それは想定外です
遂に、遂に……水曜日。
あれこれと無駄なシミュレーションをしているうちに朝を迎えた。
私の経験値は限りなくゼロに近いから、シミュレーションをしても大したことはできていないと分かっているのに、止めることができなかった。
落ち着かない私は、まだ外が薄暗いにも拘らず活動を開始した。
ドキドキと煩い心臓の音がシンっと静まり返った部屋にやけに響いている気がして、それがまた自分の緊張を強める。何度も深呼吸をしながら、シャワーを浴び、着替えたりお化粧したりと、いつもよりも丁寧に時間をかけて頑張った。
朝食を作りに起きてきた母がキッチンで先に朝食を作り始めていた準備万端な私を見て、目を見開いて固まった。でも、それも一瞬のことで、ふふっと笑って何も言わずに一緒にキッチンに立ってくれた母の存在がとても頼もしく感じた。
朝食を食べ終わり、歯磨きも済ませると、何度も何度も鏡を見て全身をチェックする。
「琴音」
「あ、お母さん……」
「大丈夫よ。かわいいから」
自分の部屋とリビングを無駄に行き来している私を見て、いよいよ見兼ねたのか、母から声が掛かった。その表情はとても穏やかで、ニッコリと笑った母の顔を見て少しだけ身体の力が抜ける。
「でも……」
本当にかわいいのだろうか。こんな私でも黒崎さんの隣に立って、恥ずかしくないだろうか。今日も、黒崎さんは私に笑いかけてくれるだろうか。
「お母さんの子でしょう? 少しは自信持ちなさい」
「……お母さんは自分に自信あるの?」
「そうねぇ、あると言えばあるし、ないと言えばないかしら」
「どういうこと?」
「お母さんは自分に自信は無いけど、お父さんがかわいいと言ってくれたら、その言葉を素直に受け取ることにしてるの。お母さんは他の誰でもないお父さんにそう思ってもらえさえすればいいから」
「お父さんにだけ?」
「そうよ。誰から見てもかわいいと思われなくてもいい。お父さんに思ってもらえばそれでいいでしょう? 琴音も、黒崎さんにかわいいと思ってもらえればいいんだから」
「そうかもしれないけど……その黒崎さんにかわいいと思ってもらえるかが不安なんだもん」
「大丈夫。琴音が黒崎さんを想ってかわいくなろうと努力していることは伝わると思うし、そういうところがいいと思ってもらえるんじゃないかしら」
努力……は、確かにしてるつもりだけど、それが伝わるだけでかわいいと思ってもらえるのかな。
「……でも」
「自分のためにかわいくなろうとしている女の子を認めてくれない男の人は、やめておきなさい」
「え」
まさか突然やめるように言われるとは思わず、一瞬にして身体が固まる。
「そういうところをちゃんと見てくれない人は相手の良いところにも気付けないだろうし、第一余裕が無さすぎて琴音を任せられないわ」
「ま、待って。でも、やめるなんて」
「あら、黒崎さんは心に余裕のある人なんじゃないの?」
そう言われて、いろんな黒崎さんを思い起こしてみる。どんな場面でも落ち着いてリードしてくれ、優しい目で私を見てくれる黒崎さん。眼鏡の奥にある切れ長の瞳は一見冷淡に見えるけど、微笑むと一瞬にして柔らかく温かい眼差しへと変わる。
そんな黒崎さんを見ると『ああ、私はこういう黒崎さんが好きなんだな』と実感する。
端正な顔立ちだから好きなんじゃなくて、黒崎さんの内面に惹かれていて、その上でその外見に落とされる。落ち着いた雰囲気も包まれているような気になって心地良く感じてしまう。もちろん私の勝手な思いだけど。
「黒崎さんは大人でいつも余裕があって、私が隣にいてもいいのか不安になるくらい、素敵な人」
「そう、それなら大丈夫。それと、一緒にいることに誰の許可も必要ないわよ。その人が隣にいていいと言ってくれたら、胸を張って隣にいればいいのよ」
「……そういうものなのかな」
「そうよ。ほら、時間は大丈夫? せっかくなんだから、思いっきりドキドキして、思いっきり楽しんできなさい」
「うん、ありがとう」
そう言われて、そのドキドキに殺されそうなほどですが、とは言えなかった。でも、思いっきり楽しむというのは大事かなと思う。映画の時も思ったけど、今日が最後かもしれないのだから。そう思った途端、急に胸が締め付けられたようにギュッと痛んだ。
……最後だなんて、嫌だ。
でも、もし黒崎さんが次の約束をしてくれなかったら、私からは何も言い出せないだろう。つまりは、今日で会う予定は途絶えてしまう。
どうしたらいいのだろうと思いながらも、出掛ける最終チェックをして「いってきます」と声をかけて家を出た。
心の中がもやもやとしながらも、足を動かせばあっという間に最寄り駅に着いてしまった。まだ約束の時間まで三十分は優にある。駅前を見回して黒崎さんがいないことを確認して、ホッと胸を撫で下ろした。
改札が見えるような位置に移動して、ぼんやりとしながら待った。
久しぶりに会えることへの緊張と興奮、今日という日がどんな一日になるのかという期待と不安、今日以降は黒崎さんとは会えなくなるのではないかという煩慮で頭の中はぐちゃぐちゃだ。
はふっと中途半端な溜息を零していると、背後に車が止まる気配がした。誰かのお迎えだろうかと何気なく其方の方を振り向き、ピシッと身体が硬直した。
駅のロータリーに一台のシルバーの車が停まっていて、どう見てもそこから黒崎さんが降りてきて此方に向かっている。
「藤原さん、おはよう。お待たせ」
「おおお、おはようございます……!」
まさかの車……!
