街は闇色と、空の色

りりぃ

第1話

 初めて澄子さんの病室に入ったとき、なんて病室らしさのない空間だろうと思った。病人らしいものはないのに、だからといって生活感もにじみ出ない、不思議な部屋だった。

 綺麗にタオルケットがたたまれたベッドと、ドライフラワーが飾られた小さなテーブル、何の予定も書き込まれていないカレンダー。それが六畳ほどの空間のすべてだった。廊下から入ってすぐ左には、トイレとお風呂がある。狭い気もするが、一人暮らしをするとしたらこれくらいあればいいのだろうかと、私はぼんやり考えた。

「初めの印象はどう?」

 後ろからついてきていた実習担当の西岡先生の質問に、私は素直に答えた。

「今までみてきた病室と、全然違うと思いました。らしくないというか……心電図モニターとか、点滴棒とか、そういうのがないですし」

「そういう治療をしているわけでは、ないからね」

 実習の担当患者さんになってもらう肝心の澄子さんは、リハビリ中のため、部屋にいないということだった。

「先にカルテから、情報収集をしましょうか」

「わかりました」

 腕時計をみると、十一時だった。私は先生の後について、ナースステーションへ向かった。


 精神看護の実習は、二週間の予定だった。初日の今日の目標は、担当させてもらう患者さんに挨拶をし、お話をしながら少しでも打ち解けてもらうことだった。これまで何度も実習は乗り越えてきたが、初日が一番緊張する。前もって病院から説明はされているはずだが、突然あらわれた学生に、勉強のためにしばらくあなたの担当をさせてください、と言われていい気分の患者さんがどれだけいるだろう。だが、こちらは短い日数のなかに数々の課題を押し込まれている身だ。申し訳なさを感じながらも、単位のためにひたすら突き進むしかない。

 ナースステーションの片隅で、私は澄子さんのカルテを開いた。有川澄子、女性、八十二歳。家族構成の欄に、独居、と書かれていた。旦那さんは死別しており、娘さんが一人、隣町に住んでいるらしい。走り書きで、メモ帳に情報を写し取っていく。家に帰ってから、必要な情報がないとなると、面倒だ。私は声がかかるまで、一心にボールペンを走らせ続けた。


 昼食の配膳車が廊下を通る。

 澄子さんがリハビリから戻ってきたとのことだった。先生に連れられ、再びあの病室へと足を踏み入れた。

「失礼します」

 私のかたい声に、澄子さんは、やんわりと微笑んだ。まっすぐに背筋を伸ばして、ベッドに腰掛けている。きれいな銀色の髪はゆるいパーマをかけているように見えた。病衣の襟元はきれいに整えられ、クリーム色のカーディガンのボタンは、きっちりととめられている。立ち上がり、澄子さんはお辞儀をした。

「あ、あの、こんにちは」

 私も慌ててお辞儀をする。

「今日から、看護実習をさせていただいている浅井です。二週間、澄子さんの担当になります」

「お話し相手になってもらえるのかしら? 嬉しいわ、よろしくね」

 ゆったりと喋り、澄子さんはもう一度小さくお辞儀をした。よろしくお願いしますと早口で言い、私も頭をさげる。

 用意していた挨拶の半分も、言えなかった。「ご迷惑をかけることもあるかと思いますが」も、「精一杯がんばりますので」も、澄子さんの周りをとりまく、緩やかな時間に飲み込まれてしまった。

「よろしければ、お昼いっしょにどうかしら?」

 口ごもると、少しお話させてもらったら? と先生が言った。

「あ、ありがとうございます」

「よかった、一人で食べるのは、寂しいと思っていたところなの」


 昼食は、シチューだった。

「あなたのお食事は、まだ?」

 少し気の毒そうな表情をみて、わたしは一瞬、言葉につまった。

「えっと、私は実習生なので、別の部屋で食べるんです。もう少ししたら、食べに行くので大丈夫です」

「あぁ、そうなの。なら、申し訳ないけど、お先に」

細かな花柄模様が入った陶器のスプーンをとりだして、澄子さんは手をあわせ「いただきます」と言った。

 食事中に話しかけて良いものか迷ったが、澄子さんは一口ひとくちを長く味わっているようだったので、私は話しかけることにした。

「先ほど……リハビリをしていたと伺ったんですが、どういうことをするんですか?」

「リハビリ」

 澄子さんは、私の言葉を繰り返す。そして、曖昧に微笑んだ。沈黙が流れる。

 辛いリハビリだったのだろうか。それとも、口で説明するには難しすぎて、どう言ったらいいものか悩んでいるのかもしれない。

 私は少し待ったが、何事もなかったかのようにシチューを食べ続ける澄子さんを見て、さっき自分が喋ったことに自信が持てなくなってきた。私は本当に声に出して聞いただろうか。心の中で思っただけ? 澄子さんは大きめのじゃがいもを、半分に割っていた。

