すべて、嘘だったんですか?

「それで、改まって話って何?」

「いきなり話すの?」

「僕も疲れてるんだよ」

「私には相変わらず冷たいのね。ま、いいけど。あのね、私たちも結構いい歳でしょ? そろそろ子どもが欲しいのよね」

「ああ、そういう話。まあ、年齢的にはそう思っても不思議ではないか。でも、結実は仕事続けたいんだよね?」

「うん、辞めたいとは思ってない」

「結実がいないと困るからなあ」

「怜司は仕事できるくせにスケジュール管理だけは苦手だもんね。私がいなかったらどうしてたんですか、黒崎社長?」

「煩いなあ」

「欲しいと思ってできるわけじゃないのは分かってるけど、私がそう思ってることを分かってて欲しいの」

「ん、それは分かったよ。善処する」

「よかった。ところでさ……」


 そして、二人の話は仕事のことに移っていった。


「琴音、出よう」

「……え?」

「いいから行くよ」


 千絵さんは固まって動けなくなっている私の腕を引き上げ、その勢いのまま会計へと向かった。その後ろから翔太くんが私の鞄やコート持って着いて来てくれる。

 会計が終わったことすら気付かず、いつの間にかお店を出て少し歩いたところにある公園に来ていた。ずっと千絵さんに手を繋がれていたようだ。自分の格好に意識を向けてみると、コートは身につけているものの、鞄は翔太くんが持ってくれている。

 ここまで意識を失っていたんじゃないかと思うほど記憶がない。千絵さんに促されて並んでベンチに座り、翔太くんは私たちの前に立った。隣から、はあっと大きな溜息が聞こえてビクッと身体が飛び跳ねる。


「何、あれ」


 冷たくて鋭い千絵さんの声が誰もいない静まり返った公園に響いた。


「聞き間違いじゃなければ、子どもが欲しいとか言ってなかったか?」

「私にもそう聞こえた。それって、恋人どころか、夫婦の会話……」

「そんなはず、ない」


 千絵さんも翔太くんも、何言ってるの?

 黒崎さんは彼女もしくは奥さんがいながら、他の女の人とデートするはずがない。


「でも、確かにそう言ってたよ?」

「きっと何かの間違いです。黒崎さんは誠実な人だから。こんなの有り得ないです……」


 そう言いながらも、あの二人の会話が頭の中で何度も再生リピートされて、現実を見ろと突きつけてくる。否定するには、あまりにも明瞭に聞こえ過ぎた。


「琴音……気持ちは分かるけど、あれは誤魔化しようのない会話だったと思うよ?」


 千絵さんが私を気遣うように背中を摩りながら、静かな声で言った。


「もう、あいつはやめとけ」

「……翔太くん」


 どうして、どうしてそんなこと言うの……?


 記憶にある黒崎さんには、どこにも不誠実なことをするイメージはない。優しく笑うあの表情も、いつでも気遣ってくれるあの態度も言葉も。


 全部、嘘だったの?

 もしかして、時々垣間見えた切なげな表情は、この事実の所為?

 もう、私の気持ちは黒崎さんに有ってはいけないの?


 考えれば考えるほど、黒崎さんのいろんな姿が思い浮かぶ。思い出す度に、私の本能はその全てが好きで好きで仕方がないと言う。苦しいくらいドキドキして、いろんな仕草にキュンキュンして。些細なことでも緊張して上手く振舞うことなんてできないけど、それでも一緒にいたいと思ってた。

 付き合うなんて、経験のない私にはどういうことなのかよく分からないけど、一緒にいたいという気持ちだけではダメなんだろうか。

 いや、そもそも黒崎さんが結婚していたのなら……。気持ちそのものが持ってはいけないものだったのか。


「こんなこと、言いたくないけど……もう、黒崎さんのことは忘れな?」

「千絵さんまで……」

「私は琴音に幸せになってもらいたいの。いくら好きでも、不倫はダメ。不幸にしかならない。それも琴音だけじゃなくて、黒崎さんも、その奥さんも。一つの家庭を壊すことになるんだよ?」


『不倫』

『家庭』


「男なんて、都合のいいことばっかり言って、最終的には奥さんを選ぶんだ。心の綺麗な琴音に後ろ暗い恋愛なんて似合わない」

「どうして……?」

「え?」

「どうして、二人とも黒崎さんが結婚してるって決めつけちゃうんですか? どうして、不倫だって、決めつけちゃうんですか?」

「どうしてって……」

「私は黒崎さんから何も聞いてません。確かにさっきの会話は結婚を疑うには充分な内容だったかもしれません。それでも、私は黒崎さんから直接聞いたことしか、信じたくない」


