笑った貴方にドキドキします

 帰り道も比較的混雑はしておらず、休憩を取ることなく私の自宅近辺まで戻ってきた。その道中、相変わらず緊張している私の気持ちを解すように、黒崎さんがいろいろと話題を提供してくれ、気不味くなることなく過ごすことができた。

 そして、我が家の最寄り駅に近づき、信号で止まった時に、黒崎さんがこちらに視線を向けてきた。


「家まで送るから、この辺りから道を教えてくれる?」

「えっ! そんな、そこまでしていただくのは申し訳ないです。駅で大丈夫です!」


 というか、まだ十九時前だ。今日こそ夕飯も一緒に、なんてことを少しばかり期待していた。遅くまでなんて我儘は言わない。ファミレスみたいなところで充分だから。

 もう少し居たいと思うことでさえ我儘になってしまうのだろうか。でも、今日は朝から黒崎さんの貴重な時間を頂戴したわけだから、もう満足しなくていけないのかもしれない。

 それにしても、黒崎さんはどうして迷うこともなく、私をこんなにも早い時間帰そうとするんだろう。

 やっぱり子ども扱いされているのかな。私だって仕事が遅番だと二十二時過ぎるし、早番の時に千絵さんとご飯を食べに行くことだってあるのに。

 お酒は飲んだことないけど、黒崎さんが望むならチャレンジだってする。黒崎さんがお酒を飲む人なのか、強いのか好きなのか、何も知らないけど。


「僕がそうしたいから、送らせてくれないかな?」

「でも……」

「遅い時間ではないかもしれないけど、一人で歩かせるのは心配なんだ。僕がいる時くらい甘えてくれると嬉しい」


 言われた言葉の意味が分からない。いや、多分分かったんだけど、うまく処理できない。ポカンと口を開けて固まっていたことに気付いて、慌てて口を閉じる。


 どうして、そんなにも甘い台詞を言ってしまうんですか!

 期待してしまうじゃない。

 甘えて、なんて。今でも充分甘えてしまっていると思うんだけど。


 それから、すぐに信号が変わってしまって、黒崎さんはまた前を向いてしまった。それに救われた。あんな台詞を言われて、その上見つめられていたら思考は停止したまま返事をすることもままならない。


「次の信号はどっち?」

「え、あ」

「ほら、行き過ぎちゃったり、遠回りになっちゃったりするよ?」

「それはっ」


 そんな迷惑は掛けられない。


「教えて?」


 あああ、もうっ。上手な切り返しが浮かばないよ。


「……二つ目の信号を右折、です」

「了解」


 俯いていた私が黒崎さんの顔を見ることはできなかったが、そう返事をした声から、なんとなく微笑んでくれている気がした。その後、促されるままに道案内ナビをして、遂に自宅前まで辿り着いてしまった。


「はい、到着」

「あ、ありがとうございます」

「うん、お家の人は大丈夫かな?」

「は、はい……大丈夫です」


 寧ろ、こんなに早く帰ってくるとは思っていないかもしれません。


「今日はありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございますっ。すごく楽しかったです」

「良かった。僕も楽しかったよ」

「それは、良かったです……黒崎さんには水族館は退屈なんじゃないかと心配でした」


 私のために水族館を選んでくれたようなものだもんね。それにお付き合いさせてしまったのは事実だし。


「そんなことないよ。僕も久しぶりで楽しかったから。藤原さんがはしゃいでいるところも見れたしね」

「うわぁっ! それは、あの、忘れてください」


 水族館ではしゃぐなんて、ますます子どもだと思われてしまう。


「どうして? あんなに喜んでくれたんだから、少し遠出した甲斐があったなと思っているんだけど」

「それは、もちろん嬉しかったですけど……恥ずかしい、です」

「恥ずかしがることないよ。今日はまた違った藤原さんが見られて嬉しかったよ」

「うぅ……」


 どうしよう。甘過ぎる。これは、どういう状況?

 どうして、私は黒崎さんから甘いことを言われているんだろうか。ただの書店員とお客さんなのに……。


「本当に藤原さんは表情豊かだね」

「ええっ⁉」


 それは、どうなんだろう⁉

 そんなにも顔に出てるの?

 どうしよう、今すぐ居なくなりたい!


 私は居た堪れなくなって、両手で顔を覆った。


「見ていて飽きないよ」


 そんなことを重ねて言う黒崎さんが好きを通り越して、最早憎らしい。


 飽きないという言葉はいい意味?


