第二章 恋に邁進せよ

ゲリラ豪雨とともにやってきました

「お疲れさまでした」

「お疲れ。琴ちゃん、気をつけてね」

「はい」


 一日の勤務を終えて、制服替わりのエプロンをロッカーに仕舞い、店長さんに挨拶をする。今日も残暑厳しいと天気予報で言っていたから、夜となった今も蒸し暑いだろうな、なんて思いながら自動ドアを抜けると、目の前には分厚い雨のカーテンが下りていた。


「凄い雨……ゲリラ豪雨? 傘持って来てないのに。でも、これ以上遅くなりたくないし……」


 今は退勤予定時間をオーバーし、外はすっかり暗くなっている。今日に限って、出勤予定だったパートさんが急なお休みで、代わりに引き続き勤務したのだ。

 この時間になることは少なくないけど、やっぱり暗いというのは落ち着かない。駅までは近いけど、走っていくには激しい雨だった。


「待つしかないかな……」


 はあっと溜息を零してぼんやり雨を眺めていると、私の名前を呼ぶ声が聞こえたため、其方の方に目を向けた。


「藤原さん?」

「はい? 何で……」


 黒崎さんっ⁉ 何でしょうかなんて、のんびり返事してる場合じゃない! 


 目を向けた先には、少し離れたところに立つ黒崎さんが傘を差して此方を見つめていた。今日も今日とて、見目麗しい黒崎さん。暑い季節でもスーツをシャキッと着こなし、それでも涼しげな雰囲気を持っている。

 激しい雨の中にも関わらず、私には黒崎さんが浮き上がって見え、これが恋愛スコープというものかと現実逃避するように考えていた。


「どうしたの?」

「……えっ?! 私、ですか?」

「他に誰がいるの?」


 黒崎さんはそう言ってクスクスと笑っている。確かに私は藤原だけど、周りに別の藤原さんが居ないか、思わずキョロキョロとしてしまうと、黒崎さんは益々笑いを深めてしまった。


「藤原さん、おもしろいね」

「お、おもしろい、ですかっ⁉」


 私に話しかけながら、黒崎さんは私の立つ店の軒下まで近付いて来て、傘を閉じて、当たり前のように私の隣に立った。

 ポタポタと傘から流れ落ちる水滴の音が、煩いほど激しく鳴っている雨音の中に小さく混ざる。


「仕事終わったの?」

「ふぁいっ⁉」


 私、今、何て返事した?


「プッ、クスクス。いいね」

「え」


 いいね? 失態しか晒していないと思うんだけど。あっ! バカっぽいとか? えぇぇぇっ、もしそうなら、立ち直れない……。


「もしかして、傘持ってない?」

「は、はい」


 何度か顔を合わせている内に、いつの間にか黒崎さんの話し方が砕けてきて、そんな話し方にさえドキドキと胸が高鳴ってしまう。

 なんだか、少し距離が縮まった気がしてしまう。でも、そんな錯覚を起こしてはいけない。私はよく行く本屋の店員の一人。

 よく分からないけど、どうやら『おもしろい』と思ってもらえているようだけど、多少記憶に残っている程度の人間だろう。


「駅まで行くの? 僕も行くから、傘に入っていく?」

「……え?」


 黒崎さんの言葉遣いから、自分を戒める思考に入っていたため、黒崎さんが言ったことを理解することができなかった。


「傘、入っていくって聞いたんだよ」


 ぼんやりしてしまった私を怒ることも気分を害した様子も見せずに、黒崎さんは穏やかな声で聞き直してくれた。


 それって相々傘、ということ⁉


 私にとっては憧れたことすらない相々傘。父や母と幼い頃に一緒に傘に入ったことがあるけど、それとは全然違う。


「え、っと」

「うん。行こうか。おいで」

「え? え?」


 私がなかなか返事をできずにいると黒崎さんは小さく吹き出し、ポンッといい音をさせて傘を開いて、落ち着かせるように私の肩をそっと二回叩いた。


「ほら、遅くなっちゃうから」


 そう言って、私の背中をそっと押して雨の中へと導いた。

 あ。そう思った次の瞬間には雨が傘に当たって雨音が大きくなっていた。背中に触れた手が……熱かった。

 今は、もう離されて、その手には傘を持ってしまっているけど、それでもまだその温もりが残っているように感じてしまう。

 傘からはみ出さないよう距離を詰められているのだと、半袖を着ている私の腕に黒崎さんが来ているスーツの生地が当たって、ようやく分かった。

 雨の中なのに香って来たいい匂い。今までは気付かなかった、黒崎さんの匂い。それは私とは縁がなかった大人の匂い。


 これは柑橘系?  どうしよう? どうしようっっ⁉ 心臓が痛い……!


「えっ、あの」


 なんとか首を動かして隣を見れば、そこに見えたのはスーツに覆われた黒崎さんの身体。あ、そうか。身長差があるから、見上げないと顔が見えないんだ。そう気付いて、ますます黒崎さんが男性だということを意識してしまう。

 今までの人生でこれほどまで異性に近付いたことはなく、しかもそれが黒崎さんだと思うと、もう私の心臓も思考も、何もかもが悲鳴を上げた。


「ん?」


 あぁぁぁぁっ! そんな優しい声で囁かないで……!

 どうしてたった一文字が、そんなにも色気があるの⁉


 パニックになりながらも、足だけは動かしていたのだと気付いたのは、足元の不快感に気付いたから。激しい雨のせいで雨粒が跳ね返って、かなり濡れてきてしまっていた。


「すすすすすみませんっ」

「何?」


 辛うじて出た私の声は雨音に消されてしまい、黒崎さんには届かなかったようだ。


 ようやく絞り出した言葉だったのに!


 その次にできたのは、ふるふると横に首を振るだけ。これでは、何も伝わらないのに。


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