ハプニングです
「出発するけど、大丈夫?」
「は、はいっ」
黒崎さんは私の返事に微笑んで頷くと、静かに車を発進させた。
走り出しても殆ど音はなくて、音楽もかかっていないためとても静かだ。静かすぎて、私の早い鼓動が聞こえているのではないかと不安になる。
「何か音楽でも聴く?」
「え? あ、はい……」
「好きなアーティストとか好きなジャンルはある?」
「えっと、特に無い、です」
本当に本ばかりが好きで、私はあまりテレビを観ない。音楽も聴かない。
……つまらない女だよね。もっと、勉強しておけばよかった。
「それなら僕の気に入ってるものでもかけようか? それとも何もかけない方がいい?」
「い、いえ! 黒崎さんのお好きな音楽をかけてください。本当に私は何でもいいので……」
それに、黒崎さんの好みが分かるチャンスだ。それから、黒崎さんは
「少し昔の人なんだけど、落ち着いた曲調が気に入ってるんだ。藤原さんも賑やかな曲より、こういう音楽の方が落ち着くかなと思って」
「はい! すごく、素敵な声の人ですね」
曲が素敵なだけでなく、黒崎さんのことが少しだけ知ることができた気がして、嬉しくてテンションが上がってしまい、その勢いで思いっきり黒崎さんの方へ顔を向けてしまった。
そこには真っ直ぐ前を見て運転している黒崎さんがいて……当たり前なんだけど。
でも、その綺麗な横顔も、ハンドルに伸びている思ったよりも逞しい腕も、今までも感じていた大人の男性だという部分がますます際立っていた。
ゆったりとした音楽の中に、私の心臓だけが場違いのように暴れていて、その音楽を乱してしまっているようだ。
せっかく私も落ち着けるようにと曲を選んでくれたのに、これでは意味がない。この光景はダメだ。見てはいけなかった。でも、かっこよくて、ずっと見ていたい、目に焼き付けておきたいという思いもある。
ほんと、私の中って矛盾している。
これ以上見ていると死んでしまうと感じ、慌てて反対を向いて窓の外に視線を移した。平日ということもあって、道路は比較的空いている。
天気も良くて、緊張はするけど、その分アドレナリンが放出されているのか気分はどんどん上がっているような気がする。
「少し距離があるし、何か飲み物でも買っておく?」
「いいい、いえ。そんな、大丈夫です」
「……僕がコーヒーを買いたいから、コンビニあったら寄ってもいい?」
「あ、はい!」
それから十分程走ったところにコンビニがあり、車はその駐車場に入って行った。
「おいで」
駐車を終えると、黒崎さんは運転席のドアを開けて、私の方を見て声をかけてくれた。手招きをしながら、耳触りのいいテノールの声でそう言われてしまうと、拒否する選択肢はあっさり消えてしまう。
私が助手席から降りるのを優しい表情で待ってくれ、そんな大したことのない瞬間にさえトキめく。待たせてしまうのは申し訳なくて、つい小走りで近寄ると、またしてもクスクスと笑われてしまった。
「そんなに慌てなくてもいいよ。コンビニは逃げていかないし、余裕もって出発してるから水族館もゆっくり回れるからね」
「あ、はい。すみません」
「何も悪いことをしていないのに、謝らなくていいんだよ」
「すみま、あ……」
「うん、これから『すみません』は禁止にしようかな。ほら、行こうか?」
そう言いながら、黒崎さんは当たり前のようにドアを開けて、私を先に通してくれる。身体を小さくしながらそのドアを抜けたけど、黒崎さんの近くを通った瞬間ふわっといい匂いがして、まるで包まれているような錯覚起こした。
身体が近づいたというだけでも胸は高鳴るのに、嗅覚にまでその存在を主張されてしまうと、もうどうしたらいいのか分からない。とにかく早く離れたくて、急いで店内に入った。
「藤原さんも何か飲み物買わない? 僕一人で飲むのは寂しいから付き合ってくれると嬉しい」
黒崎さんは自然に私の隣に来て、更には少し屈んで顔を覗き込んでくる。
「ひゃあっ」
離れたことで少し油断していた私はその不意打ちに変な声が出て、更に後ろに仰け反ってしまった。
後ろに倒れる……!
