そのソファーは危険です
暫く歩いていると、突然黒崎さんがピタリと立ち止まったため、すぐ後ろを歩いていた私は勢いよくその背中に激突してしまった。
「ふぎゅ」
「あ、ごめんね。大丈夫?」
「……はい」
なに? もしかして、やっぱり帰ろうとか……?
全然会話できてないもんね。いくら黒崎さんが大人でも、退屈だって思うよね……。
「隣」
「ごめ……え?」
「せっかくだから隣歩こうよ。歩くの速い?」
黒崎さんは悪くないのに、眉を下げて申し訳なさそうにしている。
それはものすごく誤解だっ!
「歩く速さは大丈夫です。黒崎さんがゆっくり歩いてくださっているので」
「じゃあ、淋しいから隣においでよ」
そう言って、黒崎さんはちょんちょんと指で自分の左隣を指差した。その仕草が黒崎さんがするにはなんとなく幼くて、ギャップに胸がキュンとした。
あれ、今、淋しい……って言った?
いやいや聞き間違いだよね。あ、もしくは社交辞令というやつだ。でも、もしそうだとしても、隣を歩いていいなんて嬉しい。
雨の日は傘に入れてもらうという口実があって、隣にいることを余儀なくされたけど、今は隣にいる理由がない。だから、『隣においで』というのは黒崎さんのご厚意だ。間違っても『好意』だなんて調子にのってはいけない。
立場、立場……私は書店員。
しかも、黒崎さんから見たら子どもだ。全くもって対等ではない。
「ね、ここに来てよ」
ううううう、でも、その言い方は反則だよ。どうして、そんな淋しそうな顔しちゃうかな。
「……はい」
私はその様子に負けて、足を大きく出して黒崎さんの隣に並んでみた。
「うん、ありがとう」
「……いえ」
こんなことでお礼言うなんて、狡い。隣に並んだだけなのに喜んでもらえた。私でも黒崎さんを喜ばせることができた……そんなふうに調子に乗っちゃうじゃない。
今、隣を見上げる勇気はないけど、並んだ時に頭にポンっと乗った手の温もりで、すべてを受け入れてもらえたんじゃないかと勘違いしそうになる。
キュンキュンと絞められっぱなしの私の心臓は、いつ止まってもおかしくないくらいなのに。
黒崎さん……その行為にどんな意味があるんですか?
子ども扱い?
単なる癖?
恋愛初心者の私は簡単に振り回されちゃうんですよ?
再び黒崎さんに促されて、街中を歩く。すれ違う人達の中には、大きな声で笑っている人もいれば、特に話すことなくそうしているのが自然だという様子で手を繋いで歩いている人もいる。
あっ。そういえば、私もさっき黒崎さんと手を繋いだんだ。
私の目が開かないからっていう理由があったけど、今でもあの大きな手に包まれた不思議な感覚は忘れることができない。
黒崎さんの手は、夏でも体温の低い私と違って少し熱くて、すっぽりと私の手を覆ってしまった。まるで、自分の手が子どもの物のように感じた。黒崎さんも同じ気持ちだったのかな。子どもみたいな感覚だから、何の抵抗もなかったのかな。
さっきから、私の思考は堂々巡りをしている。
二十二歳になっても未だ幼い私。落ち着いていて、きっといろんなことを経験してきた黒崎さん。私の中で、この事実は思っている以上に引っかかっているようだ。
「ここ」
「え?」
立ち止まった黒崎さんを見上げると、目の前にある一軒のお店を指差していた。カントリー調のかわいらしいカフェ。目立つ看板は出ていなくて、入り口の隣に小さな黒板に書かれたメニューが置いてなければ、かわいらしい個人宅にも見える。
「ここでもいい?」
「は、はいっ。もちろん、いいです!」
黒崎さんは私の返事ににっこり微笑むとドアを開けた。カランっと鐘の音が鳴り、店内にかかっていたカントリー調の音楽と重なった。明るめの木目調のテーブルやチェア。レンガの壁。天井からはペンダントタイプのライトが吊るされていて、どこを見ても暖かみのあるお店だ。
女性のお客さんで店内は混んでいたけど騒がしさは感じず、寧ろ静かな雰囲気は落ち着いて過ごせそうだと思えた。
「かわいい……」
「気に入った?」
カフェなんて来たことがなかったし、あまりのかわいさにワクワクして店内を眺めていて、黒崎さんの問いかけにはコクコクと頷いて返事をするのが精一杯だった。
店員さんに案内されたのは窓際に陽当たりのいい席だった。アイボリーの布目で、少し背の低いソファーは座り心地が良さそうだ。想定外だったのは、それが2人掛けのソファー席だったこと。
「こちらにどうぞ」
待って待って、お姉さん! かわいいけどっ!