 とは言え、もう一度同じことを言うのも気が引けた。

「澄子さんは、何か趣味とかありますか?」

 より無難と思われる話題にかえてみる。すると澄子さんは、嬉しそうにこちらをみた。

「わたしね、旅行が好きなの。国内もたくさん行ったけれど、海外も何度も行ったのよ。ヨーロッパはほとんど行ったことがあるの。主人と一緒に撮った写真を、アルバムにしてあるのよ」

「すごいですね、私は海外に行ったこと、一度もないんです」

 饒舌になる澄子さんをみて、ほっとする。さっきは悪いことを言ったわけではなかったみたいだ。

「時間があるときに、あなたにアルバムをみせてあげましょうか。国ごとに、分けてあるのよ。あなたもきっと海外旅行に行きたくなるわ」

「本当ですか、ありがとうございます」

 午後から見せてもらえるだろうか。話もはずんで、ほっとしている私の顔をみて、澄子さんは急に、気の毒そうな顔をした。

「ところで、あなたのお食事は、まだ?」


   ☆


「それですごく気まずくなって、ちょうど今からごはんの時間なので、って言って出てきちゃった」

 私の言葉に、他の病棟で実習しているクラスメイトが頷いた。

「わかる。認知つよいんだね。私の受け持ちも認知症のひとだったよ」

 昼休憩。病院の最上階にある会議室が、実習生用に貸し出されていた。私はカルテを写したメモ帳を見返した。

 病名の欄には、認知症、とだけ書かれていた。

「なんだっけ? ほら、昔のことはよく覚えてるけど、最近の記憶はなくなっちゃうやつ。澄子さん、昔の思い出はよく覚えてる」

「たしかに。そういうのあるよね」

「でも午後からどうしよう。さっき話したことも、忘れてそう」

「そうですかって聞くしかないんじゃない?」

「うーん」

 そうなったら、実習記録は同じ会話の繰り返しになってしまう。初日から記録が進まないのは困ると思いつつ、私はかばんからお弁当と教科書を取り出した。使えそうなことが書いてないか、それほど期待もせず付箋が貼ってあるページを開く。

――認知症高齢者とのコミュニケーションの基本。

「ゆっくり低い声で」「大人の言葉で」「静かな環境で」「時間をかけて」

 ありきたりで、内心わかりきっている、と思うような言葉が並ぶ。これといって役立ちそうな情報はないように思える。

「簡単な言葉に言い換える」「短い文章を用いる」……

 そして最後に書いてあったのは、「昔話を引き出す」だった。


   ☆


「失礼します」と病室に入ると、澄子さんはベッドに腰掛けていた。初めに会ったときと、ほぼ同じ印象だった。澄子さんはやんわり微笑みながら、こんにちは、と頭を下げた。さっき会っていたことを覚えているかどうかは、聞かなかった。

「何をしていたんですか」

 澄子さんは少し視線をそらしたが、すぐに私の顔をみた。

「あなたは、何をしているの?」

「私は……澄子さんとお話したいなと思いまして」

「まぁ、嬉しいわ」

 座って、と促され、私は小さな丸椅子に座った。

「そうだ、アルバム、見せてほしいです」

「アルバム」

 リハビリ、と口にしたときと、同じ空気が流れた。やっぱり、と思った瞬間、澄子さんはぱっと、嬉しそうな顔をこちらに向けた。

 よかった、覚えていてくれた。私もほっとして笑い返す。

「アルバムといえば、私ね、旅行が好きなの」

 廊下で話すひとの声が、遠く聞こえた。

「国内もいろいろなところへ行ったけれど、わたしは海外が特に好きなの。写真をたくさん撮って、アルバムにしてあるのよ」

「そうなんですか? 見てみたいです」

 思いのほか、わざとらしい言い方になってしまったが、澄子さんに気にする素振りはなかった。テーブルの下の引き出しをあける。中にはノートと、紙が何枚か入ったファイルと、えんぴつが入っていた。アルバムらしいものは、入っていなかった。