反射的に目を瞑り衝撃を覚悟したけど、訪れたのは衝撃ではなくて温もりとあのいい匂いだった。
何が起こったのか分からなくてゆっくり目を開けると、黒崎さんのシャツのボタンがあって、少し視線を上げれば私にはない喉仏が見える。
そう、私は黒崎さんの腕の中に包まれていた。
そう気付いた途端、ドクンと血液が一瞬で沸騰したように泡立ち、身体中が熱くなる。いつもなら叫び声をあげるところかもしれない。
でも、許容範囲を勢いよく突き抜けるように超えてしまった状態に、喉が引き攣ったように締まってしまい呼吸すら止まった。
何も口を開くこともできず、そのまま固まっていると、僅かに背中に回った腕に力が入った気がした。
「大丈夫?」
「わぁっ、すすす、」
「ちょっと落ち着こうか」
そう言いながら、ゆっくりと私の体勢を立て直してくれたため、慌てて両足に力を入れて真っ直ぐ立った。
でも、でも、こんなの落ち着ける訳がないっ!!
どうしたらいいの⁉
顔が上げられないし、暴れている心臓が今にも飛び出してしまいそうで痛くて苦しい。
「あああ、あの、すみません、でしたっ」
「これくらい気にしなくていいから。もしかして、僕が驚かしちゃったからいけないんだよね? 僕の方こそごめん」
「い、いえ。私が勝手に驚いてしまっただけなので……」
この会話をしながらも、少しだけ離れただけのお互いの身体はまだまだ近い。そんなパニック状態の私を更に飛び上がらせるように、入り口のドアが開く時の音が聞こえた。
「あぁ、すみません。藤原さん、こっちにおいで」
黒崎さんは入り口の方へ向かって頭を軽く下げた後、私の背中に手を添えて、まるでエスコートするように歩き出した。再び近づいた身体が燃えるほど熱くて、私の限界を軽々と超えたこの状況では、いつ気を失ってもおかしくはない。
そんな私を知ってか知らずか、黒崎さんはそのまま飲み物売り場まで連れて行ってくれた。
こんなの、恋人同士がすることでは……⁉
ん?
それどころか、人のいるところでここまで身体を寄せるような恋人も少ないのでは⁉
黒崎さんにとっては普通のことなの?
クールに見えて、スキンシップは多い気がしてたけど、女の人には誰でもこういうことできちゃうのかな……。
軽い人には思えないけど、もしかして、意外と遊んでる人?
まさか!
黒崎さんはそんな人じゃない……と思う。
でも、きっとお付き合いした大事な女の人には、こうして自然に触れるんだろうな。
それは優しいということだけど……なんだか、嫌だな。
これって、醜い嫉妬だ。
そんなことをグルグルと考えている間、黒崎さんがどんな表情で、どんな思いでいたのか、私には気付く余裕もなく、売り場の前まで来てすぐに、私の身体はあっさりと離されていた。
「紅茶にする?」
「へ?」
「好きな物選んで?」
「あっ、はい」
ボーッとしていた私は何を言われたのか理解できず、妙な返事になってしまった。それでも、もう一度言われた言葉に反射的に身体が動き、ペットボトルのレモンティーを手に取った。
それを黒崎さんは何も言わずに私の手から抜き取って、レジの方へ歩き出す。あっという間の出来事に茫然としてしまったが、慌てて後を追った。
「く、黒崎さん、あの、私、自分で買います!」
「僕が買うついでだから。それに買うのを付き合ってって言ったのは僕だしね。あ、お菓子とかも買う?」
「えっ、い、いらないです」
「そう? じゃあ、ちょっと待っていて」
そう言って、黒崎さんはレジで私の飲み物とホットコーヒーを購入した。
お菓子とか……もしかして、とことん子ども扱いをされているのだろうか。クスッと笑いながらお金を払っている黒崎さんを後ろから見ていて、そんな扱いに悲しくなると同時に悔しくて、少し怒りも生まれてきた。
いつか、私を子ども扱いできないようにしたい……!
この時、私はそう心に誓った。
そして、黒崎さんがコーヒーを受け取るのを見届けて、車へ促されるままに着いて行った。
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