トラップに引っ掛かりました
ある日のこと。
「琴音、今日はレジだよね?」
さて、今日もがんばりますか、と心の中で気合いを入れていると、背後から千絵さんに話しかけられた。
我が書店では勤務内容がローテーションになっていて、今日は一日レジ中心の日だ。
「はい、そうですけど」
「よかった。じゃあ、がんばって」
「え?」
今日って、何か特別な仕事でもあったかな?
自然な言葉のようで、どうにも不自然な言葉を残した千絵さんは言いたいことだけ言うと、颯爽と立ち去ってしまったため、どういう意味だったのかを問う暇もない。
でも、忙しい時間を過ごすうちに、そんなことがすっかり抜けていた私は、この後パニックに陥るような事態が起こるとは露程にも思っていなかった。
「ありがとうございました!」
会計を終えたお客さんに商品を渡し、一礼して見送る。
流れ作業になりがちなレジ打ちも、私は一人一人の顔と買っていただいた本を心に留めながら行う。だから、一回一回が私にとっては大切なものだ。もっとも、こうして実践することができるようになったのはつい最近のことだけど。
次のお客さんをと思ったところで、他の店員から名前を呼ばれたため、事務所にいた店員にレジを代わってもらい、呼んだ店員の方へ行った。
「なんでしょうか?」
「藤原さんにお客さんです」
えっ……指名なんてなんだろう。もしかして、苦情⁉
「は、はいっ」
まず、頭を下げて、謝って、ご意見を伺って……。
そう思いながら、店員の指した方に視線を向けて。私の心臓は止まったかと思った。
私の視線の先には、カウンターの前に立って、こちらを見ている黒崎さんがいた。緊張しやすく、すぐに暴れ始める私の心臓は、今この瞬間に爆発炎上してもおかしくない。
「くっくっくっく、く、ろ」
「本の受け取りだそうです」
ほ、ん? それで、どうして私を指名?
私を呼んでくれた店員が補足してくれたけど、まったく意味が分からない。
そんなふうにパニックになっていると、痺れを切らしたのか黒崎さんはゆっくりと口を開いた。
「あの」
「ははははははいっ」
どど、どうしよう!
話しかけられちゃったよ。いや、接客だよね?
どうしてこうなったかは謎だけど、とにかくお待たせするのだけはダメだよ……ね?
「す、すみません……本の、受け取り、ですね?」
激しく吃ってしまった気もするけど、私は必死に店員モードに切り替えようと努めた。そんな私の言葉を聞いて、黒崎さんは優しく微笑んだ。
今までは決して私に向けられなかった笑顔。
二度と正面から見ることはないと、それでいいと思っていた笑顔。
それが、今、私に向けられていると思うと、バクバクと大きくて強い心臓の音が耳元で鳴り響き、目の前にいる黒崎さんにまで聞こえてしまいそうだ。
身体も顔も熱くて、クーラーが効いている店内にも関わらず、汗が滲む。そんな自分を意識してしまうと、尚更恥ずかしさが増し、クラクラしてきてしまった。
「これなんですけど」
そう言って、黒崎さんは受け取り票を差し出してきた。
それは当然のこと。なのに、パニックになっている私は、一瞬それが何であるか分からず、手を伸ばすのが遅れてしまった。
「……大丈夫ですか?」
「すすす、みません! 確認してきますので、お待ちください」
黒崎さんの控えめな声で我に返った私は、震える手で受け取り票に手を伸ばした。触れそうになった指先が怖くて、若干ひったくり気味だったかもしれない。
でも、そんなことを謝る余裕もなく、私は商品が保管してある棚へと向かった。
届いていた本を黒崎さんに確認してもらうと、間違いがないということでホッとする。
「では、あちらで……」
お会計を。その言葉を発する前に、突然、黒崎さんが口を開いた。
「藤原さん」
「はい……はいっ⁉」
名前! そういえば名指しといい、どうして名前を知ってるの……?
「あ、驚かすつもりはなかったんだけど。ごめんね」
「い、い、いえ。だい、じょうぶ、です」
全然大丈夫じゃないけどっ!