「ごめんなさい、家においてきたみたい」

「いえ、いいんです。でも、残念」

「わたしも残念だわ。手元においておきたいのに、持ってくるのを忘れるなんて」

「入院するとき、慌ててしまったんですね、きっと」

「今度娘がくるとき、持ってきてもらうように頼むわ。そうしたら、あなたと一緒に見れるものね」

 娘さんが隣町に住んでいるということを思い出す。お見舞いには、よく来るのだろうか。

「ぜひ、見たいです」

「そうよね、あの子なかなか来てくれないのよ。あとで電話をかけておくわ」

 あとでは、どのくらいあとでなのだろうと、私は思った。忘れてしまわない程度のあと、だろうか。

 その後、当たり障りのない会話をはさみながら、旅行が趣味だという話を何度か聞き、初日の実習は終わりの時間を迎えた。

 時間は過ぎてしまったがどうしても気になったので、澄子さんのリハビリ内容を調べることにした。案内されたリハビリ室で、実際に使っているものを見せてもらうことができた。

 机の上に並べられたのは、パズル、オセロ、折り紙、粘土、計算用紙、塗り絵……

「澄子さんは、今日なんだったかなぁ」

 粘土板を拭いていたリハビリの担当者が、首をひねる。

「澄子さんは、手先が器用なんですよ。折り紙とかよくやっていますね。今日も、たしか折り紙をやっていたかな。そうだ、病室でもできるように、折り紙や塗り絵なんかは持って帰ってもいいんですよ。実習生さんがいるとやる気を出す患者さんも多いのでね、ぜひ声をかけてみてください」

 私は、引き出しの中に入っていたファイルを思い出した。ここから持ち帰ったまま、忘れてしまっているのかもしれない。

「明日、澄子さんにきいてみます」

「うん、それがいいよ。そういえば、たしか澄子さんにぴったりの塗り絵をプレゼントしたはずなんだけど、やってくれてるかなぁ」

 きっとやっていない、とすぐさま思い、やる気がないのではなく、忘れてしまっているのだ、と思い直す。

 塗り絵。小さい頃に遊んだきりだが、最近では大人が趣味にできるようなものも出ているらしい。そして趣味だけでなく、リハビリとして使われることもあると、習ったことを思い出した。

 澄子さんの場合、何のリハビリになるんだろう。手先の動き? 動かすことで、脳に刺激を与える? 例えばりんごの絵があったとして、はみださずにきれいに塗る練習なのだろうか。それとも、正しい色を選ぶ練習なのだろうか。


   ☆


 引き出しに入っていたファイルには、予想通り、塗り絵が何枚かはさまっていた。

 翌日、澄子さんに自己紹介をし、旅行が趣味という話を二回聞かせてもらったあと、私は一緒に塗り絵をしないかと提案した。

「塗り絵」

「リハビリに、いいみたいですよ。せっかくここにあるので、一緒にやりませんか」

「そうなの? よくご存知なのね」

 ファイルから取り出した塗り絵は、思いのほか繊細な、美しい街並みが描かれていた。右下に小さく《ヨーロッパの風景》と書かれている。じっとみつめる澄子さんの横顔は無表情に見えて、どこか寂しさを隠しているようでもあった。

「塗り絵になるくらいだから、有名なところなのかな。澄子さんならわかります?」

 澄子さんは遠慮がちに笑った。頷きも、首を横に振りもしなかった。

 塗り絵をみていると、一部分が塗られていることに気付いた。れんがの壁のようにみえるところが、薄くえんぴつで塗られていた。淡い闇色が、まるで初めからその色であったかのように、丁寧に、丹念に。

 私はしばらく戸惑ったが、結局かける言葉がうまくみつからなかった。何とかしぼりだした言葉は、

「色えんぴつ、持ってきましょうか」

 だった。

 確かに色えんぴつはこの部屋に見当たらない。だが、それが壁を闇色に塗りつぶした理由ではないことくらい、わかった。

「いいのよ、必要ないの」

 澄子さんはやんわりと、断った。

 他の何色も、必要ない、と。

 あえて、えんぴつの色を選んだのだ。

 どうして、と率直に聞けないほど、澄子さんの視線はまっすぐ、少しだけ闇に染まった街並みを見つめていた。


 塗り絵をするにしても、絵を描くにしても、物心ついてくると、他の人にはない色で塗ってみたいという気持ちが沸いてくるものだった。

 いくつかの色鉛筆で重ね塗りをして、どうにかきれいな色を作り出せないか。絶妙な量の絵の具を混ぜ合わせて、決して売ってはいない絵の具を作り出せないか。例えば空を塗るとき、青と水色と紺色を、少しずつ混ぜ合わせながら塗った。特別な星を描いたときは、金色と銀色を贅沢に使った。画用紙いっぱいの虹を描いたときには、七色以外の色をこっそり混ぜて、自分だけの虹を作った。

