莉生くんだけが、大切な人だったの

「みぃ?」

「え……?」


 背後から聞こえた、腹の底に響くほどの低くていい声が、美愛ですら忘れかけていた単語を発した。


(まさか。そんなはずない)


 恐る恐る振り返った美愛の前には、打ち合わせをしながら歩いてきたであろう背の高い男性が、目を見開いて立っていた。


「みぃ、だよな?」

「……莉生りおくん」


 最後に見た時とは全然違う。こんなにも背は高くなかったし、こんなにも男らしくて凛々しい雰囲気ではなかった。声だって、声変わりの前で、どちらかというと高めだったはず。

 美愛は昔と今の違いを次から次へと思い浮かべて、それと同時に、昔と今の共通点を探した。


「椎名、時間だ」


 莉生の隣に立っていた男性が、莉生の肩に手を置いて先を促す。そうされるまで、莉生と美愛は見つめ合ったまま、時間を止めてしまっていた。


 二人は同時に我に返り、莉生は課長のデスクへと歩き始める。隣を通り過ぎる時、爽やかな香りが漂い、また一つ昔と違う莉生を見つけた、と美愛は心の中で呟いた。


 その後、為された挨拶によって、椎名莉生が異動してきた新課長で間違いなく、更には、昨年度までニューヨーク支社に勤務していたというエリートぶりも明らかになった。


 美愛達が務めている『Rainoライノー(株)』はIT系企業で、都内に自社ビルを構え、全国各地、海外にまで支社を有する大手である。

 社名の由来は、創業者が『雨野』であり、海外でも受け入れてもらい易いようにと付けられたらしい。

 そこで将来を期待されているという莉生は相当優秀であり、それは若くして営業一課の課長に就任したことでも明らかだ。


 莉生は美愛の五歳年上で、幼い頃を共に過ごした幼馴染だった。だった、というのは、そのままの意味だ。莉生には幼馴染だとは思われていない、と美愛は考えている。


 ただ、美愛にとっては唯一の友達だった。


 大切な人だった。


 本当ならずっと離れたくないと思っていた。


 離れた後だって、会いたくて会いたくて仕方がなかった。それなのに。


 唐突に現れた莉生にぐちゃぐちゃと意識が囚われていたが、周囲の慌ただしさに現実に引き戻される。


 新年度、初日は営業にとって大切なスタートだ。挨拶が終わると同時に、ほとんどの人間が社外へと出ていく。その中で残るのは、営業事務と上役くらいなものだろう。

 事務仕事の説明は既に受けている美愛だが、各クライアントの詳細は完璧とは言えず、もし電話などの対応が必要となった時に、適切に応じられるかは不安だ。

 美愛は、部下を連れて出て行った篠原から頼まれた仕事をしながらも、不安が漏れ出ないよう注意した。


 美愛の表情はあまり変わらないものの、仕事捌きが早く適切であるため、社内での信頼は厚い。それは、幸か不幸か、人付き合いの悪さをカバーしても余り有るものだ。

 美愛としては一人でいたいのだから、『不幸』なことかもしれないが、仕事を失うわけにはいかないため、やむを得ない。

 無表情、無感情である冷えきった自分を、人は何故信頼できるのか理解に苦しむ。

 美愛は人を信じることが出来ない。人はいつか、必ず裏切るものだと思っているから。


 それにしても、と大きな窓の前に、課を見渡せるように配置されたデスクを見遣る。

 窓の外に見えるのはよく澄んだ青空と、それを際立たせるような真っ白な雲。どこまでも続く真っ青な空もいいものだが、雲がいろいろな形をとって浮かぶ様は不思議と心が洗われる。

 そう感じるのは自分の心が真っ黒だからだ、と美愛は思い込んでいるのだが。


 そんな綺麗な空を背景に、莉生は新しく自分の物となったデスクに着いて、パソコンを触りながら、器用に電話をしている。美愛のところまでハッキリと声は届かないが、時々聞こえる声から英語だと分かった。