窓に向かって二人でソファーに座って、ゆったりティータイム。
夢に描いたような空間と時間だよね⁉
でも、私と黒崎さんは恋人同士ではないの!
こんなっ、こんなっ、甘い席は、間違ってると思う……!
「藤原さん、座らないの?」
「うぇいっ⁉」
座るの⁉
ここに座ることに、黒崎さんは疑問を持たないの?
「また、そんな返事して」
そう言いながら、クスクス笑う黒崎さん。もう、一人でパニックになっているのが悲しくなるほど余裕だ。
「ほら、店員さん困らせちゃうから」
そう言って、黒崎さんは私の背中をトントンと叩いた。その上、腰を屈めて顔を覗き込んでくるなんて。
しかも、何ですか、その顔は!
今まで見たことがあるような優しい笑顔……とは、少し違う気がしますけど?
如何にも笑いを堪えてますという口元。メタルフレームの眼鏡の奥にある切れ長の目も、いつもの涼しげな印象ではなく何やら楽しげでは?
「ううー」
「はい、唸らないの」
唸り声に気付かれたっ!!!
帰りたい!
恥ずかし過ぎる!
絶対、変な子だと思われたよ……!
そんな私の心の叫び(一部表出)は黒崎さんによってあっさりと流され、気付くと例のソファー席に並んで腰を下ろしていた。
二人で同時に座れば、ふわっと柔らかい感触と共に身体が沈み込み、その瞬間、軽く触れてしまった膝に私の血液が集中してしまったかのように熱くなった。
視線を上げることはできないけど、俯いた視線の先には黒崎さんの膝とその上に乗せられた大きな手が見える。指は長いけど、少し節くれ立った手は意外と男性的だ。そう気付いた途端、握られた時の感覚が蘇り、誤魔化すように自分の両手をぎゅっと握りしめる。
ドクドクと脈打つ心臓が煩すぎて、周りのいろんな音が消えてしまった。
どうしよう、どうしよう。そんなまったく意味のない問いかけばかりが私の中を占めている。
「はい、メニュー」
「うわぁっ」
「そんなに驚かなくても」
そうは言われても、破裂寸前の心臓に、突然矢が飛んできたら爆発します!
黒崎さんがクスクスと楽しそうに笑っているのは分かるけど、今の私にはそれに笑い返す余裕などミジンコほどの大きさもない。
「よかったら、このお店のお薦めを頼もうか?」
「ははははい。お、お願いします」
黒崎さんは私の返事を聞いて、好き嫌いがないかと、何故かカフェラテが飲めるかを確認してから注文してくれた。
カフェで自分の飲みたい物くらい、すんなりと注文したい。自分の意見が言えないのは、相手を不快な気持ちにさせると聞いたことがある。
黒崎さんに対して、私は自分の意見が言えたことがあるだろうか。ない。何もかもが黒崎さん任せだ。
思い出せるのはパニックになっている私と、クスクスと笑いながらリードしてくれる黒崎さんだけ。私に嫌な思いをさせないよう、さり気なくいろんなことを決めて導いてくれている気がする。
いろんな場面を思い出しても、押しつけがましくないのに、それでも気持ちいいくらいキッパリと行動している。
……そんな男らしくて頼りになるところも、好き、かも。
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