 私にはどうしても黒崎さんが浮気や不倫そんなことするような人には思えないんだ。


「気持ちは分かるけど、それなら琴音は黒崎さんに事実を確認する勇気はあるの? 自分から話題提供するのは苦手でしょ? それなのに、こんなこと、自分から聞ける?」

「それは、」

「当分、会えないって言われてるけど、会える時まで大人しく待つの? それとも、自分から電話掛ける? メールで聞く?」


 千絵さんは畳み掛けるように言葉を繋げる。その言葉がどれも胸に突き刺さって、どんどん呼吸の仕方を忘れていく。千絵さんが言うことは、どれも間違っていない。私のことを思って、敢えて厳しいことを言ってくれていることも分かる。

 確かに、信じたいと思う気持ちとは裏腹に、自分から聞くことができるかなんて自信はこれっぽっちもない。電話でもメールでも、こんなことを聞く勇気もないし、会えれば聞けるのかというと、それすらも自信がない。

 それどころか、黒崎さんから来るメールに何て返事をすればいいか分からなくなったし、会った時にどんな顔をすればいいかも、分からなくなってしまった。


「黒崎さん、結婚しているだけじゃなくて、年齢はかなり上、それに『社長』って呼ばれてたよ? 黒崎さんが結婚してなかったら、年齢も立場も気にするなって言えたけど、結婚してるとなれば話は別。障害がありすぎる先のない恋愛なんて、琴音にはして欲しくない」

「言いたいことは、分かってます……」


 なんとなくただの会社員じゃないのかもとは思っていたけど、まさか社長さんだなんて。結婚とか子どもとか、その話のインパクトが強すぎて忘れていたけど、言われて思い出した。

 千絵さんの言う通り、私とは世界が違う、と思う。もし、万が一にも、黒崎さんが結婚していなかったとして、私はそういった社会的地位にいる黒崎さんの隣に立っていることはできるのだろうか。年齢のことだけでもこれほど引っかかり、何度もネガティヴになってきた。

 その上、黒崎さんが『社長さん』なんて……。

 黒崎さんを信じたい気持ちと、現実を見たくないという気持ちで、頭の中がグチャグチャになっている。

 その時、俯いていた私の頭にポンっと大きな手が乗った。その重みに、いるはずのない黒崎さんが瞬時に浮かび、ザクッと大きな針が心臓に刺さった。痛いとか、苦しいとか、もうそんなものじゃない。どうやって呼吸をして、どうやって笑っていたのか分からなくなった。


「琴音。今日はこれ以上考えるのはやめようぜ。送っていくから、帰ろう」


 そう言って、翔太くんは私の頭に乗せていた手で何度か撫でてくれた。


「……翔太くん」

「千絵さんも、いきなり厳しすぎますよ。琴音はあの会話だけでもいっぱいいっぱいなんだから、これ以上、一気に追い詰めないでくださいよ」

「うん、そうだね。琴音、ごめん」

「いえ……大丈夫、です」

「何が大丈夫なんだよ。大丈夫なわけないだろ? 琴音がどれだけ黒崎のことが好きかは知ってる。だから、無理しなくてもいいんだよ。辛い時は辛いって言えばいい」

「ん、ありがとう」


 目の前に立って話す翔太くんは、いつもの勢いは鳴りを潜め、優しくて静かな声を私の上から降らせてくれた。翔太くんは私のお礼の言葉に小さく頷いて微笑むと、目の前に大きな手を差し出してきた。


「え?」

「引っ張ってやるから」

「そんな、いいよ。ちゃんと歩けるから」

「琴音はボーッとしてるから、逸れるかもしれないだろ? だから、ちゃんと捕まえておかないと」


 翔太くんの言葉を聞いて、水族館で黒崎さんが言ったことをふと思い出した。


『藤原さん、迷子になりそうだから』


 そう言って、黒崎さんは私と手を繋いでくれた。大きくて、私よりも体温が高くて。イメージとは少し異なるゴツゴツとした手。手をギュッ握られると、心も身体も、二度と黒崎さんから逃げることはできないんじゃないかと思わされた。

 黒崎さんは私のことを捕まえてくれているのではないか、と。

 それも、私の勘違いだったのだろうか。自惚れ、というやつだったのかもしれない。私のどこに自惚れることができる要素があるのか、疑問だけど。

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