ようやく名前を知りました
【現在】
あの人に初めて逢った二年前と同じような猛暑の今日、私はなんとなくあの日の出来事を思い出していた。
外の暑さは分からないけど、入ってくる人が赤い顔してホッと息を吐くのを見ると、今は暑いんだというこということが分かる。
時刻は夕方。とはいえ、一般的な仕事では終業となっている時間だ。今日は遅出だったため、閉店の二十二時まで勤務になっている。
私はレジの奥にある事務所で、店長さんに任されているポップを作成していた。
そんな私の近くに人影が近づき、大きな溜息が降ってきた。見上げれば、三つ年上の千絵さんが疲れた様子で立っている。千絵さんは、私があまり緊張せずに話せる貴重な人だ。
「千絵さん、どうしたんですか?」
「昨日、彼氏と喧嘩してさ」
千絵さんがお付き合いしているのは、中学生の頃からの同級生でとても仲がいい、と思う。そう言いきれないのは、何度か別れたりヨリを戻したりしているということだ。
好きだからお付き合いして、気持ちが無くなるから別れる。そういうものだと思うのだけど、だとしたらヨリを戻すのはどうしてなのかが分からない。
無くした気持ちがまた生まれることがあるの?
それとも、別れたことが間違いだと気付くの?
私も誰かとお付き合いすれば、理解できるようになるのだろうか。
「今回は何があったんですか?」
私が手を止めて千絵さんの方へ身体を向けると、千絵さんは私の斜向かいにある折り畳みの椅子に腰を下ろした。
「まぁ、大したことないんだけど……今、冷静になるとね。でも、昨日はムカついちゃったわけよ」
「はい」
「私だって、そんなありきたりなことを言いたくないと思ってたのに、意外とストレスが溜まっちゃうんだね」
濁されても私には分からないのに。言いにくいのかなと様子を窺っていると、千絵さんはまた一つ大きな溜息を吐いた。
「『仕事と私、どっちが大事なの⁉』だなんて、つい見苦しいことをぶつけちゃったの。認められて独り立ちして、これからどんどん仕事を任されて、楽しくなる反面忙しくもなる。そんな年齢だっていうことはちゃんと分かってるのに」
つまり、一番落ち込んでいる原因は、言いたくないと思っていたよくある台詞を言ってしまったこと?
そんな自分のせいで、喧嘩になってしまった。本当に悪いのは彼ではなく、自分だと。だとしたら。
「そう謝ればいいんじゃないですか?」
「あぁっ、もう! 分かってる。でもね、生憎、私は琴音のように素直じゃないの!」
ぎ、逆切れされた⁉
「ご、ごめんなさい」
「ごめん、琴音は悪くない。かわい気のない私がいけないのよ……」
「千絵さんは、かわいいですよ?」
千絵さんは背が高くて、女性らしい柔らかいシルエットを持つ美人さんだ。いつもおしゃれで、お化粧もバッチリ。仕事もできるし、私の憧れの人。
「ありがとう。でも、たぶん、琴音が言うかわいいと、私の言うかわいいは違うから」
『かわいい』に種類が⁉
「それは……」
「それはそうと、琴音は告らないの?」
「ひゃいっ⁉」
「……何て声出してるのよ」
千絵さんの話だった筈なのに、どうして急にベクトルが変わったのだろう。あまりの方向転換に、あり得ない声が出てしまった。
しかも、告白なんて。ちょっと、待って。
「だ、誰が、誰にですか?」
「もちろん、琴音が、黒崎さんに」
千絵さんは強調するように、言葉を大袈裟に区切って言った。
「黒崎さんって……」
まさか、ね?
「いつも見てるでしょ?」
「どなたを……?」
「黒崎さんを。え、まさか、名前知らなかった?」
「……はい」
だって、話しかけるなんてできなかったし。いつ名前を知ることができるの?
しかも、私がこっそり眺めてたいのに気付かれてた?
