答えが出ません

 翌日。

 ほとんど眠ることなく朝を迎えてしまった私は、遅番にも関わらず朝早くに家を出た。

 空はグレーの分厚い雲に覆われ、今にも滴が零れ落ちそうだ。太陽が出ていないせいか、やけに冷たい風がコートの裾を何度も攫い、その度に手で押さえる羽目になっている。もっとも、仕事の日にはスカートを履かないため、足元はそれほど気にならないのだけれど。

 秋は人肌が恋しくなると何処かで聞いたことがある。今までの私には何のことか分からなかったし、ましてやそう感じることもなかった。だって、人肌を知らないのだから。恋しくなるのは、その良さを知っているからだ。

 それなら今の私はどうか、というと。人の言う『人肌恋しい』と同じかは分からないが、漠然と淋しく感じている。

 自分に意識を向けて考えてみる。どうして淋しくなっているのか、と。思いつくのは、やっぱり黒崎さんのことだ。恋しくなるほど、黒崎さんの温もりを知っているわけではない。それでもまったく知らないかと言うとそうではない。

 予期せぬこととはいえ、転びそうになったところを抱き止めてもらった。時間にしては一瞬だったかもしれないが、あの時の感覚はなんとなく残っていて、その温もりも、大人っぽいいい匂いも、そして意外とガッシリとした腕も、それなりに覚えている。

 手を繋いでもらった時の安心感。頭を撫でられた時に沸き起こる胸の高鳴り。どれをとっても、これまでの人生で得られなかったものばかりだ。

 もし、黒崎さんに奥さんもしくは彼女さんがいたとしたら。もうあの温もりもトキメキも求めてはいけない。私の二年に渡る片想いに終止符を打たなければならない。


 本当に、この想いを消すことはできる?

 消さなくては、いけないの?


 ほぼ惰性で動いていた私の身体は、いつの間にか電車に乗っていた。流れる景色を見ていると、窓にぽつりと一雫の水滴が付き、次の瞬間には激しい雨が降り始めた。ああ、こういうのが『私の心を映しているように』という表現されるのだろうな、と暢気にも考える。

 泣かない、泣けない、私の代わりに空が泣いてくれたのかもしれない。

 書店の最寄り駅に着いた私は構内にある売店でペットボトルの温かい紅茶を買って、構内に設置されているベンチに座った。勤務時間よりも前に行って仕事を始めてしまいたい気分だったが、勝手な時間外労働をしては却って店長さんに迷惑をかけてしまう。カフェやコーヒーショップに1人で入る勇気のない私には、こうして過ごすことが外でできる最大限の過ごし方だ。

 昼過ぎに出勤すればいいのだから、ショッピングでもすればいいのかもしれないが、私のお洒落の原動力は黒崎さんにあるため、今は到底できる気がしない。そう思って気付く。今の私はほとんどが黒崎さんという存在の上に立っているのだ、と。


 それからは堂々巡りになる思考を止めることもできず、ズルズルと無駄とも思える時間を過ごした。

 そして、いざ出勤する時間となり、駅から書店へ向かう。持ってきた傘を広げて雨の中に足を踏み出すと、傘に雨が当たる音が私を包み込み、その他の音を全て奪った。

 その瞬間、蘇ったのは黒崎さんだ。思えば急接近したのはあの雨の日だった。突然の相合傘に、突然の映画のお誘い。私の人生に於ける分岐点だったとも言えるのではないだろうか。


 あの時、私は判断を誤った?

 相合傘を断るべきだった?

 映画を断るべきだった?

 好きになってはいけなかった?

 ……出逢うべきでなかった?


 何なの、このマイナス思考は。もともとマイナス思考に陥りやすいとは自覚しているけど、昨夜から酷すぎる。出逢うべきではなかった、なんて。どうして、事実を確かめもしないで、そこまで極論にいってしまうんだろう。

 千絵さん達に啖呵切ったじゃないか。黒崎さんから直接聞いたことだけを信じるって。なのに、今の私は全然信じることができてないじゃないか。

 私、どうしたいんだろう。黒崎さんを諦めたいと思っているのかな。辛い思いをするくらいなら忘れてしまいたい、と。忘れられるかどうかではなく、忘れたいと思っているのか。


 黒崎さんを想う、この気持ち。


 叶うものじゃなくても、大事にしたいと思っていたはず。それならばひっそり想っていても罪にはならないのでは?

 でも、もしあの女性の立場だったら?


