絶対、弱さを見せちゃダメ
それ以上、莉生は踏み込んで来るつもりはないのか、暫しの無言の後、世間話を始めた莉生に、美愛はホッと息を吐いた。
莉生に自分ごときのことで、気を遣わせたくなかった。
これまで、誰にも触れさせなかった過去。昔の美愛を知っている時点で、避けることはできない話題だっただろうとは思うが、もうこれ以上は話したくなかった。
『俺のことを呼べよ? いつでも、どこでも、絶対に駆けつけてやるから』
たった一つの、とてもとても大事な約束。
実際に助けを求めたことはないし、引っ越してしまった後は、物理的に無理だと分かっていた。分かっていたが、心の中で何度も求めてしまったのは自分の弱さ故だ。
莉生には関係のないことであり、絶対に知られてはならない。優しい莉生がそのことを知れば、何かしら思わせてしまうだろうから。
(絶対、弱さを見せちゃダメ)
莉生の当たり障りのない話を聞きながら、心の鍵を今まで以上に厳重にかけた。
*
「乾杯」
課長である莉生の簡単な挨拶の後、端的な言葉で宴は開始した。
莉生と美愛が居酒屋に着いた時には、課員全員が揃っており、当然のように隣同士に座らされてしまった。しかも、有り難くないことに、ほぼ中央に位置する。
美愛は隅の隅の隅の方で良かったのに、配置としても、目立つ莉生の隣だということも、最も避けたかったところだ。
それでも、美愛の表情筋が仕事をすることはなく、涼しい顔のまま、周囲の人間とグラスを合わせた。
「美愛」
求められるまま何人かとの乾杯を終えた莉生が、不意に美愛の耳元に口を寄せて呟いた。
(な、何!?)
耳に感じた莉生の微かな息と脳に直接響くような低い声は、美愛の背筋に軽い痺れを
それに驚いて、思わず身体を引いてしまった美愛は、莉生と反対隣に座っていた篠原にぶつかってしまった。
「す、すみません」
「大丈夫? 椎名に何かされた?」
篠原は相変わらず落ち着いていて、突然のことにも優しい言葉を掛けてくれる。莉生から何かされることを想定した言葉だったが、耳元で声を出された衝撃でパニックになっていた美愛は気付くことはなかった。
「いえ、何でもな……どうして笑っているのですか?」
ふぅっと小さく息を吐いて、ざわめいた心を鎮めた美愛が返事をしたところで、篠原が笑っていることに気付いた。
ぶつかったのが、そんなにもおもしかったのだろうか、と美愛は首を傾げるが分かるはずもない。篠原は、美愛の視界の外で、おもしろくなさそうに篠原を睨んでいる莉生をおもしろがっているのだから。
「何でもないよ。橘さんは、椎名と知り合いだったんだってね」
「あ……はい」
どこまでか分からないが、美愛と莉生のことを知っている人がいるのか、と憂鬱になる。莉生が話したのだろうが、美愛の事情を詳しく知らなかった莉生が篠原に話せる内容は、大したものではないはずだ。
「小さい頃の橘さんも可愛かっただろうね」
にこりと微笑んだ篠原の言葉に、身構える隙も与えられなかった美愛はピシリと固まる。
(あれ、篠原さんってこういうことを軽く言える人?)
美愛は戸惑ったものの、柔和な印象の篠原が言う台詞には、軽薄な感じは受けなかった。
普通の女の子なら喜んだだろうが、美愛は『可愛い』と言われることに抵抗があった。なんせ、これまで、美愛に向けられる言葉の中には無かったものだ。
『可愛い』という言葉は美愛には無縁のものだ。お世辞だと分かっていても、自分を形容するものとしては、やはり受け入れ難い。
「篠原」
今度は莉生の方から低い声が飛ぶ。
「いいじゃないか、少しくらい。心が狭いと嫌われるよ」
クスクスと笑う篠原に、莉生は睨みを利かせつつも溜息を吐いた。
「それより、お前、全然食べてない。相変わらず小さいし。ほら、食べろよ」
莉生はサッと表情を戻したと思ったら、美愛の手元を見て、てきぱきと料理を皿に乗せ始めた。まるで小さい子にするように世話を焼く莉生に、篠原は目を瞠る。
世話を焼かれることも世話を焼くことも嫌がり、どちらかと言えば女を遠ざける傾向にある莉生だ。そんな男が女に甲斐甲斐しく振る舞うなど、想像したこともなかったし、たった今目の前にしていても俄に信じられない。
それほどまでに、莉生と美愛の過ごした時間は自然なものであり、これが当たり前の関係だったのだろう。そんな推察を頭の中でしている篠原の隣で、美愛は茫然と目の前に盛りつけられていく料理を見ていた。
「り、課長。こんなにも食べられません」
「大きくなれ?」
「無理です」
本当に大きくなれる訳ではないと分かっていながらふざけて言ったであろう莉生の言葉に、美愛は冷静に返事をする。そんな様子に莉生はククっと笑いながら、更に手当り次第に取っていった。お蔭で、料理は皿から溢れそうになっている。
美愛は小さい。百五十センチ有るか無いか。
美愛としてはできれば、有ると言い張りたいのだが、どこに居ても埋もれてしまう美愛の身長が低いことに変わりはない。
背の高い莉生とは四十センチ近く差があることになる。それこそ、大人と子どものように見えてしまうだろう。首が痛くなって当然だ。
それにしても、と美愛は目の前にある山盛りの料理を見下ろす。こんなにたくさんの料理を出されたのは、生まれて初めてだ。
唐揚げがある。お肉だ、いつぶりだろう。サラダまでお洒落。ただの生野菜だけじゃない。ドレッシングなんて物もかかっている。
思わずごくりと唾を飲み込んでしまったが、本当に食べていいのだろうか、と不安になり、莉生の方へ視線を向けた。
「どうした?」
「これは私の分、ですか?」
「は?」
(もしかして、莉生くんと篠原さんの分が一緒になっているのかも。だって、こんなの一人分には思えないもの)
「……美愛の分だけど? というか、お代わりもするんだぞ?」
「え?」
「は?」
最早、成り立たなくなった会話に、篠原が声を上げて笑い始めた。
「橘さんは少食なんだね。でも、今日は椎名が食べさせたいみたいだから、頑張って食べてみたら?」
「う……はい、努力します」
ようやく自分の分だけが取り分けられたのだ、と理解し、莉生の優しさにも気付いた美愛は、こくりと頷いて、箸を持った。
大事に食べなくては。これだけ食べたら、当分栄養のことは考えなくていい。
そう思えば、出席したくなかった歓迎会も無駄ではなかった、と美愛は心の中で頷いた。
(これ、なんだろう……)
何度思ったか分からない言葉が、実は口から零れて出ていて、それを聞く莉生がどんな顔をしていたかなど、夢中で食べていた美愛は知らない。
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