第六章 真っ直ぐな眼差しと煌めく瞳、そして無自覚な心 *黒崎side*
うさぎを見つけた
うさぎ。
それが彼女の第一印象だった。
【二年前】
三十歳を節目にそこそこ名の知れた建設会社から独立し、幼い頃からの夢だった自分の建設事務所『
僕を社長とし、圭一を副社長としているが対等な立場だ。圭一が自由奔放だというのがこの役職に決まった理由であり、僕が実力で優っているなどというわけではない。
一級建築士の資格を有し、戸建ての住宅からマンションやアパートといった集合住宅を主に請け負っているが、時には大きな依頼を受けることもある。
そんな小さくも大切な城を構えた町の最寄り駅近くに比較的大きな書店があり、専門書から趣味の小説に至るまで、幅広くお世話になっている。専門書の取り寄せを何度もお願いしているうちに、そこの店長とは顔見知りになった。
梅雨が明けようとしていた蒸し暑い日。気分転換に没頭できるような小説はないかと探していた。
『今月の新刊』と書かれたコーナーをぐるりと見て回れば、とても興味を引くポップが目に入ってくる。そんな、分かり易く魅力ある紹介が見られることが、この書店を気に入っている理由の一つでもある。そのお蔭で、今日もなかなかおもしろそうな小説を見つけることができた。
「黒崎さん、いらっしゃい」
「こんにちは」
一冊の本を手に取ってレジへ向かおうとした時、隣に来た店長に声をかけられた。どうやら店内を見回っていたようだ。駅前という好立地もあってか来店する客は多いが、その分あまり好ましくない客もいるため、マメに見回りしていると聞いたことがある。
「今日は小説ですか?」
「はい、新しいものが読みたくなりまして」
手に持って本を目の高さまで上げて見せると、店長は相好を崩した。
「ああ、それはお勧めですね」
「楽しみです。このポップ、いいですね。いつも同じ方が書かれているんですか?」
カラフルに書かれ、非常に端的な言葉なのにグッと惹かれるものあるポップ。今ではどの書店でこういったものはあるが、ここは一際ひときわいいものだと思う。書いている人と個人的に感性が似ている、というのもあるかもしれない。
「一応、何人かで分担しているんですけど、一番多く書いてもらっているのは若い女の子なんですよ。それも、その子が書いたものです」
「そうなんですか。若いのに凄いですね」
若い女の子のこと言えば、既に三十になった僕からすると別世界の人だろう。
以前、勤めていた会社には毎年多くの新入社員入り、その度に指導には苦労した。中には勤勉で、厳しい研修や勤務にも食らいついてくる子はいたが、途中で投げ出す子もいたし、不真面目というわけではなくても、どこか手を抜きがちな子も多かった。偏見を持ってはいけないと思いつつも、どうしても自分たちの年代との違いジェネレーションギャップを感じさせられたものだ。
「彼女は本当に真面目で、よくやってくれるんですよ。本も好きだから感性も鋭い。あ、あの子です」
店長が僕の背後に視線を向けて指を差したため、そちらを見てみた。その先には本棚の本を整えている小柄な女の子がいた。重い本を何冊も持てば潰れてしまいそうな華奢な子。漆黒の髪を後ろで一つに束ねているが、艶があってサラサラと動いている。少し長めの前髪は黒縁の眼鏡の上で切り揃えらえていて、その奥にある目はレンズ越しでも大きいことが分かった。色が白くて、少し頼りなさそうな雰囲気が、白くて小さなうさぎを彷彿とさせる。
目を惹くほどの美人ではないが、どちらかというと可愛らしく、清潔感があって見るからにいい子そうだ。若い、と聞いたが、まさか高校生だと思わなかった。
「高校生なのに、よく働く子なんですね。バイトですか?」
「いえいえ、あの子はれっきとした社員です。ちゃんと成人してますよ。どう見ても高校生、見方によっては中学生にも見えますけどね」
そう言って、あははっと豪快に笑う店長を尻目に、僕はなかなか彼女から目が話せなかった。どんな子なんだろう。そんな考えが浮かんだが、その疑問を解決する手段を持たない僕は意識から追い出して、目的の本を購入して帰宅した。
だが、もう接点を持つことはないと思っていた彼女と会話したのは、この年の暑い夏の日だった。如何にも軽そうな男子学生にナンパされていたこと気付き、反射的に声を掛けていた。あからさまな言葉を持って助けると、ものすごく恐縮してしまいそうな雰囲気を感じて、咄嗟にナンパには気付かないフリをした。
本当は探していた本が目の前にあったことには気付いていたわけだが。驚いたようにこちらを勢いよく見上げ、大きく目を見開いたその様子に、自分の中で何かがざわついた気がした。恐らくこちらを見た瞳が潤み、店内の照明が映り込んでキラキラと輝いていたから。
こんなにも真っ直ぐで綺麗な瞳は初めて見た。思わず怯みそうになった自分に心の中で苦笑しつつも、男が離れていったことに安堵してお礼を言ってきた彼女へ返事をする。
十代のガキじゃあるまいし、こちらに向けられた目に動揺するなんて。しかも、一体いくつ年下の子だ。こんなおじさんに何か思われても、気分が悪いだけだろう。
助けることができたことにホッとしつつ、狼狽え始めた彼女が気にしすぎないようにと、素早く目的の本を手に取り、その場を去った。
その後も幾度となく書店には足を運んだ。もちろん目当ての本を探しに行くこともあれば、なんとなく立ち寄ることもある。決して、彼女を探しに行くわけではない……決して。
そう思うのに、気付けば店内に視線を巡らせ、姿を見かければ口元が緩む。きっと彼女が『癒し系』と言われるものだからだろう。何度か見ているうちに、彼女がこの書店においてアイドル的存在であることにも気付いた。老若男女から愛されている。店員からも、客からも。
顔を赤くしてハニカミながらも、控えめに微笑む様子は確かに可愛らしいし、どんなに疲れている時でも、クライアントからの無茶な要求に頭を悩ませ行き詰っている時でも、その張りつめた糸がフッと緩む。
こんな妹がいたら、毎日家に帰るのが楽しみになるだろう。ああ、でもこんなに年の離れた兄は欲しくないか。そんな自虐的なことを思い、この思考こそが彼女に関わってはいけないという警告になっていた。
関わるも何も、彼女は店員で、僕は客。それ以上でも、それ以下でもない。だからこそ、声を掛けようと思えば容易いことだ。何も考える必要はない。それにも関わらず、躊躇う自分が不思議だった。
もしかしたら、あの真っ直ぐな目で見られるのが怖いのかもしれない。何もかも見透かされそうで。三十にもなれば、見られたくないことの一つや二つあるものだ。それくらい彼女の瞳は澄みきっていて、僕には眩しかった。
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