私のこと、軽蔑していないの?

「橘さん、明日の歓迎会、よろしくね」

「え?」


 篠原がふと思い出したかのように、帰り支度を始めていた美愛に声をかけた。何それ、聞いてない、と焦りそうになったが、表面上は動揺を表すことなく、篠原に向き直る。


「私はちょっと……」

「一応、橘さんの歓迎会でもあるから、できるだけ参加して欲しいな」


 篠原から親しみやすい微笑みを向けられて、拒否したかったのに言葉に詰まる。そうだ。正直そっとしておいて欲しいが、自分こそが歓迎される立場なのだ。何としてでも参加したくなかったが、先手を打たれては覆すのが難しい。

 確かに新入社員の時にも一度だけ、やむを得ず参加した。その時は極力目立たないように気をつけ、終わると同時に飛び出すよう帰った。

 会社という檻から引っ張り出された場所で、誰かといるのは怖い。


 話しかけないで。


 こっちを見ないで。


 お願いだから、私のことは無視して。


 美愛はひたすらそう願い、苦痛としか言えない時間を過ごしたのだ。それが再びあるのかと思うと、今から頭が痛くて憂鬱になる。

 それでも社会人として逃げることは出来ないのだろう、と心の中で大きな溜息を吐いてから、篠原に分かりました、とだけ返事をした。



 ***


 翌日。


 いくら嫌がっていても、時間の早さが変わるわけでもなく、あっという間に就業時間を終えた。

 急な仕事でも入って、残業にでもならないだろうか、と願っても無駄なことを考えていたが、残念ながら滞りなく業務は終わってしまった。


「橘さん、一緒に行かない?」


 デスクを片付けているところに、背後から声を掛けられ、美愛は内心で溜息を吐きながら振り向いた。声を掛けてきたのは同じチームの後輩、原西悠貴ゆうきだ。

 後輩といっても大卒で入社しているため、年齢は美愛の三歳上で、入社当時から営業職としてここにいたことを考えると、美愛の方が後輩といってもいいかもしれない。

 明るくて、少々おしゃべりなところもあるが、人の懐に上手く入って、特に年上から気に入られる才に長けている。要するに、営業向きな性格と言えるだろう。

 同じチームに配属されてすぐに、原西は美愛を気に掛けてくれ、営業事務ではないものの、篠原の指導を更に補足してくれる存在だ。男性は特に苦手な美愛だが、あまり男を感じさせない砕けた明るさに、僅かばかり救われている。


「え、あの」


 でも、出来れば、一人で向かいたい。今から考えたくもないほど苦手な場に行くのだから、それまでは静かに潜んでいたいのに。

 そう思ったものの、美愛とてそれをストレートに言葉にしていいものではないと分かっている。


「悪いが、原西は先に行ってくれるか」


 角を立てず断るにはどうすれば、と言い淀んだところに、再び背後から声が掛かって、思わず顔を顰めてしまった。

 不味かったか、と焦ったものの、基本的に表情が変わらない美愛の変化は僅かだったため、周囲には気付かれることはなかった。


「橘に少し用があるんだ」


 記憶の中では高かったはずの声が低音になってしまったことに、ようやく慣れ、考えるまでもなく誰だか分かってしまう。

 もちろん他の人に関しても、声を聞けば誰だか分かるようになってきたが、どうしてだか莉生の声だけは一際聞き分けてしまうのだ。

 しかも、用とはなんだろうか。もしかして、仕事を言いつけられて、歓迎会に出なくてもいいという状況になるのではないか。

 そう期待し、美愛はゆっくりと声のした方を向いた。視線を合わせるように上げたつもりが、そこはまだ首だった。顎にすら到達しなかった。

 背の高さを認識したつもりでいても、まだ一度で照準を合わせることは難しいようだ、と更に上を見る。 少し首が痛いかも、と思う程上げて、ようやく莉生の視線と絡んだ。

 目が合った瞬間、上から見下ろされた状態で右の眉だけ器用に上げられると、用とは仕事のミスでもあったのか、と美愛の肩がギクリと震える。


「じゃあ、先に行ってますね。橘さん、また後で」


 美愛がその言葉に返事をする前に、原西はあっという間に去っていき、気付けば周りには莉生と美愛の二人になっていた。


「美愛」

「橘、です」


 二重の大きな瞳に見つめられ、普段の仕事では冷静を保てていた美愛の頭の中が真っ白になり始める。それでも、名前を呼ばれて訂正をしたのは、反射のようなものだった。


「美愛の苗字は橘だったんだな」

「え?」


 何を言っているのだろう、と不思議そうに首を傾げた美愛を見て、莉生の中で昔の幼い美愛の姿と重なった。きょとんとした表情でこうして首を傾げる様子が、昔から何とも言えない疼きを莉生の中に生む。


「昔、『みぃ』と『みあ』しか聞いていなかったから」

「そう、だった……?」


 美愛自身は名乗ったつもりでいたが、確かに記憶にある限り、莉生からは『みぃ』としか呼ばれていない。

 子どもの頃の二人にとって、名前は愛称で充分だった。学校が一緒だったわけでもない。お互いの家すら知らなかった。

 それどころか、毎日のように公園で遊んでいたにも関わらず、お互いのことを何も知らなかったのだ。

 そのことに気付いたのは、突然会えなくなってからだった。


「いろいろ言いたいことも聞きたいこともあるが、とりあえず遅れるといけないから、歩きながら話そうか」


 突然の話に、何が何だか分からない美愛が、眼鏡の奥に隠れた大きな目をぱちりと瞬かせたその隙に、莉生はデスクに乗っていた美愛の鞄を手に取っていた。

 美愛が呆けていることなどお構いなしに、長い足を惜しみなく動かして歩いていく莉生を慌てて追いかける。


「あの、課長!」

「今はもうプライベートの時間だから、課長じゃない」

「まだ会社です!」

「じゃあ、会社から出たら、その呼び方も敬語もやめろよ?」


 半歩後ろを小走りに着いて行っていた美愛は、上手く言質を取られたことに気付いて、思わず眉間に皺を寄せ、口をツンと尖らせた。

 ただし、よく観察してようやく分かるかも、という程の些細な変化ではあるが。


「課長は課長で、いっ」


 そう言い返したものの、美愛の言葉を聞いて、突然止まった莉生の背中に鼻をぶつけ、目に涙が浮かぶ。


「確かにそうだ。でも、俺は仕事とプライベートは分ける。仕事中でもないのに、課長と呼ばれるのは疲れるだろう? 今は、お前も橘じゃなく美愛だ。俺の名前は?」

「……莉生くん」

「それでいい」


 満足そうに頷いて、莉生はまた颯爽と歩き始めた。 慌てて着いて行きながら、頭の中を整理する。

 全員に勤務時間外は『莉生』と呼ばせるつもりなのか。アメリカ仕様のフランクな職場でも目指すのだろうか、と自分の感覚との違いを感じる。


 この時の美愛が、莉生の狡賢い誘導に乗らず、『椎名さん』と呼ぶ選択肢を選べていたら、また違ったかもしれない。

 その上、他の課員から『課長』と呼ばれることを享受する莉生を見て、謀られたと気付くのは、この後の歓迎会の席であった。


 会社を出ると、比較的暖かかった日中とは打って変わり、ヒンヤリとした空気が身体を包む。細身の美愛は寒さに弱く、長年、我慢をするのが当たり前になっているとはいえ、辛いものがある。

 少し前を歩いていた莉生は、いつの間にか隣を歩いていた。


「あっ、鞄……!」


 動揺のあまり、莉生に自分の鞄を持たせたままだったと、慌てて受け取ろうとして、敢え無く失敗した。

 美愛の右手と莉生の左手が、まるでS極とN極であるかのように、とてもスマートに反対の手に持ち変えられてしまったのだ。


 どうして、こんなことをするのだろうか。もう何年も会っていなかった。

 幼い頃、数年を一緒に遊んでいただけの関係だ。それどころか、美愛は何も言えずに莉生の前から姿を消した恩知らずなのに。

 莉生だって、美愛のことを嫌いになったに違いないと思っていた。

 憎まれていても、軽蔑されていても、おかしくないはず。それなのに、昔と同じように扱われていると感じてしまい、どうにも思考と感情が追いつかない。


『莉生くん』

『助けて』

『会いたいよ』

『もう、嫌なの』


 これまでの人生で、何度、心の中で叫んだだろう。


「美愛は……どうして、急に俺と会わなくなったんだ? もしかして、俺は気付かないうちに、何か嫌な思いをさせてしまったのか?」


 隣の上の方から、ぼそりと小さな声が降ってきた。


「違う!……違うの。莉生くんは、私に嫌なことなんて、何一つしてない。あれは、引越しを、したから……」

「引越し」

「……うん。急、だったの。母親がね、急に亡くなったから」


 俯いて話していた美愛にも、莉生が息を飲む音が聞こえた。こうして、あの人が死んだことを人に話すのは初めてかもしれない。


「……辛いことを思い出させてごめん。じゃあ、父親と」

「父親なんて、最初からいなかった」


 莉生の言葉を最後まで聞かずに放たれた美愛の声は、普段の淡々としたもの以上に、冷たく硬質なものだった。


「そう、だったのか」


 莉生からヒシヒシと戸惑いを感じ、慌てて見上げて首を振った。結んだ黒髪が頬に当たることも厭わず、とにかく優しい莉生に誤解されることだけは避けたかったのだ。


「父親がいないことなんて、大した問題じゃなかったから!」


 いや、本当は大した問題だった。美愛にとっての最初の問題が、父親であるのだから。

 どれほど怨んだか分からない。

 寒さに凍え、暑さで溶けてなくなりそうになり、空腹が満たされることもない。ただ美愛が父親に似ているという理由だけで、母親からは拒絶と嫌悪という狂気を向けられ続けた。


 美愛。


 美しい愛。


 どこにそんな幻想を抱いて付けたのだろうか。名前の漢字を初めて知った時、思わず笑ってしまった。


 愛など、一度だって向けられたことがないのに。


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