進むべき道が分からなくなりました
「行こう」
私の返事を待たずに、翔太くんは私の左手を握って、ベンチに座っていた私の身体を引っ張り上げてくれた。
……よかった。
手を握られた瞬間、私は反射的にそう思った。黒崎さんはいつも私の右手を握ってくれたから。翔太くんが握ったのが反対の手で、ホッとしたのだ。右手に残る黒崎さんの感覚を忘れたくない。もう二度と、現実では握ってもらえないかもしれないのだから。
黒崎さんを信じたいと言いつつも、もう諦めなくてはいけなんじゃないかという考えも過ぎる。万が一、黒崎さんが本当に結婚していたら……。当然、諦めるべきだ。
でも、二年も片想いしていた私がこの想いを消すことができるのだろうか。千絵さんが行動してくれるまで、自分から何かをするなんて考えてもいなくて、ずっと片想いでいいとさえ思っていた私だ。諦めるけど、片想いには変わりない状態が続くのかもしれない。
そもそも黒崎さんはどういうつもりで、私を誘ってくれたんだろうか。どういうつもりで、頻繁にメールをくれるんだろうか。ずっと分からなくて一喜一憂していたけど、これでますます分からなくなってしまった。
……いやだな。
黒崎さんが結婚していたり、付き合っている人がいたりしたら、いやだ。欲張らないとか、高望みはしないなんて控えめなフリをしてたけど、全然違った。私は黒崎さんとお付き合いしたかったんだ。
『黒崎さんにとって特別な子になりたい』
そう思ったこともあったなと、ようやく思い出した。あんな場面に出くわして、私の頭の中は自覚していたよりも混乱しているらしい。
「琴音、何考えてる?」
私の手を引いて隣を歩く翔太くんが、顔を覗き込むように聞いてきた。自分の世界に入り込んで考えていて、手を引かれて歩いていたことにすら気付いていなかったようだ。ふと周りを見てみるが、千絵さんがいない。
「あ、あれ? 千絵さんは?」
「ああ、そこからか。千絵さんは琴音のことを気にしながらも、反対方向だったから俺に任せるって言って帰った」
「えぇっ⁉ どうしよう……私、千絵さんにお礼も挨拶もしてない」
なんて失礼だったのだろう。千絵さんはあんなに心配してくれていたというのに。
「いや、琴音はちゃんと挨拶してたし、お礼も言ってたぞ? すごいな。もしかして、あれも無意識?」
「うわぁ……」
自分が怖い。意識していなくても、そういうことってできるんだ。いや、意識のない言葉って心が籠っていなかったんじゃないだろうか。いくら衝撃ショックを受けていたとはいえ、人として最低だ。明日、しっかり心を籠めて言おうと強く思った。
「俺はちゃんと家まで送るから」
「ふぇっ⁉ お、送る、って」
「心配だから、嫌と言っても送る」
「え、待って、そんな、ダメだよ」
「なんで?」
「なんでって……申し訳ないよ」
「申し訳ないと思うなら、大人しく送られとけ」
「そんな……」
なんて強引な。でも、この強引さも翔太くんの優しさなのだろう。そう思えるくらいにはどうやら私も経験を積んできたらしい。それは、強引さの中に優しさがある翔太くんを知っているから。
「ほら、行くぞ」
「うわっ」
翔太くんは私の言葉なんて聞く耳も持たないとでも言いたげに、再び手を引っ張って歩き始めた。
遅い時間になってきたとはいえ、まだ夜の街には多くの人がいる。遅番の時にこうして歩くことはあるが、この世界は自分とは縁のないものだと思っていた。
夜の街を一緒に歩くとすれば、それは千絵さんとばかりで、翔太くんと、いやそれどころか男性と二人で夜出歩いたことはなかった。ましてや、今は手を繋いでいる。他の人から見たら、私達はどう見えているのだろうか。
恋人?
姉弟、ではないよね、きっと。まさかの兄妹とか……?
いやっ、そういう問題ではない。
じゃあ、黒崎さんと私だったら、どう見えるんだろう。恋人になんて見えないに違いない。それこそ兄妹だ。
落ち込みながら隣を見上げれば、真っ直ぐ前を向いて歩く翔太くんの横顔が見える。百五十センチちょっとしかない私から見ると、翔太くんは充分背が高い。でも、黒崎さんはもう少し頭が上にあるな、なんて思ってしまい、ギシッと胸が軋んだ。
今一緒にいるのは翔太くんなのに、頭の中では勝手に黒崎さんと比較してしまっている。そんな自分に愕然とした。私はどこまでどっぷり黒崎さんにハマっているのだろう。
結局その後、翔太くんに家まで送ってもらった。道中、翔太くんは全然関係のない話で私の気を逸らしてくれた。黒崎さんのことに考えがいかないように気を遣ってくれているのを肌で感じて、私の方が年上だということを忘れそうになる。
離されることがなかった手が温かくて、寒い中で心地いいはずなのに、今日の私にはなんだか痛かった。思い出したくもないのに黒崎さんの手を思い出し、その度に目に涙が滲みそうになる。比べるなんて翔太くんに失礼なのに。
そう分かっているのに、私には止める術がなかった。
翔太くんにお礼を言って家の前で別れた後、入浴も済ませてから自分の部屋に入って、勢いよくベッドに飛び込む。考えないようにしたくても、どうしても記憶の中にあるあの会話がリピートされてしまう。
私はどうしたらいいのだろう。誰か教えて欲しい。
こんな時、人はどうするものなの?
泣けばいいの?
でも、泣いたって解決はしない。泣いて解決するものなら、今ならいくらでも泣ける。でも、そうではないということは私にも分かる。だから、絶対に泣きたくない。本当は苦しくて苦しくて仕方がない。喉に何か詰まっているのではないかと思うほど呼吸しづらいし、身体も頭も重たい。
どうしたらいいのか。
どうなっていくのか。
あまりにも何も分からなくて、真っ暗なトンネルの中に入り込んでしまったみたいだ。前後すら見失ったらしく、進むべき道も見当たらない。
はぁっと大きな溜息を吐きながら、グリグリと枕に顔を押し付けた。暫くそうしていたが、携帯を鞄から出し忘れていたことに気付き、もそもそと起き上がって取りに行く。確認すると、二十二時頃に黒崎さんからメールが届いていた。
いつものような、なんてことのない内容。あまりにいつもと変わらなくて、あれはなんだったのだろう、夢だったのかな、という考えが浮かぶほど。
二十二時といえば、二十一時頃お店に来た黒崎さん達はまだあそこにいたのではないかと思う。もしかしたらあの女性と過ごしながら、私にメールしてきたのかもしれない。
それって、女性は嫌だと思わないのだろうか。
黒崎さんはどんな気持ちで私にメールしてくるんだろう。どうして、そこまでして私にメールをくれるんだろう。用件があるならまだ分かる。でも、正直内容にあまり意味がないものだ。私にはもともとメールを頻繁にする習慣がなくて、まったく見当がつかない。
今までは黒崎さんからのメールが飛び上がるほど嬉しくて、ドキドキしてワクワクして、一生懸命返信も考えた。でも、今となってはギリギリと音を立てて私を締め付ける凶器と化した。
そういえば、とふと思う。会っても早くに帰されていたのは、あの女性がいたからなのかもしれない、と。
黒崎さんがまったく分からなくなってしまった私は、この日、初めて返信することができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます