第五章 緊張と静穏の狭間
自分から行動を起こしてみます
十一月に入り、あちらこちらで秋から冬への移ろいを感じ始める。
庭先に桃色の山茶花が咲き誇り、近所を歩く小学生が冬の歌を歌いながら歩いているところを見かけようになった。学校で習っているのだろうと想像すると、微笑ましさから頬が緩む。
電車の窓から見える景色では木々から葉が無くなっている様子が窺えて、肌で感じる気温よりも寒く感じる。
そろそろ冬物の服などが必要になるが、夏から少しずつお洒落に気をつけるようになったため、まだ冬物を充実させるまでには至っていない。千絵さんにアドバイスを貰いながら、黒崎さんに会っても恥ずかしくないようにしておきたい。
そんなことを思ってはいるものの、肝心な黒崎さんの仕事が忙しくなってしまったらしく、今のところ水族館に行った以来二人で会えた日はない。
時々、書店には来てくれるが、じっくり話すということはできないまま、もどかしい日々を送っている。メールはほぼ毎日のようにやりとりをするようになった。私からメールするということはできず、いつも黒崎さんからメールをくれる。
内容は大したものではないし、長くやりとりが続くわけではない。その日あったことや読んだ本のこと、新刊のことなど、私でも返事に困らないようなものだ。
黒崎さんが気を遣ってくれているのかもしれない。そんな細やかな気配りができるところも素敵だなと思う。
*
「で、電話はしてないの?」
ある日の帰り際、早番でエプロンを片付けているところに、唐突に千絵さんが話を振ってきた。
「へ?」
「だから、黒崎さん!」
そう言いながら、千絵さんも隣で同じく帰り支度をしている。手はいつも通り動かしている千絵さんだけど、その声には焦れったいという感情がありありと表れている。
「でで、電話、なんて……メールですら、まだまだ返信に時間がかかるのに」
黒崎さんからの返信は驚くほど早い。もともと文字を打つのが遅い私だけれど、その上言葉や内容をあれこれ考えるから、一回一回の作成に時間がかかる。
そんな私からすると黒崎さんの早さは尋常じゃなくて、どうしたらこうも早く打てるんだろうと疑問だ。建築関係の仕事をしているということだから、理系なのだろうし、IT関連にも明るいのかもしれない。
「どうして? 黒崎さんも案外ヘタレなのね。電話の一つもかけてこないなんて」
千絵さんはそう言って、はあっと大きく溜息を吐く。
「黒崎さんは、ヘタレなんかじゃないですよっ。きっと、私が電話苦手なことに気付いてくださってるんです」
「へえ……随分、黒崎さんのことが分かってきたみたいね。反対に、黒崎さんも琴音のことが分かってきたって感じ?」
「ふぇっ⁉ ま、待って、ください。そういう、ことじゃなくて……」
分かり合えるどころか、まだまだ知らないことが多過ぎる。
黒崎さんが私のことをどの程度理解してくれているかは分からないけど、私は黒崎さんのことを殆ど何も知らないことが、最近ますます気になっている。
例えば、仕事に関してがそうだ。建築関係といってもいろいろあると思うが、どういった仕事内容を担っているか知らない。普段の生活だって知らない。
ハンバーグが好きなこと、落ち着いた音楽が好きなこと、ハイクラスの車を持っていること、ドライブが好きなこと。
私が知っているのは、その程度だ。他にも好きな料理があるだろうし、他にも好きな音楽があるだろう。何処に住んでいるのかすら知らない。ましてや、彼女さんがいるのかも聞いていない。
彼女さんがいるのに、他の女の人と二人で出掛けるような不誠実なことをする人じゃないと思うから、今はいないんだと思っている。私が女扱いされていなければ、出掛けることは問題ないということかもしれないけど。
……やだ、そんなの悲し過ぎる。
「こら、琴音!」
「いたっ」
つい鬱々と考え始めた私は、千絵さんに背中を叩かれて我に返った。
「何を悩んでるのか分からないけど、前に比べたら格段に進歩してるよ! ウジウジしないで、ここら辺で一つステップアップしようじゃないか」
「え、どうやって……?」
「電話を掛ける!」
「無理ですっ!」
「即答しない!」
「だって、いきなりハードルが高過ぎます……」
「もう、仕方ないな……じゃあ、メールで会えないか誘ってみよう」
「それも、無理です。自分からメールしたこともないんですよ?」
「そんなこと言ってたら、何も進めないよ? 全てを黒崎さんに任せるのは卒業して、今度は自分からもアクションを起こさないと」
「そうかもしれない、ですけど……」
自分からメールした上、会いたいって言うの?
