その表情が気になります

 目的のレストランはランチタイムのピークは過ぎていたからか、すんなり案内され、しかも楽しみにしていた大水槽がよく見える席に座ることができた。

 大水槽がよく見えるようにと、席は其方の方へ二人ともが向かうように配置されている。ただ、救いなのは隣同士ではなく斜向かいだということだ。

 これ以上、黒崎さんに接近してしまうと緊張と興奮で身体が熱くなって、焦げ付いてしまいそう。人体発火現象ミステリーが起こって、ニュースになるかもしれない。いや、その前に、黒崎さんまで巻き込むことになるのでは。


 ……何を非現実的な思考に陥っているの。


 その後、私はオムライスを、黒崎さんはハンバーグランチを注文した。どうやら、黒崎さんはハンバーグが好きらしい。大人の男性がハンバーグ。


 どうしよう。なんだか、そんなことにキュンとした私はおかしいのかな。


 その後、時々会話をしながら、二人でボーッと水槽の中を泳ぐジンベイザメや魚を眺め、のんびりとした昼食のひと時を過ごした。

 一度カフェでお茶をしているが、本格的に食事となると初めてのこと。緊張しないわけがない。でも、何も喉を通らないのではないかとか、味も分からないのではないかとか、たくさんの不安があったが、それは意外にも大丈夫だった。

 恐らく、黒崎さんの雰囲気づくりが上手だから。緊張して、ドキドキして、かっこよさと言動のスマートさにキュンキュンして、胸は苦しいほどなのに。どうして、黒崎さんといると心がポカポカしてくるのだろう。

 目が合うとピキッと身体が固まってしまうから見るのは怖いはずなのに、気付くとやっぱり見つめてしまっている。そして、私と目が合った瞬間、切れ長の目を僅かに細めて微笑まれてしまうと、その度にズドンと心臓を撃ち抜かれる。

 もう何度、瀕死状態に追い込まれたか分からない。


 そんな昼食も無事に終わり、私たちは再び館内をゆっくり見て回った。期待していた、わけではない。いや、多分期待していた。この後も手を繋いでもらえるのかなと。

 でも、私の右手は空いたまま、ふわふわとあてもなく空を彷徨さまよっている。

 緊張して戸惑うくせに、なんて贅沢な期待なんだろう。かといって、私から黒崎さんの手を捕まえにいくことなんて到底無理だ。まだ、逆立ちして館内を回れと言われた方がなんとかなるかもしれない。


 ……逆立ちできなんだけれども。


 でも、隣を歩く黒崎さんの表情は穏やかで、ほんのり笑っているような口元が窺える。もしかしたら、黒崎さんも楽しいと思ってくれているのかもという蓋然がいぜん性の乏しい推測が頭に浮かんだ。

 そうだとすると、期待してはダメだと思うのにその戒めは簡単に解けてしまいそうになる。

 水槽を覗き込んでいる私の隣に顔を寄せてくる黒崎さんの真意も分からない。近づかれると、黒崎さんのいい匂いがハッキリ分かってしまう。いつもは上の方にある綺麗な顔が、横を向けばすぐそこにある。

 私にとっては嬉しいよりも動揺の方が強くて、思わず身体を仰け反らせてしまうこともあった。

 黒崎さんはそれに気付いていないのか、気付いていて敢えてやっているのか、近くに顔を寄せることを止めることなく、何度も何度も私たちは接近した。



 館内を全て回り終わったのは十五時過ぎだった。


「もう一度行きたいところはない?」


 出口近くのショップを前にして、黒崎さんは私の正面に向かい合う。当然真っ直ぐに受けた視線に驚き、思わず逃げるように俯いてしまった。

 黒崎さんの手元に視線がいったが、視線を外してしまったのは感じが悪かったのではと焦って、慌てて黒崎さんを見上げる。

 また繋ぎたかったなという我儘を見透かされそうで怖かった。そんな我儘は知られたくない。


「は、はいっ。ゆっくり回らせていただいて、ありがとうございました」


 そんな心の内に気付かれないように、ぺこりと深く頭を下げた。


「楽しかったなら良かった」


 いつもと変わらない優しくて穏やかな声を聞いて、何も知られなかったのだと胸を撫で下ろし頭を上げる。


「すごく楽しかったです!」

「イルカとクラゲに魅入っていたね」

「かわいかったので……」


 少し興奮し過ぎたと恥ずかしくなって俯いた私の頭に、トンッと重みが加わった。流石にこの感覚は身体が覚え始めたらしい。何をされたのかを意識する前に、ギュッと胸が締め付けられて、瞬く間に顔が熱くなっていく。

