手を掴まれました
「大丈夫?」
「は、はい……すみません」
映画の上映が終わり、周囲の人は帰り始めている。それにも関わらず、私たちは未だ席に座ったまま、黒崎さんを困らせていた。
そう。私は号泣してしまい、その涙が止まらないというなんとも恥ずかしくて迷惑な状態に陥っているのだ。止めなくてはと思うほど、焦りが強まり、私の涙腺はいうことを聞いてくれない。
「慌てなくてもいいよ」
黒崎さんは優しい声でそう言ってくれる。でも、きっと映画館って入れ替え制だったはず。スタッフの人が来て掃除とか始める前には出て行かないと。
「だ、だい、じょうぶ、です」
平気なことをアピールするはずが、ぐすんと鼻を啜りながら掠れた声で言っては逆効果だ。
「ん。じゃあ、おいで」
あ、また優しい声だな。と、呑気に思ったが、クイッと腕を引かれる感覚がしてびっくりしてしまった。自分の右腕を見ると二の腕をガッチリと掴まれ、引っ張り上げられようとしているところだ。
「え、え、あの」
「目が開かなくてもいいよ。僕が座れるところまで案内するから。ここだと気になるんでしょう? 絶対に転ばせないように気を付けるから」
そう言う問題ではなくて……!
「ちょ、え、」
「荷物はこれだけだね?」
「あ、あの」
「ん?」
黒崎さんは私の問いかけに返事をしながらも、膝の上にあった鞄を持ち、二の腕を引いて軽々と私を立ち上がらせてしまった。
……なんだろう?
優しいし、イメージと違うとかいうこともなく、紳士的な振る舞いなんだけど。
なんだか、有無を言わさない感じ?
そして、シートの間の狭い所から通路に出ると、黒崎さんはすぐに二の腕から手を離し、かわりに私の手を握って、ゆっくり歩き始めた。
ちょちょちょちょっ!
なにこれ、なにこれ⁉
今、これはどうなってるの⁉
「あ、え、くろ、さき、さん……?」
『手はなんでしょうかっ!? 離してください!』って、言いたいのに、言葉が出てこない。離してほしいけど、離されたくない。
なんだ、その矛盾は!
黒崎さんの手は、見た目の印象よりも大きくて、少しゴツゴツしている。私よりも温かくて、包まれるような感覚。私の意識はすっかりその手に向かっていて、いつの間にか涙も止まっていた。
混雑した館内のせいで、歩き始めた私たちの周囲にも人が溢れ返ってしまった。
恥ずかしさの余り、手を離したくて少し引こうとしても、そんなことはお見通しなのか、握られた手にキュッと力が加えられて逃れさせてもらえない。
どんな表情で、どんな気持ちで、黒崎さんがこんなことをしているのか知りたいのに、前を向いてしまっている黒崎さんの表情は見ることができない。
何を考えているのか分からず、一歩後ろを引っ張られるように歩く私には、その隣に追いつくことすら躊躇われる。
もし、面倒だと思われていたら……。
手がかかる子どもだと思われていたら……。
最悪だ。
「ここ、座って」
最後にまたクイッと手を引っ張られ、促されたのはチケットセンター前に設けられた待合スペースのようだ。
ゆったりとしたふかふかのソファーが壁際にいくつも置かれ、中央にはドリンクを飲めるようなスツールと背の高めなテーブルが所々に設けられている。私が言われるがままソファーに腰を下ろすと、黒崎さんもその隣に座った。
「ここなら、時間も人も気にしなくていいから」
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
座ってからも繋いだままだった手がスルリと抜けたかと思ったら、膝の上にあった私の手をトントンと軽く叩いてくれた。
温かくて、とことん優しい手。そんな仕草が大人っぽくて、さり気なくて。
……かっこよすぎる。
私の心臓は限界だ。壊れる。
「はい、どうぞ」
「え?」
下げていた視線の中に、ネイビーのチェック柄ハンカチが入ってきた。
「これで涙、拭いて」
「でも……」
こんな綺麗で高そうなハンカチ、汚すなんてできない。きっとがんばってやってきたメイクも落ちてるはず。
俯いたままの私の上でクスッと笑った声が聞こえたかと思ったら、突然頬に温もりを感じ、抵抗する間もなく上を向かされていた。
「また、いろいろ考えてるでしょ」
見上げたそこには目を細めて笑いながら、ハンカチで私の頬を押さえる黒崎さんがいた。左手で私の頬を覆い、右手で優しくトントンと涙を拭ってくれる。つっと動いた左指が私の熱くなった頬を撫で、まるで大事にされているかのような錯覚を起こしそうになった。
「だだだだ、大丈夫、です!」
「でも」
「ほほ、ほんと、です……!」
「そう、それならよかった」
疑わしげな表情で私を覗き込んでいた黒崎さんも、なんとか納得して目元のハンカチと頬を覆っていた手を離してくれた。
……死んじゃう!
