手にしたチケットを見て、君が浮かんだんだ

【現在】


「それではこちらの提案でご検討ください。訂正やご要望等ありましたら、またご連絡いただけますか? 内容によっては設計上変更できないこともありますが、可能な限りご希望に沿うよう努力致しますので」


 この日の打ち合わせを終え、ノートパソコンや打ち合わせ資料などをブリーフケースに仕舞う。レストランの新店舗の設計という案件で、住宅を請け負うことが多い我が事務所ではそれほど多くない仕事だ。既に何度か打ち合わせを重ね、幸いなことにこのクライアントとは良好な関係が築けている。


「ありがとうございます。こちらの意見をかなり取り入れいただいているので、今回こそ社長も納得するのではないかと思います」

「ご納得いただけるまで話し合うことが大切ですので。簡単には決められないことだと思いますし」

「そう言っていただけるので、こちらとしても安心してお任せできるんですよ。こうして提案していただく設計然り、仕事に対する姿勢然り。まだお若いのに、独立されただけはありますね」

「まだまだ勉強させていただくことばかりですが……ありがとうございます」


 褒めてもらうほどの充分な力量があるかというと、まだまだ経験も設計力も提案力も足りないと自覚している。依頼を受ける度に実感しているのが現状だ。

 お礼も挨拶もそこそこに辞去しようかと席を立つと、目の前に座る男性が「あ、そういえば」と何かを思い出したかのように手で制してきた。待つように言われてその場で暫く待っていると、その男性が手に小さな封筒を持って戻ってきた。


「黒崎さんはよく本を読まれると聞きまして、よかったらこの映画行かれませんか? 人気の小説が原作らしいのですが、私も周りの人間もそういったことに疎くて。せっかくなら良さが分かる方に行っていただいた方がいいですし」


 そう言って封筒を差し出してきた。


「いえ、そんな。いただくわけには」

「まあ、そう言わず。私を助けると思って」


 さあ、とほぼ押し付けるように渡されたそれを、反射的に受け取ってしまっていた。


「あの」

「では、また連絡しますので」

「あ、はい、分かりました。こちらも、有り難く行かせていただきます」


 途轍もなく強引に渡された気もするが、これ以上話は受け付けないという空気を出されては、引き下がらないわけにはいかない。仕方なく笑顔でブリーフケースに仕舞い、再度挨拶をしてその会社を後にした。

 建物から出ると、湿度の高い空気が身体に纏わり付いてくる。薄雲の合間には青空が見えているが、その湿った空気は雨を予感させた。

 帰社後は社員それぞれが担当している仕事の報告を受け、何件かのカンファレンスを行い、それらが済んでからようやく自分の仕事に取り掛かる。

 社長らしくはないと思う。自ら設計を何件も受け持っていることがかなり負担になっていると自覚しているが、それでもこれがやりたかったことである以上、やりきる他はない。次々退社する社員を見送り、いつの間にか事務所には自分だけになっていた。


「ああ、ご飯……面倒だな」


 キリがつき、ふと時計を見ると二十一時半。夕食を摂るのをすっかり忘れていた。仕事に、特に設計に夢中になっていると、休憩も食事も忘れてしまうのが欠点だと、周りの人間によく言われる。自覚していないわけではないが、大して問題だと思っていないことが問題なのだろう。

 はぁっと溜息を吐きつつ、パソコンの電源を落とす。ここ最近の忙しさのせいか今日はこれ以上集中できなさそうだ。好きなことを仕事にしているとはいえ、流石にこうも忙しいと疲れも取れなくなる。ただ、忙しいということはそれだけ仕事があるということなのだから、喜ぶべきだろう。

 プライベート用の鞄を手に取り、そこで今日貰った映画のチケットのことを思い出した。もう一度座り、封筒から取り出してみる。二枚入っていたそれは『カトレアに魅せられて』という恋愛映画のものだった。


「恋愛ものか……あれ、これって」


 以前、書店で見た光景を思い出す。恋愛小説はあまり読まないがこれは珍しく読んだものだ。これを読もうとしたきっかけは、やはりあの書店のポップだった。

 続けて連想するのは、あのうさぎ……もとい、藤原さん。あれも彼女が書いたものだったのだろうか。普段あまり読まない恋愛小説を手に取らせるほど、魅力的な言葉を記したポップ。確認したわけではないが、なんとなく彼女が書いたのだと確信めいたものがあった。




【数週間前】


 注文していた本が届いたという連絡をもらった。そこでいつ取りに来れるかの確認と、『藤原』という店員を訪ねるようにとの指定があった。これまでそんなことは一度もなく、何か特別なことでもあったのかと不思議に思いながらも予定していた日に来店し、呼んで現れた店員が彼女で驚いた。

 この時、まだ彼女の名前を知らなかったため、電話では気付かなかったのだ。

 目が合った瞬間、何故か目を見開いて固まった彼女が可愛くて少々眺めてしまったが、我に返って声掛けると弾かれたように動き始めた。

 近くに寄って分かったのは、顔が赤いだけでなく結われた黒髪から顕わになった耳も仄かに赤く染まっていたこと。たどたどしく本の受け取りの処理をしてくれたが、動きも言葉もぎこちないのに、視線だけは真っ直ぐ向けてくる。そのように教育されてきたのか、相手の視線に合わせて逸らさずに話す。

 この子はいいご両親育てられ、そしてこの子自身も素直に育ってきたのだろう。弱々しく頼りなさげな雰囲気と真っ直ぐに向けられる眼差しの強さとのギャップに、思考が奪われそうになって、慌てて気を引き締めた。

 純粋な子と向き合ったからだ。屈折した僕とは生きる世界が違う。僕が介入してはいけない子だ、頭の中で自分自身にそう警告した。

 僅かな動揺を悟られないように取り繕う。落ち着かない様子の彼女を見ながら、会計へと促そうとしたのを考えもなしに名前を呼んで遮っていた。レジへと向きかけていた身体を慌ててこちらに向け、大きな目を瞬かせる。


 ……眼鏡を外して、その目を見てみたい。


 そんなことを思った自分を殴りたくなった。馬鹿だろう。犯罪だ。決して不埒な思考ではなかったと思うが、何故かこの子に向けたものとしてはアウトだと思う。そして咄嗟に、以前、店長から聞いていたポップのことを思い出し、その話題を挙げてみた。

 僕の心を刺激する言葉の数々に、何度動かされただろう。そのお礼を言いたかったことに偽りはない。まさか本人に伝える日が来るとは思っていなかったが。

 お礼を言うと少し戸惑ったようにしながらも、小さな声で「ありがとうございます」と返事が返ってきた。軽く頭を下げ、指を胸の前で絡めてもじもじとしている様は、どうにも庇護欲を掻き立てられる。

 かわいい、と思うくらいは許されるだろうか。つい小さく笑いが漏れてしまうと、目の前の彼女がぽかんと口を開けて固まり、その様子にもまたほっこりと胸が温かくなる。


「藤原さんは本当に本が好きなんですね」

「は、はい、好きですっ」


 そんなに大きな声が出せたのかと驚き、それと同時に『好きです』という言葉が突き刺さった気がした。彼女も言った後で我に返ったのか、ハッとして顔をますます赤らめる。


 ……ごめん。僕の言葉が悪かったんだ。


 ここで僕が謝ってしまうと余計に居た堪れなくなるだろうと考え、「また素敵な本を紹介してくださいね」と大人ぶった言葉を残して会話を切り上げた。

 書店を後にしてから、余裕があるフリをした自分に苦笑せざるを得なかった。

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