携帯の存在感が増しました

「で、さっきの話だけど」

「あ……!」


 思考があちらこちらに飛んでしまっていた私は、黒崎さんの言葉でようやく先程の話を思い出した。


 デデデデ、デートのこと、だよね?

 待って!

 落ち着け、私。二人で出掛けるだけでは、デートとは言わないんじゃない?

 そもそも、黒崎さんはお礼という理由で私を誘ってくれて、私が貰うのを躊躇したから一緒に行こうかって話になったんだよね?

 当然、そこに深い意味はなくて。デートではなく、映画のチケットがあって、たまたま私と今日会ったから誘ってくれただけ。デートって、想い合う二人が出掛けることでしょう?

 つまり。ただの同行?

 そうだよ、黒崎さんが私をデートに誘うなんてあるはずないもんね。

 いやっ、それでも二人で会うことには変わりない。

 でも……もう二度と二人で会う機会なんてないはず……。

 あぁぁぁっ、もう、どうすればいいの⁉


「ぷっ」

「え?」


 何の音かと見上げれば、黒崎さんが口元に手を当てて肩を震わせている。


「藤原さん、百面相……」

「う、そ」


 黒崎さんが、笑ってる……⁉

 微笑みでもクスッと小さく笑ったものではなく。初めて見たっ!


 黒崎さんも笑うんだ。口元は隠されてしまっているし、声を出して笑っているわけではないけど、目は微笑んだ時よりもずっと細められていて、なんだかすごく楽しそう。

 そんな姿に私の心臓もドキドキと走り出し、顔に熱が集まってくるのを感じた。世界が違うと思うほど大人な黒崎さんも笑うと少し幼くなって、ほんの少しだけ近くなった気がする。


 でも、どうしてこんなに笑ってるんだっけ……?


「なんだかいろいろ考えてるみたいだけど、そんなに気負わずに気楽に行こうよ」


 あぁぁぁぁっ、そうだ!

 もしかしなくても、私が変な顔してたいから笑われたんだった。笑わせることができたのを喜ぶべきか、笑われたことを後悔すべきか……。

 ううん。それは、帰ってから考えよう。今は、映画のことだ。行きますって言えばいいのかな。

 そもそも、私は黒崎さんと二人で長時間いられる?

 今でさえこんなにも緊張してパニックになってるのに、映画を観るなんて、会話がなくても近くで座ってないといけないわけだし。

 ……死ぬかも。


「じゃあ、連絡先交換しようか」


 何故?


 突然の話題の切り替えに、私の頭は固まってしまった。でも、そんな私の目の前で、黒崎さんは携帯を出している。

 その光景をぼんやり眺めていると、私の視線に気づいた黒崎さんはにっこりと微笑んで、身体を屈めて私の目線に合わせた。

 目の前に来た黒崎さんの顔。眼鏡の奥にある瞳が綺麗なチョコレート色をしていることを、今、初めて知った。筋の通ったバランスのいい高い鼻。薄くて形の綺麗な唇。身体を屈めた時に少しだけ目にかかったサラサラの髪は、光を通すと分かるくらいの濃い茶色で瞳の色に似ている。

 何歳かは知らないけど、きっと年齢の割には肌理の細やかな白い肌。毛穴もくすみも全く分からなくて、二十二歳の私でも負けたと思ってしまう。


「ほら、携帯出して?」

「はははは、はいっ」


 見惚れていた私は、黒崎さんの言葉に弾かれるように無意識に携帯を取り出していた。私が手にした携帯を黒崎さんは静かに受け取り、あっという間に操作してしまった。


「はい」

「……あ、ありがとう、ございます」


 そうして、何事もなかったかのように私の携帯は戻ってきた。黒崎さんの手によって目の前で並んだ私と黒崎さんの携帯。この目で見ることはできないけど、二つの携帯が赤外線で繋がるのが見えた気がした。

 私の手の中に戻ってきた携帯には、憧れて胸を焦がしていた黒崎さんの連絡先が入っている。そう思っただけでこの携帯の存在感が増し、どんな物よりも大事なものになったような気がした。


「じゃあ、また連絡するからね。家はどこ? 家の最寄り駅から家まで遠いなら、危ないし送っていこうか?」

「〇〇駅ですけど……えぇっ⁉ 大丈夫ですっ。歩いてちょっと行けばいいので」

「歩くんだ。だったら、この傘貸すよ。また、今度会う時に返してくれたらいいから」


 これ以上一緒に居たら、私は酸欠で死んでしまう気がする。ここまで傘に入れてもらっただけでも、充分嬉しいのに、送ろうかだなんて……。なんて優しい人なんだろう。それとも、大人はこういうのが当たり前なのかな。

 そう思いながらも、迷惑しかかけていないことに気付いて、つい俯いてしまっていると、目の前に黒崎さんが持っていた傘が差し出された。それに釣られように視線を上げれば、黒崎さんが優しく微笑んで頷く。


「はい、どうぞ」


 なかなか動かない私の手を取って傘を握らせると、私が何かを言う前に「気を付けて」と言って風のように立ち去ってしまった。

 触れられた手がじわじわと熱を持ち、黒崎さんの姿が見えなくなってから腰が砕けて座り込みそうになった。ドキドキが止まらず、その大きな拍動が周囲の人にまで聞こえそうだ。

 ありがとうございます、すら言えなかった。あんなに良くしてもらったのに。

 結局、私は戸惑って、焦って、取り乱して。まともな会話にもなっていなかった気がするのに、黒崎さんはいつもと変わらずスマートで落ち着いていて、あっという間に映画に行く約束と連絡先の交換を済ませてしまった。


 その後、私はふらふらと電車に乗って窓の外で降り続ける雨を眺め、私のものよりも大きくて、少し重い傘を差し、家までの道を歩いた。

 ぼんやりしながら辿り着いた家では、母がいつもの笑顔で出迎えてくれ、いつものように父がテレビを観ながらビールを飲んでいた。

 ここにはいつもと変わらない光景があるのに、帰ってきた私はいつもの私ではなくなっている。

 近くで感じた黒崎さんの匂いや手の温かさ。間近で見た端正な顔。優しく微笑んだ表情だけでなく、肩を震わせて笑った姿も知った。

 あまり登録している人がいない電話帳に、大きな存在感を持って入り込んできた黒崎さん。そして、一緒に映画を観に行くという約束。傘を返すという約束。

 いろんなことが私の頭と心をいっぱいにし、自分の部屋に入った途端、悲しくもないのに涙が流れていた。

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