 恐る恐る顔を上げると、予想通り黒崎さんの大きな手が私の頭に乗っていた。

 茫然と黒崎さんを見つめていると、黒崎さんは優しく微笑んで、乗せていた手を滑らせて髪を撫でた。

 二度、三度と手は動かされる。首や頬に髪が触れて少し擽ったい。それすらも茫然とされるがままになっていたが、ふと我に返って「え、あ」と意味を持たない言葉が口から漏れた。

 その時、私を見ていた黒崎さんの表情が一瞬切なげに変わった、気がした。本当に僅かに、そして一瞬だったため、見間違えたのかもしれない。

 でも、映画を観に行った日の別れ際、こうして私に触れた時にも黒崎さんは表情を変えた気がする。


 どうして、そんな顔をするの?

 私は壊れそうなほどドキドキして、どうしたらいいのかは分からないけど、素直に嬉しいと思うのに、黒崎さんはどうして哀しそうなの?


「あ、の」

「何かお土産見ようか」

「え」

「おいで」


 黒崎さんは私の言葉を遮るようにそう言って、ショップの方へ歩き始めてしまった。突然の変化に追い付けず、歩き出せなかった私を黒崎さんは珍しく置いて行ってしまう。

 これまでなら、手を取ってくれたり、背中に手を添えてくれたりしたのに……。そうでないにしても、置いて行ってしまうなんて。

 もちろん、それは贅沢な望みだと分かっている。優しくエスコートされることがあまりに当たり前になり過ぎていて、贅沢になっているのかもしれない。

 ふうっと大きく息を吐いて気持ちを切り替え、慌てて黒崎さんの後を追った。

 数歩進んだところで前を歩いていた黒崎さんがピタッと止まり、普段の落ち着いた雰囲気からは想像できないほど、勢いよく振り返ったためビクッと身体が飛び跳ねる。


「ごめん」

「へ?」


 突然の謝罪の言葉と共に私の元まで戻って来て、似合わないような強引さを僅かに感じさせる仕草で私の右手を掴んだ。今度は何も言わずに手を引いて歩き始めてしまった。

 その一連の出来事のせいで、私の思考はその場に置きざりにされ、身体だけが引っ張られていくようだ。


 一体、黒崎さんに何が起こったの?


 少し前を歩く黒崎さんを見上げても、その表情は見えない。言い知れぬ不安が胸に広がり、ザワザワと嫌な音が私の中に響いた。

 ギュッと握り潰されそうなほど痛い心臓に気付かないように俯いて歩いているうちに、いつの間にかショップへと到着した。


「ゆっくり見ておいで」

「あ、はい」


 気持ちを切り替えろ、琴音。


 何も話すつもりがないことは、よく分かった。

 振り向いた黒崎さんは既にいつもの優しい笑顔に変わっていて、その雰囲気もすっかり元に戻っていたのだから。だから、わたしももう引き摺ってはいけないということだ。

 恐らく、これ以上踏み込むなという線が引かれた。そう思うと、黒崎さんにとって私はその程度の存在なのだと突きつけられたようで悲しい。


 ……当然か。こんな頼りない私になんて、相談することはないもんね。


「僕のことは気にしなくていいから」

「は、はい」


 私の返事を聞いて、黒崎さんは繋がれた手を離した。今、手を離されると、あの切なげな表情と黒崎さんらしくない行動が頭を過ぎって、正直辛い。

 もう二度と、この手が繋がれることはないのでないかと怖くなる。そこに不安を感じるような立場ではないのに。


 やっぱり『これから』なんて無いんじゃないかな……。


 最後かもしれないのなら、今日の思い出に何か買いたい。私はジクジクと膿んでいきそうな胸を必死に抑え、店内を見て回った。

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