 けれど、黒は、使わなかった。

 ほんの少し混ぜただけで、すべてが台無しになってしまう。

 黒と決まっているものを塗るときは仕方がなかった。でも、隣の色と混ざらないように、手でこすって、違う場所に色が移らないように、無意識に薄く、淡く塗ったものだった。

 せっかくの絵を一瞬で台無しにしてしまう、それが黒の持つちからだ。

 ヨーロッパの街並み。きっと、素敵な思い出の数々が眠るであろうその場所に。

 澄子さんは、何故、黒を与えたのだろうか。


  ☆

 

 澄子さんがリハビリに行ってすぐ、娘さんがやってきた。実習生ですと挨拶すると、娘さんのほうが深々とお辞儀をし、私は慌ててもう一度頭を下げた。

「たくさん迷惑をかけているんじゃないですか」

 と言って、娘さんは心底申し訳なさそうな顔をした。しわひとつない、シャツブラウス。几帳面そうなところが、澄子さんによく似ている。

「いいえ、そんな。楽しいお話をたくさん聞かせてもらってます」

 娘さんは、曖昧に微笑んだ。

「きっと何度も同じお話を、聞いてくれてるのよね。ありがとう」

 否定もできず、上手い返答も見つからず、私も曖昧に笑ってごまかした。

 洗濯物をとりに、会社の昼休みに抜けてきたという娘さんは、時計を気にしながらジャケットを羽織った。

「もう行かないと。母の話し相手になってくれて助かるわ」

「あの、」

 つい、引き止めてしまった。

「すみません、澄子さんが、旅行のアルバムを持ってきてほしいと言ってました」

「アルバム」

 確かめるように繰り返す娘さんは、澄子さんにそっくりだった。ただその表情は、澄子さんのそれにひと匙の影を落としたような、そんな哀しさを浮かべていた。

「アルバムは、ないの」

「え?」

 澄子さんの勘違いだったのか。

「なくなっちゃったのよ」

「そう、なんですか」

 ごめんね、よろしくね、と足早に去っていく後姿を眺める。

 ……なくなっちゃった。

 どこかに忘れてきてしまったのか。間違えて捨ててしまったのか。澄子さんならどちらもありえる。けれど同じくらい、アルバムを大切に胸に抱く澄子さんも想像できて、それがどうにもやるせなかった。



 美しい街並みは、少しずつ、けれど確実に闇色に染まっていった。

 澄子さんは、塗り絵が上手だった。はみ出してしまうこともなく、濃すぎるところも薄すぎるところもなく、街は綺麗に塗りつぶされていった。れんがの壁。石畳。大きな窓、それを囲む蔦と花。どれもが均一な、黒。

 私は一生懸命な澄子さんに話しかけることができず、隣に座って、澄子さんと窓の外を交互に眺めていた。

 あのトラックは、どこに何を運ぶんだろう。あの人は小走りにどこへ行くのだろう。自転車は何を思ってその脇道に入ったのか。親子は来た道を引き返してコンビニに寄り、何を買うのか。外には無数の人がいて、無数の方向の生き方をしていて、私はそれを、少し高いところから見下ろしている。私だけがみんなの輪から外れているような、いじけた気持ちが沸きあがり、何だか孤独でたまらなくなる。

「もう少しだから、今やってしまうわ」

 唐突な言葉に驚く。澄子さんは、うん、とひとり頷いて、小さなえんぴつ削りを手に取った。

 街は空を残して、完全な闇色になろうとしていた。

「あとは、……空ですか?」

「空は塗らない」

 浮かべた笑顔は、寂しそうなものだった。私がいたずらに感じた孤独とは比べ物にならない、深い孤独が見え隠れする。

えんぴつの削れる音だけが、しばらく続いた後だった。

「空は、綺麗な色でいてほしいもの」

 なら、どうして。私は思い切って尋ねた。

「他はどうして、黒なんですか」

 澄子さんの表情は変わらなかった。削りかすをティッシュにくるむと、じっと、塗り絵の中を見つめた。

「ここ、きっと歩いたことがあるわ。似たような景色が多いから、もしかしたら思い違いかもしれないけれど。主人と一緒に、歩いたところよ。写真も撮ったかもしれない。でも、もう確かめることはできないわね」

