地震の夜・築地の少女

唐瀬 光

第1話  築地の少女

 地下鉄の階段を登ると、急に寒い風が頬をかすめた。季節は十一月、もうすぐ秋が終わる。私はくたびれかけたスーツの襟を立て、寒風というにはまだ早いが、かなり冷たい風の吹き抜ける東銀座の街に出て行った。

 ここから橋を渡って、真っ直ぐ築地の方に歩けば、これから勤める会社のビルに着く。だが時刻はまだ朝の七時。仕事が始まるまで一時間半もある。私はぶらぶらその辺りを散歩しながら、時間をつぶすことにした。


 歩道をちょっと歩くと、道路脇に一軒の喫茶店を見つけた。まだ早いのか、店内に客はまばら。若い女の店員が数人、カウンターの中で立ち働いている。私はコーヒーでも飲もうと、扉を押して中に入った。

「いらっしゃいませ」

 メイド姿の小柄なウェートレスが、にこやかに営業スマイルを見せる。私は彼女から温かいコーヒーの入ったカップをもらって、窓際の席に着いた。そして、それをちびちび舐めながら、ハローワークに通った、ここ数カ月の出来事を思い出した。


『早期退職』……聞こえはいいが、事実上のリストラだ。五十五歳になると、役員以外は皆、肩書きを外される。つまりヒラ社員になるのだ。

 これまで部下だった者が上司になる。男にとって、これほどの屈辱があるだろうか。それが嫌なら会社を辞めるしかない。


「たかが、肩書」と言うけれど、人にとっては、人生を左右する重要な資格なのだ。会社を定年退職した後、自分の名刺に『元部長』と入れる人もいると聞く。笑い話に聞こえるが、本人にとっては、大まじめ。組織に属していないという状態に、いたたまれないのだろう。

 暗い思い出に浸っていると、たちまち一時間が過ぎた。

(もう、行かなくては……)

 初日から遅刻ではサマにならない。私は重い腰を上げ、築地の方に向かった。


 ふと、まわりを見ると、いつの間にか女生徒の集団に囲まれていた。いや、囲まれていたというのは正しくない。もともと登校中の彼女たちの群れに、私が紛れ込んだということらしい。

 黒いセーラー服に身を包んだ少女たちが、笑いさざめきながら、次々と追い越して行く。なかには、私にぶつかりそうになって、あわてて避ける子もいる。

 彼女たちの幾人かにギロッとにらまれた。「なに、このオッサン邪魔だよ」と言いたげな顔だ。

 これから人生の始まる彼女たちの目には、しょぼくれたオジサンの姿など映っていないに違いない。


 気がつくと、男子生徒の姿が見当たらない。セーラーカラーに太い一本の白線を入れた高校生らしき女子生徒。中学生だろうか、白線二本の、いくぶん幼い顔をした女の子。

 この近くに、中高一貫教育の女子校でもあるのだろう。私は彼女たちの通行を妨げないように、端の方に寄った。


 その時、一人の背の高い高校生ふうの女生徒が、私の隣を追い越して行った。ショートカットの黒髪が、ピッタリ耳元に貼りついた、ボーイッシュな感じの子。襟から覗く彼女の白いうなじに、思わずハッとさせられた。

 白線一本だから、彼女は高校生だろう。その落ち着いた態度から、二年か三年の上級生だろうか。彼女は連れもなく、紺色のバッグを肩にかけ、伏し目がちに歩いて行く。

 そのほっそりとした姿は、やがて他の女子たちとともに築地の街角に姿を消した。


 新しい会社に入ったとはいえ、そのサラリーマン生活は、わずか半年しか続かない。この会社は、すでに解散が決定しているのだ。

 そのことは入社する前、社長の松田氏にはっきりと言われた。私はその清算業務をするために雇われた、期間社員なのだ。


 私は毎朝七時半、東銀座の駅に着き、いつもの喫茶店でコーヒーを舐めながら、例のボーイッシュな女生徒が通るまで、そこで時間をつぶした。その子の姿を見るのが、一種の癒しになった。

(ロリコンか、俺は……)

 多少後ろめたい気がしたが(話しかけるわけでなし、目に映るのだから、しょうがないわな。いくら高校生だからって、美人なら、誰でも気になるだろう)といくぶん開き直った。


 その少女は、いつもうつむき加減に歩いている。彼女の透き通るような白い肌は、漆黒のセーラー服によく映えていた。

 ただ、そのボーイッシュな容姿からは、女の色香が全く感じられない。十七、八歳の女子というのは『鬼も十八、番茶も出花』ということわざがあるように、一番初々しい、清涼な美しさのある年頃なのだ。

 現にまわりの女子高生たちは、私服にでも着替えたなら、若い女の華やかな姿に、一変すること請け合いだ。


 だが、彼女はいつも一人というわけではない。週、何回かは、ツインテールの小柄な子と一緒に、登校して来る。

 そばかすを散りばめたその子とは、よほど気が合うのか、いつも楽しそうに笑い合っている。その微笑ましい光景に、なんとなくホッとした気持ちになった。


 ただ毎朝眺めているうちに、私はあることに気がついた。彼女は集団で登校して来る女生徒たちの、ほぼ中央に位置しているのだが、まわりの顔ぶれがいつも同じなのだ。

 そこには、竹刀袋を担いだ、強そうな感じの子も交じっていた。「登校時間が、皆同じなのだ」と言ってしまえば、それまでなのだが……。





 

 

 









 

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