取り出した。
二人はまだ入り口からほとんど動いていない。
こうやって悪魔を探して戦っている間に、何組かの生徒から追い抜かれた事にも気付いている。抜かれた時と戦闘に掛った時間を加味して、他の生徒がどの辺りに居るかを地図上で思考する。
「まずは他の生徒の方々と合流しましょうか」
「そうだなっ。地図を埋めるのは仲間が多い方が楽だろうしな」
「それは……どうでしょうか」
悪魔討伐と初めての戦闘に気分が高揚しているセレスティアの言葉を、アスカは歯切れが悪く否定した。
試験の規約的に助け合うことは禁止されていないというのはアスカも理解していた。
けれど同時に、これは試験なのだ。
受かる者が居れば、落ちる者も居る。
いきなり退学という事はないだろうが、しかしクラス分けで下位のクラスとなれば、これからの学校生活に暗い影を落とすという事は学生経験の無いアスカでも分かってしまう。
つまり、助け合うのではなく、他者を蹴落とそうとする者が出るのでは、と。
――まだダンジョン探索は始まったばかり。
残り半日。空にある魔力の太陽が沈むまでの時間が期限だというのに、アスカの不安はすぐに的中することになる。
えほんのおひめさま~腕力特化お嬢様による成り上がり英雄譚~ ウメ種 @umetane1
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