貴方に近づきたいです

 それから、黒崎さんの気遣いによって少し落ち着きを取り戻し、のんびりした会話をしながら過ごした。

 黒崎さんとの会話は、今まで経験したことがないような不思議な雰囲気がある。黒崎さんといることで緊張しているはずなのに、受け答えをしているうちに自然と言葉が出てくる。

 私の言葉を待ってくれるし、拙い話し方でも、私の気持ちや考えを汲んでくれてサポートしてくれるから、更に返事がしやすくなる。

 それもすべて、黒崎さんが優しいからだ。そして、私なんかが言っていいことではないけど、頭がいい人なんだと思う。

 今は私に合わせてゆっくりした会話をしてくれているけど、本来はテンポの速い会話をしていそうだ。切り返しの早さや視点の切り替えの幅が驚くほど広い。それを押し付けることなく、人のテンポを見極めて合わせることができるというのは、凄いことではないだろうか。

 結局、私はずっと怖がっていた黒崎さんとの時間を、楽しく過ごすことができていた。


「藤原さんは、やっぱり本の話になるとよく話してくれるね。映画も喜んでもらえたみたいでよかったよ」


 そう言われてみると、黒崎さんがいろんな本の話を振ってくれるから、振り返れば恥ずかしくなるほど語っていたかもしれない。


「あああああ、すみません! 私、煩かったですよね……」

「違う違う。すごく嬉しいんだよ。本の話をしてる藤原さんは楽しそうで、いい笑顔してくれるし」

「笑顔……」


 どんな顔してたんだろう。

 私は焦った顔や困った顔、落ち込んだ顔なんかはよくしてると思うけど、好きなことを話している時の顔って……いい笑顔なの?

 変な顔していなかったといいんだけど……。


「さっき、映画の中に出てきた水族館。行ったこと無いって言ってたよね?」

「え? あ、はい。水族館なんて、小さい頃に両親に連れて行ってもらった小さなところしかなくて……あんなに大きくて新しいところって、どんなところなんだろうって憧れます。劇中でも二人の大切な場所にもなっていましたし」

「今度、行ってみる?」

「へ?」

「映画に使われた水族館なら、日帰りで行けるから」

「……えええっ⁉」


 行く? 水族館に? 誰と、誰が……?


「あ、嫌だった?」

「いえいえいえいえ。そうじゃなくて……」

「なら、決まり。せっかく映画を観たんだから、その舞台になった水族館も見に行こう」

「ちょ、え、ほんと……に、ですか?」

「うん。本当に」


 またしても、黒崎さんは優しい口調と雰囲気で、でも強引に次の約束を私としてしまった。


 ……いいんだろうか。こんなにも流されていて。いや、私は流されるくらいでないと、何も変わらないのかもしれない。

 もしかして、黒崎さんにはそれが分かってる?

 黒崎さんにとって、今回と次回の同行にどんな意味があるの?

 まさか、本当は……『デート』?

 まさか、まさかっ!!!!!


 琴音、冷静になりなさい。

 黒崎さんは、舞台になった水族館に興味を持ち、尚且つ大きな水族館に行ったことがない私を連れて行ってあげよう、と。

 そう、これは云わば『ボランティア』に違いない。


「じゃあ、とりあえずここは出ようか」

「え、あ、はい……」


 テーブルを見れば、すっかり空になった二つのカップと一枚のケーキ皿が並んでいる。話すことが苦手な私が、いつの間にかこんなにも話に夢中になるなんて。普通、好きな人といると、いつもよりも話せなくなるものじゃないのかな。

 ドキドキすることに変わりはないし、心臓が痛いけど、もっと一緒にいたいと思う私もいる。それでも、こんなにも楽しく過ごせたのは黒崎さんのたくさんの気遣いもあったからだろう。

『もう出ようか』ということは『もう帰ろうか』ということだ。今日の夢のような時間も終わりだ。

 黒崎さんに着いて、お店を出る。ご馳走になっていいものか、一悶着あったけど「奢られてくれないと、男の矜恃に関わるんだ」と言われてしまうと、大人しくするしかなかった。


 カフェを出ると、いつの間にか陽が傾いていて、少し暑さも和らいでいた。まだ明るいけど、夜の訪れを感じる。


「駅まで送るね」

「はい……ありがとうございます」


 にっこり微笑んでそう言うと、黒崎さんは迷うことなく駅に向かって歩き始めた。

 複雑。どうして、私の心はもやもやしているのだろう。さっきまではあんなに楽しかったのに。さよならの時間だと思うと、寂しくなる。

 でも、緊張からは解放される。大きな失態はなかったと思う。確かにこれ以上一緒にいたら何かしでかすかもしれない。だから、半日もいられただけで充分なはずなのに……。


「今から飲み行く?」

「お、いいね。じゃあ、いつものとこでいいか?」

「オッケー!」


 歩き始めた私の耳に、そんな会話が飛び込んできた。私と同じ年くらいの二人の男女。仲が良さそうに、少しのスキンシップを取りながら。


 ……ああ。私は、当たり前のように黒崎さんに帰されようとしているんだ。


 『飲み行く』

 『夕飯を一緒に摂る』


 そういう選択肢が、黒崎さんにはない。そう誘われて、パニックになりそうな私が応じられるかは置いておいて。


 そっか。これが、黒崎さんと私の距離。


 いくら映画に行こうとも、水族館に行く約束をしようとも、私と黒崎さんは『書店員とお客さん』という関係は保たれたまま。 もしくは、夜という大人の時間を私と過ごす選択はない、ということだ。

 やっぱり、子ども扱いされているのかもしれない。これがきっと複雑だった原因だ。

 私、いつの間にか期待してたのかな。あんなに期待しないように、自分を戒めるように言い聞かせていたのに。


 『好かれたい』

 『女の子として見てほしい』

 『恋愛関係になりたい』

 『今日を境に、書店員とお客さんという関係から違う関係へと変化して欲しい』


 そんなふうに欲張った考えがあったのかもしれない。

 半歩前を歩く黒崎さんを見上げると、その横顔は涼しげだ。決して冷たいわけではないし、どちらかというと、こんな私でも話しかけることができそうな柔らかい雰囲気。

 でも、どうしてだろう。なんとなく見えない線があるような気がする。それが私とだからなのか、誰に対してでもなのかは分からない。

 仲良くすることには前向きだとは思うけど……。いや、そう思いたいという、私の勝手な希望も含まれているかもしれない。

 人付き合いも恋愛経験も乏しい私が感じることなんて、当てにならないのは分かってる。

 黒崎さんの爽やかな笑顔の裏にはどんな顔があるのだろうか。印象そのままの人なんだろうか。いつもの笑顔が作りものだというわけでもないんだろうけど、本当にそれだけ?

 もっと黒崎さんのことが知りたい。ただ、距離を詰めたいんじゃない。私は、ありのままの黒崎さんに近付きたいんだ。


 ……恋愛スキル皆無の私には、無理な話かもしれないけど。

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