今日が、私の寿命なのかもしれない。
本気でそんなことを考えていた。でも、そんな私の隣で黒崎さんは涼しげな顔でハンカチをポケットに仕舞っている。
「落ち着いたなら、ここから移動する? もう少し、ここで休んでく?」
「移動しましょう!」
このまま薄暗い中に隣り合って2人でいたら、私はダメになる自信がある。
「ん、じゃあ行こうか。どこか行きたいところある?」
「いえいえいえ、特には……」
だって、今日は映画を観る日でしょう?
あ、そっか。もう映画が終わったんだから、これで二人の時間は終わりになるんだ。
何も話さずに鑑賞するってこういうことだって分かってたけど、なんとなく淋しく思っちゃうのは、完全に私の我が儘だ。
「こっちおいで」
「は、はいっ」
黒崎さんは私を呼ぶ時、とても優しい目で話しかけてくれる。鈍臭い私を焦らせずに待ってくれる。しかも、それが自然な感じで、私が気にしなくてもいいように雰囲気を作ってくれているのがよく分かる。
そういうところが『大人』なのかな。
先程よりも人の波は引いていて、黒崎さんの後を追うことは難しくなくなっていた。
先を歩き始めた黒崎さんの後ろをトコトコと着いて行く。なんとなく隣に並ぶ勇気はなくて、自然と黒崎さんよりも一歩下がった位置。
身長の高さにも脚の長さにも差があるはずなのに、私が歩きにくいと思わないスピードだと気付いたのは、映画館から出た時だった。
「この後、予定はあるの?」
「何も無いですけど……」
強いて予定というなら、自分のペースを取り戻すために本の世界へと逃避するくらいだ。
「じゃあ、少し付き合ってくれる? 喉が乾かない?」
「あ、はい……え?」
そう言われてみれば、映画館でも何も飲まなかったし、泣いたからか喉が乾いてる気もするけど……。
「藤原さんは甘いものは好き?」
「はい、好き、です……」
ああ、またこのセリフ。
黒崎さんのことを言ってるわけじゃないけど、『好き』って黒崎さんに向かって言うのは、変に意識してしまって顔を見ることができず、キョロキョロと怪しく視線を彷徨わせてしまう。
そうは言っても、表情の変わらない黒崎さんを見てると、なんてことない言葉なんだろう。
私は心の中に強風が吹き荒れ、見る影もないほど乱れているというにも関わらず、黒崎さんの心を揺さぶることもできないって、少し虚しい。
「もし、行きたいお店ないなら、任せてもらってもいい?」
「あ、はい!」
黒崎さんと二人なのは緊張するのに、でも、どんなところに連れて行ってもらえるんだろう、なんてワクワクしている自分もいる。
それに、終了だと思っていた時間の延長。我が儘だと思っていたのに、私から言う前に黒崎さんから誘ってもらえるなんて。ドキドキと煩い心臓に極力気付かないフリをしながら、頷いて再び歩き出した黒崎さんの後を追う。
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