これが私の精一杯です

 私から携帯を受け取った千絵さんは、じっと画面を見つめる。その時間にして、僅かに二秒ほど。いや、もっと短かったかもしれない。


「……本気?」

「はい」

「下にスクロールすると、隠しメッセ」

「ないです」

「うん、そうだね。琴音だもんね。いいと思うよ。このまま送ろう」

「え、どうしてそんな棒読みなんですか?」


 その反応はいいとは言っていない気がする。どうして、隠しメッセージなんて高度なテクニックが私から出てくると思ったのか。


「おかしくはないよ……おかしくは、いや、やっぱり」

「千絵さん?」


 千絵さんから手元に戻ってきた携帯を改めて見てみる。



『お疲れさまです。

 寒くなって参りましたが、如何がお過ごしでしょうか。


 ご多忙中の事とは存じますが、一時間ほどで構いませんので

 お時間を頂戴することはできますでしょうか。

 ご都合のよい日時を二,三挙げていただけましたら

 黒崎さんのご都合のよい場所に伺います。


 面会が叶います場合は、お返事をいただけますと幸いに存じます。


 お忙しいところ大変恐縮ですが、

 ご検討のほど、どうぞよろしくお願い致します。

 返信は慌てませんので、お時間に余裕がある時にでも戴けると嬉しいです。』



 これの何処がおかしいのだろうか。必死に考えた結果、全力で作成したメールなのだけれど。


「どうして、ビジネスライクなの」

「え?」

「堅いのよ! もっとフランクにできないの? しかも、一時間とか……面会とか……」

「えぇぇ……。これが精一杯です。だって、私からお誘いするのに、軽い感じではできないですよ」

「だからって……ああ、でも、これが琴音の言葉ありのままなんだもんね。そうだよね。もう、当初の予定通り、弄いじらずこのままがいいのかな……」


 頭を抱えて呟くように紡がれる千絵さんの言葉は、私の耳には聞き取れず、思わず身を乗り出す。


「普段、どんなメールのやりとりしてるのよ」

「えっと、いつもは黒崎さんが話題を提供してくださるので、もっと普通な感じかもしれないです。逆に言葉が浮かばなくて、短文です」

「じゃあ、これもそんな感じのノリでいいじゃない」

「あんな言葉の少ないメールで誘うなんて、できないですよ……。忙しいところ時間を割いてもらうんですし」

「まあ、そうかもしれないけど……もう、これでいこう。これに黒崎さんがどう返事をしてくるかも、ある意味見ものかも」


 なんだか許可が出たのに、不安が残るのは気のせいだろうか。見もの、だなんて。それ程までに黒崎さんを困らせるの、このメール。

 戸惑いながら携帯に視線を落とす。そこには、確かに堅苦しい文章が並んでいる。でも、これが私の現状だ。お誘いするなんて、このくらいの姿勢でないととてもじゃないができない。むうっと口を尖らせていると、向かいの千絵さんがコンコンと携帯を突いてきた。

 視線を前に向けると、笑顔の千絵さんが頷く。送れ。ということだ。


 本当に送らなくちゃダメ?


 そんな弱気なことを心の中で呟くと、その声が聞こえたかのように千絵さんが微笑んだまま、顎をクイッと上げるおくれ

 その笑顔が却って怖くて、ぶるりと身体が震えた。コクコクと機械的に頷き、大きく深呼吸してから震える手で送信をタップする。

 私の躊躇いや不安など切り捨てるように、携帯の画面には『送信しました』と簡潔で無機質なメッセージが表示されている。


 ……送ってしまった。


 初めて、自分からメールを送った。それがデートのお誘いなんて。やっぱり図々しいのでは。調子に乗ってる、なんて思われたりしないのか。こいつ我儘だなとか、この忙しい時に空気読めないのか、とか。


 ああ、どうしよう。送って一分も経っていないのに、既に後悔しかない。


 その後三十分ほど、千絵さんと事務所で話していたが返信はなく、遂に千絵さんのタイムリミットが来てしまった。私が余程不安そうな顔をしていたのだろう。珍しく千絵さんが帰りにくそうにしている。出来うる限りの笑顔で大丈夫だとアピールし、千絵さんは渋々帰って行った。

