小さく、儚い幼馴染み
莉生は淀みなくキーボードを叩き続ける美愛を見て、昔を思い起こしていた。
小さな、小さな、美愛。どうしてこんなにも小さく、儚げなんだろうか、と幼いながらも思っていた。
***
莉生が八歳の頃。年の瀬も近い、とても寒い日だった。
友達と遊ぶ予定が急に遊べなくなり、何もせずに家に帰ることがおもしろくなくて、一人でも遊んでやろう、と意気込んで公園に入った。
暫くブランコに乗って、高さへの限界に挑戦し、その次に、最近できるようになった逆上がりの連続記録の更新にも挑む。とにかく負けず嫌いの莉生は、自分に負けることも嫌だった。
でも、流石に暗くなってきてしまっては、帰らざるを得ない。
楽しかったのか、楽しくなかったのか分からない時間を断ち切り、ようやく帰ろうとした、その時。
ベンチの後ろで何かが動いたのが見えた。犬か、猫か……はたまた、不審者か。もし、動物の赤ちゃんであれば、こんな寒い中に放置するのは後味悪い。連れ帰ることはできないけれど、できることはあるかもしれない。
そう思った莉生は、不審者であれば、全力で逃げようとシミュレーションしながら、ゆっくりと近づいた。
覗き込んだそこにいたのは、犬猫ではなく、膝を抱えて、蹲って小さくなっていた女の子──当時三歳の美愛だ。
『こんな所で、何してるの?』
『……まってるの』
『お母さんを?』
『うん』
初めて聞いた美愛の声は、高くて鈴の音のような可愛らしいものだった。
『どうして、隠れてるの?』
『かくれてないよ?』
きょとんと首を傾げた美愛に、莉生まで首を傾げたくなる。どう考えても、どこからも見えないような場所だ。
ベンチと植木の間。そこはかくれんぼで、人気の場所なのだから。今、考えれば、なかなか安易な隠れ場所だが、当時は人気スポットだった。
そんなところで、母親を待つ意味が莉生には理解できない。
その疑問を投げかける前に、二人の間にくぅと小さな音が鳴った。
『……お腹、減ってるの?』
『うん』
『これ、食べる?』
ズボンのポケットに入れていたのは、友達と食べようと思っていた飴とキャラメル。
『これ、なに?』
『何って、お菓子』
『くれるの?』
『うん、いいよ』
はい、と言って、莉生は手を伸ばして、美愛の小さな手の中に握らせる。 一瞬触れた美愛の手は、とても冷たかった。
手の中に置かれた二つのお菓子を、美愛は物珍しそうに眺め、やがて莉生に顔を向けて、微かに微笑んだ。
『ありがと、にぃたん』
『莉生。椎名莉生。お前は?』
『みぃ』
『猫……? まあ、いっか。俺はもう帰るけど、みぃのお母さんも、もう来る? 一人で平気?』
『うん、へいき』
三歳の子どもが言う【平気】が、如何に曖昧なものか。本当に信じてもいいものか、八歳の莉生には判断などできなかった。
そうか、じゃあね、と簡単に声を掛けて、それよりも自分の母親がそろそろ怒りそうだ、と早々に立ち去った。
そこに残された美愛が、手の中でころころと転がすように飴とキャラメルを眺めて、ぎゅうっと握り締め、大事にポケットにしまったのを、莉生は知らない。
いつも、不思議そうにしながらも、貰ったお菓子を嬉しそうに口にする美愛を、莉生もまた不思議な気持ちで見ていた。
何か、他の子と美愛は違う。違う気はするのに、それが何であるかは分からない。
いつか家に連れ帰って、しっかりご飯も食べさせようと思っていたが、結局それが実現することはなかった。
***
「椎名、飲みに行こう」
懐かしい過去を振り返っていた莉生は、篠原が声を掛けたことで勤務時間が過ぎていたことに気付いた。
「ああ」
「相変わらず、すごい集中力だね」
「いや」
まさか、美愛のことを考えていたとは、このタイミングでは言えない。
どうやら、傍目に見ると仕事に集中していたらしいし、目の前にあるパソコンとその隣にある書類は、いい具合に仕事が片付いていたから、良しとすることにした。
その出来を念のため確認して、自分の無意識下での仕事に、少々恐ろしくもなった莉生である。
デスク周りを片付け、先に準備を整えていた篠原と共に会社を出て、久しぶりに日本にいた頃の二人の行きつけだったバーに行くことにした。
莉生と篠原は同期入社で、お互い初年度から営業部に所属していたこともあって、自然と一緒に居ることが多くなった。
友人であり、ライバルでもあるが、莉生がニューヨーク支社に転勤し、今回、本社の課長職に昇進したことで、莉生が一歩先に進んでしまったことになる。
篠原はそのことについて、特にイラついたわけでも、莉生に敵意を向けることもない。お人好しで、穏やかな雰囲気を持つ篠原は面倒見がよく、仕事はできるが、どちらかと言うとフォローに長けている。
かと言って、莉生が出世欲が強く、ガツガツと仕事をしてきた訳では無い。能力が飛び抜けて高く、難なくいくつもの大口の顧客を獲得してきた実績と、アメリカでの経験、そして、リーダーシップの素質を認められての出世だ。
この二人が並ぶと、目立つ。大変、目立つのだ。篠原は一見地味に見えるが、その実、容姿は整っており、莉生よりも少し背は低いものの、男性の平均よりは高い。
大きな目は少し垂れていて、深い焦茶色はよく見ると惹き込まれそうになるし、薄い唇は常に柔らかく弧を描いている。
細身である為、時に頼りなさそうに見える、というのが本人にとっては、少しばかり面白くないらしい。ただ、第三者から見れば、柔和な雰囲気を持ち、親しみやすいイケメン、と言われる。
