我が愛する先生の伝記
水223
第1話 『秋』
慣れないマスクをして歩いたせいで切れ切れになった息を整えながら、最寄り駅のホームで電車を待つ。
普段は利用客の多い駅だが、平日の昼間に電車を待つ人は少ない。
しばらく周囲の人間を観察してみると、彼らは一様に上着を羽織っていた。
先週まではあんなに暑かったのに、今では肌寒い。
夏は一体どこに行ってしまったのだろう。
僕の身体は突然やってきた寒さに対応するのが精一杯で、先日までの暑さなど全く思い出せない。
秋が深まり、冬に移行するにつれてその忘却は強度を増し、すっかり寒くなってしまった後ではきっと暑さという感覚を忘れてしまうのだろう。
まるで衣替えのようだと思う。
暑さという感覚は、次の年の初夏を迎えるまでクローゼットの奥底に仕舞われたまま思い出されることはない。
痒くなった目を擦りながら、そんなことを考えた。
秋は嫌いだ。
特に秋の始まり、衣替えの季節は地獄だとさえ思う。
僕の貧弱な身体は急激な気温差に耐えられず、毎年必ず体調を崩す。
その上アレルギー持ちでもあるため、舞い始めた花粉によってさらに僕の身体は蝕まれる。
日照時間が短くなることで体内時計が不安定となり、自律神経を崩す。おかげで最近は朝方まで眠れないし、正午を過ぎるまで起きれない。
何より最悪なのは、僕がこんなにも酷い目にあっているのに、他の多くの人にとって、秋は最も過ごしやすい季節だということだ。
小学生の頃から、理科の授業で行う実験というやつが嫌いだった。何を好きこのんでわざわざ危険な薬品や器具を扱わなければいけないのか。
だいたい実験と言ったって、もう既に教科書に結果が書いてあることを、書いてある手順通りに実行するだけで、一体実験としてなんの意味があるのかが不思議だった。
だが多くの子どもたちにとって、実験というのは体育の授業と並んで人気がある。僕の嫌いなものを、みんなは何一つ疑問を持たず楽しんでいる。
その事が僕の実験嫌いにさらに拍車をかけ、実験が、ひいては理科の授業さえ嫌いになってしまった。
秋が嫌いという感覚は、なんとなくそのことを連想させる。
ホームに着いて五分程でやってきた電車に乗り込み、何をするわけでもなくただ扉の側に立って窓を眺める。
流れていく景色は、いつも通学の際に眺めるものと全く同じものだったが、今日の行き先はいつも通っている高校ではなかった。
毎年訪れる秋のアレルギーと自律神経の失調に困らされた僕は、ここ数日は学校にも行かずただ家でダラダラと過ごしていた。
両親は共働きで、二人とも朝早くに家を出るため、おそらく僕が学校を休んでいることすら知らないだろう。
教師には一応風邪だと伝えてあるが、もう五日ほど休んでしまったため、そろそろこの言い訳も通じなくなってきたかと昨日から頭を悩ませている。
インフルエンザとでも言おうと思ったが、さすがにこの季節では無理がある気がして躊躇い、結局風邪だと伝えた数日前の自分を責めたい気分だ。
調べたら秋でも感染することは多いらしいじゃないか、インフルエンザ。
今日も今日とて正午過ぎに目が覚めた僕は、知り合いから連絡が入っているのに気がついた。
『渡したい本があるからこのメールを見たら至急俺の家にくること』
文面はそれだけだった。
勝手極まる内容だが、この通り暇を持て余している人間なので文句はない。なにより彼に会うのは楽しみでもある。
そんなわけで日頃の運動不足に加えてここ数日の引きこもり生活によりすっかり力の入らなくなった体にムチを打って、自宅から数駅離れた彼の家に向かっている。
我が愛する先生の伝記 水223 @water_223
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