憂鬱な異動
「橘さん、今夜飲みに行かない?」
朝、美愛が出勤するなり、先輩である小森
まだ自席にもたどり着いていない段階で声を掛けてきたということは、美愛のことを待ち構えていたのだろう、と想像するのは容易い。だが、美愛の返事は決まっている。
「すみません。今日はちょっと」
「そっか。橘さんのところは、本当にご家族が厳しいのね。もういい大人なんだから、自由にさせてもらえばいいのに」
「そうですね。せっかく誘っていただいたのに、すみません」
この会話は、最早定型文と化している。
本当は、今日『は』ではなく、今日『も』なのに、そこを指摘しない小森が優しい人だということは、美愛だって遠の昔に気付いている。
断っても断っても、何度もこうして誘ってもらえることは有難いことだと、ちゃんと理解している。
普通なら、付き合いが悪いと人は遠のくものだと、美愛は知っているから。
それに、美愛は嘘をついている。いや、正確に言うと勘違いを訂正しないままにしている。
一人暮らしの美愛に家族からの干渉はないし、もちろん予定もない。一度も誘いに乗ったことがないことは、いつも心苦しいとは思うが、その分、人を裏切る行為であり、重たい罪だと認識している。
だから、そんな自分に友人ができないのは自業自得だし、それは美愛自身が望んでいることであって、この状況で満足している。
いや、寧ろ、こうでなければならない、と思っているのだ。
美愛にとって、親しい人間は作ってはいけないものだから。
***
四月一日。
今日からいよいよ営業課での勤務となる。
引き継ぎで何度か足を運んではいたが、やはり本格的に仕事をするのだと思うと、緊張で心身ともに引き締まる。
会社に入ると、周囲もどことなくソワソワしたような雰囲気を肌で感じた。異動した者もそうでない者も、新規採用された者も、これからの日々を思い浮かべて、不安と期待で落ち着かないのだろう。
美愛にも不安はあるが、期待などを抱くことはない。
新しい人間関係を楽しみに思うことはないし、仕事内容にしても熱望していた部署に異動したわけでもなく、何を期待すればいいのか分からない。
ただ一つ、望むことは、淡々と静かに生きて、ひっそりと死を迎えることだけ。
美愛自身、自分には欠けているところがあると、なんとなく自覚はしているが、それが何であるかを知ることはできないのだから、結局はそんな自分を受け入れる他ない。
ひとまず仕事は頑張るから、あれこれプライベートを詮索されたり、興味を持たれたりしませんように、と願いながら、営業一課のフロアへ足を踏み入れた。
「おはようございます」
指定されている席へ行くと、既に、グループリーダーの篠原
「橘さん、おはよう。今日からよろしくね」
「よろしくお願いします」
篠原は一瞬パソコンから目を離して微笑んだだけで、キーボードの上で軽やかに滑る手を止めることはなく、動かし続けている。美愛の中で、端的な挨拶で終わらせてくれた篠原の好感度がグンと上がった。
人によっては、その態度を冷たいとか失礼だとか取る人もいるだろうが、美愛にとってはこちらの態度の方が有難い。
異動した当日では、誰からの指示もなく、すぐに取り掛かれる仕事はないため、雑然としたデスク周りを使いやすいように整える。
それも物が少ないため、あっという間に終わり、早めに出勤していた美愛はかなり時間が余ってしまった。
どうしようか、と逡巡したものの、今ならそれほど目立たないだろうと判断して、課内のデスクを拭いて回ることにした。
もちろん、人の物を勝手に見たり触ったりしないように行うが、念のため篠原の許可を取ることも忘れない。
そうして、時間を潰しているうちに、社員が続々と出勤し始めたため、一通り拭き終わったところで素早く片付けて、自席へと戻った。
ありがとう、と篠原の方から小さな声が聞こえたため、いえ、と一言だけ返事をする。この人がグループリーダーなら悪くないかもしれない、と思うと、美愛の不安は僅かに解消された。
「そういえば」
「どうかされたんですか?」
「今日から来る新しい課長は、」
美愛は篠原の続きの言葉を待っていたが、課内がざわついたことで止まってしまった。
課長も新しく来る人なのか、知らなかった、と直属の上司の話にすら無関心な美愛は、篠原の話をこちらから再開させるつもりはない。
始業時間も近づき、社員もほぼ揃った。
あちらこちらで雑談が続いていて、若干騒がしいが、初日から怒号が飛び交うような部署ではなくてよかった、と美愛は肩の力を少しだけ抜く。
そろそろ新年度の挨拶が始まる。社長の長くて有難い話をテレビモニターを通して聞き、部長に課長に、と挨拶は続くのが毎年のお決まりだ。自分も異動してきたのだから、軽い挨拶くらいはしなくていけないかもしれない。
そんな憂鬱を抱えながら、分厚い前髪が乱れていないか、右手で軽く撫でて確認する。
美愛本来の姿を隠すための武器。
長くて重たい前髪、黒縁で大きめの眼鏡、そして、最も大切なカラーコンタクトレンズ。
こんな気持ち悪い容姿は隠すべきであって、誰かに晒していいものではない。
さっさと挨拶を済ませて、仕事に取り掛かってしまいたい、と小さく溜息を吐いた時、近くにいた女性社員がワッと声を上げたため、美愛の小さな身体が飛び上った。
「本当に戻ってきたんだ! ラッキーじゃない?」
「ほんと、ほんと。椎名さん、かっこいいし、仕事できるし、優しいらしいし。将来も期待されてて、いいこと尽くしっていうの?」
椎名さん、というのが新しく着任する課長なのか、とどこかぼんやり聞いていた。
そう。ぼんやりし過ぎていて、件の椎名が背後まで来ていることに、美愛は全く気付いていなかった。
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