「いい天気でよかったね。一時間半くらいドライブになるけど、車で大丈夫?」
「は、はい」
「じゃあ、行こうか」
「……はい」
あぁ、もう少し会話らしい会話をしたいのに、返事しか出てこない。
待って。車ってことは、あの空間の二人きりってことだよね……?
どうしよう⁉
電車で二人というのも緊張すると思ってたのに、あんな狭くて静かな中に二人きりなんて。私、会話どころか、呼吸すらできないかもしれない。
そんな私のパニックを他所に、黒崎さんはどんどん歩いて行くため、私もとりあえず着いて行く。それほど離れた場所に停まっていたわけではないので、あっという間に車に到着してしまった。
「はい、どうぞ」
そう言って、黒崎さんは自然な振る舞いで助手席のドアを開けてくれた。そんな大人っぽくて紳士な姿にドキッと心臓が跳ね、それでなくても煩い鼓動が最早制御不能になっている。
「あ、ありがとうございます」
乗ろうとして足が竦んでいることに気付き、ギュッとスカートを掴んでみる。
「大丈夫? たぶん、車内はそれほど汚れてないと思うんだけど」
「え⁉ いえ、そんな、違いますっ。そうじゃなくて……緊張、してしまって……」
尻すぼみになっていく私の言葉を聞いて、黒崎さんはクスッと小さく笑い、私の隣に来て背中に手を添えた。ブラウスとカーディガンを通してもその手の温もりが分かり、意識してしまうと手が大きいことまで感じて、身体が燃えるように熱くなる。顔だって、きっと真っ赤になっているに違いない。今は朝で当然明るいため、そんな私の様子は丸分かりだ。
「安心して、何もしないから」
「っ⁉」
そんな、そんなことは心配してなかった……!
でも、それって何て言うか、大人な発想だ。私の緊張が如何に子どもっぽいのか分かってしまった。
「冗談だよ。ほら、時間勿体ないから乗って?」
「は、はい」
冗談って……黒崎さんも冗談言ったりするんだ。落ち着いていて、穏和な印象が強いけど、もしかしたら少し意地悪なところもあるのかもしれない。そんなことを考えながらも、なんとか足を動かして車に乗り込んだ。
シートは程よい柔らかさと弾力で、身体が沈み過ぎずに乗り心地がいい。
車内はとても綺麗で、無駄なものは置かれていないし、『汚くない』という言い方は明らかに黒崎さんの謙遜だ。そして、ふわりと鼻先を掠めたのは、森の中にいるような優しくて爽やかな香り。
あまりキョロキョロするのは失礼だと思いつつも、意識は車内のあちらこちらにいってしまう。私は車に全く詳しくないから、これがなんという車なのかは分からない。
でも、多分ハイクラスの車じゃないだろうか。我が家でも父が車を所有しているけど、なんていうかもっと庶民向けだと思う。それでも決して安いものではないのだから、黒崎さんの車が違うのだろう。
黒崎さんって建築関係の仕事をしてるって言ってたけど、本当にただの社員さんなのかな。
あからさまにブランド物を身につけているということはない。もちろん、私が知らないから見極められないということはあるかもしれないけど。
私はまだまだ黒崎さんのことを知らない。少しずつ知っていけたらいいな。私に聞き出す力があるとは思えないけど、それでもいろんなことを知りたい……。
そんなことを考えているうちに黒崎さんも運転席に乗り込み、ハンドルに手を置いていた。
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