第2話 3.11の夜
入社して、たちまち四ヶ月が過ぎた。今日は三月十一日。季節もわずかに春めいて、柔かい風が、そろそろと吹き始めていた。
壁の時計に目をやると、午後もかなり進んで、やがて時刻は三時になろうとしている。ちょっと手の空いた私は、パソコンの画面を、ネットのニュース欄に切り替えた。なにか目新しい事件が起こっていないか、知りたかったのだ。しかし、事件というほどのものは、目につかなかった。
(今日も、平凡な日が続く……)
つぶやきながら眺めていると、突然画面がぶれた。同時に私の身体も斜めに傾ぐ。
「わっ!」
悲鳴を上げて机にしがみついた。大きな音がして、書棚から本や書類がバサバサ降って来る。「キャーー」という女の悲鳴。事務所の中が大騒ぎになった。
「地震だ、逃げろ!」
社長室から飛び出して来た松田社長が、真っ先に出口に向かった。
事務所の者は皆、自分の荷物を手に取ると、我先にと、非常階段を駆け下りて行った。
揺れは何回もやって来た。揺り返しにしても、かなり大きい。まだ映っているパソコンの画面を見ると『東北地方に大地震発生。震源地は三陸沖。津波に注意』と出ていた。
(海上か……大したことないな。揺れは大きかったが……)
私は冷静にパソコンの画面を切ると、スーツの上から黒いコートを羽織り、誰もいなくなった事務所を出て行こうとした。
出口まで来ると、横の会議室から、早口でまくしたてる、アナウンサーの声が聞こえた。どうやら、テレビを消し忘れて逃げたらしい。
部屋に入って、テレビの画面を覗く。すると海岸に向かって、大きなうねりが押し寄せていた。それは、どす黒く濁ったような色をしている。
浜辺に達した濁流は、やすやすと堤防を越え、立ち並ぶ家々に覆いかぶさって来た。道路を走っていた車が、あっと言う間に飲み込まれる。広場が海のようになり、その上を、大きな船が流されて行く。
(津波だ!)
私は食い入るように、その状況を眺めた。それは、これまで見たことも、聞いたこともない大きなものだった。りっぱな家が、そのまま船のように移動している。
テレビからは、実況を伝えるアナウンサーの、悲鳴に近い声が流れていた。
(ここに来るかも……早く逃げないと……避難所は、近くのお寺だったはず)
窓に寄って、向かいの通りを見渡すと、ビルの隙間から寺院の屋根が見えた。通勤途中に見かけるお寺で、屋根が丸く、変わった構造になっている。天竺様式というのか、インドなど、南アジアの仏教寺院によく似ている。
その鉄筋コンクリート建物は、かなり大きく、ここなら大勢の人を、収容できそうだ。私は階段を下りると、お寺に向かって走った。
境内に着いてみると、本堂の脇に避難所が設けてあった。これもコンクリートの頑丈な建物で、公会堂のような四角い形をしていた。
正面のドアを開けると、私は「うわっ!」と、驚きの声を上げた。中は、人、人、人。広間いっぱいにパイプ椅子が並べられ、大勢の男女が、窮屈そうに腰かけていた。
呆然として、その様子を眺めていると「芝さん!」と呼ぶ、女性の声がした。部屋の奥の方で、中堅OLの森山さんが、私に向かって手招きしている。
彼女のまわりには、松田社長を始め、会社の人たちが、数人固まっていた。若手事務員の伊藤秋子さんが、隣のパイプ椅子から荷物を下ろして、私のために席を作ってくれた。
ホールのような広い部屋の中央には、大型テレビが設置されていた。大きな、いや、史上空前かも知れない被害が出たらしいが、テレビの画面からでは、実感がともなわない。SF映画を見ているような感覚でしか、とらえられなかった。
気になるのは、画面の端に出て来る交通情報だ。『山手線、総武線、中央線……運転見合わせ』という字幕。JRばかりでなく、私鉄も地下鉄も、動いているものは一つもない。
「ホテルも満員だろうし、今夜はここに泊まりだな」
松田社長がポツンと言った。
「上に行きましょう。二階にザコ寝する所がありますよ」
森山さんが、みんなをうながす。そこで一同、自分の手荷物を持って、階段を登った。
登った所はロビーになっており、布張りの椅子が並んでいた。その奥に道場のような広間があり、床には緑のカーペットが敷いてある。ここがザコ寝してもよい所なのだろう。そこには、すでに寝転んでいる人が何十人もいた。
会社の人は、社長と私と三人の女性だけだった。男性社員は、皆どこかへ泊まりに行ったという。残った五人は、思い思いに椅子に腰かけ、漫然と長い夜を過ごした。
同じ所に座りっぱなしだと、腰が痛くなる。私は背伸びをしながら立ち上がり、そのまま一階に下りて行った。そこには、まだ大勢の人が、退屈そうにテレビを眺めていた。
お茶コーナーには、ボランティアだろうか、お坊さんたちに交じって、幾人かのおばさんや、おねえさんたちが、忙しそうに立ち働いていた。
中には若い子もいる。私はそこに行って、青いジャージの少年から、温かいお茶の入った、紙コップをもらった。
「ありがとう」を言って、顔を上げた時、その子と目が合った。思わず「あっ!」と声を漏らすところだった。
なんと、私が毎朝、コーヒーショップから、その姿を眺めている、あの女子高生ではないか。そのボーイッシュな姿から、少年と見間違えてしまったが。
私たちが互いに見つめ合っていたのは、ほんの一瞬だった。その子は、すぐ目をそらすと、並んでいる避難者たちに、お茶をくばり続けた。
私は紙コップのお茶を飲みながら、少し離れた所から、その様子を見ていた。今の彼女はセーラー服を着ていないせいか、二、三歳、年上に見える。
それでも、そのショートカットの黒髪、表情のない面長の顔、スッと立った背筋は忘れようもない。
(間違いない……)
その子は、もう私の方を見ようとはしなかった。やがて彼女は、渋茶色の盆を片手に、奥の部屋に姿を消した。
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