せっかく少し落ち着いてきた心臓が……。話しただけでも、緊張して倒れそうだったのに。こんな時間差攻撃が潜んでいたなんて。
「藤原さんがこの店のポップを作ってるって、前に店長さんに聞いて。いつも、参考にさせてもらっているから、機会があったらお礼が言いたかったんです」
ポップ、作っててよかったっ!
「そう言って戴けると、嬉しい、です」
ここで、明るく笑顔で応えられたらかわいいんだろう。
「今月発売された『暁月夜』のポップも藤原さんが?」
「あ、は、はいっ」
先日作成した私の自信作だ。
「ちょうどおもしろそうな小説を探してて、あのポップを見た時にすごく魅せられて、引き寄せられるように手にしていて。実際、読んでみても、そのおもしろさは期待以上で、すっかり読み耽ってしまいました」
うわーっ! どうしよう!
そんなふうに面と向かって褒めてもらえたのも初めてのことなのに、それが黒崎さんからだなんて。
全身が心臓になったようにドッドッと強く脈打ち、私の耳には自分の鼓動しか聞こえないような錯覚さえ覚える。
「あああ、ありがとう、ございますっ」
黒崎さんは私の小さな言葉をちゃんと拾ってくれたのか、小さくクスッと笑った。その笑顔はよく見かけた微笑みとはどこか違っていて、不意に訪れた攻撃に私は敢え無く撃沈した。
「藤原さんは本当に本が好きなんですね」
「は、はい、好きですっ」
……好きです?
待って、こんなのまるで告白みたいじゃない⁉
やだっ! どうしよ。恥ずかしい……逃げてしまいたい……!
これ以上ないという程、顔が真っ赤になっているであろう私。そんな私を見て、黒崎さんは一瞬目を瞠ったような気がする。
ありえない。私はどうしてそんな言葉の選択ミスをしてしまったのか。「はい」だけでよかったんじゃないだろうか。
恥ずかしさと混乱のせいで、私の目からは涙が零れそうになっている。
でも、ここで泣くなんて、絶対にしてはいけない。仕事中ということもあるけど、何より黒崎さんの前で泣くなんて。何とも思われていないのは分かっているけど、軽蔑されたり嫌われたりするのだけは嫌だ。
「また素敵な本を紹介してくださいね」
「あっ、はははいっ」
そうして、黒崎さんは最後まで優しく穏やかな笑顔で接してくれて、私にたくさんのドキドキとキュンキュンを惜しげもなく与えていった。
その後、浮ついた気持ちで勤務した私にミスがなかったかさえ記憶がない。周りの声が耳に入っていたかも危うい。
そんな状態でもいつの間にか退勤時間になり、フラフラと自宅へと帰った。
父と母から怪訝な目で見られたことにも気付かず、私は自分の部屋に入り、ぽふんっと音をさせてベッドに身体を預ける。
そこで、グリグリと顔を布団に擦り付けながら今日の一連のやりとりを思い出して、急激に自己嫌悪に陥った。
まともな返事もできず、挙句「好き」だという言葉だけは妙にはっきりと伝わってしまった気がする。それが喩え本のことであったとしても、だ。
この日の夜は後悔と、それでも話せたという興奮で、眠ることはできなかった。
翌日。
千絵さんは朝、会ってすぐにニマニマと笑いながら「で?」という単語を発し、意味が分からなかった私は「え?」としか返事ができなかった。
結局、黒崎さんの本が届いたことを連絡した千絵さんは、受け取りに来る日をさり気なく聞き出し、私を呼び出すように伝えたということだった。
だから、「今日はレジよね?」なんて質問と「がんばってね」なんて言う言葉が出てきたわけだ。
千絵さんが恐ろしい。今度、あのニマニマした笑顔を見たら、きっと私は背筋に冷たいものを感じ、体温が下がったような感覚に陥ることだろう。
その反面、私一人では話をする機会などこの先持てる筈もないのだから、感謝の気持ちもある。
名前を覚えてもらったこともかなり嬉しいのだから。
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