 自分の大事な人をしつこく想い続ける女性がいたら、嫌なんじゃないだろうか。


 ……ダメだ。答えが出ない。


 結局、憂鬱な気分は当然晴れることなく、この日の勤務へと入った。






 ***


 数日後。


 私は後悔していた。一度メールの返信を放棄したことで、その後どんな方向性で、どういった言葉で返信すればいいか、完全に見失ってしまった。

 そして、遂には昨夜メールが届くのが怖くなってしまい、電源を落としたままになっている。そんな卑怯な私は、最早黒崎さんに嫌われてしまったかもしれない。

 それでいいんじゃないか。……そう思うべきかもしれないのに。そうはなって欲しくないと、足掻こうとしている。それにも関わらず、逃げているという矛盾が起こっているわけだけど。


「琴音」

「あ、翔太くん。お疲れさま」


 早番が終わり、帰り支度をしていた私に翔太くんが声を掛けてきた。シフトの関係ですれ違っていたため、翔太くんと顔を合わせるのはあの日以来だ。


「この後、何か予定ある?」


 バイトさん用のロッカーにエプロンを片付けた翔太くんは、チョコレート色のボディーバッグを身に付けながら、こちらに向かってくる。翔太くんは大学生らしいカジュアルな服装がよく似合っていて、ファッションに疎い私が見てもお洒落さんだと感じる。

 以前した千絵さんとの会話を思い出す。お金がなくてもお洒落を楽しむことはできるんだ、と。それは私の中に不思議とストンと入ってきた言葉だった。

 イメージを変えていくには、有名なブランド物で揃えなくちゃいけないんじゃないかと思い込んでいた。でも、そうすればいいわけじゃないと教えてもらった。過去の会話を思い出しながら、私もコートを羽織り、鞄を肩に掛けた。


「特に何もないよ」

「んじゃ、ちょっと飯に付き合って」

「え、あの、」

「俺と二人は嫌?」


 少し不安そうに表情が翳ったのを見て、慌てて首を横に振る。


「ううん、嫌じゃないよ。大丈夫」

「よし、なら行こう」


 暗くなった表情は見間違いだったかと思うほど、翔太くんはニカッと爽やかに笑って事務所の外へと私を促した。なんだか巧みに丸め込まれた気もするが、大人しく着いていくことにする。

 翔太くんは大学であったことや友達としたおもしろいことなど、私が笑える話でお店までの時間を過ごさせてくれた。翔太くんは話が上手で、いつも聞いているうちに緊張は解れ、自然に笑うことができる。二人きりは緊張するけど、男の人の中ではダントツに一緒にいて楽しい人だ。

 友達だと言うのは烏滸がましい気もするが、勝手に『初めての男友達』と位置づけ始めている。その点、黒崎さんは一緒にいて楽しいけど、まだまだ緊張の方が強い。


 『緊張するけど楽しい』

『楽しいけど緊張する』


 どちらの気持ちが勝つか、二人を比較するとその違いは明らかだ。黒崎さんも翔太くんも好きだけど、なんていうか緊張の仕方が違うし、過ごす時間の楽しさも違う。それはその人となりが違うのだから当たり前だとは思う。

 でも、その違いが一体どういった意味があるのかは、今の私には分からない。好きな人は誰かと問われたら『黒崎さん』と答えるけど、では翔太くんとの違いは何かと問われると答えられないのが現状だ。


「ファミレスでごめんな」


 翔太くんが連れてきてくれたのは、書店の近くにあるファミレスだった。


「どこでもいいよ。ファミレス好きだし、緊張するところよりもこういうところの方が、私には居心地がいいから」


 高そうなお店やすごく大人っぽいお店なんかよりは、私の身の丈に合っていると思う。無理して背伸びしないで、等身大のお店に連れてきてくれるところが翔太くんいいところだと思う。こういうところが一緒にいて緊張し過ぎずに過ごせる要因かもしれない。

 私の返事にホッとした様子を見せて、そのドアを開けて私を先に通してくれた。夕飯時であるため、店内は家族連れや学生で賑わっている。私も学生に見えているかもしれない。そう思うと、黒崎さんとは生きている世界が違うんだろうなと思ってしまう。

 だって、黒崎さんがファミレスに来るとは思えないし、もし居たとしても違和感があるだろう。

 店員さんに案内された席に向かい合うように座り、翔太くんが開いてくれたメニューを二人で覗き込む。最近になって急激に距離が近づいた気がするのは、恐らく勘違いではないはず。こうして接近してもパニックにならなくなってきたのがいい証拠だ。

 二人とも注文を済ませ、翔太くんがコップの水を一気に飲み干すのを眺めた。


「喉、乾いてたの?」

「あ?……ああ、まあ」


 なんとなくいつもの勢いがなくて、歯切れも良くない。ちょっと水を取って来る、と言って席を離れた翔太くんの後ろ姿を見ながら、今日誘ってくれたのは黒崎さんのことが関係しているんだろうなと考えていた。

 でも、その後、料理を待っている間も、食事中も、翔太くんは取り留めのない話ばかりをする。いつも必ず合っている視線が今日は合い難いなとは感じていたけど、翔太くんにも考えがあるのだろうと私も提供される話題に乗って会話を続けた。

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