 顔を隠すだけでは耐えきれなくなってきた私は、無意識に足をバタつかせていたらしい。

 その時、突然、隣から大きく吹き出す音が聞こえた。何が起こったのか分からず、思い切って顔を上げて黒崎さんの方を見てみる。そこには拳を口に当てて、爆笑している黒崎さんがいた。


「……え」


 黒崎さんが、声を上げて笑ってる?


 目の錯覚ではないかと自分の目を疑ってしまう。拳で口元は隠されてしまっているけど、左手はおなかを押さえているし、肩も震えている。眼鏡の奥にある切れ長の目は今はすっかり細められ、少し目尻が下がっているように見える。なんとなく眦に涙が浮かんでいるように見えるのは、流石に気のせいかもしれないけど。

 なにより『クスクス』なんてかわいいものじゃない。今までの黒崎さんからは考えられないような楽しそうな笑い声。

 信じられなくて、でも、目の前には確かに笑っている黒崎さんが居て。現実がじわじわと私の中に入ってきて、気分が高揚していくのが分かる。

 興奮して当然だ。声を出して笑ってもらうことをずっと望んでいたのだから。


「……ああ、もう、久しぶりに笑ったよ」

「えっと」


 黒崎さんは、はぁっと大きく息を吐いて、姿勢を正して座り直した。私は何て返事をすればいいのか分からず、茫然と黒崎さんを見つめることしかできない。


「はは、ごめん、ダメだ。急に笑われても困るよね」


 深呼吸しながらも、未だ込み上げる笑いが治りきらないようだ。


「いえ、困りはしないですが……」


 いや、反応に困っているのか。


「ありがとう」

「……どういたしまして?」


 何故お礼を言われたのか、ちょっと思い当たらなかったが、とりあえず返事をしてみる。


「ぷっ、うん、いい子だね」


 黒崎さんはそう言って、首を傾げた私の頭をポンっと優しく撫でて微笑んだ。何度目かになるその仕草。それでも、私は慣れることはなくて、ギュンッと勢いよく心臓が鷲掴みされて呼吸が止まった。

 また『いい子』と言われてしまった。子どもが笑わせてくれた。そんな感覚なのだろうか。


「え、っと」


 私、全然いい子なんかじゃないのに。黒崎さんとは釣り合わないと分かっていても、好きだという気持ちを抑えることができなくて、また会いたいだなんて我儘なことを思っている。

 こんなにも長い時間一緒にいたのに、まだ帰りたくないなんて自己中心的な考えが頭の中を占めているんだから。

 なにより。私は黒崎さんにとって『いい子』でいたいんじゃない。

『いい女』『好きな人』になりたい。『特別な人』に、なりたいの。

『いい子』だなんて言われると、この先黒崎さんにとって、そういった存在になることはないと、線を引かれたように感じてしまう。そう思うと、切なくて、悲しくて、心も身体も粉々に砕け散ってしまうのではいかと思うほど痛い。


「あ、の」

「ん?」


 何を言えばいいの?


 このタイミングで『好きです』なんて言うことはできない。黒崎さんの得意技である返事にたじろいでいると、視界の端にあった我が家の玄関のドアが開いたのが見えた。そこから、母が顔を出して、こちらに気づいてしまったようだ。

 黒崎さんと一緒にいるところ見られた恥ずかしさで、かあっと顔が火照り、暑くもないのに汗が滲んできてしまった。無駄だとは分かっていても、俯いて顔を隠そう試みる。

 それでも、そんな私の反応と直前の視線から、黒崎さんは察しらしい。


「親御さんが心配されるね」

「……そう、ですね」


 もう帰ることを渋るのは限界だ。


 これで終わりなの?

 今日で会えるのは最後?

 そんなの嫌だ。子ども扱いされようと、私は黒崎さんに会いたい。

 書店員とお客さんとしてお店で会うのではなく、例えその関係が変わらなくても、こうして二人だけの時間を共有したい。


「あああ、の、えっと、ま、ま、」


 また、会いたいです。


 たったそれだけ言えばいいのに。大事な言葉が口から出ることを拒否しているかのようだ。


「うん」

「その、ま、また」

「うん、また連絡するね」

「っ、はいっ!」


 伝わった!

 しかも、黒崎さんから次も匂わせる言葉を貰えた。

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