反対に、莉生の外見の良さは言わずもがな、硬派な雰囲気が時に高嶺の花のように思われる。
程よい筋肉と、程よい細身。硬派と柔和。
タイプの異なるいい男だ。そんな二人を見て、ほぅっと溜息が出る女性もしばしば見られる。腐女子、という人種には美味しいおかずらしいが、当の二人が知る由もない。
「ひとまず、おかえり」
カチャンと高く澄んだ音をさせて、グラスを合わせる。
「ただいま。これから、またよろしくな」
「あんまりこき使わないでほしいな」
「それは無理な話だな。篠原はこっちが頼んだこと以上の仕事してくれるしな」
クツクツと二人で笑いながら、これからのハリのある仕事に思いを馳せる。
暫く、近況などを報告し合っていたが、ふと沈黙が落ちた瞬間、篠原がポツリと呟いた。
「橘さんと知り合いなんだね」
「あぁ……まぁ、小さい頃にな。でも、あいつは覚えてないのかもしれない。それか、実は嫌われてたか」
「え、そうなの? でも、彼女、椎名のこと見て、『莉生くん』って言ってたけど」
「じゃあ、覚えてる上で、嫌われてたのか」
「何かあった?」
「何かあったわけじゃない、と思うけどな。昔は懐かれてたと思うし。でも、今日誘ったけど、素っ気なく断られた」
「予定あったんじゃないの?」
「それにしてたって……いや、まぁいいよ」
莉生にとっては楽しかった思い出も、美愛にとっては嫌なものだったのかもしれない。だとしたら、あまり関わって欲しくはないだろう。
でも、と莉生は思う。
昔、莉生に懐いていたことは確かだ。それなのに、あんなふうに莉生を拒否するだろうか。隠れているところを見つけ出し、遊んでやるとちょろちょろと着いてきて、楽しそうだったし、帰り際は寂しそうにしてくれていた。
それに、莉生には何より気になったことがある。
実は、フロアに入ってすぐには、美愛だと確信が持てなかった。自信はなかったものの、考える前に名前を口にしていたのだ。
その結果、美愛が目を見開いて固まったことと、当時のなんとなくの面影を見て、美愛だと確信できた。できたが、あまりの変わりように驚いたのが率直な感想だ。
「橘さんは、もともと誰に誘われても乗らないって話を聞いたよ。彼氏でもいるんじゃない?」
「そうか」
外見の変化をどう取ればいいのか考え込んでいた莉生は、篠原が繋げた言葉に短く応える。
経理の橘と言えば、仕事ができるガードの固い女の子。高卒で入った希少な子。そして、ものすごく地味で、物静かで、若さの割に妙に落ち着きがある子だということも知られている。
黒縁の眼鏡や分厚い前髪に隠された顔と地味で無難な服装で、実際の美愛の外見は分かりにくい。
だが、小さく、華奢な体型、たまに見せる儚げな表情など、庇護欲を掻き立てられる可愛い子だということは、知る人ぞ知る情報だ。
本人は気付いていないが、美愛は社内で意外と有名であった。プライベートが謎だというのも、興味を引く。
莉生は美愛に彼氏がいるのでは、という篠原の言葉を何でもないという態度でもって返事をした。
その裏に少しばかり動揺があったことに、篠原は、おや、と思う。ポーカーフェイスが上手い莉生の感情を読むのは難しい。
今だって、平然とウィスキーを口に運んでいるが、付き合いが長く、人の感情の機微に聡い篠原は引っ掛かりを覚えたのだ。
「まあ、再会したばかりなんだから。時間はあるんだし、様子を見たら?」
どうやら、面白いことが起こる予感がする、などと篠原がほくそ笑んだことに、美愛に意識をやっていた莉生が気付く事は無かった。
部下として割り切って仕事をする分には問題ない。その辺り、もともと莉生はキッパリ分ける方だ。公私混同など、以ての外。
今日は思わず就業時間内に声をかけてしまったが、自分らしくなかったのだ。では、距離を図るのは時間外ということになる。
まだ美愛の考えていることが分からないため、莉生も幼馴染としての振る舞いを決め兼ねる。
「とりあえず、仕事の様子を見ることからか」
篠原の言う通り、時間はあるのだ。焦る必要はない。突っぱねるように距離を取った美愛の態度の意味を、じっくり突き詰めてやろうではないか。
腕のいい営業マンの手腕を舐めるなよ、とニヤリと笑った莉生の顔を、もし美愛が見ていたら寒気を感じていたことだろう。
いや、実際、美愛は暖かくはない狭いアパートの部屋で、ゾクリとしたのを感じ、風邪かな、それは困る。と、一人思っていた。
***
翌日からも、美愛はこれまでの勤務態度を崩すことなく、淡々と、黙々と仕事を捌いていた。
数日もすれば、そんな美愛の様子に、噂の橘はどんな人間なのか、と興味を持っていた周囲も、その実力を認めざるを得なかった。
地味で静かなくせに、どうして目立つのだろう、と中には面白く思わない者がいるのも事実だ。
でも、それは単なる僻みで、実に馬鹿馬鹿しいものだと多くの者が分かっている。
美愛自身に目立っているつもりなど、これっぽっちもないのだが。
莉生はというと、特に美愛に必要以上に声をかけることなく、他の社員と同様の接し方を貫いている。
正直、気にはなる。昔の美愛と今の美愛は、印象も、それどころか外見すら全然違うのだから。
何が彼女をこんなふうに変えたのか。莉生にはまだ見当を付けることすらできない。
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