無理だよ。
「黒崎さんだって嫌だったらデートなんてしないし、頻繁にメールもしない。ましてや、忙しいんでしょ? そんな時に、どうでもいい人とはメールしないよ」
「そうでしょうか……」
「そうだよ! そうと決まれば、メールしよう」
「え、今、ですか?」
「今! それとも、帰ってから一人で送れる?」
「うう、もっと無理です」
「でしょう? だから、今よ。ほら、携帯出す!」
そう言って、千絵さんはバンバンと私の背中を叩く。今日はやたら背中を叩かれる日らしい。気の弱い私は、急かされるとついその指示に従ってしまう。気付くと、手にしていた鞄から携帯を出していた。
「とりあえず、その辺に座ろう。本当ならご飯でも行きながら一緒にいてあげたいんだけど、今日は彼氏と約束があって、ごめん」
「そんな、気にしないでください! こうして話を聞いてもらえたり、アドバイスをもらえるだけで、とっても心強いんですから」
「琴音には幸せになってもらいたいからね。恋愛の良さを知ってもらいたいし、好きな人と心が通じ合える喜びも知ってもらいたい」
「千絵さん……」
事務所にあるパイプ椅子に座って、向き合いながら聞いた千絵さんの言葉に感動して、グッと目の奥が熱くなった。
本当に千絵さんがいてくれて良かった。一人では何もできていなかった。話しかけることもなく、遠くから見ているだけで、私の初恋は終わっていたに違いない。でも、私には恋の終わらせ方すら分からないのだから、一生抜け出さないのかもしれない。
ふとそんな思考に陥り、この恋の終わりを想像してしまった。
いや、今は考えない!
前を向くんだ。黒崎さんに向かって、ようやく立てるようになったんだから、このまま突き進もう。
「さ、メールを作成しなさい」
「え」
せっかく感動していたのに、またいつもの千絵さんに戻ってしまった。
「まずは、琴音の言葉で書いてみて」
「わ、私の言葉……?」
「もちろん。自分の言葉を伝えることに意味があるんじゃない。琴音の代わりに私が考えたら、自信には繋がらないよ。黒崎さんに対しても、なんだか騙したみたいで嫌じゃない」
「……確かに。わ、分かりました。頑張ってみます」
それから、私は姿勢を正し、深呼吸をして戦闘態勢を整え、携帯に向き合った。頭の中でいろんな言葉が飛び交い、思いついては打ってみるが、納得できなくて消去し、もう一度打ってみて。いつも以上に作成するのに時間が掛かった。
「……できました」
なんとか絞り出した言葉が並んだメール。それを何度か見直して、ようやく身体から力が抜けた。
「そのまま送る?」
「え、嫌です。千絵さん、確認してください」
「うーん、確認はしない方がいいと思うんだけどな。琴音が一生懸命考えた言葉そのままの方が、きっと黒崎さんに届くと思うよ?」
「そんな……自信ないです」
「仕方ないなぁ。じゃあ、見るだけね」
「うぅ、はい」
見るだけなんて、意地悪なこと言わないで。そう思う反面、千絵さんが言いたいこともなんとなく分かっている。千絵さんは、私に自分の力で進んでほしいんだ。きっかけは作るけど、自発的に動いて、自分らしい恋愛をして欲しいということだろう。
確かに、誰かに行動してもらうと、何かあった時にその人のせいにして、逃げてしまう気がする。
自分の恋愛は自分の責任で。後悔なんてしないように。
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