錆色
私には、何もない
忙しいにも程がある、と嘆息しそうになるのを寸でのところで堪えた。
時計は既に二十一時を回っているのに、まだ予定分が終わっていない。それもこれも、年度末であること。そして、なにより、突然の異動を言い渡されたせいである。
就職以来、経理課に所属していたわけだが、二週間後に営業一課へ営業事務として異動が決まったのだ。
後任に引き継ぎをしなくてはいけないし、営業課での引き継ぎもあると聞いている。それでなくとも、年度末は忙しいというのに。
ペラッと紙を捲ったと同時に、くうっと小さな腹の虫が鳴いた。昼食におにぎりを食べたきりだった、と思い出したが、普段から夕飯は食べたり食べなかったりだ。今日に限ったことではないか、と無視することにした。
こんな時間になっても、美愛の向かいでは先輩が仕事をしているし、一つ開けた隣の席でも後輩が仕事をしている。皆が忙しいのだから、自分だけが、だなんて思わない。
仕事が与えられていることは有難い。ここに存在してもいいのだという理由が与えられているということだから。
高卒の美愛がこの会社に就職できたのは、実に運が良かった。
通っていた高校でお世話になった教師に、ある会社から誰か推薦できる生徒はいないかと、内々に声が掛かり、その矛先が美愛に向いたのだ。
こんな大きな企業が、何故、というのが最初に浮かんだ疑問だったが、すぐにそれは納得することになった。
これまで高卒を採用したことは無かったが、若者の可能性を見出したい、採用の間口を広げたい、企業イメージを変えていきたい、そのような諸々の理由があったらしい。
真面目な人柄で、コツコツと勉強する姿勢。痩せ気味で小柄な外見からは感じ取れないが、意外と根性もある。
能力としては大学に進学して欲しかったが、本人は頑なに就職を希望している、等々。教師としてはこれ以上ないという程の適任が、美愛だった。
美愛は迷うことなく了承し、就職してからも黙々と仕事を熟す日々を送り、いつの間にか五年経っていた。
初めての異動のタイミングとしては遅い方かもしれない。経理課の秘蔵っ子であり、手放したくない経理課課長と、できる事務が欲しいという営業部部長の間で、毎年戦が勃発していたことを本人が知ることはないだろう。
「お先です」
先程まで前で仕事をしていた先輩が、いつの間にか帰り支度を終えて、美愛の横を通り過ぎるところだった。
パソコンに集中していて全く気付かなかった、と慌てて、お疲れさまでした、と返す。 この時間に一度切れた集中力は、流石に掻き集めることができなさそうだ。美愛は凝り固まった首を二、三回クルクルと回してから、データを保存し、電源を切った。
会社の外に出ると、冷たい風が身体に吹き付け、思わず身を縮める。美愛が着ているコートは、この時期にしては薄手だ。でも、と自宅にある服を思い浮かべて、思わず苦笑してしまった。持っている服は数少ない。必要最低限あれば、然程困りはしないし、特にファッションに興味もない。
ただ、コートだけは誤算だった。先月、冬も真っ只中だというのに、唯一持っていた厚手のコートをフェンスに引っかけて破いてしまったのだ。安物だったが、なかなか長持ちした使い勝手のいい
電車を乗り継ぎ、都心からどんどん離れて、電車の中にほとんど乗客はいなくなった頃、ようやく電車を降りる。通勤に時間が掛かるが、就職と同時に借りた今のアパートを引っ越すつもりはない。
たどり着いたアパートは、築何年だったか。かなり年季の入った、良く言えば趣のある、明け透けに言えば、いつ取り壊しになってもおかしくないほどボロイところだ。
チカチカと点滅する廊下の電気はいつ変えてもらえるだろうか。まだ玄関の鍵穴が見えるから、まあいいかな、と気にもしない美愛を、仕事では細かく神経を張り巡らせる性格しか知らない会社の面々は驚くに違いない。
部屋に入ってすぐ、美愛は疲れて重たくなった身体を畳んで寄せてあった布団に投げ出した。こういう時、ワンルームは悪くない。
自分にはこのくらいの狭さが合っているのだと思っているし、これ以上広い部屋だったら、恐らく落ち着かない。
ここより広い空間を美愛に与えられたことは、ない。
このまま寝てしまいたい衝動に駆られつつも、なんとかスーツを脱ぎ、高校の時のジャージに着替える。シャワーは明日の朝でいい。
何の飾り気もなく一つに結んだだけの黒髪を解放すると、さらりと背中に流れ、顔を隠すように掛けていた黒縁の伊達メガネとカラーコンタクトも外してしまえば、一気に気が抜ける。
ほうっと大きく息を吐き、異動した後のことを考えてみた。
今まではどちらかというと地味な仕事ばかりをしてきたが、営業一課と言えば会社の花形でもある。どうしたって優秀な人材が集まっているし、なんとなく関わったことのある社員を思い起こしても、『できる人』達ばかりである。
どうしてそんな凄い部署に、こんな地味で大して取り柄もない自分が異動になったのか分からない。いくら事務だといっても、求められる仕事はこれまでとは全く異なるものだろう。
着いていけるだろうか。煌びやかで目立つ人達の中で、極力目立たずにやっていけるだろうか。不安は尽きないが、疲れで限界の美愛の身体は眠りを優先するかのように、瞼を閉じさせた。
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