暁の心臓

フリフリモモ

第1話

【猫の目との邂逅】


「ねぇ……私のこと、覚えている?」


私が営む喫茶店の、窓際の定位置に座る謎めいた彼女が、そう問いかけてきた。彼女は緑の黒髪を揺らしながら、猫みたいに大きな感情のこもらない目で、私の顔をじっと覗き込む。


その顔を見た瞬間、こめかみがきぃんっと痛んだ。


懐かしさで胸がいっぱいに満たされたというのに、私の頭はその記憶を拒絶するかのようにつきん、つきんと脈打っている。


「もしかして……昔の知り合いとかですか?」


私は頭の痛みを振り払うように、彼女に問いかけた。


「さぁ、どうかしら?」


彼女は曖昧な笑みを浮かべて、私の問いをはぐらかす。


「すみません。僕……戦地で頭に銃弾を受けた後遺症で、戦前の記憶が全く無いんです。もし戦前に知り合った方だったとしたら、覚えていない可能性が高いので……」

「……まぁ、そうだったのね。ごめんなさい、不躾なことを聞いたりして……」

「いえ……もしも出会ったのがここ最近の話ならば、忘れている僕に落ち度がありますから」


終戦間近に召集された私は、戦地で酷い怪我を負ったらしい。『らしい』というのは、その怪我の前後の記憶がすっぽり全て抜け落ちて、覚えていないからだ。それどころか、怪我を負う以前の記憶も無くしてしまった。文字通り、真っさらな白紙のような状態となり、言葉さえ喋ることができなかった。


私は何日も何ヶ月も死の淵を彷徨い続け、病院のベッドで意識を取り戻した頃には、もう終戦を迎えて久しいくらいの時間が過ぎ去っていた。


「最近では、ないわね……でもいいの。思い出せないのなら、貴方にとってその記憶は必要のないものなんだわ。もしも本当に必要ならば、いずれ思い出すでしょう」


だから忘れてちょうだい、と彼女は笑った。


「せめて、貴女のお名前を教えては頂けないでしょうか?いつか僕が貴女のことを思い出した時に、貴女の名前を呼びたいのです」

「いつか貴方が私のことを思い出す時が来たら、きっと貴方は私の名前を呼ぶことができるわ……」

「いつかでは遅い……僕はいま、貴女の名前を呼びたいのです」


私はいつになく必死な様相で、彼女を引き止めようとした。


全ての記憶を失ったその日から、私は夢の中に居るような浮遊感を味わっている。私が『私』であるという確信など無く、ただ生きる為だけに消費する毎日。穏やかだが希薄な日常は、私を静かに蝕んでいった。


私は死にたい訳ではないが、生を渇望する理由だって持ち合わせていない。生を終えるその為だけに、生きている私は生物としては真っ当なのかもしれないが、人間としては真っ当ではないと、ずっとずっと思いながら生きてきたのだ。


彼女は私を人間たらしめる理由になるかもしれない。


だから私は彼女へと手を伸ばした。


彼女はそんな私を見ると、慈愛に満ちた母のような眼差しで、柔らかく微笑んだ。


「私の名前は『暁月律子』よ。小説を書いて生計を立ててるわ」

「暁月先生?」

「律子でいいわ」

「律子先生」

「先生も止してちょうだい『秋月蒼夜』君」

「やっぱり僕の名前、知ってるんですね……」

「知らない方が良かったかしら?」

「いいえ?やっぱり貴女は僕のことを知っているんだなぁと思って……」

「馬鹿ね、名前なんて調べようと思えば簡単に調べることができるのよ?貴方は接客業をしているんだから尚更ね」


律子は赤い口紅をひいた鮮やかな唇を歪めながら、自嘲気味に嗤った。


「僕はね……記憶を全て失って、寄る辺が無くなってからというもの、他人の感情の機微にはとても敏感になったんだ。だから貴女が嘘を吐いてないということは分かります」

「いいこと坊や?本当の嘘吐きというのはね、嘘を吐いてるだなんて絶対に悟らせないものなのよ」

「だとしても、貴女になら騙されても構いませんよ?」


私は全てを失った。もうこれ以上失うものなどない。あるとしたら、この店くらいだろうか。だから目の前にいる、私を人間にしてくれるかもしれない女が、私を破滅に導く悪魔だったとしても本望なのかもしれない。だって私は生を渇望しながら、死にたいのだから……


「……貴方、死んだ魚のような目をしてるのね。でも、女性にあまりそういうことを云っては駄目よ?そういう台詞は女を破滅させてしまうのだから……」


私は何も言葉にすることなく、静かに笑った。言葉が出てこなかったのだ。


(僕は破滅させたいのではなく、息の根を止めて欲しいのです)


「コーヒー、おかわり貰えるかしら?」

「仰せのままに、律子さん」


猫の目をした謎めいた彼女との邂逅を経て、私の止まった時間はようやく動き出す。それが破滅の始まりなのか、失った人生の始まりなのか、私には分からない。


頭の奥に隠れた脳髄が、痺れるように疼くのを感じながら、私は高揚する気持ちを抑えることができなかった。







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