 勉強しかやることのなかった美愛も英語は話せるが、あくまでも日常会話程度であって、ビジネス英語には程遠い。


 美愛は手元の書類とパソコンの間に視線を行き来させながら、時折、莉生の方を盗み見た。


 莉生は幼い頃、かわいい女の子のような外見の、男らしい内面を持つ子どもだった。それが、今では外見まで男らしくなってしまっている。




 ***


『みぃ、またこんな所にいた』

『りおくん』

『どうして、みぃはいつも変なところに隠れてるの? ほら、これ食べる?』


 莉生は美愛がどこにいても、すぐに見つけ出してしまい、必ずお菓子を持ってきては食べさせてくれた。


『ありがとう』

『みぃは小さいから。ちゃんと食べてる?』

『たべてるよ?』


 首を傾げる美愛の頭をぽんっと叩き、押し付けるようにお菓子を渡す。 それはいつも美愛が食べたことのないような物ばかりだった。

 そもそも、美愛が食べる物にお菓子は含まれておらず、後にも先にも、お菓子は莉生から与えられた物だけだ。

 それが嬉しくて仕方がなかった。お菓子が食べられることももちろん嬉しかったが、何より莉生が美愛のことを気にかけてくれることが、本当に嬉しかったのだ。


 莉生だけだったから。


 女の子みたいに可愛いのに、ニカッと笑って、少し雑に頭を撫でてくれる仕草が男の子なんだと感じされられたし、ぎゅっと握ってくれた手は幼いながらも逞しかった。


 懐かしい。でも、もうあの頃には戻れないし、戻れたとしても、また引き離されてしまうのだと思うと、ギリギリと胸が締め付けられる。

 身体も心も引き裂かれそうになるほどの苦しさと悲しさは、もう二度と味わいたくない。



 ***


「橘」


 その声に美愛は我に返り、務めて冷静に見えるように気をつけて、呼ばれた先へと向かう。莉生が低い声で美愛を呼んだのだ。

 初めて聞く、莉生の『橘』という呼びかけに、美愛は胸の中がザワめいた気がした。


「なんでしょうか」

「これを今日中にまとめられるか?」


 莉生が座ったままの姿勢で数枚の書類を差し出したため、美愛は一歩前に出て、それを受け取った。ペラペラと捲り、これなら大丈夫だと判断した美愛は了承の意を示して、自席へ戻ろうとした。


「みぃ」

「橘です。なんでしょうか?」

「今日、仕事終わったら、飯行くぞ」

「それに関しては、了承致しかねます。では」


 頭を下げてその場を立ち去る美愛を、莉生は目を細めて見ていた。綺麗な二重の目は、普段は優しいと印象づけるのに、細められるとその途端、獲物を狩る野生動物を思わせるような鋭さを持つ。

 百九十センチ近い長身で、仕立てのいいスーツの上からでも分かる無駄のない筋肉質な身体。短く硬質な黒髪、低音の声、少し太めに整えられた眉。測ったように配置された整った顔。

 そこに仕事ができるところが揃えば、隙のない男と言われても不思議ではない。


 そんな男の放つ剣呑な視線に、美愛は気付かないまま、ふぅっと息を吐いて席に座った。

 硬い声で拒絶したものの、仕事中に不意打ちで誘われたことに、内心では飛び上り、バクバクと主張し始めてしまった煩い心臓を落ち着かせることに必死だ。

 どんなことにも、あまり反応しなくなっていた心臓が、ここはまだ動いているのだ、と訴えているようで、鬱陶しいことこの上ない。


(みぃって呼ばないでほしい。確かに会いたかった。会いたかったけど、遅いよ……なんで、今更なの?)


 周囲に気付かれないよう細心の注意を払って、深呼吸をし、気持ちを切り替える。

 ひとまず、呼ばれることがない限り、莉生のことは見ないことにしようと心に決め、早速頼まれた仕事に取り掛かった。


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