うぅ、それってものすごく恥ずかしいかも。
「もう、詰めが甘いわよ! でも、琴音らしいか」
ふふっと笑いながら、千絵さんは机の上にあった作りかけのポップを手に取った。今月発売の小説のものだ。
私の好きな作家さんの本で、久しぶりに出る新刊であるため、随分前から楽しみにしていた。そんな本のポップを書かせてもらえるのは書店員冥利に尽きる。
「千絵さんはどうして名前を知ってるんですか?」
「かっこいいからね。眉目秀麗。穏やかな雰囲気に、柔和な笑顔。背も高くて細身だけど、あれはスポーツか何かやってて程々に締まってるね。結構みんなチェックしてると思うよ。私は取り寄せを受け付けた時に知っただけ」
「な、なるほど」
確かにかっこいいとは思っていたけど、あんまり外見を気にしたことがなかった。そっか……そんなにかっこよかったんだ。
「黒崎怜司」
そう言いながら、千絵さんは手元に紙を引き寄せて名前を書いてくれた。
くろさき、れいじさん……黒崎、怜司さん。
どうしよう。見てるだけいいなんて思っていた筈なのに、名前を知るだけこんなにも嬉しいなんて。
「黒崎怜司がどうしたって?」
私と千絵さんしか居なかったのに、突然、低い声が聞こえてビクッと身体が跳ねた。振り向くと、バイトで来てくれている木下翔太くんが、不機嫌な空気を惜しげも無く放出して立っていた。
「うわ、翔太」
千絵さんが真っ先に反応し、此方も眉を顰しかめて舌打ちまでしそうな勢いだ。
「うわ、とか酷くないですか?」
「翔太が来るとややこしくなるのよ」
「寧ろややこしくしに来たんですけど」
睨み合いとも言える攻防を、私はオロオロと眺めるしかない。
千絵さんと翔太くんは決して仲が悪いわけではない。どちらかと言うと仲が良くて戯れ合っているんだと思う。
そうは分かっていても、こうした言い合いは不安になってしまう。
私ではどんな人が相手でもそういう接し方は出来ないからだろう。人と言い合う関係なんて、理解できないなという気持ちと、そこまで気を許せることが羨ましい気持ちと半々だ。
「翔太には関係ないでしょ?」
「それ、いじめですよね?」
「何言ってるの。愛よ、愛」
「どこが」
「意識されてないくせに」
「まだこれからなんです」
「ガキのくせに」
「お似合いと言ってください」
「翔太じゃ、手に負えないよ」
「俺、まだ発展途上なんで。伸び代に期待してくださいよ」
何の話?
「あの……?」
「何?」
恐る恐る二人に話しかけてみると、不機嫌なままの千絵さんがキッとこちらを睨むように返事をしたため、知らず知らずのうちに目には涙が溜まってきてしまった。
「千絵さん、琴音を泣かさないでくださいよ。琴音は千絵さんと違って繊細なんですからね」
「私を鬼みたいに言わないでくれる? 私の方が琴音のこと分かってるから。それに、前々から思ってたんだけど、翔太の方が琴音より年下でしょ? 何、呼び捨てにしてるのよ」
「琴音は琴音って感じだから。年下って言っても三歳だし、琴音見てると俺の方が年上の感じするし?」
「生意気」
「別に千絵さんに何て言われても気にしませんから」
私はまた、会話の途中下車。この二人の会話に着いていける日は、永遠に来ない気がする。
「翔太と琴音のシフト、外してもらうよ」
「はぁ? 千絵さんにその権利ないじゃないですか」
「私がどれだけ店長に信頼されてると思ってるの?」
誰か、この二人を止めて……!
「はいはい、そこまで」
「店長さん!」
「店長!」
「チッ」
どうやら私の心の叫びが店長さんに届いたらしく、タイミングよく現れてくれた。
「誰かな、舌打ちしたのは」
「気のせいです」
間髪入れずに否定した千絵さんの舌打ちだったらしい。千絵さんは女性的なのに、なかなかワイルドだ。
「琴ちゃんを困らせたら、私が怒るよ。ほらほら、二人とも仕事に戻って」
店長さんはそう言いながら『あっちに行け』と手をヒラヒラさせた。
千絵さんも翔太くんも、渋々といった様子で仕事に戻って行くのを見届けてから店長さんに視線を戻すと、店長さんは私と目を合わせにっこりと微笑んでくれた。
私の父と同じくらいの年齢の店長さんは、ずっと私のことを応援してくれていて、拙い仕事ぶりにも丁寧に指導してくださる。私の中では勝手に第二の父だと思うほどだ。
「店長さん、ありがとうございます」
「いや、あの二人は賑やかだからね。活気があっていいんだけど、琴ちゃんは時々圧倒されちゃうよね」
「……はい」
私が思わず苦笑してしまうと、店長さんは私の頭をポンポンとしてくれた。慰めてくれる時なんかにしてもらえるこの仕草は、心が温くなって、いつの間にか頬が緩んでいる。
「さあ、ポップ作りの続きをがんばってもらえるかな?」
「はい!」
そうして、私は店長さんの期待に応えられるように作業に集中した。
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