積極的になりたいです

 イルカショーが行われる大きなプールの観覧席には既に多くの人が座っていた。平日で人が少ないと思っていたが、ショーを見るために館内中から集まると、これだけの人がいたのかと驚くほどだ。

 黒崎さんに手を引かれて、空いている席に並んで座り、そこでようやく繋がれていた手が離された。その瞬間、右手を冷たい空気が覆い、心細くそして寂しく感じてしまう。あれほど手を繋ぐことは緊張でしかなかったのに、我ながら現金なものだと苦笑する。


「寒くない?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

「うん、もし寒かったら言ってね」

「はい」


 屋外にあるため、天気がいいとはいえ、水場が近いからか吹き抜ける風が少し冷たい。そんなことにすぐ気付いて、私のことを気にかけてくれる黒崎さんはやっぱりすごい。私なんて自分のことで精一杯なのに。


 ……仕事もできる人なんだろうな。


 仕事をしているところを見てみたい。きっと、かっこいいに違いない。でも、逆立ちしたって天変地異が起こったって、書店員の私にその機会が訪れることはない。


「イルカって泳ぐのが速いし、賢いって話をしてたでしょ?」

「え? あ、は、はい」


 これから行われるショーがどんなものなのか、いろいろ想像しながらワクワクと興奮していた私は、突然話しかけられて驚いてしまった。


「イルカの種類にもよるけど、速いものでは五十km/hくらい出るし、知能も人間に近いくらいなんだよ」

「えぇ⁉ 車と変わらないってことですか? 頭の良さも、人間に近いなんて……もしかして私よりも賢いのかも」

「はは、それは言い過ぎだけど。それにね、イルカにも個性があって、訓練する時にはそのイルカに合ったやり方で行われてるんだ」

「そうなんですか。イルカってすごいんですね。でも、イルカも泳ぎ続けてて、疲れないんですかね……」

「大丈夫。泳ぎ続けてるけど、眠る時は左右の脳を交互に休めているんだ。面白いのが、休めている方とは反対の目を閉じて、一定方向にクルクル回って泳ぐから眠っていることが分かるんだよ」

「ふふ、それはおもしろいですね! 見てみたいな。きっとかわいいでしょうね」


 黒崎さんはそんなことまで知識があるんだ。専門ではないはずなのに、尊敬してしまう。そんなさり気ないかっこよさにも私の恋心は擽られる。

 そんな会話をしていると、突然音楽がかかり、目の前の大きなプールでイルカが何頭も泳ぎ始めたのが見えた。


「うわぁっ、こんなにもたくさん! ほんとに、速いんですね!」


 目の前を想像していたよりも速く泳ぐイルカが通り過ぎて行く。黒崎さんから話を聞いていたとは言え、実際に見てみるとその印象は全然違った。

 それから、私は夢中でイルカショーを見て興奮し、いろいろと自分から黒崎さんに話しかけていた。もちろん、通常では不可能に近いことだが。

 大した内容ではないし、興奮のままに話したから、恐らくいつも以上に子どもっぽかったのではないだろうか。


 ショーが終わってからも昂った気持ちはなかなか落ち着かなかったが、冷静になってようやくそのことに気付き、お手洗いに逃げ込んで肩を落として落ち込んだ。後悔しても遅いし、今更取り繕うこともできないことは分かっている。

 でも、なんとかしてお子様から脱出したい。そもそも色気の欠片も、恋愛経験値もない私ができることはあるのだろうか。

 何の打開策もないままに、これ以上お手洗いから出ていかないのは恥ずかしいと思い、渋々黒崎さんの元へ戻った。

 せっかくのデートで黒崎さんのところに戻るのに、渋々というのは如何なものか。落ち込んでいる場合じゃない。今日という貴重な日デートを楽しまなくてどうする!

 いや、結構水族館を満喫できているのだから意外と楽しめているのかな。

 どのように行動することがデートとして相応しいのか分からないが、なんとなく笑顔が一番大事だろうという単純な結論だけを弾き出した。

 黒崎さんの目の前に着いた時には、がんばって精一杯の笑顔を張り付けてみる。


「お、お待たせしました」

「いえいえ。おなかは空いてる?」

「あっ、そういえば……」


 イルカショーが昼前に始まったため、気付けば昼食の時間を過ぎていた。今まで気付かなかったが、そう言われた途端、空腹を感じる。


「じゃあご飯食べに行こうか。せっかくだから館内にあるレストランに行こうかと思うんだけど、どうかな?」

「はい、そこがいいです!」


 実は入り口でもらった館内案内でレストランがあることは知っていた。

 そこは一番大きな水槽に面していて、食事をしながら悠然と泳ぐ大きなジンベイザメを見ることができるという。もちろん、他にもたくさん魚も泳いでいて、絶対に、絶対に、眺めがいいはずだ。

 でも、行きたいです、なんて自分から言い出すことはできなくて、どうしようかと思っていたのだ。

 張り切って返事をした私を見て、黒崎さんはクスリと笑みを浮かべ、一度ポンッと私の頭に手を弾ませてから歩き始めた。

 ワクワクしていた私は、楽しみだという気持ちがすっ飛ぶほど心臓が飛び跳ね、ドキドキと走り出す心臓の音が耳元で鳴っているように感じる。

 これまで何度も頭ポンポンはされているし、手だって繋がれている。ショーの前なんて見て回る間ずっと繋がれていた。

 手を繋ぐことは随分と慣れた気がしていたし、多少のスキンシップにも、もうそれほど動揺しないと思っていたのに、やっぱり緊張して気持ちが振り切れてしまうようだ。今後いつまで経っても慣れることはないかもしれない。


 ……今後、なんてあるの?


 朝、言われた言葉が蘇る。黒崎さんは如何にもこれからもあるようなことを言ってくれた。

 それは素直に期待してもいいのだろうか。

 今はそれほど密な付き合いとは言えないけど、これまでの黒崎さんを見ていると、社交辞令を言うような人ではないと思う。


 それに、誤解しそうなことを言う人じゃない……よね?

 いやいや、ダメ。やっぱり期待しちゃダメだ。だって、もうこれでおしまいとなった時に落ち込みが半端ないに違いない。

 でも、と思う。


 黒崎さんにばかりに任せて自分からは何もしないなんて、そんなことでいいの?


 前に進むためには、受け身でいるばかりではなく、自分からも行動を起こさないといけないんじゃないだろうか。


 よし!

 具体的にどうしたらいいかは分からないけど、今日は積極的になるっ。

 次の約束を取り付けたい!

 え、と言うことは、私からデートに誘うことになるんだよね?

 それはいくらなんでも無理だ……。


 また会いたい。デート、したい。


 その気持ちだけでも、がんばって帰るまでには伝えることはできるだろうか。たったそれだけのことを言うことに躊躇しているようでは、『好きです』なんて絶対に言えない気がする。

 そうして、気持ちが上がったり下がったりしながら、遅れを取らないようにだけは気をつけて、黒崎さんに着いて行った。

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