 駅への道を携帯を手に握ったまま歩く。

 外はすっかり夜の帳が下り、寒さがより一層厳しくなってきた。冬が近いと言ってもまだまだ秋だと思っていたが、今日の寒さは身体の芯に響く。枯れ葉を巻き上げる木枯らしが、容赦なく体温を奪っていくのだろう。

 踊る枯れ葉を見ていると、ショパンのエチュード「木枯らし」が頭の中で流れる。細かく振り回されるように上下する音、切なげなハーモニーが、まさに今の私の心情にぴったり合う。

 黒崎さんの言動にいちいち振り回され、メール一つでここまで落ち着かなくなる。

 ドキドキ、ふわふわしたかと思ったら、ズキズキ、じくじくと胸が痛む。私の心臓はそのうち不具合バグを起こして、停止してしまうんじゃないだろうか。

 いつもと何ら変わらない景色を見ながら、電車に乗り、自宅までの道を歩く。

 家に帰っても、夕飯を食べても、父が観ているテレビを横からぼんやり眺めていても、携帯を手元から離すことができない。

 やったこともないのに、お風呂にまで持ち込もうとして、それだけは思い止まった。確か、 防水ではなかった気がする。

 黒崎さんからメールがあるのは、大抵二十二時頃。そのペースが掴めてからは、それまで気にし過ぎることなく過ごせるようになったというのに。今日ばかりは、いつもはやりとりしない時間に自ら送ってしまったため、返信のタイミングが掴めない。

 きっといつもの時間だ、と思う反面、早めに返信をもらえるのではという期待を持ってしまう。そんな私のそわそわした気持ちは、結局いつもの時間が来てしまって萎んでいった。それに気付いて、思ったよりも期待していたのだと自嘲する。


 *


 時刻は二十二時過ぎ。自室のローテーブルに置いた携帯が振動と共に音を立てた。


「き、来た」


 待ちに待ったメールが来たというのに、伸ばした手は小さく震え、カツンと携帯を弾いてしまった。落ち着け、落ち着けと自分を宥め、再び手を伸ばす。

 そこで、あれ、と違和感に気付いた。


 着信音、長くない?

 音も、違う……?


「あっ」


 メールじゃなくて、着信⁉


 鳴りっぱなしの携帯を慌てて手に取り、その勢いのままに通話にした。


「もしもし」


 黒崎さんの声が耳元で聞こえた瞬間、激しく後悔した。いや、不在着信になっていても掛け直すことができたとは思えないため、出て正解だ。それでも、心の準備もなく、耳元で囁かれている錯覚を起こす電話は対処不可能に思える。


 どうして、こんないい声なの……!


 低過ぎず、高過ぎず。滑らかな艶のある声。そんな破壊力抜群の美声に、身体の奥の方が筆で撫で上げられたかのようにぞくりとする。


「ははは、は、い」


 ああ、震える私の声は、黒崎さんにどう聞こえているのだろう。不快な声じゃないといいのだけれど。


「黒崎です。今、電話は大丈夫?」

「は、はい、こちら藤原ですっ」

「ぷっ、はは。うん、藤原さんじゃなかったら、困るな」

「あああ、そうですよね! すみません。い、今、大丈夫です」

「よかった。メールの返信、なかなかできなくてごめんね」

「とんでもないです! 私こそ、お忙しいのに、あんなメールしてすみません。まさか、お電話をいただけるなんて……」


 もしかして、思っていた以上にあのお誘いメールは迷惑だったのでは⁉

 電話での苦情だったら、どうしよう。

 こんなことは迷惑だから、二度とメールしないようにとか。当然、会うなんて無理だとか。


 滑落するようにマイナス思考に落ちていく私の耳に、ククッ、あははっと聞き慣れない笑い声が聞こえてきた。


「え?」


 何、事……?


「黒崎、さん?」


 私の小さな呼びかけも聞こえていないのか、止まらない黒崎さんの笑い。


 ……どうしたら、いいのだろうか。


 仕方なく、二度目となる黒崎さん貴重レアな笑い声を堪能しようと若干開き直り、暫く待っていると、ようやく治ってきたらしい黒崎さんがはあっと息を吐いた。その音すらも明瞭に聞こえて、まるで耳に息を掛けられたように感じ、ドクンと心臓が跳ねた。

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