少しだけ、期待しちゃいますよ?

「今日は疲れたと思うから、ゆっくり休んで。明日は仕事?」

「はい。でも、黒崎さんの方がお疲れなんじゃ……」


 私に付き合ってくれて、往復の運転もあって、仕事だって忙しい筈なのに。


「僕の方こそ大丈夫だよ。こう見えて結構タフなんだよ」


 た、確かに、コンビニで抱き止められた時に気付いたのは、細身に見えて意外と筋肉はありそうだということ。男の人の身体なんて、全く知らないから比べることはできないけど。


 ……待って。

 私は今、何て破廉恥なことを考えたの⁉

 黒崎さんの身体が筋肉質っぽいなんて、他の男の人と比較しようなんて、想像した証拠じゃないの⁉

 藤原琴音、最低だよ……。


「すすす、すみません!」

「え?」

「あああ、何でもない、ですっ」


 脳内の反省を口に出してどうする!


「あ、そうだ。はい、これ、お土産プレゼント」


 黒崎さんが後部座席に置いてあったイルカのぬいぐるみを取って、私の手の中に着地させた。

 身体を捻って後ろに手を伸ばした瞬間、黒崎さんの身体が私の間近に迫り、ドクンと心臓が跳ね上がった。ヒュッと細くなった気管を空気が通る音がした。それに気付かれたんじゃないかと思うと、更に心臓は暴走を始める。


「あ、ありがとうございます……」

「どういたしまして。じゃあ、おやすみ」


 動揺したのは、やっぱり私だけ。大人な黒崎さんにとっては、こんな接近くらい何ともないことなんだろう。

 いつだってアタフタするのは私だけ。私が黒崎さんの心を揺らすことなんて、絶対に無理に違いない。

 そんなことを考えてしまったが、いつまでも車に居座ったままでは迷惑じゃないか。黒崎さんの切り上げる言葉に反応して、私は助手席のドアを開けて車外に出た。


「今日は、本当にありがとうございましたっ。お、おやすみ、なさい」

「うん、じゃあね」


 ニッコリ微笑んだ黒崎さんに後ろ髪を引かれながらも、なんとかドアを閉めて深くお辞儀をした。そして、ゆっくり動き出した車を頭を上げて見送る。曲がり角を曲がって見えなくなるまで、私はそこから動くことはできなかった。

 おやすみなさい、だって。今までそんな挨拶はしたことがなかった。なんだか、少しだけ近づいた気がする……気がするだけだろうけど。ふふっと小さく笑いながら家の中に入ると、玄関には母が待ち構えるように立っていた。

 リビングダイニングの方からは夕飯のいい匂いが漂ってくる。そんないつもと変わらない様子にホッとすると共に、一日が終わってしまったのだという淋しさが自分の中にグルグルと回った。


「ただいま」

「おかえり」


 そう言う母の声は、顔を見るまでもなくニヤケているのが分かる。

 靴を脱いで前を向くと予想通りの顔があって、でも少し違ったのはその瞳に優しさが溢れていたこと。

 大好きな母が私を馬鹿にしたり、笑ったりすることなんて有り得ないのに。どうやら黒崎さんといるところを見られて、落ち着いたと思っていたがまだ動揺しているようだ。


「えっと、夕飯って私の分もある?」

「大丈夫よ」

「そっか。ありがとう」


 やっぱり夕飯前に帰されちゃうこと、分かってたのかな。


「しっかりとは見えなかったけど、イケメンじゃない」


 リビングに向かう私の後ろから着いて来る母の弾んだ声。


「ん、かっこいいよ……かっこよすぎて、眩しい。それに……」


 子ども扱いなんだもん。


「いいじゃない。眼福だわ」

「眼福って……」


 その言い方に失笑していると、ポンと背中を叩かれた。


「でも、琴音はその見た目だけを好きになったわけじゃないのよね?」

「うん。もちろんかっこいいと思ってる。でも、それ以上に優しいところとか温かいところとか、穏やかな雰囲気とか、そういうところが全部好き」

「そう。それで? そんな黒崎さんとデートしてきて、琴音はどうして複雑そうな顔をしてるの?」


 ……そんなにも顔に出ているのだろうか。


「すごくね、楽しかったんだよ? でも、こんなにも長い時間いられたのに、もっと一緒にいたいなんて、そんな我儘なことを考えちゃって。それに、黒崎さんはいつも私を子ども扱いするの。今日だって、こんなに早い時間に帰されちゃうし」


 気持ちが緩んでいた私は、心の中にしまっておけばいいことを溜息混じりにボソボソと口に出していた。


「あら、随分と大事にされてるのね」

「え?」


 大事に?


「お母さんは琴音が子ども扱いされいるわけじゃない思うけど。黒崎さんが誠実な方なんじゃないのかしらね」


 確かに黒崎さんは誠実な人だとは思う。でも、それと私が大事にされているということは繋がらないんじゃないのかな?


「そうかもしれないけど、大事になんて……そんなわけないよ」

「まあ、こういうことは本人に聞くのが一番ね。ほら、とりあえずダイニングに行きなさい。お父さんももうすぐ帰って来ると思うから、夕飯にしましょう?」

「ん、そうだね」


 いつの間にかドアの前に立ち止まっていた私の背中を、母はグイグイと押した。


 早く帰されることと、大事にされることは関係があるのだろうか。子ども扱いなんじゃなくて?

 もし、そうだとしたら。頭をポンポンっと撫でてくれるのも、手を繋いでくれることも、私は全部誤解しているということ?

 優しくしてくれるのも、こうして出掛けたことも、何かいい意味があるということ?


 何度も期待しそうになった。その度に、浮かれてしまわないようにブレーキをかけてきたけど、もしかして素直に受け取っていいのかな。

 よく考えたら、あの黒崎さんが考えもなしに行動するわけがない。私が勘違いするようなことはしないんじゃないだろうか。いや、でも、圧倒的に恋愛経験が不足している私が考えることなんて、自分の都合のいいようでしかないかもしれない。

 それでも、一日を振り返りながら黒崎さんのこと考えてみると、少しだけなら期待してもいいのではないかと思い始めていた。


 夕飯を食べ、父や母と家族団欒の時間を過ごしても、私の頭の中はいつも以上に黒崎さんのことでいっぱいだった。でも、これまでどちらかというとマイナス思考に陥りがちな私が、少しプラスの方向に考え始めていた。

 黒崎さんは私を100%子ども扱いしているのではなく、多少なりとも『女性』扱いしてくれているのではないか、と。

 こうして一緒に過ごしてくれたということは、嫌われてはいないんじゃないか、とか。

 私が黒崎さんに持つ恋愛感情と同じ感情を持ってくれているわけではないだろうけど、これから変化していく可能性はゼロではないんじゃないか、とか。

 そういった考えがあれこれと浮かび、ベッドに入った後もふわふわとした気持ちで落ち着かなかった。


 秋の夜長、これまでの私には読書しかなかったけど、今はドキドキと恋焦がれる人がいる。恋する乙女、なんて私には似合わないけど、こうして好きな人を想いながら過ごす日々が訪れるろいうことは幸せなことだと思う。

 この気持ちが通じ合えばもっと幸せなんだろうけど、今の私にはまだ片想いで手一杯だろう。




 ──────ようやく少し明るい方向へと考えが変わって来たというのに、そんな甘い考えが呆気なく砕かれるのは、この日からそんなに遠くない未来だった。



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