 澄子さんは、白い窓を塗り始めた。それが塗り終われば、空を残してすべてが闇色になる。

「窓は、なかったんだけどね。私が見たときには、割れていたはずよ」

「割れていた? そのおうちの窓ですか?」

「いいえ、ごめんなさいね。私の家の話よ。もう何も残っていないけれど」

 えんぴつを走らせる音が、リズミカルで小気味良い。

「全部焼けちゃった」

 闇色の街が、完成した。

「私が出かけている間に、全部焼けちゃったの。帰ったとき、うちの周りにはたくさん人がいたはずだけど、誰がいたのか一人も覚えてない。消防士さんとか、近所の人たちでしょうけど……、でも誰がいようが関係なかった。主人はうちの中にいたんだから。もう、だいぶ前のことよ。ほんとはうちがどんなだったか、もう一度みれたとしたら、記憶とは違うかもしれない」

 見たくないけれどね、と澄子さんは力なく笑う。

「事実はどうだっていいの。私の中では、全部、ぼんやりとした黒なのよ。家も思い出もね。煤の色なのかしら」

 火の赤でも煙の灰色でもない。澄子さんの目に映る、淡い闇。

 何か言わなければと思いつつ、気の利いた言葉ひとつ思いつかない自分がもどかしい。

「空は、これから青く塗りますか?」

 こんなどうしようもない質問に、澄子さんは窓の外の空を見た。

「もう疲れちゃったから、終わりにしようかしら。空は、青もいいけれど曇り空も好きよ。でも雨の日は少し苦手。黒い空はだめね。空しかもう行き場がないんだもの。明るすぎるのは眩しいけれど、でもそうね、やっぱり明るいほうがいいかしらね」

 こんな空もいいわね、と、見上げる空は、うっすらとした茜色だ。

 澄子さんは、完成した塗り絵を、丁寧にファイルにしまって、引き出しに入れた。

「忘れることも辛いけれど、覚えているっていうのも、辛いものね」


 どれくらい沈黙が流れたか、わからない。数分のような気もして、時計をみると実習時間の終わりが迫っていた。

「あ、あの、今日はたくさんお話してもらって、ありがとうございました」

 触れていいものかどうなのか。澄子さんが辛い記憶を話してくれたのに、私は結局、どんな反応をすればいいかわからずにいる。

「えっと……」

 澄子さんは、優しい笑顔を私に向けた。けれど不思議そうに、少し首をかしげる。

「あなたは……何をしているの?」

「……実習生で、あの、澄子さんとお話させてもらおうと思って来ました」

「まぁ、嬉しいわ。お話し相手になってくれるのね。何のお話がいいかしら。そうだ、あなた、旅行はお好き?」


   ☆


 私はまっすぐ家に帰り、すぐに実習ノートを開いた。そして澄子さんが話してくれた大切な思い出を、丁寧に記録し始めた。少しも記憶が薄れないうちに、書き残したかった。

 忙しなく動く手とは正反対に、私を取り囲む空気は、澄子さんのそれと同じように、とてもゆったりとしていた。


   ☆


 それから、澄子さんとたくさんの話をした。何度も旅行の話を聞き、何度も旦那さんの話を聞いた。そして時々、旦那さんはもうこの世にはいない、という話を聞いた。それ以上詳しい話はしなかった。けれどふと、澄子さんは少しだけ若返ったような顔になり、すらすらと新しい話を始めることもあった。


「もうね、空しか行く場所がないでしょう」

 澄子さんは、ぼんやりと外を見つめた。実習はあっという間に最終日だった。

「どんなに美しい思い出もね、おぼろになっていくの。思い返すそのたびに、とっても薄いベールを一枚ずつ重ねられていく感じかしら。それが歳なのね」

 出窓に手をかけ立ち上がり、小さく背伸びをする澄子さん。

 遠くを見つめているようで、見えない何かを思い出しているようで。 

「でも空は、曇りっぱなしじゃないでしょう。だから空だけは晴れてくれたんだって、踊りたくなるくらい嬉しくなる日もあるのよ」

 今日みたいにね、と私のほうを振り返り、澄子さんは静かに微笑んだ。


おわり

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街は闇色と、空の色 りりぃ @lysclair

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